1 0 0 0 OA 南天棒行脚録

著者
中原鄧州 著
出版者
大阪屋号書店
巻号頁・発行日
1921

1 0 0 0 OA 空の決戦

著者
田代格 述
出版者
毎日新聞社
巻号頁・発行日
1944

1 0 0 0 OA 小波お伽全集

著者
巌谷小波 著
出版者
小波お伽全集刊行会
巻号頁・発行日
vol.第7巻, 1930
著者
西本 一志
出版者
北陸先端科学技術大学院大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2014-04-01

工学研究は,人々の生活を便利にする技術の実現を目的として推進されてきた.しかしながら,過剰で近視眼的な便利さの追求の結果,副作用として各種の問題が生じてきている.この1つの解決策として,筆者らは,妨害的要素をあえて導入することによって,人による人間的な営みに対して,異なる視点,あるいは高次の視点から見た場合にプラスの影響をもたらそうというメディア・デザインの考え方を提唱している.本研究成果報告書では,我々自身の研究事例に基づき構築した,妨害による支援システムのデザイン方法論について述べる.併せて,この考え方に基づき新たに開発した2つの語学学習支援システムの概略を示す.
著者
小泉 友則
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.153-188, 2016-06

現代日本において、子どもの性をよりよい方向に導くために、子どもに「正しい」性知識を教えなければならない・もしくはその他の教育的導きがなされねばならないとする"性教育"論は、なじみ深い存在となっている。そして、このような"性教育論"の起源がどこにあるのかを探求する試みは、すでに多くの研究者が着手しているものでもある。しかしながら、先行研究の歴史記述は浅いものが多く、日本において"性教育"論が誕生したことがいかなる文化的現象だったのかは多くの部分が不明瞭なままである。そこで、本稿では先行研究の視点を引き継ぎつつも"性教育"論の歴史の再構成を試みる。 具体的には、現状最も優れた先行研究である茂木輝順の論稿の批判検討を通じて、歴史記述を行う。取り扱う時期を近世後期~明治後期に設定し、"性教育"論の源流の存在と誕生を追っていく。 日本においては、近世後期にすでに"性教育"論の源流とも言える教育論は存在し、ただ、それはその後の時代の"性教育"論と比すると、不完全なものであった。近代西洋の知の流入は、そうした日本の"性教育"論の源流の知に様々な新規な知識を付け加えていく。そのような過程のなかで、"性教育"論は明確なかたちで誕生していくわけであるが、その誕生の過程では、舶来物の知識と従来の日本における文化との摩擦もあり、その摩擦を解消するためには"性教育"論を学術的なものだと見做す力が必要だった。 その摩擦をひとまず解消し、"性教育"論が日本において確立するのは、明治期が終わりを迎えるころであった。その時期には、「性教育」という名称が出現し、"性教育論"の要素を占める主要な教育論も出そろい、社会的な認知や承認も十分に備わっていた。
著者
鈴木 隆夫 荒堀 忠久
出版者
公益社団法人 日本セラミックス協会
雑誌
窯業協會誌 (ISSN:00090255)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1036, pp.637-642, 1981-12-01 (Released:2010-04-30)
参考文献数
13
被引用文献数
1 4

ケイ石耐火物の主成分であるシリカの安定相は, 867℃以下で石英, 867°-1470℃でトリジマイト, 1470℃以上でクリストバライトである. しかし, 高炉熱風炉や他の炉でも, ケイ石耐火物を1470℃以下のトリジマイト安定温度域で使用した場合でも, しばしばクリストバライトの生成が認められる. そこで, この原因及び転移機構について検討した.本研究で使用したケイ石耐火物も, トリジマイト-クリストバライトの転移温度は1470℃である. しかし, この試料に熱風炉のダスト (Fe2O3 41.9wt%, Al2O3 34.0%, SiO2 20.4%) を添加してトリジマイト安定温度域で熱処理したところ, クリストバライトに転移した. これは, ダスト中のAl2O3成分の影響によるものであり, Al2O3によるシリカの転移への影響を定量的に検討した結果, Al2O3の添加量増大とともに1470℃の転移温度が低下し, 1470℃以下でもクリストバライトの生成温度域が存在することが明らかになった. この領域は, ケイ石耐火物中のCaOの添加量によっても変化する.
著者
風間 みえ Kazama Mie
出版者
新潟医学会
雑誌
新潟医学会雑誌 = Niigata medical journal (ISSN:00290440)
巻号頁・発行日
vol.130, no.4, pp.237-243, 2016-04

日本の10代の性行動や性意識はインターネットの普及や性情報の氾濫に伴い大きく変化しており, 性行動は低年齢傾向を辿っている. 教育現場では, 中学生に「生命と性」に関する授業, すなわち生命教育と性の健康教育に関する授業を行なっているが, その学習効果は十分に解明されてはいない. そこで本研究では公立中学校の3年生205名に対して生命と性についての授業介入前後にアンケートを行い, 介入効果を調査した. 調査項目は, 「自尊感情」, 「性別の受け止め」, 「男女交際をどの程度まで認めるか」, 「性交のイメージ」, 「性交への意識」の5項目とし, それらを授業前, 授業直後, 授業後2ヵ月に調べた. 自尊感情に関しては, 授業直後から上昇し授業後2ヵ月の時点でさらに上昇が見られた. 性別の受け止めについては, 女子において授業直後で有意に上昇したが授業後2ヵ月時点には上昇は有意でなかった. 「男女交際の限度」, 「性交のイメージ」, 「性交への意識」に関しては, 授業介入の効果は見られなかった. 中学生への生命と性の授業介入で, 自尊感情の上昇と自身の性を肯定することを実証した.
著者
狭川 真一
出版者
奈良大学
巻号頁・発行日
2009

博士論文
著者
石原 舜三 柴田 賢
出版者
The Society of Resource Geology
雑誌
鉱山地質 (ISSN:00265209)
巻号頁・発行日
vol.22, no.111, pp.67-73, 1972-03-29 (Released:2009-12-14)
参考文献数
33
被引用文献数
1

近年に対立のみられる生野―明延鉱床区鉱化時期について,新第三紀鉱化作用の提唱から現在に至る研究史を概観し,問題点の指摘とその解決のためにK-Ar法による年代測定をおこなった.明延鉱床における鋸化後の岩脈は新第三紀鉱化作用の時期を示さず,また生野鉱床における弱鉱化を受けた鉱化前の岩脈の年齢測定からもその鉱化作用が白亜紀後期~古第三紀の花崗岩質岩類に関係する可能性を暗示する.以上から生野―明延鉱床区の新第三紀鉱化作用が否定された.また生野鉱床における鉱化後デイサイト岩脈は角礫岩脈である可能性を指摘した.
著者
久保薗 愛
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.12, no.4, pp.18-34, 2016

<p>18世紀前半の鹿児島方言を反映するロシア資料には,過去否定を表すヂャッタという形式が見られる。この形式と,19世紀以降の過去否定形式を比較したところ,ヂャッタからンジャッタへという変化が認められた。近世半ば以降,本方言では否定とそれ以外の要素を分けて表現する方向に変化したものと思われる。また,表記に使用されるキリル文字の音価及び日本語表記の様相を分析した結果,この形式は否定の連用中止形デ(ヂ)+アッタに由来する可能性が高いことを論じた。</p>
著者
高田 宗平
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.265-292[含 英語文要旨], 2011-03

日本古代の『論語』注釈書の受容について、日本史学では『論語集解』のそれに関しては研究が見られるものの、『論語義疏』については等閑に付されてきた。このことに鑑み、『論語義疏』を引用する日本古代典籍の性格、成立時期、撰者周辺の人的関係を追究すること、古代の蔵書目録から『論語義疏』を捜索すること、古代の古記録から『論語義疏』受容の事跡を渉猟すること、等から、日本古代の『論語義疏』受容の諸相とその変遷を検討した。『論語義疏』は、天平一〇年(七三八)頃には既に、日本に伝来しており、奈良・平安時代を通じて、親王・公卿・中下級貴族・官人・釈家に受容され、浸透していた。八~九世紀では「古記」・「釈」・「讃」の撰者である明法官人によって律令解釈に、一〇世紀末~一一世紀初頭に於いては皇胤である具平親王が『止観輔行伝弘決』所引外典の講究のために、更に、一一世紀前半では明法博士惟宗允亮が朝儀・吏務の先例を明らかにするために、右大臣藤原実資が有職故実の理解のために、それぞれ『論語義疏』を利用していた。また、釈家では、九世紀で空海、一〇世紀で法相宗興福寺の中算が『論語義疏』を利用していたが、一一世紀後半に至ると、仏典を始め多様な日本古典籍に『論語義疏』が利用された。そして、一二世紀前半では、左大臣藤原頼長が幾多の漢籍を講読したが、その一つとして『論語義疏』を講読していた。就中、具平親王の周辺や藤原頼長の周辺に、文才に長けた公卿並びに中下級の貴族や官人である文人・学者が集まり、両者はともにそれぞれの時期の論壇の中心となって、漢籍・漢学の講究・談義が行われた。そこに於いて、講読されていたものの一つが『論語義疏』である。Regarding the acceptance of the commentaries of the "Analects of confucius" in ancient Japan, Japanese historical studies have discussed "Lunyu–jijie", but have paid little attention to "Lunyu–yishu". This article examines various aspects of the acceptance of "Lunyu–yishu" in ancient Japan and its historical development by the following methods : investigation of the nature of ancient Japanese books quoting "Lunyu–yishu", the time of their formation, and human relationships around the editors; search of "Lunyu–yishu" in the ancient inventory of books; and search of the evidence of the acceptance of "Lunyu–yishu" in ancient historical records."Lunyu–yishu" was introduced to Japan in 738 ( Tenpyo 10) , and was accepted by Imperial princes, court nobles, middlegrade and lowgrade nobles, officials, priests of Buddhism, etc., and permeated among them through the Nara period and the Heian period.From the 8th to 9th century, "Lunyu–yishu" was used by legal officials, who were the editors of "Koki", "Shaku", and "San", to interpret legal codes. From the end of the 10th century to the beginning of the 11th century, it was used by Prince Tomohira, who was an imperial descendant, to investigate non–Buddhist scriptures quoted in "Shikan–bugyoden–guketsu". In the first half of the 11th century, it was used by Koremune–no–Tadasuke, who was a teacher in laws and ethics, to clarify the precedents of court ceremonies and official duties, and by Fujiwara–no–Sanesuke, who was the Minister of the Right, to understand the ancient practices and usages. Among the priests of Buddhism, Kukai used "Lunyu–yishu" in the 9th century, and Chuzan of the Kohfuku–ji Temple of the Dharma– character school in the 10th century. In the last half of the 11th century, "Lunyu–yishu" was used in various Japanese classical books including Buddhist Scriptures. In the first half of the 12th century, Fujiwara–no–Yorinaga, who was the Minister of the Left, lectured on many Chinese classical books, one of which was "Lunyu–yishu".Writers and scholars with literary talent, who were also court nobles, middlegrade and lowgrade nobles, and officials, gathered especially around Prince Tomohira and Fujiwara–no–Yorinaga. Both of them played a key role in lectures and discussions on Chinese writings and literature in respective times. One of the books treated in such activities was "Lunyu–yishu".
著者
中村 文子
出版者
長崎純心大学・長崎純心大学短期大学部
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
vol.4, pp.94-84, 2006-03-01

「今昔物語集」は平安時代末期、院政期に成立したとされる我が国最大の仏教説話集である。説話の中には、恩をかけ恩に報いる話が収録されており、「恩」という語が散見できる。「今昔物語集」全三十一巻 (巻八・一八・二一は欠巻)は、天竺部・震旦部・本朝仏法部・本朝世俗部と四つの部立てで構成されており、収められている説話には依拠した文献の存在が明らかなものも多い。本稿では、「今昔物語集」の「恩」という語が依拠文献の表現を受け継いでいるのかどうか、依拠文献本文と比較・対照する。その結果を検討することにより、「今昔物語集」の恩についての考察の第一歩とするものである。「恩」という語を一例ずつ検討してみると、「恩」に関しては「今昔物語集」の本文と依拠文献との関係は複雑である。「今昔物語集」が、依拠文献の「恩」を踏襲していると考えられる例や、「恩」の複合語を使用している例、依拠文献にはないが「恩」という語を使っている例、対応する文がない例など、それぞれの依拠文献に「恩」という語がそのままあるものから、文そのものがないものまで多様である。依拠文献は、漢訳仏典・漢籍・本邦説話集など様々であるが、「今昔物語集」本文との関係については、特別な様相をみせる文献は、内外のいずれにも見出せなかった。結論的に「今昔物語集」の文章においては、依拠文献の文章をそのまま踏襲しているとはいえない。
著者
難波 知子
雑誌
教育保健研究 (ISSN:1342002X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.179-187, 2014

本研究の目的は、中学校において発達障害がある保健室利用生徒に対する養護教諭の支援内容を整理・検討し、支援の手がかりとなる資料を提示することである。データは、中学校に勤務する養護教諭1名に対して過去1年間にかかわった事例に対する支援内容について半構造化面接を行って収集し、質的に分析した。提供された保健室利用生徒の人数は6名で、利用方法には保健室登校と保健室頻回来室があった。全員が広汎性発達障害で対人関係の問題から保健室を利用していた。養護教諭の支援内容には、発達障害の特徴や個別性などの【心身の観察】、生徒の困難感や彼らに対する保護者、担任・学年組織、関係学校種の支援や理解度などの【問題背景の分析】、生徒への直接的な養護・教育的支援と並行して学級とのつながりを保つ【解決のための支援】があった。さらに【関係者との連携】では、小学校との連絡会を利用して入学前から中学校での受け入れ態勢を整えたり、障害や不適応症状に応じた支援に直結する情報を共有したりすることで、支援スタッフが相互に連携して一体的な対応を行うこと(行動連携)ができるような活動を展開していた。
著者
鈴木 功眞
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.55, no.2, pp.85-72, 2004-04-01

『倭玉篇』諸本の中で現存最古の『延徳本』(延徳三年<一四九一>写)に就いては、既に部首排列が『大広益会玉篇』と、注のうち万葉仮名のものは『世尊寺本字鏡』・『音訓篇立』との関連性が有り、かつ、巻末に増補されている「倭玉」とする独自の九部首は、『音訓篇立』・『第四類本』との関連性が認められる八部首と、典拠不明の「曽」部から成るとされている。この先行研究に対し、本稿では、『延徳本』の部首排列が『会玉篇』と対応する部分の掲出字排列は『会玉篇』諸本の中でも内閣文庫蔵十二行本の元版による事、注は殆どが、『音訓篇立』・『第四類本』に典拠を有する事、かつ、典拠不明とされた巻末「曽」部も、掲出字排列と注の点で『第四類本』の「弟」部と関連性が認められる事を論証する。そして、『会玉篇』・『音訓篇立』・『第四類本』の部首排列・掲出字排列の体系に基準を置くと、『延徳本』はそれらの一部しか採録しない不完全な字書である事を述べる。