著者
ドゥエ フランソワーズ 黒木 朋興
出版者
物語研究会
雑誌
物語研究 (ISSN:13481622)
巻号頁・発行日
no.8, pp.74-84, 2008-03-31

Highly influenced by Dumarsais's treatise On Tropes (1730), French rhetoric in the 18th century was "restricted" to the study of models of signification or tropes. I shall propose here four historical counter-arguments to this thesis put forward by Gerard Genette in 1970. First, in the 18th century there is no relevant break in French rhetoric since it remained unrestricted from 1598 to 1885. Second, considered a grammar by its own author and a poetics by its contemporaries, the treatise On Tropes is not in fact significantly representative of the evolution of rhetoric. Third, even in the treatises of rhetoric influenced by Dumarsais, the part assigned to tropes remained unchanged throughout the 18th century. Fourth, some other aspects of rhetoric structure reveal a considerable amount of mobility in the 18th century: action, passions, design, models of construction and styles. In brief, though stimulating in 1970, this thesis of "restricted rhetoric" has nowadays become an epistemological obstacle to the understanding of the history of rhetoric in France.
著者
野村 浩也
出版者
広島修道大学
雑誌
広島修大論集. 人文編 (ISSN:03875873)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.211-233, 2001-09-28

This paper discusses the danger involved in the declaration by Okinawans themselves that "Okinawans are also aggressors". The question of whether Okinawans are aggressors or not is first and foremost completely irrelevant. The reality lies in the fact that the problem surrounding Japanese aggression is difficult one to budge. Nonetheless, many Japanese have read this declaration as an opportunity to lighten their own sense of responsibility. This is the first danger that I would like to point out. The second danger is that many Japanese read this declaration as one which does not question their own responsibility as aggressors. The logic behind this is, "not only are Japanese aggressors, but so are Okinawans". The reason for this is that the word victim is completely missing, and the fact that Japanese should take responsibility is not even questioned. This is the politics involved in the making of an accomplice. In other words, the allegation that "Okinawans are also aggressors" holds the danger of evoking a political effect which blurs and ignores Japanese responsibility. In this paper, I will analyze the text of one Japanese sociologist to examine this problem.
著者
水谷 浩明 結縁 祥治
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会技術研究報告. SS, ソフトウェアサイエンス (ISSN:09135685)
巻号頁・発行日
vol.111, no.481, pp.43-48, 2012-03-06

本稿では,Ruby on Railsアプリケーションのソースコードをモデル規範形式仕様記述言語Alloyによる記述に変換して検証することで,不具合の効率的な検出を支援する手法を提案する.Alloyではスコープを指定することにより,短時間で限られた探索範囲を自動的に解析することが可能である.ソースコードをAlloyによる記述に変換するツールを作成し,Alloyを用いてRuby on Railsアプリケーションの開発を支援する.
著者
平子 達也
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.9, no.1, pp.1-15, 2013-01-01

本稿は,観智院本『類聚名義抄』中にある平声軽点の粗雑な写しと見られるものを利用し,従来同じ下降調として再建されてきたものの中に現れ方の異なる二つのものがあったことを示すものである。まず,観智院本『類聚名義抄』の中で,従来下降調として再建されるものに差されている声点のうち平声点位置に見られるものを下降調を示す平声軽点の「粗雑な写し」であると認められることを示した。そして,下降調として再建される形容詞終止形接辞「シ」と二音節名詞5類の第二音節に差される声点の在り方が異なることを示し,同じ下降調でも現れ方の異なる二つのものがあることを明らかにした。最後に本稿での議論を踏まえ,従来から議論のある[HF]型の存否の問題について論じた。
著者
猪俣 伸道
出版者
甲南女子大学
雑誌
甲南女子大学研究紀要. 人間科学編 (ISSN:13471228)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.91-95, 2007-03-20
被引用文献数
1

イノシシは雑食性と言われるが,雑食性の中で何をどのように食べるのかを調査した。人が食べる果物は何でも食べたがレモンは食べなかった。熱帯産の果物も食べた。種子の大きいものは種子を食べたり残したりした。莢付きのエダマメ,オクラとピーマンは食べなかった。ドングリの類は大きさに関係なく皆皮をむいて食べた。根菜類はゴボウを除いてすべて食べたが,ダイコンは時々残した。葉菜類はタケノコとホウレンソウは食べたが,他の物はどれも食べなかった。キノコ類はどれも全く食べなかった。セミの類は皆食べた。
著者
仲田 康一
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.450-462, 2011-12

保護者に対し学校に協力する特定の行動を求め、同意の上署名をして提出する「確認書」実践を行う学校運営協議会に着目し、その取組を実現させた論理と帰結を実証的に検討した。その結果導出されたのは、学校選択制下で、学力という成果を求める学校運営協議会が、地域の社会関係を介して保護者に対する問責を生じさせ、保護者を統治する様であった。保護者は然るべき行動を取ることができない場合があるが、それは社会的要因の制約による部分があるにもかかわらず、それへの顧慮は剥ぎ取られたままであった。
著者
井村 健一郎
出版者
物性研究刊行会
雑誌
物性研究 (ISSN:05252997)
巻号頁・発行日
vol.94, no.6, pp.677-713, 2010-09-05

グラフェンを舞台にしてトポロジカル絶縁体を議論する。近年グラフェンが盛んに議論されているが、その面白さはどこにあるのだろうか。グラフェン系の物理は、本質的に一体問題で議論されているにも関わらず豊富な物理を含んでいる。例えば、Dirac型分散関係の帰結として至る所に顔を出すBerry位相や、(2+1)次元Dirac粒子の量子Hall効果(あるいは量子化されたスピンHall効果)におけるパリティ異常などなど。量子力学における対称性が至る所に顔を出すのも興味深い。このノートは、2008年8月21日から23日にかけて長野県茅野市白樺湖で行われた、東京大学生産技術研究所羽田野研究室の合同夏期セミナーにおける講義に基いている。講義の内容を準備するにあたっては、著者が2008年4月から2010年2月まで籍を置いた東北大学大学院理学研究科物理学専攻量子多体論グループにおいて、当時大学院生であった堀田翔君を指導(と共同研究)するにあたって学んだことが基礎になっている。堀田翔君、及び、私をこのような研究分野に導いて下さった倉本義夫先生に感謝する。また、本ノートの作成に関しては、羽田野直道先生を中心とする羽田野研究室のメンバーの方々の多大なお世話になった。ここに謝意を表したい。なお、引用に関しては、本解説が非専門家を対象にした講義ノートの性質を持っていることに鑑み、必ずしもプライオリティーを尊重するのではなく、(特に非専門家が読んで)分かりやすいものという観点から著者が主観的な選定を行った。
著者
御領 潤
出版者
物性研究刊行会
雑誌
物性研究 (ISSN:05252997)
巻号頁・発行日
vol.96, no.2, pp.187-215, 2011-05-05

この論文は国立情報学研究所の電子図書館事業により電子化されました。
著者
風間 誠史
出版者
相模女子大学
雑誌
相模国文 (ISSN:03029999)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.121-126, 2014-03
著者
唐沢 かおり 三谷 信広
出版者
The Japanese Group Dynamics Association
雑誌
実験社会心理学研究 (ISSN:03877973)
巻号頁・発行日
vol.45, no.2, pp.158-166, 2006
被引用文献数
2

本研究は有利な立場にいる人たちの不公平さの認知が他集団に対しての支援的態度に与える影響を,責任帰属と罪悪感の媒介的役割に着目して検討した。データは仮想世界ゲーム(SIMINSOC)の参加者124人がゲーム前半終了時に回答した質問紙から得た。仮想世界ゲームは2つの豊かな地域と2つの貧しい地域から構成されており,貧しい地域に所属する参加者がゲーム内で生存するためには豊かな地域からのサポートを得ることが重要である。豊かな地域に所属した参加者からのデータをパス解析により分析した結果,不公平さの認知が,貧しい地域の苦境に対して自分たちの地域が責任を持つという認知につながり,罪悪感を喚起した。さらに,罪悪感が友好的な関係志向につながり,そのような関係志向が支援的態度を高めた。考察では,罪悪感が実際の相互作用を伴う状況でより重要な役割を果たす可能性や,罪悪感の起源を視野に入れた研究の必要性を議論した。<br>
著者
小谷 善行
出版者
一般社団法人情報処理学会
雑誌
情報処理学会論文誌 (ISSN:18827764)
巻号頁・発行日
vol.34, no.5, pp.973-984, 1993-05-15
被引用文献数
1

一般人の扱いやすい、日本語表現の論理型プログラミング言語の仕様を設計した。Prologなどの論理型書語は、表現が非日本語的であるだけでなく、述語の引数に存在する変数の間の対応をよく理解するには数学的素養が必要であり、なじみやすくはない。そこで単なるワープロ使用者にも利用可能とすることを想定し、自然な日本語の文構造や語藁体系を素直に反映したプログラミング言語の仕様を設計した。本言語仕様は、述語の引数は陽には記述しないという特徴をもつ。データは、入力と出力の2ポートに区分して述語に与えられる。プログラミングは、メタ述語と呼ばれる演算子で述語間の結びつきを指定することで行う。述語は主としてユーザが定義し、通常、日本語の名詞を用いると読みやすい設計となっている。メタ述語は主としてシステム組込みであり、助詞や接頭語で表される。メタ述語は日本文としての理解と一致するように、語義に基づき選定されている。プログラムは分かち書せず、「祖母とは親の母」のように、ほとんど日本語そのままのプログラム表現となる。本言語によるプログラムは、Plologプログラムを日本語で自然に読み下した文に非常に近い。さらに意味ネットワークなどの知識を記述する観点からも、本仕様はその意味を自然に表現した形になっている。また、本仕様に対しその意味定義を与え、プログラム例による可読性および、システムを試作し効率を調査した。
著者
高崎 隆治
出版者
法政大学
雑誌
日本文学誌要 (ISSN:02877872)
巻号頁・発行日
no.18, pp.17-24, 1967-10
著者
野澤 卓弍
出版者
九州女子大学・九州女子短期大学
雑誌
九州女子大学紀要. 人文・社会科学編 (ISSN:09162151)
巻号頁・発行日
vol.41, no.1, pp.55-75, 2004-09

小学校国語教科書は約百三十年の歴史を持っている。この間に表記法は様々に変ってきた。だが、どのような経緯、理由によって、いつごろ、どのように変ったのか、いまになってはよくわからないものも多い。今後、国語問題を議論するときに、それらの事情はぜひ承知しておきたい。そのような動機から、国語教科書の表記および表記法の変遷を調べてみた。扱ったのは、以下の問題である。一、書き出し、改行後の文字の位置 二、句読点の表記法 三、カギカッコの会話文の表記法 四、促音、拗音、長音の表記法 資料の不足もあって確定できないものもあった。しかし、大きな流れは捉えられたのではないかと思う。
著者
清水 征樹
出版者
同志社大学
雑誌
同志社法學 (ISSN:03877612)
巻号頁・発行日
vol.39, no.1, pp.201-224, 1987-07-31

論説
著者
川野 佐江子
出版者
大阪樟蔭女子大学
雑誌
大阪樟蔭女子大学研究紀要 (ISSN:21860459)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.197-205, 2011-01-31

本論は、プロレスラーの身体を題材にして「男性身体」という概念をいかに捉えたらよいのか、という問いを検討していく研究ノートである。「男性身体」は、「近代パラダイム」あるいは「覇権的なものの可視化されたフォルム(姿)」という位置づけで捉えられる。 まず、プロレスラーの身体がいかに「男性身体」を表象しているかについて検討する。つまりレスラーの身体がいかに「理性」に訴求するように身体加工されているのかということに着目する。次にプロレスとは、二項対立構造や権威的ヒエラルキー制度の中で展開されているのだということを指摘する。続いて、プロレスのスペクタクル性について指摘し、「男性身体」との関係を述べる。最後にレスラーのアイデンティティについて触れ、それが「男性身体」を変容させる可能性をもつという仮説を立てて本論は閉じられる。