著者
新美 倫子
出版者
名古屋大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1996

縄文分化を考えるためには縄文人たちの生活の季節性を探る必要があり、彼らの主要な生業の一つであるイノシシ狩猟の季節性を調べることは、そのための有効な手段となる。そこで、イノシシ狩猟の季節的なサイクルを明らかにすることを目的として、縄文時代のさまざまな時期・地域の遺跡において出土資料を行うことにした。信頼できる結果を得るためには、なるべく資料数の多い遺跡を中心に検討を行なう必要があるので、イノシシの出土量の多い鳥浜貝塚(福井県)と田柄貝塚(宮城県)から出土したイノシシ下顎骨資料について観察・計測を行った。方法は下顎骨の肉眼的観察による年齢・死亡季節査定法によったが、この方法では歯の萌出が完了した成獣については死亡季節を査定できない。そこで、実際に出土資料を見て、歯の萌出が完了していない幼獣・若獣については死亡季節を査定できない。そこで、実際に出土資料を見て、歯の萌出が完了していない幼獣・若獣個体の下顎骨を抜き出し、それらの歯の萌出状態等を詳細に観察した。そして、鳥浜貝塚では49点、田柄貝塚では15点の幼獣・若獣の下顎骨を、死亡季節査定基準に従って分類することができた。その結果、縄文前期の鳥浜貝塚では冬以外の季節にはイノシシ狩猟をほとんど行っていないが、縄文晩期の田柄貝塚では、資料数がやや少なくてよくわからないものの、比較的1年中イノシシ狩猟を行っている可能性が高いことがわかった。これらと、縄文晩期の伊川津貝塚(愛知県)では1年中イノシシ猟を行っていることを考えあわせると、イノシシ利用のあり方には時代性と地域性が見られ、時代や地域によってその季節性はかなり異なっていたと言うことができる。

1 0 0 0 OA 欧洲道徳史

著者
W.E.H.レッキー 著
出版者
大日本文明協会
巻号頁・発行日
vol.上, 1911
著者
程 くん 丸山 智 朔 敬 依田 浩子 大城 和文
出版者
新潟大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本研究では、唾液腺に発生する良性腫瘍・多形性腺腫の二次的悪性転化を中心に検討し、良性腫瘍から悪性腫瘍が発生する機序について考察した。多形性腺腫内には異型細胞が出現する頻度が高く、巣状癌が二次的に悪性化する可能性を提言してきたからである。まず、ヒト耳下腺多形性腺腫組織から不死化細胞を単離し、6株の細胞系SMAPを樹立し、これら細胞について種々の検討をおこなった。SMAP1-3は導管上皮、SMAP4-6は筋上皮への分化性格が有していた。これらの細胞は平均107本の染色体、核型5nの異数倍性、さらに第13番染色体q12と第9番染色体p13の相互転座が共通してみいだされ、同部より遠位の遺伝子座欠失で同位のp16遺伝子など癌化関連遺伝子の機能喪失が示唆された。またp53遺伝子異常も発見された。したがって、以上のような遺伝子レベルでの異常をもとに悪性形質が獲得されていくことが示唆された。また、多形性腺腫における被膜浸潤と脈管侵襲の発生頻度を検討したところ、被膜浸潤は検討症例ほぼ全例ときわめて高頻度で、被膜外進展も約20%の症例でみられた。さらに静脈侵襲事例は約15%であった。侵襲部位の組織学的特徴は粘液様間質で乏血管性の特徴があった。その乏血管分布性の背景にはVEGFと特徴的スプライシング様式とHIF-1α高発現の関連があった。したがって、多形性腺腫の悪性形質獲得には、これらの生物学的態度も重要な貢献をしている可能性が示唆された。ついで、ヒト顎骨に発生した黒色プロゴノーマ由来細胞株も作製し、その染色体に、SMAP細胞同様、第9-第13染色体の相互転座がみられ、良性腫瘍の悪性転化の解析に重要な変化とみなされ、今後の検討方向が示された。

1 0 0 0 鍾会論

著者
大上 正美
出版者
青山学院大学
雑誌
紀要 (ISSN:05181194)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.17-29, 1988
著者
時実 象一 黒沢 俊典 山田島 誠 宮川 謹至 亀井 威則 星 正道 中西 秀彦 楠 健一 武部 竜一 中原 康介
出版者
一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報プロフェッショナルシンポジウム予稿集 第12回情報プロフェッショナルシンポジウム
巻号頁・発行日
pp.25-28, 2015 (Released:2015-12-04)
参考文献数
4

学術論文流通のためのXML規格JATSは、国内電子ジャーナル・プラットフォームJ-STAGEでも採用されるなど、国際的に普及している。このJATSをベースとして、学術書籍を記述できる規格Book Interchange Tag Suite (BITS) が最近バージョン1.0として米国国立医学図書館 (NLM) より公開された。日本・韓国・中国などの書籍は、奥付など欧米の書籍と異なる慣習がある。また索引にも和文索引・欧文索引・混合索引などさまざまな形式があり、これらをXMLで適切に記述するためにはBITSの拡張が必要なので、検討して提案をおこなった。さらに、BITSの要素 (タグ) はJATSとの整合性を重視するあまり、論理的に問題あるレガシー要素名が見られるので、その改良も提言した。
著者
早川 尚志
出版者
国士館大学イラク古代文化研究所
雑誌
ラーフィダーン (ISSN:02854406)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.83-110, 2015

Despite numerous studies on the transportation hubs in Eastern Turkistan that connect West Asia and China in the ancient and early modern time, there are few studies on the transition of trade routes in the period between the fall down of the Mongolian Empire (14th century) and the arrival of Portugese missionaries (17th century) . This study shows the main routes and the transition of trade routes in Eastern Turkistan in this period to fill the gap. A series of bibliographic survey of geographical documents and records of ambassadors and merchants who traveled this region reveal three main routes shown in the Khitai-nama, their transition, and the reason why the main route had changed.
著者
清水 誠
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.19, no.1, pp.65-87, 1960-07-01
著者
淸水 誠
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.18, no.4, pp.530-545, 1960-03-31
著者
出版協同社編集部 編
出版者
出版協同社
巻号頁・発行日
vol.[第1] (戦艦・巡洋艦篇), 1961
著者
二宮 文子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方學報 (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.412-393, 2012-12-10

In the 13th century, the northwestern area of South Asia was situated between the two strong powers of the Mongols and the Delhi Sultanate. There were many small groups in that area trying to secure their autonomy as much as possible. This article deals with one of those small groups called Qarlugs. The first leader of the group is Sayf al-Din Hasan Qarlug, who was appointed by Khwarazmshah Jalal al-Din as a ruler of Ghazna, Kurraman and Bannu in 1224. Due to Mongol pressure, he was compelled to move toward Multan, though he kept occupying Bannu, situated on the route from Ghazna to Multan. Though they had been controlled by Mongols through shahna (armed tax collectors), Sayf al-Din's son and successor, Nasir al-Din Muh ammad Qarlug, tried to tie a matrimonial relationship with Giyat al-Din Balaban in Delhi. In the consequence, envoys were exchanged between Balaban and Hulagu Khan of the Il-khanate, in 1260. In the end, Nasir al-Din Muhammad was killed by Hulagu Khan based on an accusation of Sams al-Din Kurt, a semi-independent ruler based in Herat. Sams al-Din Kurt's aim seems to have been to remove an obstacle against his expansion towards the southern part of Salt Range and Sind province. Through the history of the Qarlug, s, we can see how Mongol rule and/or geographical conditions affected the activities of small powers in the northwestern area of South Asia.
著者
佐藤 貴大 円山 琢也
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.50, no.3, pp.345-351, 2015-10-25 (Released:2015-10-25)
参考文献数
9
被引用文献数
1

2013年11月から12月に熊本都心部においてスマホ・アプリ型回遊調査を実施し,1083人の参加者を得た.データに含まれる膨大なGPSの軌跡情報を効率的に処理する方法が求められる.本研究は,カーネル密度図を利用して,簡易に回遊行動圏を推定する方法を提案する.GPS軌跡の95%のカーネル密度図を行動圏域と定義しているが,それは測位誤差に頑健となることも確認した.最後に,提案した行動圏の面積と回遊時間を比較し,評価指標としての違いや,政策含意を議論した.
著者
細川 裕史
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学ドイツ文学会研究論集 (ISSN:18817351)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.41-62, 2006

Welcher Text wurde in Deutschland am längsten gelesen? Zur Bibel und zum "Nibelungenlied" könnte man auch mehrere Volksbücher, zum Beispiel "Eulenspiegel", hinzufügen. Dieses Volksbuch ist noch heute beliebt und davon werden noch immer neue Fassungen und Bearbeitungen geschrieben. Bei der Forschung darüber muss man aber zuerst in Betracht ziehen, dass "Eulenspiegel" eigentlich aus mündlich überlieferten Geschichten entstand und seine mündliche Geburt auf die geschriebenen Werke einen Einfluss ausübte, insbesonders auf seine Frühdrucke im 16. Jahrhundert. Unter den sogenannten Volksbüchern finden sich solche, aus mündlich überlieferten Geschichten stammende Werke, aber nur selten. Damals veröffentlichte man meistens auf Lateinisch geschriebene Sachliteratur oder klassische Romane. Zum größten Teil sind die in der Frühneuzeit in der Volkssprache gedruckten Bücher, die heute oft "Volksbücher" genannt werden, tatsächlich die Übersetzungen davon, und solche angeblichen "Volksbücher" werden heute schon nicht mehr beachtet, im Gegensatz zu "Eulenspiegel". Angenommen wird also, dass der Text "Eulenspiegel" der Nachwelt überliefert werden wird, weil er die Eigenschaft der "Mündlichkeit" besitzt und folglich nicht nur alleine gelesen, sondern auch anderen oder mit anderen erzählt wird. Folgende 5 Aspekte zeigen uns die "Mündlichkeiten" im Text von "Eulenspiegel"; - Die Vorrede, die die Leser I Zuhörer darum bittet, den Text neu I weiter zu erzählen. - Der Stil des "Erzählens". - Die Darstellungen der Geschichten, die sich auf die Leser I Zuhörer im 16. Jahrhundert beziehen. - Der Vorrang der Illustrationen. - Die fahrlässige Redigierung der Überschriften. Zwar ist "Eulenspiegel" ein geschriebener Text, aber er enthält noch die Eigenschaft der "Mündlichkeit" und folglich bleibt er, meiner Meinung nach, immer noch lebendig und übt auf die heutigen Menschen Einflüsse aus.
著者
相良 康子 後藤 信代 井上 由紀子 守田 麻衣子 倉光 球 大隈 和 浜口 功 入田 和男 清川 博之
出版者
一般社団法人 日本輸血・細胞治療学会
雑誌
日本輸血細胞治療学会誌 (ISSN:18813011)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.18-24, 2014-02-28 (Released:2014-03-20)
参考文献数
19
被引用文献数
1 1

本邦におけるHTLV-1感染者は108万人と推計されており,HTLV-1は成人T細胞性白血病(ATL)やHTLV-1関連脊髄症(HAM/TSP)といった重篤な疾患の原因として知られている.日本赤十字社血液センターでの抗HTLV-1抗体の確認検査としては,2012年9月よりウエスタンブロット(WB)法が採用され,検査結果の通知を希望される献血者への通知に際しての判定基準となっている.しかしながら,WB法では判定保留例が多く確定に至らない事例が蓄積されている.今回,我々はWB法における判定保留事例を対象として,複数の方法による抗体検出ならびにHTLV-1プロウイルス(PV)検出を試み,性状解析を行った.その結果,WB法判定保留事例239例中89例(37.2%)でHTLV-1 PVが検出されたが,そのうち4例は化学発光酵素免疫測定(CLEIA)法で,また2例は化学発光免疫測定(CLIA)法で陰性を示した.また,PV陰性150例中19例(12.7%)では複数の抗体検出系で特異抗体が認められたことから,末梢血中のPVが検出限界以下を示すキャリアの存在が示唆され,精確なキャリア確定判定のための抗原同定と検査系確立を要すると考える.
著者
和田 杏実
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2008

第一年度目はまず、これまでの研究成果を整理し、追加・修正を行なうことで、本研究テーマの基礎を固めることを目標とした。本研究テーマの基礎とは、19世紀末から第一次世界大戦までのイギリスが、帝国防衛という観点から戦時国際法形成にどのような態度で取り組んだのかを検証することであり、この作業によって、同時代の他国の態度との比較および戦間期イギリスの態度との比較検証が容易になると考える。そこで、特別研究員奨励費を使用して2008年8月15日から21日までロンドンに滞在し、ロンドン国立公文書館において、イギリス外交文書の収集を行なった。その成果を「20世紀初頭イギリスにおける海戦法政策:軍事的観点からみた国際規範形成」として論文形式でまとめた。従来の研究では実際の政策担当者たち以外の言説、つまり傍系の閣僚の理想主義的見解や野党の批判を主に参照していたため、イギリスの海戦法政策は"変則的"あるいは"不合理"と評価されてきたことを指摘する。そこで、実際にはどのような権利と軍事戦略が重視されて海戦法政策が立案されていったのかを、政策形成に直接携わった閣僚と将校の見解を分析対象として再構築することで、そうした従来の評価の修正を試みた。その結果、海軍省と外務省の大臣や国際会議に出席した実務家は、第一回ハーク会議当初から一貫して、イギリスの交戦国の権利を主張し、海上における通商戦争に勝利できるような軍事戦略と海戦法政策を構想していたことを明らかにした。重要な主張を他国に認めさせることができた1909年ロンドン宣言はイギリス海軍省によれば「決定的勝利」であったが、イギリスが第一次大戦中に宣言を放棄したことは、"不合理"ではなく当然の帰結であった。というのも、イギリスの基本的な態度は帝国防衛のためには自国の規則が海戦に関する戦時国際法より"優れて"いるというものであったからだ。さらに、ハーグ会議や戦時国際法に関する研究は国内外で積み重ねられてきたが、戦争違法化の第一歩という今日的意義で捉えられることが多く、その"善きイメージ"が実態と乖離しているように思われる。しかしながら、戦争が政治紛争を解決する最終手段として合法であった当時においては、軍事行動を拘束するいかなる措置も認められるべきではないという見解が主流であり、各国の軍事行動に影響を及ぼす一連の国際法規範形成から自ら手を引くことが結局は国益を損なうことを意味した。二つのハーグ会議とロンドン会議は、軍事力を規定する規範形成における各国の攻防が繰り広げられた舞台であったと言えよう。以上の研究成果を、2009年2月付けで、東京大学大学院総合文化研究科の国際関係論研究会が発行する『国際関係論研究』に投稿した。現在、当該論文は査読中である。