著者
北田 暁大
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.281-297, 2004-12-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
29

「過去 (歴史) は記述者が内在する〈現在〉の観点から構築されている」という歴史的構築主義のテーゼは, 公文書の検討を通じて歴史命題の真偽を探究し続けてきた実証史学に, 少なからぬインパクトを与えた.「オーラル・ヒストリーをどう位置づけるか」「過去の記憶をめぐる言説はことごとく政治的なものなのではないか」「記述者の位置取り (positioning) が記述内容に及ぼす影響はどのようなものか」といった, 近年のカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズム, フェミニズム等で焦点化されている問題系は, 構築主義的な歴史観と密接なかかわりを持っている.もはや構築主義的パースペクティヴなくして歴史を描き出すことは不可能といえるだろう.しかしだからといって, 私たちは「理論的に素朴な実証史学が, より洗練された言語哲学・認識論を持つ構築主義的歴史学にとってかわられた」と考えてはならない.社会学/社会哲学の領域において, 構築主義が登場するはるか以前に, きわめて高度な歴史方法論が提示されていたことを想起すべきである.以下では, WeberとPopperという2人の知の巨人の議論 (プレ構築主義) に照準しつつ, 「因果性」「合理性」といった構築主義的な歴史論のなかであまり取り上げられることのない-しかしきわめて重要な-概念のアクチュアリティを再確認し, 「構築主義以降」の歴史社会学の課題を指し示していくこととしたい.
著者
佐良土 茂樹
出版者
一般社団法人 日本体育学会
雑誌
体育学研究 (ISSN:04846710)
巻号頁・発行日
pp.17149, (Released:2018-06-25)
参考文献数
46
被引用文献数
2

The purpose of the present paper was to lay the groundwork for a “coaching philosophy.” In the first section, the article analyzes the term “coaching philosophy” from a linguistic perspective. The second section aims to clarify the definition by critical examination of the literature. The third section explores the reasons why coaches need a “coaching philosophy”. Through these processes, the proposed definition of “coaching philosophy”is presented as a “comprehensive statement of the ends aimed at as coaching principles, the basic guidelines that give coaches direction, and the values set by coaches in practice to develop, improve, and realize the excellence of athletes and teams”.
著者
神島 裕子
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2018, no.69, pp.21-31, 2018-04-01 (Released:2018-08-01)
参考文献数
8

This paper examines the problem of harassments in higher education from the perspective of Iris Marion Young’s social connection model of responsibility and suggests the problem as results of structural injustice. The first section reviews Young’s model of responsibility and sheds light on three features: (1) it imposes responsibility on all actors involved in structure that produces unjust outcome, (2) it sees responsibility as forward-looking and imposes this responsibility on all actors as shared responsibility, and (3) all actors are demanded to engage in collective actions to make unjust structures less unjust. The second section applies Young’s model of responsibility to sexual harassments in higher education institutions. A hypothetical character of a female university lecturer is employed to show how in a gendered sexist society sexual harassments could occur in university setting where no single actor can be blamed for the unjust result. The third section points out one problematic feature of Young’s model of responsibility. Young’s idea of shared responsibility is useful to set the problem of sexual harassments as our collective problem, but it gives insufficient attention to capabilities of victims of unjust structures. The forth section discusses the question of capability to responsibility. Although Young suggests that victims share responsibility at least to criticize unjust structure, they generally lack capabilities to do so due to the gendered sexist society. On the other hand, Young denies the idea of blaming non-victims, even when they have capabilities to reproduce such structures, for the sake of cooperative motivations. This paper argues that Young’s model should take capabilities of victims into account so that it does not allow a counter-argument that “no voices raised, no harassment done”, while admitting that in certain cases we cannot practically blame non-victims of unjust structure. The fifth section suggests a sort of “self-investigating research project” as part of taking shared responsibility where individual actors take turns to reflect upon one’s own positions and actions and then present one’s report to others in meetings. This project seems fit into the university setting as a way for sharing responsibility for achieving justice.
著者
鈴木 誠
出版者
公益社団法人 日本化学会
雑誌
化学と教育 (ISSN:03862151)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.107-110, 2011
参考文献数
4

フィンランドで大学に進学する場合は,まず日本の大学入試センター試験に該当するフィンランド大学入学資格試験(Matriculation Examination)に合格しなければならない。その後一定期間の兵役を体験し,一定の学資を貯めた後各大学が行う個別試験を経て,希望する大学に入学する。大学の学費は無償であり,医・教育学部の人気は高い。試験科目は多岐に渡り,高等学校で履修すべき到達度を測定する卒業試験の意味合いも兼ねている。心理学や哲学など日本の大学入試センター試験には見られないものも多い。特に語学については3科目必修となる。これは,フィンランドが国家戦略として目指す多言語活用能力(plurilingualism)育成に基づくものである。試験時間は,基本的には1教科当たり6時間にも及び,受験者に考えさせる論述問題がほとんどである。これらのことは,フィンランドがどのような人材を育成しようとしているかを明確に示すと同時に,日本の大学入試に対して多くの知見を提供するものである。
著者
所 雄章 香川 知晶 西村 哲一 佐々木 周 村上 勝三 山田 弘明 持田 辰郎
出版者
中央大学
雑誌
総合研究(A)
巻号頁・発行日
1990

デカルトの『省察』のラテン語原典(「Meditationes de Prima Philosophia」)のー共同作業によるー包括的な研究、それがわれわれの目的であって、過去二回(昭和58ー60年度と昭和63年度と)の実験を承け、今回は「第五省察」(昨年度)と「第六省察」(本年度)とをその対象とした。彼のこの形而上学的主著についてわれわれは、(イ)字句の釈義を踏まえたテクストの正当的な読み方の探求、(ロ)それら二つの「省察」に含まれる本来的に哲学的な諸問題の問題論的究明、という二つの作業とを軸として、即テクスト的な研究を遂行した。先ず、「テクストの読み」という点について言えば、この作業は主として研究代表者が担当したが、その際、語句の釈義と併せて、『省察』の古典的な(duc du Luynesの)仏訳本は固よりのこと、近時公刊の英訳書や仏訳書における原テクストの(言うならば、新しい)読み方をも参照し、かつまた古版本ー1642年の初版本や1642年の二版本ーと現行のAdamーTannery版とのテクスト的異同も視野のうちに置いた。次に、「哲学的な諸問題の究明」という点について言うと、「第五省察」と「第六省察」とにおいては、「神存在の存在論的証明」と「デカルトの循環」と「<物心の実在的な区別>によるデカルト的<二元論>」と「<物心分離>的アスペクトと<物心結合>的アスペクトとのデカルト的<二元性論>」とが最も重要な問題であるが、それら四つを主要な対象とする究明の作業は、担当の研究分担者がその問題に係わる今日の代表的なデカルト史家幾人かの解釈を要約したリポ-トを元にして全員で討議し、全員のいわば最大公約数的なーあるいはむしろ、最小公倍数的なー見解を集約するという、そういう仕方で推進された。以上の二点を軸とする研究成果の委細は、テクストの即テクスト的な研究というわれわれの研究の性格上、「実験報告書」の閲読に俟つ。
著者
落合 隆
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.81, pp.239-267, 2015

ルソー政治哲学を理解する鍵概念の一つが「一般意志」である。一般意志はルソーの発明にかかるものではなく,17-18世紀のフランスにおいて拡がった概念である。もともとアルノーやパスカルにあっては,一般意志とは,全ての人類を救済しようとする神の意志であった。マルブランシュは,神の一般意志に恩寵の法のみならず自然法則を含ませた。バルベイラック,モンテスキュー,ディドロらを通して一般意志概念は世俗化され社会化された。ルソーに至って人民の政治的意志となった。ルソーの一般意志には,市民が共通認識形成のために特殊意志を一般化する「一般性」のモメントと,市民が従う法を自らつくる「意志性」のモメントがある。ルソーは,主権者人民の一般意志によって,共通の安全のみならず各人の自由を実現する新たな結合およびその維持と,最終的には人類が自ら招き寄せた悪からの救済をめざす。
著者
堀籠 淳之 阿部 泰之
出版者
日本緩和医療学会
雑誌
Palliative Care Research (ISSN:18805302)
巻号頁・発行日
vol.9, no.1, pp.901-905, 2014 (Released:2014-02-03)
参考文献数
12
被引用文献数
2

【目的】地域包括ケアシステムに対応すべく, 顔の見える多職種連携を目指した取り組みが全国各地で活発化しているが, 職種の偏在や開催方法, 運営資金, 継続性などの抱えている問題は少なくない. これらの問題を克服する方法を開発する. 【方法】ケア・カフェは, 哲学や社会学などの理論をベースにワールド・カフェの方法論を応用したものである. 地域でケアに関わる人々が顔の見える連携と, 日頃の困りごとを相談する場としてケア・カフェが定期的に開催されている. 【結果】旭川市で毎月開催され, これまで9回の開催で延べ約700名を動員した. また, すでに日本全国16カ所にもこの方法が広がり, 延べ29回開催され, 実際の多職種連携や問題解決につながった事例などが報告されている. 【結論】ケア・カフェは, 旭川発の取り組みで, 顔の見える多職種連携を育むために有用な手法となりつつある. すでに全国に広がっており, さらなる顔の見える連携創造が期待される.
著者
東田 大志
出版者
あいだ哲学会
雑誌
あいだ/生成 (ISSN:24328758)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.39-55, 2011-03-25
著者
愛敬 浩二
出版者
東京大学社会科学研究所
雑誌
社會科學研究 (ISSN:03873307)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5/6, pp.3-26, 2005-03-30

英語圏の法哲学やイギリスの憲法理論においては一般に,「法の支配」の多義性・論争性が強調されるので,「法の支配」を「善き法の支配rule of good law」と混交する考え方は消極的に評価される.他方,日本の司法制度改革を理論的に主導した佐藤幸治の議論の特徴は,「法の支配」それ自体が本来的に「善きもの」であるかのように語る点にある.この語り口を可能にするのが,「法の支配」と「法治主義」の法秩序形成観における差異を強調し,前者の優位を論ずる佐藤の独特な「法の支配」論である.本稿は,戦後公法学の論争上に佐藤の「法の支配」論を位置づけた上で,現代イギリス憲法学の理論動向を参考にしながら,佐藤の憲法学説を批判的に検討する.そして,佐藤の議論のように,政治道徳哲学への越境を禁欲し,法理論の枠内で「法の支配」を厳密に概念構成する学説が孕む問題性を明らかにする.
著者
丸山 恭司
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.1, pp.111-119, 2000-03

<他者>あるいは他者性は現代思想のみならず、教育研究においても重要な概念である。この概念に着目することによって、抑圧された人々を不当に扱うことを避けることができる。研究者は<他者>承認の可能性を問うてきた。しかしながら、教える者と学習者の教育的関係は他の人間関係とは異なっているため、<他者>の一般概念を教育の文脈に応用するとき、誤謬が生じることになる。しかし、一方で、教育的関係において<他者>が何を意味するかは決して明確ではない。よって、本論の目的は、教育的関係に現れる<他者>の特性を明らかにし、学習者の他者性を問うことの意味を探ることである。第1節では、まず「他者」概念と他者問題の歴史を概観したうえで、現代思想において問われる<他者>と教育関係における<他者>の相違が考察される。<他者>をめぐる現代の思想家の関心は哲学的であると同時に論理的-政治的なものである。それは、抑圧された人々の解放である。一方、教育的関係において<他者>は必ずしも抑圧されているわけではない。抑圧と解放の図式に囚われてしまうと、教育的関係において現れる<他者>の特性を見落としてしまいやすい。教育的関係において学習者の他者性がいかに現れ、消滅するのかを明らかにするために、第二節では、ヘーゲルとウィトゲンシュタインの他者論を比較する。ヘーゲルの他者概念ではなく、ウィトゲンシュタインの他者概念によって教育的関係における<他者>の特性が説明されることが示される。ヘーゲルおよびその継承者は主人と奴隷の関係が逆転する主奴の弁証法に関心があり、自己意識は初めから承認を求めて闘争する者として描かれている。一方、ウィトゲンシュタインは、<他者>を戦士としても、被抑圧者としても描かない。彼は教育的関係における<他者>の文法的特性に明らかにする。学習者の他者性はその技術と知識の欠如ゆえに言語ゲームの進行を妨げる者として現れ、実践ないし生活形式における一致のうちに解消されるけれども、また顕在するかもしれないものなのである。教育的関係において<他者>を承認する可能性を探るために、学習者の他者性を問うことの意味が、最後に明らかにされる。ウィトゲンシュタインの議論は教育の概念を制限づける。教育は学習者の心性を制御することでも彼らを放置することでもありえない。それは実践における一致として終了する。教育はユートピアを実現するための手段ではなく、われわれは学習者の潜在的な他者性を引き受けるねばならないのである。
著者
日名 淳裕
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.75-95, 2014-03

1948年の7月5日から8日にかけて、詩人パウル・ツェランはウィーンからパリへの亡命途上にインスブルックに立ち寄った。そこでツェランは、雑誌『ブレンナー』編集長であり、詩人ゲオルク・トラークルの庇護者であったルートヴィヒ・フィッカーを前にして自作の詩を朗読している。それは結果的に、ツェランには淡い失意を残すものとなったのだが、インスブルックでの二人の会談は、第二次大戦後ウィーンにおける芸術家たちの交流のひとつの成果であり、オーストリア戦後文学におけるひとつのエピソードとして広く知られている。それにもかかわらず、ツェランの感じた失望の背景を探る研究はまだ少ない。本稿は先行研究史におけるこの間隙を埋めようとするものである。出来事を証言する数少ない記録であるツェランによる二通の手紙の分析をもとに、フィッカーとツェランが出会った当時の歴史的コンテクストを再確認し、その上で二人の出会い/すれ違いに新たな角度から光を当て直そうとした。フィッカーがツェランの詩を、トラークルにではなく、ユダヤ人詩人ラスカー=シューラーにたとえた問題の発言は、1948年という歴史的コンテクストに深く根差したものとして再解釈された。比較的近い時期にはじまっているフィッカーと哲学者ハイデガーの思想的接近もこうして、もはやツェランのエピソードと無関係とは見なされなくなる。本稿ではさらに、ツェランによるトラークルの生産的受容の一例として、詩「フランスの思い出」における色彩と音の共感覚的表現を具体的に分析している。
著者
栗栖 大司
出版者
大阪大学大学院文学研究科臨床哲学研究室
雑誌
臨床哲学のメチエ
巻号頁・発行日
vol.15, pp.34-37, 2006-03-10