著者
福間 聡
出版者
日本イギリス哲学会
雑誌
イギリス哲学研究 (ISSN:03877450)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.49-62, 2001-03-20 (Released:2018-04-25)
参考文献数
25

This article focuses on sell-ownership and articulates it. Libertarians insist that my person is my property, and I have exclusive rights to determine the course of its use and disposal, and further to enjoy full income gained by its use. But self-ownership is an obscure conception inasmuch as the very concept of person and the legal concept of property in themselves allow for varied interpretations. Through examining what a person is, and by noting our abilities, I divide them into two concepts, which may be called ‘intrinsic ability’ and ‘extrinsic one’. According to this division, in order to redefine self-ownership, I argue that we claim only the ‘right to integrity of person’ to the intrinsic ability, and ‘control right and restricted income right’ to extrinsic ability.
著者
工藤 喜作
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1959, no.9, pp.26-34, 1959

十七世紀は中世的桎梏を脱して自己の立場を確立しようとした哲学が、新しく勃興してきた数学的自然科学に喚起されて、「方法」の問題を積極的に取扱った時代である.この点スピノザも例外ではなく、幾何学的方法をもって自己の方法となした.単に幾何学の外面的な形式をその模範とし、最早証明せられない要素から、定義・公理を駆使して論証の体系を構成する外面的な方法と幾何学の内的な方法を哲学的認識に適用し、もって幾何学の内容とその内的合法則性或いは諸関係を哲学的存在の模範とする内面的方法があるとするならば、その両者ともスピノザの場合には幾何学的方法であった.外面的方法は周知の如くユークリッドを模範とし彼の主著エチカに於いて果されている.内面的方法に関しては彼の認識論の心身平行関係が等式と曲線との関係に於いて表現されていることから、デカルトの幾何学をその模範としていたことが主張されている.因みに彼はすでに一六五三年頃にはデカルトの幾何学を知っており、またそのテキストを二冊所有していた.だが幾何学的方法に関してのデカルトの影響は、単に心身関係を外面的に考察するだけでは充分ではない.むしろ精神と物体との内面的構造或いは内容から帰結されなければならない.この点彼の知性改善論の第二部を形成する定義論は、定義それ自身の論理-数学的構造を明らかにし、もって彼の実在的事物が如何に或いは如何なる幾何学によって構成されるかをその内面から示してくれる.<BR>スピノザに於いては形而上学的・物理学的・論理-数学的世界像は相互に区別されて考察され、またそれらから新しく再構成されることにより、その真の体系が樹立される.このため定義論は、物理学と並んでその体系樹立の一環として、彼がしばしば言明したところの真の観念による自然の再現の方法が, 如何なる論理-数学的秩序に基づいているかを示さねばならない.だが彼はよき定義の条件を知ることとその定義の発見法を知ることにその定義論を限定している.そして前者については定義の諸規則を設けて論じたが、後者に関しては充分に詳述せず、むしろ一種の混乱を惹き起しているように見える.しかしこれがためには知性についての充分なる知識を持たねば論及されないため、むしろこの問題は彼の認識論に於いて考察されねばならないものであろう.因みに彼の方法論は、知識の探求のための方法であるよりは、上述の如く体系を構成するための方法即ち自然を思想に於いて再現するための方法であるため、それは定義の発見を目指す方法というよりは、むしろ定義をその前提として出発する方法であった.彼が知性改善論に於いて挙げた定義の諸規則もその哲学の内面的要求より生じたものであり、その規則の適用は、結局その哲学を前提としそれを確証することに外ならない.<BR>定義に関してスピノザはアリストテレス・スコラ的な類・種差による定義を排した.この点彼はデカルトと軌を一にする.神をも定義しようとするスピノザは、アリストテレス派の論理学者の主張と同様に、最高類或いは最高の存在としての神が、類・種差によって定義されないことを認めた.しかし彼の場合、神が定義されなければ、それから生ずる他の一切の事物は理解されることも認識されることもできない.ここに彼はデカルトの影響をうけ、数学的な分類法・論理に基づいて、神並びに他の一切の事物を定義しようとする.かくて彼の定義論についての考察はその定義の論理的構造を明らかにし、もってそれを如何に実在的事物に適用したかを見なければならない.
著者
指宿 信
出版者
法と心理学会
雑誌
法と心理 (ISSN:13468669)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.14-20, 2020 (Released:2020-04-05)

本稿は、犯罪者の再犯防止に向けて刑罰効果よりも抱えている問題を解決することによって目的 を達成しようとする新しい司法哲学である「治療法学(therapeutic jurisprudence)」の理念の成り立ち から、この理念に基づいた司法のあり方を示す「治療的司法」概念を説明、その上に構築される具体 的制度である「問題解決型裁判所」を説明するとともに、米国を中心に世界に広がる様々な裁判所~ ドラッグ・コート、DV コートなど~の機能を紹介する。そしてわが国において再犯防止に取り組 む近年の刑事司法アクターの動きを紹介し、政府レベルや学術の世界で治療的司法と通底する多様 な動きが出てきたことに触れ、再犯防止、刑務所再入率を低下させるためには現状の施策では不十 分であることを指摘し、起訴猶予制度や出所後の支援といった現行制度を前提にした取り組みから、 問題解決型裁判所の導入によって刑事司法過程そのものを再犯防止に向けた形に変革するよう改革 することを説く。
著者
永井 晋
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.19-36, 2013-03-31 (Released:2019-08-08)

«Tournant théologique de la phénoménologie» est un événement qui apporte la transformation radicale à la phénoménologie ainsi qu’à la théologie par rapport à celles «classiques». Dans l’article qui suit, nous essayons d’interpréter les trois modalités de l’expérience de Dieu dans les trois monothéismes : Incarnation dans le christianisme, Herméneutique du Texte-Saint dans la mystique juive et Image-archétype dans la mystique irano-islamique comme le processus de la radicalisation graduelle de la réduction phénoménologique qui nous amène au profondeur de Dieu «en tant que tel». Pour mener à bien cet essai, nous nous référons aux quatre phénoménologues qui ont effectivement pratiqué le «tournant théologique» : Michel Henry, Jean-Luc Marion, Emmanuel Lévinas et Henry Corbin.
著者
霜田 求
出版者
日本医学哲学・倫理学会
雑誌
医学哲学 医学倫理 (ISSN:02896427)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.31-45, 2003-10-05 (Released:2018-02-01)

This paper aims to elucidate some ethical and social issues raised by designing life and to examine them in connection with eugenics. Advanced medical technology has made possible some methods of designing life, such as sperm/egg or embryo selection, germline genetic modification and the production of life by cloning. The subject of our investigation is germline genetic modification or manipulation, especially the enhancement of capabilities or traits of children at the request of their prospective parents. "The voluntary choice of the individual" is both a main argument justifying that form of intervention and also a strong ground for supporting the "new eugenics," which is distinguished from old, state-sponsored eugenics. On the one hand, new eugenics is a body of thought and practices based on the premise that the choice of a "desirable quality" is part of the reproductive freedom of an individual as a consumer or client. This type of new eugenics is closely related to the way of redesigning society sought by Neoliberalism, which values the self-determination of the individual, the free-market and deregulation. On the other hand, new eugenics is an attempt at improving the gene pool of future generations by remodelling human beings, and it advocates a new evolution of humankind. In some arguments presented by new eugenics to justify germline genetic enhancement, serious ethical and social problems are found, namely a distortion of the way of relating to others, discrimination against disabled people, harmful effects on children etc. So we should severely scrutinize the connection between that form of technology and new eugenics.
著者
村井 尚子
出版者
大阪樟蔭女子大学
雑誌
大阪樟蔭女子大学研究紀要 (ISSN:21860459)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.73-83, 2012-01

ユトレヒト学派の現象学研究の流れを継承するオランダの教育学者トン・ベークマンは、天賦の才を備えた学者にのみ可能であった現象学の方法を教育学を学ぶ学生にも可能にするために、「現象学の民主化」という試みを行っていた。本稿では、「現象学の遂行」と名づけられたユトレヒト大学での授業において彼とその共同研究者らが実施していた現象学的な記述の分析の手順について、論文「現象学的記述の分析」を参照しながら考察する。また、その手順に従って筆者のゼミで実施した「暗闇の中での恐怖」に関する状況分析について報告を行う。彼の提起した現象学的記述の方法は、哲学的な厳密性に関しては議論の余地があるものの、教師を目指す学生や教育を研究するものが子どもを理解し行為を方向づけるための重要な方策となるものと考える。
著者
藤野 寛
出版者
一橋大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

本研究は、初期『思想の科学』の活動の意義を明らかにすることを目的の一つとし、そのため、この雑誌の創刊同人にインタビューし、解釈上の疑問を直接ぶつけるという具体的課題を抱えて出発した。しかし、過去二年間に都留重人氏と鶴見和子氏が亡くなり、残るは、鶴見俊輔氏と武田清子氏になってしまった。私は、お二人にインタビューを申し込み、鶴見氏からは快諾をいただいた(残念ながら、武田氏には受けていただけなかった)。鶴見氏へのインタビューは、岩波書店の『思想』誌の賛同を得て共同企画として実現した。鶴見俊輔とアメリカ哲学を結ぶものといえば、プラグマティズムを連想するのが定番となっているが、戦後の出発の時点で氏の仕事を規定していたのは、むしろ論理実証主義的問題意識だったのではないか。具体的に、日本語の改良、ベイシック・イングリッシュをモデルとする基礎日本語というアイデアや、表意文字としての漢字を減らし日本語表記をローマ字化しようとする意図が見て取れるが、その志向は時とともに放棄されていったように見える。何故か、どのような経緯だったのか。鶴見氏のアメリカ合衆国に対する姿勢は、共感に支えられるものだったと考えられるが、その姿勢は、日本の戦後啓蒙の陣営にあって特異なもので、そのことが、鶴見氏の活動に困難をもたらすことがあったのではないか。その基本的「親米」の姿勢は、どのように一貫しまた変化したのか。インタビューは、以上のような問いをめぐって繰り広げられ、熱い回答を得ることができた。『思想』誌は2008年8月号を「鶴見俊輔」特集にあてることになり、私も「「言葉の力」をめぐる考察」を寄せることになっているが、この論考は、今回の研究の現時点での総括である。「現時点での」という但し書きが付くのは、「第二次世界大戦直後の言語表現/言語批判」という論考の副題が、同時に次の研究課題を示すものともなっているからである。
著者
井谷 信彦
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.94, pp.1-20, 2006

本稿は、現代ドイツの教育学者ボルノウと、彼の思想に深い影響を与えた哲学者ハイデガーについて、両者の思索の関わりを問い直す研究の一環として位置づけられるものである。ハイデガー哲学からの影響を認めながらもボルノウは、その思想の根幹である「存在への問い」が開き示す可能性については、それを繰り返し排除あるいは無視し続けてきた。しかしながら、この拒絶がそもそも或る種の誤解に基づくものであったとすればどうだろうか。むしろその点に、ボルノウ自身によっては主題的に論じられることのなかった別なる思索の可能性が潜在しているのではないか。ハイデガーによる「存在への問い」についての考察を通じて、ボルノウによる人間学的な教育学がもついっそう豊かな可能性を解き放つことが、本研究に与えられた最終的な課題である。特にその端緒として本稿では、ボルノウによる「希望の哲学」をハイデガーによる「不安の分析論」をふまえて問い直すことが試みられる。
著者
木村 清孝
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.947-961,iii, 2005-03-30 (Released:2017-07-14)

本論文は、近代日本において、西欧から移入された文献学的な仏教研究の軌跡を辿ることを基軸として、このおよそ百年間における仏教研究の歴史を顧み、その特徴を明らかにするとともに、それがもつ問題点を探り、合わせて今後の仏教研究のあり方について述べようとするものである。明治時代の初め、<近代的>な仏教研究の扉は、少なくとも表面的には伝統的な仏教学と切れたところで、南條文雄によって開かれ、高楠順次郎によって一応定着した。それが、文献学的仏教研究である。この伝統は、のちに歴史的な見方を重視する宇井伯寿によって新展開を見た。さらにその愛弟子の中村元は、宇井の視点と方法を継承しながらも、それに満足することなく、新たに比較思想の方法を導入し、「世界思想史」を構想し、その中で仏教を捉えることを試みた。この比較思想的な仏教研究が、西田哲学を継承する哲学的な仏教研究と並んで、現在も主流である文献学的な仏教研究に対峙する位置にあると思われる。最後に付言すれば、これからの仏教研究は、その中軸として、文献学的研究と、それを踏まえた思想史的研究、さらには、その思想史的研究によって明らかになる重要な「生きたテキスト」をよりどころとする比較思想的研究が遂行されることが望まれるのではなかろうか。
著者
坂上 貴之
出版者
一般社団法人 日本行動分析学会
雑誌
行動分析学研究 (ISSN:09138013)
巻号頁・発行日
vol.18, no.2, pp.131-137, 2004-06-30 (Released:2017-06-28)

久保田新ら(2003)による魅力的でずっしりとした教科書は、感覚と知覚から人間の発達にわたる心理学的現象を考察するための、様々な視点を私たちに与えてくれる。この本は、この理由から臨床及び医療分野の学部学生、心理学専攻の大学院生に強く推薦できるが、特に行動分析家へは、自らの徹底的行動主義の哲学的基盤を著者のそれとつきあわせるために推薦できる。随伴性の概念と有名な誤信課題であるサリーとアンの課題の問題が著者の用法に基づいて詳細に議論された。
著者
桂 紹隆
出版者
龍谷大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

本研究の目的は、インド仏教論理学を代表する二人の巨匠、ディグナーガとダルマキールティの「認識論的論理学」の体系を、存在論・認識論・論理学・言語哲学という4つの視点から総合的に対比し、両者の相違点を明らかにすることによって、紀元後5世紀末から7世紀にかけて生じた仏教論理学の歴史的な展開を解明することにあった。過去4年間のディグナーガ研究の主眼の一つは、彼の漢訳でしか現存しない、初期の論理学書『因明正理門論』の詳細な解説を付した英訳を完成することにあった。その際、新発見のジネーンドラブッディの『集量論複注』の梵文写本を最大限利用することを試みた。しかし、この目的を達成するためには『複注』の批判的校訂本をまず完成するべきであるという結論に達して、前半部分の英訳・解説は完成しているものの、公表はさらに先に延ばすこととした。一方、新資料を用いて、ディグナーガ論理学の重要な術語を解明する論文を2篇発表した。すなわち、「喩例」と「主張」「同類群」「異類群」に関してである。ダルマキールティに関しては、彼の存在論を論じる論文を公表した。また、彼の主著『プラマーナ・ヴァールティカ』第三章「直接知覚章」の冒頭部分をマノーラタナンディンの逐語的な注釈とともに訳出し、ダルマキールティ認識論研究の資料として提示した。他に、彼の「修道論」「他心存在論証」「自性の概念」に関する論文3篇も完成したが、まだ公刊されていない。以上が、過去4年間の研究の概要である。既に公刊された論文の大部分を報告書として冊子にまとめた。今後の課題としては、先に述べたジネードラブッディ『複注』の校訂作業を継続して行っていく予定である。その結果、ディグナーガとダルマキールティの認識論・論理学の差異性がより正確に、より鮮明に明らかになることであろう。
著者
佐藤 雅彦
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.49, no.1, pp.67-84, 2016-07-31 (Released:2016-11-10)
参考文献数
16

“The Full Picture of Frege’s Philosophy” (Keiso Shobo, 2012) by Kazuyuki Nomoto gives a detailed account of Gottlob Frege’s life devoted to a failed attempt to develop mathematics formally and entirely from scratch based upon his logicism and his semantical understanding of mathematical entities. In the present paper, I review the book and recommend it as a challenging and inspiring book to anyone who wishes to understand the modern meaning of Frege’s philosophy.
著者
小西 達也
出版者
日本医学哲学・倫理学会
雑誌
医学哲学 医学倫理 (ISSN:02896427)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.11-19, 2012-09-30 (Released:2018-02-01)

In this article, I define spiritual care as the "support of the careseeker's subjective/spiritual life." Spiritual care is provided for people in spiritual crises, where their existing foundational/core beliefs are dysfunctional in their situation. Such people are required to let go of their existing dysfunctional foundational/ core beliefs, and to continue their subjective lives without their foundational/core beliefs until new ones have been developed. The spiritual care should support the careseekers in such process. In this article,"the provision of 'Ba'(space/opportunity) for the careseekers' belief-free inner-exploration/self-expression" is proposed as a definition of the spiritual care. This definition can be described also as "the support of the careseekers' subjective/spiritual lives." This definition coincides with the spiritual care that the author has actually provided in his clinical practice, which means that this definition works in the actual clinical setting. Further, it is also shown that the Clinical Pastoral Education program mainly provided in the United States, which is considered to invite their students to be free from their own beliefs by becoming conscious of their beliefs, is effective as training for the ones to provide such spiritual care. Lastly, it is expounded that the proposed definition has affinity with some of the existing definitions of spiritual care widely known by people in the Japanese medical clinical setting.