著者
外村 大 宮本 正明 猪股 祐介 坂田 美奈子 伊地知 紀子 菅野 敦志 岡田 泰平 松田 ヒロ子 加藤 恵美 中山 大将
出版者
東京大学
雑誌
新学術領域研究(研究領域提案型)
巻号頁・発行日
2017-06-30

本年度は、それぞれ分担研究者が担当する、過去の紛争、戦争、植民地支配等に起因する対立、葛藤の「和解」に関わる市民の活動についての、資料収集と整理、関係者からの聞取りを進めた。それぞれの研究内容については、適宜、報告を行い、その内容を相互に把握し、比較検討して各自の研究のうえでも参照している。整理に着手した資料のうちには、1970年代以降現在まで、戦後補償運動の各種市民運動、訴訟等に関わってきた市民活動家兼研究者が所蔵する大量の資料があり、これについては、2017年度中に、予備調査を行うとともにデータベース作成の準備を進めた。また、いくつかの重要な市民活動の担い手については、研究分担者全員ないし一般市民にも公開でヒアリングを行った(市民の活動についての関係者からの聞取りとしては、戦時動員の対象となり、死亡した朝鮮人の遺骨返還の活動を行う僧侶や「満蒙開拓」の史実を語り継ぐ活動に取り組むNPO法人理事などからの聞取りなど)。このほか、2018年4月に、脱植民地化と冷戦激化を背景に起きた大規模な住民に対する過剰弾圧、虐殺事件である、済州4・3事件が70周年を迎えるということもあり、それをどのように遺族らが記念し、「和解」を導き出そうとしているか等についても実情把握を進めた。その一環として、3月28~30日には分担研究者ら7名が済州島を訪れて、地元研究者との交流、遺族からの証言の聴取などを進めた。さらに「和解学」の創成をかかげて行なわれている、シンポジウム等にも、分担研究者は積極的に参加し、企画されている「和解学」の研究叢書の執筆の準備を進めている。
著者
前田 あゆみ 菅野 敦之
出版者
日本社会薬学会
雑誌
社会薬学 (ISSN:09110585)
巻号頁・発行日
vol.39, no.1, pp.35-39, 2020-06-10 (Released:2020-07-01)
参考文献数
20
被引用文献数
1

The refill-prescription system widely implemented overseas has been discussed toward its legislation for many years but has not been enforced yet in Japan. In considering introduction of such a refill-prescription system, numerical economic effects of its introduction can be expected in this paper. Based on the survey by Kurata at al. in 2016, the first and second groups were defined for patients with prescriptions of the same medicine more than twice for 14 days or more (20.2%) and for patients in the first group who were prescribed medication for more than 180 days and visited the pharmacy over 330 days (4.4%), respectively. The number of refill-prescriptions were estimated from the total number of the prescriptions put out in 2016. In the first group 166.7 million prescriptions were replaced by refill prescription, resulting in the reduction of medical and insurance expenses by 155.6 and 108.9 billion yens, respectively, while in the second group the reduction of 36.31 million prescriptions as well as 33.9 and 23.7 billion yens for those expenses, respectively, were expected. The monthly working time of overworking doctors with poor working environment was also calculated to be shortened by 6.1〜12.1 and 1.3〜2.6 hours for these two groups, respectively. Additionally, the introduction of the refill-prescription system was estimated to reduce the physical burden of one patient by 2.7〜5.3 hours per year for consultation and waiting hours in the medical institutions. Therefore, the refill-prescription system is thought to be useful for efficient allocation of medical resources to patients.
著者
菅野 敦
出版者
全国障害者問題研究会
雑誌
障害者問題研究 (ISSN:03884155)
巻号頁・発行日
vol.37, no.2, pp.110-116, 2009-08

本稿では,ダウン症候群を対象に,彼らの知的機能の特性に関して生涯発達の視点から,1・加齢に伴う変化及び,2・その特性を明らかにすることを目的にした.その結果,ダウン症候群は他の原因による知的障害や自閉症と比較して精神年齢(MA)の分散が小さいこと,また,30歳台をピークにして変化が生じ,40歳台後半には有意に低くなることを明らかにした.あわせて,通過容易項目と通過困難項目の分析から,MA4歳台を変換点として,知的機能の特性に質的な違いのあることが推測された.知的クラスターによる分析から,「知覚—運動」は最も早く加齢の影響を受け10歳台後半から20歳台に著しく低下する能力であった.「物の名称の理解と表出」,「比較判断」,「数概念」は比較的高齢まで保つ能力で30歳台を過ぎて低下が示された.一方,先行研究からもダウン症候群においては困難であると報告されている「短期記憶」と高度の言語操作を要する「物の概念的理解と表現」,「文章の理解と類推」は加齢に伴い著しい低下が示される能力であった.最後に,知的障害の生涯発達研究の課題を整理した.
著者
高嶋 航 藤田 大誠 中嶋 哲也 金 誠 束原 文郎 浜田 幸絵 菅野 敦志 佐々木 浩雄 新 雅史
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2018-04-01

本研究は、20世紀前半の帝国日本におけるスポーツの全体像を実証的に解明することを最終目的とし、本年度は上記の課題を遂行する上でミッシングリンクとなっている満洲のスポーツについて、関連資料を調査収集しつつ、研究テーマを探ることを主たる活動目標とした。資料収集においてとりわけ重点を置いたのは、1907年から1943年まで刊行された『満洲日日新聞/満洲日報』である。満洲スポーツの全体像を窺うには、まずこの資料を十分に踏まえておかねばならない。しかしながら、『満洲日日新聞』は大連(のち奉天)に拠点を置いているため、満洲国の首都である新京や、いわゆる「北満」と呼ばれた地域に関する情報は決して多くない。そのため、新京で刊行されていた『新京日日新聞』(1933~1940年)の収集も並行して進め、収集した記事を年表の形に整理している。研究会は五月、八月、一二月と三回開催し、満洲や帝国日本のスポーツに関わる研究発表を行った。資料から明らかになった満洲スポーツのいくつかの側面について、日本や朝鮮の事例と比較しながら、考察を進め智識を共有した。海外調査は三月に大連、丹東、瀋陽で実施し、戦前のスポーツ関連施設の現状を調査した。繰越分については、中国での再調査に使用する予定であったが、中国での図書館利用が見込めなくなったため、IOCオリンピックセンター(スイス)での調査に変更した。この調査では、日本と満洲国のオリンピックおよび極東大会参加に関する資料を収集した。
著者
田澤 聖子 菅野 敦子 秦 規子 小林 昭子 原澤 佳代子 毛塚 剛司 後藤 浩
出版者
公益社団法人 日本視能訓練士協会
雑誌
日本視能訓練士協会誌 (ISSN:03875172)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.107-111, 2012 (Released:2013-03-15)
参考文献数
15

小児の外転神経麻痺は多くの場合、脳腫瘍や頭蓋内圧亢進、外傷などによって引き起こされる。一方、ウイルス感染やワクチン接種に関連した外転神経麻痺の発症は比較的稀である。 インフルエンザワクチン接種後に良性再発性外転神経麻痺を繰り返し発症した5歳女児の症例を経験したので報告する。初回の麻痺は2か月後に回復したが、その1年後に再発した。再発時の麻痺は、約3か月後に回復した。発症の度に頭部CTを施行したが、明らかな異常は発見されなかった。 小児の外転神経麻痺ではウイルス感染やワクチン接種について詳細に尋ねること、再発の可能性を考慮して経過観察を続けることが重要である。
著者
菅野 敦 正宗 淳 花田 敬士 真口 宏介 清水 泰博 植木 敏晴 長谷部 修 大塚 隆生 中村 雅史 竹中 完 北野 雅之 菊山 正隆 蒲田 敏文 吉田 浩司 佐々木 民人 芹川 正浩 古川 徹 柳澤 昭夫 下瀬川 徹
出版者
日本膵臓学会
雑誌
膵臓 (ISSN:09130071)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.16-22, 2017-02-25 (Released:2017-03-17)
参考文献数
16
被引用文献数
5 3

膵癌早期診断研究会が主導して行った,早期診断された膵癌の実態調査について報告する.40例のStage 0膵癌と119例のStage I膵癌が集積された.膵癌全体に占めるStage 0膵癌とStage I膵癌の割合は約2%であり,Stage 0膵癌は0.6%であった.症状を認めたために医療機関を受診した症例は38例(23.9%)と少なかったのに対して,検診にて異常を指摘され受診した症例は27例(17.0%),他疾患の経過観察中に異常を指摘された症例は85例(53.5%)と無症状で医療機関を受診した症例が多かった.検診にて異常を指摘された27例中,膵管拡張を指摘された症例が19例と画像における副所見の指摘から精査を行った症例が多かった.術前の病理診断では,超音波内視鏡下穿刺吸引法を用いた症例(30.8%)と比較して,内視鏡的逆行性胆管膵管造影下にて病理検体を採取した症例(77.8%)が多かった.予後は良好であったが,14.5%の症例で術後の残膵に膵癌が新たに発生した.今回の調査が,膵癌の早期発見ならびに予後改善に寄与をすることが期待される.
著者
大伴 潔 林 安紀子 橋本 創一 菅野 敦
出版者
東京学芸大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011-04-28

幼児期から学齢期にかけての言語・コミュニケーションスキルの変化を縦断的に追跡し、学齢期での支援ニーズを予測する関連要因について検討した。併せて環境的要因としての家庭での語りかけの豊富さや読み聞かせの頻度等についてアンケート調査も実施した。その結果、幼児期の総合LC指数は学齢期のLCSA指数と有意に相関し、幼児期の言語発達面の課題は学齢期の困難を予測することが示されるとともに、環境・生活要因の影響も明らかになった。幼児期の支援としては、間接的な方法としての言語環境の調整と、より直接的な介入として語彙面、統語面、対人交渉場面でのコミュニケーション面の指導に整理された。
著者
菅野 敦志
出版者
一般財団法人 アジア政経学会
雑誌
アジア研究 (ISSN:00449237)
巻号頁・発行日
vol.51, no.3, pp.41-59, 2005

This paper clarifies the significance and implications of Chiang Ching-kuo's 'cultural construction' and his 'Taiwanization' (localization) policy that brought a drastic change in the Kuomintang's cultural policy in postwar Taiwan. <BR>'Cultural construction', launched by Chiang Ching-kuo, is the name that has been given to the last of the twelve major construction projects beginning in 1977, and includes the construction of local cultural centers and the establishment of a Cultural Commission in cabinet. By the construction of cultural centers in every county and major city, this 'cultural construction' is acknowledged as the most important cultural policy in the 1970s, having a strong impact on cultural developments in Taiwan thereafter. <BR>The major findings of this paper are concerned with the implications of Chiang's 'cultural construction' and his intention of promoting a 'Taiwanization' policy, not only in political administration but also in cultural administration. The basis of this discussion will be centered on the following observations. <BR>Firstly, Chiang Ching-kuo's landmark announcement to launch his own cultural policy marked a clear transition from Chiang Kai-shek's policy of the 1960s. <BR>Secondly, the highly symbolic appointment by Chiang Ching-kuo of Ch'en Ch'i-lu, a prominent Taiwanese scholar in the field of Taiwanese aboriginal studies, to the chair of the newly founded Cultural Commission in 1981, represented the first time the KMT was to place a local-oriented personality as the head of the government's national cultural administration. As a result, Ch'en's concern with local culture and the notion of Chinese culture opened up new horizons for the KMT's cultural policy. <BR>Thirdly, Chiang Ching-kuo's policy of cultural localization is evident through the establishment of Taichung's first cultural centre, founded in 1976 by the well-known Taiwanese poet Ch'en Ch'ien-wu. When examining the significance of Chiang's localization policy, we should not neglect the fact that the ideas of a single Taiwanese intellectual became the base upon which Taiwan's cultural policy was formed after 1970. <BR>Fourthly, the establishment of display rooms and museums in local cultural centers, exhibiting notions of the 'tradition' and 'uniqueness' of various local places, presents a good illustration of the enhancement of local history and culture to represent the cultural policy of the new age. Such museums, initially conceived by Ch'en Ch'i-lu, can nowadays be seen everywhere, while the concept itself continues to be strongly promoted by the present government. <BR>Finally, following the 'Local Autonomy Act', enforced in 1999, local cultural centers were gradually reorganized into local cultural bureaux. In short, it can be said that Chiang's cultural centers became a prototype that since the 1990s has provided the basis for the decentralization of cultural policy. Hence, due to the above reasons, it is possible to state that Chiang Ching-kuo's 'cultural construction' was a significant part of his 'Taiwanization' policy, which can be defined clearly as the 'turning point' in the KMT's cultural policy.
著者
野入 直美 飯島 真里子 佐藤 量 蘭 信三 西崎 純代 菅野 敦志 中村 春菜 八尾 祥平
出版者
琉球大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2019-04-01

本研究は、(1)引揚者が戦後の沖縄社会でどのように包摂され、いかなる階層に位置したか、(2)引揚者はどのような社会的役割を果たしたか、(3)「専門職引揚者」の社会移動は、他県でも見出せるパターンが沖縄で集約的に表れているのではないかということを、沖縄の台湾・満洲「引揚げエリート」を事例に解明し、(4)戦後沖縄社会を<引揚げ>という新しい視点からとらえなおす。「引揚げエリート」とは、日本帝国圏の在住期から戦後にかけて、水平・上昇の社会移動を遂げ、沖縄の戦後再建を担った人びとを指す。その中心は、外地において教員、公官吏などの専門職に就き、その経験を資源として戦後を生きた「専門職引揚者」であった。
著者
菅野 敦志
出版者
名桜大学総合研究所
雑誌
名桜大学総合研究 (ISSN:18815243)
巻号頁・発行日
no.28, pp.1-13, 2019-03

本研究は,エリザベス・サール・ラムが中国における英語俳句の紹介に果たした役割について,主に中国人読者との交流に焦点を当てて明らかにするものである。一般的に,文化交流研究は二国間の関係が中心であり,俳句も日中文化交流研究にとって一つの重要な検討対象となる。しかしながら,1980年代以降の中国において,それは日本文化としての受容に限られるものではなく,むしろ,米国人によって詠まれる英語俳句=「ハイク」という形態をとり,民間レベルでの交流を進展させていた過程が見受けられたのであった。中国におけるハイクの紹介は,ラムが1985年7月に中国の雑誌『英語世界』に寄稿した,北米でのハイクの広がりを紹介する文章が嚆矢であった。その後,ラムは40数名もの中国人読者から手紙を受け取ることとなる。多くは数回のやり取りで途絶えたが,なかには龔海平のように,長年の交流の末にラムのハイクを翻訳して刊行するなど,確実に交流の成果を残す者も現れることとなった。最初のラムの文章から8年後,龔海平が中国語に翻訳して1993年に刊行された彼女の句集は,1979年の米中国交樹立後の民間交流の一つの小さな成果と呼べるものであった。それは同時に,戦後東西文化交流のなかの多文化間関係の一事例でもあったといえよう。
著者
菅野 敦朗 伊東 英彦 斎藤 文彦 福尾 秀一 山岸 慶昭 劔持 甫
出版者
一般社団法人 映像情報メディア学会
雑誌
映像情報メディア学会年次大会講演予稿集 (ISSN:13431846)
巻号頁・発行日
vol.2000, pp.82-83, 2000

This paper describes the measurement system of delay waves for OFDM with spectrum analyzer and personal computer. The system calculates D/U and delay time od delay waves by using IFFT processing of OFDM spectra data.
著者
菅野 敦志
出版者
一般財団法人 アジア政経学会
雑誌
アジア研究 (ISSN:00449237)
巻号頁・発行日
vol.51, no.3, pp.41-59, 2005-07-31 (Released:2014-09-30)
参考文献数
46

This paper clarifies the significance and implications of Chiang Ching-kuo’s ‘cultural construction’ and his ‘Taiwanization’ (localization) policy that brought a drastic change in the Kuomintang’s cultural policy in postwar Taiwan. ‘Cultural construction’, launched by Chiang Ching-kuo, is the name that has been given to the last of the twelve major construction projects beginning in 1977, and includes the construction of local cultural centers and the establishment of a Cultural Commission in cabinet. By the construction of cultural centers in every county and major city, this ‘cultural construction’ is acknowledged as the most important cultural policy in the 1970s, having a strong impact on cultural developments in Taiwan thereafter. The major findings of this paper are concerned with the implications of Chiang’s ‘cultural construction’ and his intention of promoting a ‘Taiwanization’ policy, not only in political administration but also in cultural administration. The basis of this discussion will be centered on the following observations. Firstly, Chiang Ching-kuo’s landmark announcement to launch his own cultural policy marked a clear transition from Chiang Kai-shek’s policy of the 1960s. Secondly, the highly symbolic appointment by Chiang Ching-kuo of Ch’en Ch’i-lu, a prominent Taiwanese scholar in the field of Taiwanese aboriginal studies, to the chair of the newly founded Cultural Commission in 1981, represented the first time the KMT was to place a local-oriented personality as the head of the government’s national cultural administration. As a result, Ch’en’s concern with local culture and the notion of Chinese culture opened up new horizons for the KMT’s cultural policy. Thirdly, Chiang Ching-kuo’s policy of cultural localization is evident through the establishment of Taichung’s first cultural centre, founded in 1976 by the well-known Taiwanese poet Ch’en Ch’ien-wu. When examining the significance of Chiang’s localization policy, we should not neglect the fact that the ideas of a single Taiwanese intellectual became the base upon which Taiwan’s cultural policy was formed after 1970. Fourthly, the establishment of display rooms and museums in local cultural centers, exhibiting notions of the ‘tradition’ and ‘uniqueness’ of various local places, presents a good illustration of the enhancement of local history and culture to represent the cultural policy of the new age. Such museums, initially conceived by Ch’en Ch’i-lu, can nowadays be seen everywhere, while the concept itself continues to be strongly promoted by the present government. Finally, following the ‘Local Autonomy Act’, enforced in 1999, local cultural centers were gradually reorganized into local cultural bureaux. In short, it can be said that Chiang’s cultural centers became a prototype that since the 1990s has provided the basis for the decentralization of cultural policy. Hence, due to the above reasons, it is possible to state that Chiang Ching-kuo’s ‘cultural construction’ was a significant part of his ‘Taiwanization’ policy, which can be defined clearly as the ‘turning point’ in the KMT’s cultural policy.
著者
菅野 敦志 すがの あつし Sugano Atsushi 名桜大学国際学群
出版者
名桜大学総合研究所
雑誌
名桜大学総合研究 (ISSN:18815243)
巻号頁・発行日
no.25, pp.77-86, 2016-03

本稿は,日本における台湾研究の理解につなげることを目的として,戦前・戦後の台湾教育史をめぐる研究動向とその変遷について論じるものである。教育史に限らず,台湾史研究の特殊性は,1945年を境としてそれ以前が国内史,それ以後が外国史として扱われることにある。戦前は日本統治がもたらした「文明化」としての教育近代化の成果を誇示するものであった他方,戦後はかつての植民地教育が,天皇制に基づく国家主義の下での異民族に対する民族性剥奪の教育であったとして批判される傾向にあった。とはいえ,第一,第二世代の研究者を経て,第三世代の研究者の登場や,1987年の戒厳令解除に伴う日本統治時代をめぐる歴史観の見直しという台湾内部の変化を受けて,日本の学界においても日本統治時代の教育を,「抑圧―被抑圧」の二項対立だけでなく,統治された側の主体性の点に着目して再検討されるようになり,研究の枠組みは大きな転換を果たすこととなった。本稿では,それら第一世代から第三世代の研究者の成果を紹介しながら,「制度から人へ」,そして「支配―被支配」から「台湾人の主体性」へと変容を遂げていった日本の台湾教育史研究の変容と回顧を概観したうえで,今後の研究についても展望を試みる。In this paper, I would like to briefly review the transition of the research trends and analytical frames regarding the History of Taiwanese Education in Japan, from the Pre-WWII Period to the present, mainly by reviewing the most important book publications during the period. The scholarship on the History of Taiwanese Education can be divided into two periods: one is the Japanese Colonial Era from 1895 to 1945, and the next is the Republic of China Era from 1945 to the present. The turning point came after the lifting up of martial law in Taiwan in 1987, when Kuomintang's historical view of an anti-Japanese narrative began to accept more moderate and objective views in the evaluation of the past Japanese rule. This change in historical discourse in Taiwan had also influenced trends in Japanese academic circles. Gradually, new research and publications came to focus and underscore the importance of the subjectivity of the Taiwanese people during the Japanese Colonial Era, rather than the long dominant framework which often presupposes a binary opposition between the colonizer and the colonized, oppressor and oppressed.
著者
大柴 小枝子 菅野 敦史 久武 信太郎
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会技術研究報告. PN, フォトニックネットワーク (ISSN:09135685)
巻号頁・発行日
vol.111, no.412, pp.115-120, 2012-01-19

2011年10月18日から21日の4日間,シンガポールのフラマリバーフロントホテルにおいて2011 International Topical Meeting on Microwave Photonics jointly held with 2011 Asia Pacific Microwave Photonics(MWP2011/APMP2011)が開催された.本稿では,MWP2011における各セッションでの発表内容の概要について報告する.