著者
浜渦 辰二
出版者
静岡大学
雑誌
人文論集 (ISSN:02872013)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.A1-A12, 2003-01-31

小論の課題は、昨年『フッサール全集』第32巻として刊行された未公刊講義草稿の『自然と精神(1927年夏学期)』の要旨とその背景を紹介し、その固有な問題画を解明することにある。フッサールは、多くの演習と講義を同様の表題のもとで反復しており、しかも、それは1912 / 13 年の冬学期以来のことであり、それは『イデーンI』の出版(1913年)に先立ち、その執筆と平行して執筆された『イデーンII』および『イデーンIII』のための草稿との連関においてなされたものである。「自然と精神」という問題画は、学問論(科学論)および自然科学と精神科学の区別にその起源をもっている。そこには、現象学と心理学との微妙な、しかし決定的な差異という問題も属している。これは、講義『自然と精神』の隠されたもう一つの主題であり、『危機』書に至るまで繰り返し論しられる主題である。さらに、「自然と精神」という問題画は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての学問論(諸学の分類、諸学の関係、諸学の基礎づけ)をめぐる論争、すなわち、一方で、ウィーン学団(統一科学)を中心とした実証主義・自然主義の流れと、他方で、それに対抗する、ディルタイの解釈学・精神科学、および、新カント学派の「自然科学と精神科学」「自然科学と文化科学」の差異を強調する流れとの間で行われた論争に対して、現象学の立場からする学問論を展開する狙いをもったものであった。現代の精神医学および生命科学が直面している問題を考えるにあたって、いま一度20世紀初頭にフッサールが「自然と精神」「自然科学と精神科学」について行なった議論を検討する価値があると思われる。フッサールの言う意味で、解離してしまっている「生(Leben)」と「学(Wissenschaft)」を繋ぐような哲学かいま必要とされているからである。
著者
松田 毅 中山 康雄 加藤 雅人 長坂 一郎 茶谷 直人
出版者
神戸大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010

我が国の哲学会においてはいぜん十分には認知されていない「メレオロジーとオントロジー」の主題群に関して、古代から現代を貫く概念と問題の連関・発展についての見通しを得た。また、「部分と全体」の問題と関わりの深い哲学者たちに焦点を定めた、これまで未開拓であった哲学史的分析とそれを基盤にした諸問題に関する現代的探究により、特に生命や心の存在論的探求への「部分と全体」の観点からのアプローチの有効性と可能性とが示された。
著者
旗手 俊彦
出版者
北海道大学法学部
雑誌
北大法学論集 (ISSN:03855953)
巻号頁・発行日
vol.37, no.5, pp.149-210, 1987-03-27
著者
安藤 泰至
出版者
京都大学文学研究科宗教学専修
雑誌
宗教学研究室紀要 (ISSN:18801900)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.28-42, 2010-12-03

本稿は、ウィリアム・R.ラフルーア氏が2009年2月21日に京都大学で行った講演、‘Peripheralized in America: Hans Jonas as Philosopher and Bioethicist'「アメリカにおける周縁的地位―哲学者および生命倫理学者としてのハンス・ヨナス―」(以下「講演」と略記)において、コメンテータの一人を務めた筆者のコメントを中心に文章化したものである。本号にはラフルーア氏の講演原稿全文が掲載されているので、コメントの対象となった氏の講演内容についての記述、要約は必要最小限にとどめ、筆者が講演当日に用意したメモに基づいて、コメント内容を文章化した。したがって、本稿は当日のコメントそのものの再現ではないが、筆者の提示している論点は基本的に当日のそれと同じである。ただし、バイオエシックス(生命倫理学)の歴史やこの分野でのヨナスの論考に不慣れな読者のために、若干の補足説明を加えた。また、提示した論点の相互関係についての記述には、当日のコメントでは触れなかったが、後になって筆者が気づいた点がいくらか含まれていること、コメントの最後でラフルーア氏に問いかけた問い(現代の生命倫理の議論においてヨナスのような声がどのように生かされうるか)についての筆者自身の考えを、本稿の末尾で述べさせていただいたことをお断りしておく。
著者
米虫 正巳
出版者
関西学院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

20世紀以降のフランスにおける現象学と科学認識論という二つの哲学的系譜が交差する地点で、主に生命と認識についての問いをめぐってこれまでなされてきた探究に考察の焦点を当て、両系譜の対立によって隠蔽されてきた様々な事柄を明らかにすることを試みた。そのことから、生命/技術/科学を包括すると共に、人間/機械/自然を包括することのできる新たな自然哲学の構築が今日において可能であり、また必要であるという帰結が得られた。
著者
藤江 昌嗣 FUJIE Masatsugu
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.597-609, 1986-02-05

確率に関する歴史的研究は,Ⅰ.Todohunter の大著"A History of the Mathenmatical Theory of Probability"[1865](『確率論史パスカルからラプラスの時代までの数学史の一断面』安藤洋美訳1975)をはじめとして多くの蓄積があるが,それらの対象の扱い方は, Todohunter の著名(副題)に見られるように,確率に関する諸法則・諸定理が各人によってどの程度まで完成されたものになっているかという観点が柱になっていると思われる1)。確率 Probability という概念がどのように形成されてきたかをその前提条件と共に問い直すという作業は著者の知る限りではあるがほとんど存在していないといえる。こうした問い直しは,頻度説・信頼度説として一般に知られているD.Huffによる統計的確率と帰納的確率の関係,更に確率的思考の認識あるいは科学にとっての意味を考えることにとり決して無意味なものとはならないであろう2)。本稿は,こうした問い直し作業の一つとしてなされた I.Hacking の『確率の出現一確率,帰納そして統計的推測についての初期の概念の哲学的研究』(以下Emergence と略す)をとりあげ,その内容の紹介と若干の問題・課題の提示を目的とする3)。
著者
奥村 大介
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.1-30, 2011-03

投稿論文Dans cet article, nous voudrions tenter de faire un dessin de l'histoire de la réception de l´épistémologie française au Japon en nous appuyant en même temps sur la spécificité de la culture japonaise. Cet essai présente le résultat d'une investigation pour élucider comment Japonais ont accepté les pensées des épistemologues français et francophones, comme Gaston Bachelard, Michel Foucault, Georges Canguilhem, François Dagognet, Michel Serres, Jean Starobinski et Pierre-Maxime Schuhl. Egalement nous voudrions esquisser les portraits des philosophes et des écrivains japonais, comme Omodaka Hisayuki, Shibusawa Tatsuhiko, Sakamoto Kenzo, Kanamori Osamu etc., qui étaient tous plus ou moins influencés par les épistémologues français. Entre temps, nous avançons notre hypothèse qui affrme que nous devrions remarquer "le caractère encyclopédique" des épistémologues français, et la place prépondérante qu'ils mettent à "l'imaginaire" en général quand ils construisent leur monde dans la culture scientifique et morale. Ce faisant, nous courons un peu le risque de dire que nous finissons par préparer en un sens une sorte de marche funèbre de l´épisté ologie française ellemême, puisque nous préfé rons finalement modifier lentement l´épistémologie et l'approcher de ce que nous voudrions appeler la culturologie géenérale sur les sciences. Pygmaeos gigantum humeris impositos, plus quam ipsos gigantes videre.巨人の肩に乗れる矮人は 巨人よりもなお多くを見る (Diego Estella)