著者
奈河晴助一世
出版者
巻号頁・発行日
vol.[2],
著者
板橋 源 ITABASHI GEN
出版者
岩手大学学芸学部
雑誌
岩手大学学芸学部研究年報
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.47-50, 1962-09-01
著者
山折 哲雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.49, pp.p195-208, 1993-03

近松門左衛門の「曽根崎心中」は、元禄十六年(一七〇三)の四月七日に、大阪梅田の曽根崎天神で実際におこった事件をモデルにしている。ところがそれ以後、心中事件が多発するようになり、二十年後の享保八年(一七二三)になって心中取締令がだされた。そのうえ心中者の死骸は心中現場に近い墓所に取り捨てるべきことが申しわたされていた。なかでも道頓堀墓所には多くの心中者の遺骸がかつぎこまれ、その方面での筆頭格であった。そのためこの地域には大勢の乞食女郎非人たちが入りこみ、そこで餓死したり行き倒れたりする者があとを絶たなかった。この近世の道頓堀墓所をめぐる死体処理・死者儀礼の景観は、ある点でインド・ベナレスにおけるそれを想わせる。死者の処理をめぐって都市がどのような変貌を示すのかという点でも、その両者のあいだには不思議な照応がみられるのである。なぜなら肉体の焼尽と魂の昇天という転換の位相が、そこでは墓地を仲立ちとする半ば様式化した空間構成を通してあらわされているからである。そしてその空間構成の輪郭を明らかにするために、小論では近松の「曽根崎心中」の冒頭に掲げられている「観音廻り」の場面と、その終結部分に登場する「道行」の場面に分析を加えている。この近松の「観音廻り」と「道行」の場面が、二種の巡礼のパターンを象徴しているということに注目しよう。第一のパターンが、いわゆる霊地霊場廻りを中心とする巡礼である。この場合は「観音廻り」がそれにあたるだろう。これにたいして第二のパターンが、永遠の再生(昇天)を願う死出の旅という最後の巡礼行である。ここではそれが「道行」の場面にあたる。そしてこのような二種の巡礼のパターンがそのままベナレスにおける死者儀礼のなかにもみられることに私は着目したのである。小論はその両者を結び合せる比較研究の試みである。"Sonezaki Shinjū (The Love-Suicide at Sonezaki)" of Chikamatsu Monzaemon was modeled after an affair which actually happened at Sonezaki Tenjin (shrine dedicated to the deified spirit of Sugawara-no-Michizane), in Umeda, Ōsaka, on April 7 of Genroku 16 (1703). Thereafter, love-suicides came to occur frequently, and twenty years later, in Kyōhō 8 (1723), a Prohibitory Decree on Love-Suicide was issued. Furthermore, the order was given to abandon the bodies of love-suicides in a cemetery near the site of the suicide. The bodies of many love-suicides were carried into the Dōtonbori Cemetery, which ranked top in this respect. Because of this, a large number of beggars, prostitutes, and untouchables entered this area, and there was no end to those who died of disease or collapsed on the street.Scenes of the disposal of the body and the services for the dead in this pre-modern period remind us of the scene of Benares, India, in some respects. There can be seen a strange correspondence between them in the way the city underwent a transformation connected with the disposal of bodies, because the phase of transition between the destruction of the flesh by fire, and the ascension of the spirit, was expressed in a semi-stylized space structure through the mediation of the cemetery. To clarify the outline of the space structure, the author, in this paper, analyzes the scene of the "Pilgrimage to the Kannon" at the beginning of Chikamatsu's "Sonezaki Shinjū", and the scene of the "Lovers' Trip" at the conclusion of the piece.Let us pay attention to the fact that these scenes, the "Pilgrimage to the Kannon" and the "Lovers' Trip" by Chikamatsu, symbolize two types of pilgrimage. The first type is a pilgrimage centering on visits to so-called sacred places or sites; in this piece, the "Pilgrimage to the Kannon". The second type, on the other hand, is the final pilgrimage, that is the suicide trip of lovers who hope for eternal resurrection (ascension to Heaven); in this piece, the scene of the "Lovers' Trip". The author also notes that these two types of pilgrimage appear in exactly the same form, in the services to the dead in Benares. This paper is an attempt at a comparative study that links these two.
著者
松浦 勝久
出版者
東京女子医科大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2009

成体マウス心臓より単離したSca-1陽性心筋前駆細胞を用いて細胞シートを作成し、心筋梗塞マウス心臓へ移植したところ、心臓機能の経時的な回復が観察された。Sca-1陽性細胞は可溶性VCAM-1を発現し、可溶性VCAM-1はその受容体であるVLA-4を介して血管新生、心筋保護、Sca-1陽性自身の遊走・生着を促進し、細胞シート移植のよる心臓機能回復を調節していることが明らかとなった。
著者
吉川 泰司 今西 悠基子 福嶌 五月 秦 広樹
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2014-04-01

骨格筋芽細胞シートおよびiPS細胞由来心筋細胞シートの臨床応用可能な凍結保存方法に関して探索を行った。その結果、ガラス化凍結された骨格筋芽細胞シートは保存後もシートの形態や機能の維持していた。また、心筋梗塞ヌードラットに保存後の細胞シートを移植した後に心機能改善効果が認められた。また、iPS細胞由来心筋細胞を凍結保存後にも心筋細胞純度は凍結前とほぼ同じ結果を再現でき、同期拍動する心筋細胞シートを作成できた。さらに心筋梗塞ヌードラットに移植し、凍結心筋細胞を移植しても非凍結心筋細胞と同程度の有効性を有することを確認した。
著者
川畑 智
出版者
九州理学療法士・作業療法士合同学会
雑誌
九州理学療法士・作業療法士合同学会誌 (ISSN:09152032)
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.73, 2008

【目的】<BR>あそびRe(リ)パークは、環境省国立水俣病総合研究センターの介護予防等在宅支援モデル事業を受託し、平成18年度より「ゲーム機」を用いた取り組みを展開している。今回、その事業運営の中で身体反応速度と認知機能との関係性を研究し、一定の知見を得たのでここに報告する。<BR>【方法】<BR>芦北町のグループホーム入所者(認知症群)13名(男2名、女11名平均年齢84.2±6.3歳)と、同町内に在住する一般高齢者56名(男性11名、女性45名、平均年齢76.9±6.2歳)を対象とした。<BR>認知機能評価として、一般高齢者には、かなひろいテストを実施し、年齢別認知症境界域数値から、健常群51名と認知症疑い群5名の2群に分類した。<BR>また、認知症群には、改訂版長谷川式簡易知能評価スケール(以下、HDS-R)を用いた(HDS-R平均4.7±4.2点)。<BR>これらの3群において、身体反応速度を簡易に点数化できる、株式会社ナムコのリハビリテーションマシン「ワニワニパニックRT」(以下、ワニ叩き)に取り組んでもらい、ゲーム得点と認知機能を比較した。<BR>統計処理は、Bartlett検定で分散の均一性を確認し、一元配置分散分析、多重比較検定(Scheffe法)を用い、各群間の有意差を判定した。なお、全ての統計手法とも、有意水準は1%未満とした。<BR>【結果】<BR>ワニ叩きゲームの得点は、健常群で70.2±11.3点、認知症疑い群で26.8±5.8点、認知症群で22.8±15.1点であった。統計処理の結果、健常群と比べ認知症群ではワニ叩きの得点が有意に低かった(p<0.01)。<BR>また、認知症疑い群においても健常群と比べ、ワニ叩きの得点が有意に低かった(p<0.01)。<BR>これに対し、認知症群と認知症疑い群の比較では、ワニ叩きの得点に有意な差は認められなかった。<BR>【考察】<BR>ワニ叩きは、制限時間内に可能な限り出てくるワニを叩くゲームであり、ワニ出現を瞬時に認知・判断し、叩打反応として適応する動作の反復作業である。<BR>健常群と比べ、認知症群や認知症疑い群において有意に得点が低い結果となったが、この理由として「動作の不活発性」や「注意の集中力減退」などが考えられる。また、ワニ叩きの得点で40点未満の場合、HDS-Rや、かなひろいテストなどのスクリーニングで認知症と疑われる可能性があることも考えられる。<BR>【まとめ】<BR>今回の研究で、身体反応速度と認知機能との関係が明らかとなった。今後は、症例数を増やし、認知症スクリーニングとの関係性や身体反応速度を高めるリハビリテーション手法が認知機能にどれほどの効果を及ぼすかを検証していきたい。

1 0 0 0 OA 諸家短冊帖

出版者
巻号頁・発行日
vol.鬼影(牧の屋)・千渓(菊園)・真椙・忠貫(岡)・竜海(浅茅庵)・面堂,
著者
浅野 朝秋 石川 隆志
出版者
東北文化学園大学医療福祉学部リハビリテーション学科
雑誌
東北文化学園大学医療福祉学部リハビリテーション学科紀要 (ISSN:13497197)
巻号頁・発行日
vol.7, no.1, pp.13-22, 2011-03

認知症者に対する視覚認知課題を用いたリハビリテーションに関する先行研究では,重度者に関する報告は少ない。これは,重度者に対して適切な難易度の課題を設定することが困難なことも一因と考えられる。本研究ではワニワニパニックRT(RT)は重度者でも実行可能な課題ではないかと考え,アルツハイマー型認知症者および非認知症の高齢者各10 名に対し,週1~2 回の頻度で計24 回実施した。結果,HDS-R 各項目および模写課題成績に有意な変化は無かったものの,重度者においても課題遂行自体は可能になり,実験に対する経験の有無を問う質問にも正しく解答できる傾向が認められた。またRT 得点とHDS-R 得点間には有意な正の強い相関を認め,中軽度者のRT 得点は有意に増加し最終的に非認知症者に接近したのに対し,重度者におけるRT 得点は微増に留まり有意差はみられず,反応時間短縮・手続き記憶形成に関する注意およびWorking Memory の関連が示唆された。
著者
渡邉 哲意
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
Artes : bulletin of Takarazuka University of Art and Design : 宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.139-148, 2005-03-31

人間の環境を認識するシステムを"アフォーダンス・クオリア"と呼ばれる視点を基本に捉え、人間が感じる視覚空間内を構成する質素に着目したスクリーンを用いない映像演出を行い、鑑賞者に対してより豊かな空間イメージを伝える映像制作の方法を提案する。例として2004年春に京都・高台寺で行われた夜間特別拝観ライトアップ映像で、庭空間を演出する映像の制作を行った。
著者
正徹
出版者
谷岡七左衛門
巻号頁・発行日
vol.[2], 1662
著者
坂本 稔 今村 峯雄 一色 史彦 若狭 幸 松崎 浩之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.176, pp.129-140, 2012-12

茨城県牛久市に所在する観音寺(茨城県牛久市久野町2976)は,嘉禄2年(1226),十一面観音を祀る堂として建立されたと寺伝にあり,その後大永5年(1525)に再興され,現在の本堂は宝永4年(1707)の再建によるものと考えられている。本研究では,観音寺本堂および仁王門の保存修復工事等に伴う旧部材等の保管資料の炭素14年代測定を行った結果について,棟札などの文字資料から推察されてきた建立あるいは修復時期などとの関連を比較検討した。仁王門の保存修復工事で得られた本堂側廻りの旧柱材(ケヤキ)2本の最外層の年代は炭素14-ウィグルマッチ法(¹⁴C-wiggle-matching)によりいずれも13世紀後半か,14世紀初頭に伐採された材と見られた。建立期の嘉禄2年(1226)より新しいが,再興されたとする大永5年(1525)よりはかなり古い年代となっており,「宋風彫刻」とされる十一面観音の鎌倉後期~室町期の年代と整合している。観音寺本堂の細部様式による建築時期の年代認識(鎌倉期)とも矛盾しない。また十一面観音の寄木構造の固定保持のため用いられていた竹釘(昭和の本堂保存修復時に得られ保管),同じく観音像の着衣部分の塗装面の布(麻)の年代は,寛永7年(1630)の十一面観音修理の時期に符合する結果となった。The Kannon-ji temple in Ushiku, Ibaraki Prefecture (2976 Kuno-cho, Ushiku City, Ibaraki Prefecture) was founded, according to temple legend, in 1226 as a hall to house an Eleven-Faced Kannon statue. It was rebuilt in 1525, and the present main hall is believed to date from a 1707 reconstruction. In this research, radiocarbon dating of the preserved materials such as old lumber was done in conjunction with the restoration work on the temple's main hall and the Nio Gate, and the results were compared in terms of their relationships with the construction and repair periods assumed from written records such as on the ridgepole signs.The age of the outermost layer of the two old pillars (made from Keyaki [Zelkova serrata]) from around the main hall obtained during restoration work on the Nio Gate was seen using 14C-wigglematching to both be from trees harvested around the latter half of the 13th century or the start of the 14th. They are newer than the 1226 founding of the temple, but also considerably older than the 1525 reconstruction, and instead match the late Kamakura or Muromachi date of the Eleven-Faced Kannon, which is considered to be in the Song dynasty style. The era suggests by the style of the details of the temple's main hall (Kamakura) does not contradict this either. In addition, the bamboo nails used to fix the different wooden parts of the Eleven-Faced Kannnon statue together (which were stored separately after the Showa-period restoration of the main hall) and the age of the cloth (hemp) covering the clothing parts of the Kannon statue both point to the 1630 restoration of the statue.

1 0 0 0 OA 少年八犬伝

著者
滝沢馬琴 原作
出版者
金の星社
巻号頁・発行日
1929
著者
上島 隆秀 高杉 紳一郎 河野 一郎 禰占 哲郎 岩本 幸英 河村 吉章 小野 雄次郎 山下 正 渡辺 睦 林山 直樹
出版者
JAPANESE PHYSICAL THERAPY ASSOCIATION
雑誌
日本理学療法学術大会
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.E1086-E1086, 2007

【目的】我々は株式会社ナムコ(以下,ナムコ)と共同で,高齢者でも安全かつ容易に下肢・体幹筋トレーニングが可能なゲーム機「ドキドキへび退治RT」(以下,へび踏み)を開発した。今回,ゲームプレイ中の脳血流変化を測定し,ゲームによる脳機能活性化について検討したので報告する。<BR>【方法】被験者は健常成人男性8名(平均年齢38.8歳)であった。脳血流変化は,前頭前野における酸素化ヘモグロビン(以下,oxy-Hb),脱酸素化ヘモグロビン,総ヘモグロビンの初期値からの変化量を,近赤外分光法にて測定した。測定機器は島津製作所製OMM-2001で,測定用プローブを前頭部に装着した。解析は,oxy-Hbの最大値および最小値から脳血流変動値を算出し,その値について比較検討した。実施したタスクは,「ワニワニパニックRT」(ナムコ製,以下ワニ叩き),「へび踏み」及び下肢筋力増強運動(以下,下肢筋トレ)とした。測定肢位は,「ワニ叩き」では立位,「へび踏み」及び下肢筋トレでは椅坐位であった。測定時間は,タスク実施60秒,タスク実施前に安静20秒,タスク実施後に安静40秒の計120秒とした。下肢筋トレは,重錘負荷による膝伸展運動であり,頭位の変化による影響を最小限にするため,被験者にはいずれのタスクにおいても可能な限り頭を動かさないように指示した。なお,被験者には事前に十分な説明を行い,同意を得た上で測定を実施した。<BR>【結果】前頭前野における脳血流変化は,個人差が大きく一般化できる特徴は見いだせなかったが,下肢筋トレに比べゲームにおいて,より大きな脳血流変化を生じる傾向が認められた。また,ゲーム経験の程度により,被験者間の特徴の違いも認められた。<BR>【考察】従来の業務用ゲーム機の多くは主に上肢を使うものがほとんどであるが,「へび踏み」は開発当初より下肢・体幹筋の活発な活動を狙っている。介護予防対策の一つとして,腸腰筋や前脛骨筋の強化が重要であるが,「へび踏み」は,楽しみながらこれらの筋肉をトレーニングすることが可能である。前頭前野は意欲や感情の中枢とされ,前頭前野の活性化は認知症予防対策としても注目されている。今回,脳血流変化に個人差が認められたことから,一律にゲーム機を使用するのではなく,個別対応としてゲーム機選択を行うのがよいのではないかと考える。<BR>【まとめ】ナムコと共同で開発したゲーム機の効果について,脳血流変化の観点から検討した。今後,本ゲーム機使用による介入効果についても研究を進めたい。
出版者
日経BP社
雑誌
日経アーキテクチュア (ISSN:03850870)
巻号頁・発行日
no.789, pp.16-20, 2005-02-07

っくいの外壁と庭園の緑が柔らかな印象を与える。4階建てと8階建ての2棟で構成された賃貸集合住宅は、長年この土地に住む建て主の自宅を建て替えたものだ。高層棟の正面に設けられた庭園には、4階まで届くほどの高さを持つ立派なケヤキが植えられている。

1 0 0 0 OA 大音寺まへ

著者
豊国,国久
出版者
丸久
雑誌
江戸名所百人美女
巻号頁・発行日
1858
著者
木村 專太郎
出版者
医学書院
雑誌
臨床整形外科 (ISSN:05570433)
巻号頁・発行日
vol.42, no.5, pp.442-445, 2007-05-25

まえがき 今回は福岡黒田藩の分藩秋月藩医,緒方春朔について述べる.彼は漢方医であったが,蘭学が江戸末期に栄えるようになった「キー・パーソン」の1人である.春朔は「人痘による種痘法」を,寛政2年(1790)に秋月藩内で行った.これは,寛政8年(1796)5月14日に英国人エドワード・ジェンナーが,牛痘の種痘を始める前の話である. 春朔の種痘から約40年前の宝暦2年(1552)に,医書「医宗金鑑」が中国から輸入された.その中には「人痘による種痘法」が記述されて,長崎に来た中国人の種痘医李仁山(りじんせん)が,その書に記述されている方法を用いて,長崎の医師たちに「種痘法」を教えた.その後長崎で「種痘」が一時行われた模様であったが,継続されなかった.詳しい様子は不明である.しかし長崎でこの種痘法を学んだ琉球の医師上江州倫完(うえすりんかん)(1732~1812)は,春朔が行ったより24年前の明和3年(1766)に,この「種痘」を沖縄で行い,その後沖繩では継続的に行われていたようである.
著者
井上 正允
出版者
筑波大学附属駒場中・高等学校研究部
雑誌
筑波大学附属駒場論集 (ISSN:13470817)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.179-191, 2003-03

中学・高校の指導要領やカリキュラムをどう作るかの一つの焦点は、教科内容や教科の時間数をどう決めるかである。2002 年(高校は、2003 年)実施の指導要領(「内容の3 割削減」「ゆとり教育」「総合的な学習の時間」…)をめぐり、「学力低下」論争が引き起こされたが、この議論でも、理科や数学の時間数や内容の削減によって予想されるこれまで以上の「学力低下」に対して、現場教師や教育学者だけでなく数学者・精神科医・心理学者が発言し、マスコミが大きく取り上げることによって未曾有の大論争になった。 …
出版者

<「宗家文書」の解題について>