著者
福家 佑亮
出版者
京都倫理学会
雑誌
実践哲学研究 = Studies for practical philosophy (ISSN:02876582)
巻号頁・発行日
no.38, pp.61-86, 2015-10

許諾条件により本文は2016-10-30に公開
著者
本田 由紀 濱中 義隆 中村 高康 小山 治 上西 充子 二宮 祐 香川 めい 小澤 昌之 堤 孝晃 河野 志穂 豊永 耕平 河原 秀行 西舘 洋介
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究は、人文社会科学系大学教育の分野別の職業的レリバンスを把握することを目的とし、①大学3年時点から卒業後2年目までのパネル調査、②25~34歳の社会人を対象とする質問紙調査、③大学生・卒業生・大学教員を対象とするインタビュー調査を実施した。その結果、主に以下の知見が得られた。(1)人文社会科学系の大学教育の内容・方法には分野別に違いが大きく、教育の双方向性・職業との関連性の双方について教育学・社会学は相対的に水準が高いが、経済学・法学等の社会科学は前者の、哲学・歴史学等の人文科学は後者の、それぞれ水準が相対的に低い。(2)大学教育の内容・方法は卒業後の職業スキルに影響を及ぼしている。

6 0 0 0 OA 哲学涓滴

著者
三宅雪嶺 著
出版者
文海堂
巻号頁・発行日
1889
著者
榊原 研互
出版者
慶應義塾大学出版会
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.43-57, 2008-10

樫原正勝教授退官記念号論文自然科学の方法の社会科学への適用可能性をめぐっては,これまで多様な議論が展開されてきたが,近年経済学や社会学において注目を集めているのが,イギリスの哲学者バスカーが提唱する超越論的実在論である。これは実在論に依拠しつつ,これまで対立してきた実証主義(自然主義)と解釈学(反自然主義)を批判的に統合しようとする試みである。この立場は,経済学ではローソンによって主流派経済学に対する批判の道具として用いられ,経営学では野中らの「知識創造理論」の方法論的基礎としても用いられている。本稿では,この批判的実在論が社会科学に実りある展望をもたらすかどうか批判的に吟味される。
著者
遠藤 智夫
出版者
日本英学史学会
雑誌
英学史研究 (ISSN:03869490)
巻号頁・発行日
vol.1994, no.26, pp.71-83, 1993

It is well known that the English word "philosophy" was translated into Japanese as<I>tetsugaku</I>by Amane Nishi.<BR>The writer makes clear the circumstances under which Nishi coined the term<I>tetsugaku</I>.<BR>However, before Nishi coined it, the word<I>rigaku</I>was the term most com-monly used to mean "philosophy." <BR>In 1791-92, in a translation of a Dutch book on astronomy, YoshinagaMotoki translated "philosophy" into various terms, such as 儒教・智学・窮理学・性理学・性理術. This was the first recorded translation of "philosophy" into these terms. And after twenty years, in a few Dutch-Japanese or English-Japanese dictionaries compiled around 1810, we can find the word<I>rigaku</I> (理学).A case can be made that Yoshinaga Motoki and Dutch interpreters played an important role in the translation of the word "philosophy" into Japanese. But why did<I>tetsugahu</I>come to replace<I>rigaku</I>as the commonly accepted translation when<I>rigaku</I>had been used for so many years.<BR>After presenting a report at the regular monthly meeting in April, 1993, the writer tried to throw new light on this question, as well as on the issues of why opinions are divided on the books in which the term<I>tetsugaku</I>appeared, and why "philosophy" was not translated into its exact Japanese equivalent<I>aichigaku</I> (愛智学).
著者
武藤 崇
出版者
筑波大学
雑誌
心身障害学研究 (ISSN:02851318)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.133-146, 1999-04-08

近年、行動分析学では従来の分析枠に文脈的な要因をどのように位置づけるかという問題が注目されている。本稿は、その文脈的な要因とされる概念の1つである「セッティング事象」を、行動分析学の哲学的背景である機能的文脈主義に基づいて、概念分析を実施し、その有用性を検討することを目的とした。その分析の結果、セッティング事象という概念の今後の使用方法と、検討されるべき問題とが提出された。
著者
網谷 祐一
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.35-48, 2015

In <i>Realism and Naturalizing Knowledge</i> (Keisho Shobo, 2013), Ryo Uehara carefully formulates the homeostatic property cluster theory of natural kinds and expands it by applying this framework to artifacts and knowledge and thereby drawing them in the naturalistic picture of the world. This is a substantial addition to the development of naturalistic philosophy in Japan. In this essay I shall make general comments on his account of natural kinds in the following respects: Ueharas distinction between real and nominal kinds, his objection to the species-as-individual thesis, the relative lack of attention to the distinction between the realism of natural kinds and the scientific realism, and finally, races as possible natural kinds.
著者
齊藤 芳浩 サイトウ ヨシヒロ SAITO YOSHIHIRO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学法学論集 (ISSN:02863286)
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.37-98, 2016-03

「人権」(les droits de l'homme ; human rights)という言葉は、「人間」(homme ; human)と「権利」(droit ; right)という二つの概念の組み合わせである。この「人間」という概念と「権利」という概念は、日常的な世界でも一般的な概念であるが、法学の世界においても基本的かつ基礎的な概念であることは言うまでもないであろう。ところで、もし基礎的な概念の把握が曖昧であるとするならば、その上に立つ法解釈や法理論も結局のところ、軟弱な地盤の上に建物を建てるのと同じく、脆弱なものになるであろう。それでは、この「人権」概念に関してはどうか。わが国の代表的概説書では、一般的に、人権とは、人間が人間であることから当然にもっている権利と捉えられている。しかし、人間が人間であるという理由でなぜ必然的に権利をもつのか、またその権利の性質・内容とはいかなるものなのか、という問いに対して、実に様々な見解があり、これといった共通見解があるわけではない。つまり、表面的なレベルでは比較的一致があっても、一段掘り下げると見解は各人各様な状態にあるということである。もちろん、人権という哲学的であり、価値判断を含む概念について、大多数が一致するような見解が成立することは、もともと無理であるし、かえって不健全であるという見方もできよう。ただ、そうだからといって、教科書的な人権概念把握で済ませ、そこから先を検討しようとしないという惰性的な在り方が良いとは思えない。もし、その各人の研究者の「人権」概念把握が何らかの確固とした理論に裏付けられたものであるというのなら、他の理論との優劣は別としてもその研究者の法理論自体は堅固なものであると評価できるだろう。しかし、もしそうでないのならば、その「人権」概念把握は実のところ曖昧なものであり、その基礎概念の上に構築している各人の法学の体系も脆弱性をもつものであるかもしれないということになる。ところで、それではどうしたら、確固とした人権概念の把握が可能になるのだろうか。そのためには、少なくとも、「人権」概念の構成要素である「人間」と「権利」という概念について、ある程度掘り下げた検討をする必要があるのではないだろうか。そうすると、この人権とは如何なるものであるのか、という問題の解を見つけるためには、法学においても、極端な法実証主義のような立場をとらないならば、まず、「人間」であるということはいったいどういうことであるのか、という問いに答える努力をする必要がある。つまり、人間の本質・本性を考究し、それを踏まえて議論を展開していく必要がある。そのときに、現代の多様な思想に加えて、この問題に関して多くの蓄積があり、古代からの長い歴史をもつ自然法論を少なくとも参照する必要はあるだろう。さらに、「人権」に含まれている「権利」という概念をどのように理解するべきか、という問いがある。そもそも「権利」という概念はいつ誰が考え出したものなのだろうか。この「権利」という概念は、現代の法学に馴染んだ者にとっては、存在して当たり前の概念のように思われ、そもそもそのような問いすら無意味なようにも思われるだろう。ところが、中世ヨーロッパの清貧論争を契機に、ウィリアム・オッカム(William of Ockham 一二八五頃‐一三四七または一三四九年)がこの「権利」概念を新たに創出したのであり、彼が従来「権利」という意味を含んでいなかったラテン語のjus(正・法)という語に「権利」の意味を付け加えるという「革新」をしたのではないか、という指摘がある。もしそうだとするならば、それは大変興味深いものである。なぜなら、現代人が当たり前で普遍的な存在であると考えていた「権利」が、実はある時代以前には存在していなかったのだとするなら、「権利」概念は普遍的なものでも必然的に必要なものでもないということになり、「権利」概念を相対化して考えることができるようになるからである。そして、そのような相対化によって、「権利」の性質・射程・限界等が明確化され、それが人権論を改めて考える際に役立つのではないかと思われる。 本稿の目的は、「人権」の要素の中の「権利」概念について、オッカムの議論を通じ、考察するということである。そこで、本稿では、まず、中世の清貧論争とはどのようなものであり、その論争の中でどのようなことが議論されたのかを確認し(第一章)、次に、オッカムが清貧論争を通じて、どのような所有権論、権利論を論じたかを見てゆく(第二章)。そして、以上を踏まえて、オッカムの所有権論、権利論の意義について簡潔に考察することとする(第三章)。それでは、清貧論争の経緯から論じて行こう。
著者
島村 修平
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.45, no.2, pp.29-46, 2012

It is commonly assumed that a personʼs avowal of her own mind is privileged. But quite a few researchers doubt this first-person privilege, finding it difficult to give it a secure place within their theories of the mind. This paper aims to show that a psychological subject must have first-person privilege. Some philosophers claim that psychological subjects must be rational agents, and a special subclass of them (like us) must have first-person privilege. Accepting this basic idea, I attempt to give substance to it by offering an indisputable interpretation of rational agency and a non-trivial argument to derive first-person privilege from it.
著者
伊藤 和行
出版者
京都大学文学部科学哲学科学史研究室
雑誌
科学哲学科学史研究 (ISSN:18839177)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.117-132, 2008-01-31

Von Neumann's "First Draft of a Report on the EDVAC" is known as the first paper on the modern computation theory, where he compared electric circuits to neuron networks. The idea of conceiving neuron networks as logical circuits was proposed by W. S. McCulloch and W. Pitts, and was called the McCulloch-Pitts Model. This model led von Neumann to develop his automata theory, in which he proposed five models like the cellular model. Through them, he tried to present a unified study of modern computing machines and the human nervous system.
著者
藤井 千春
出版者
[出版者不明]
巻号頁・発行日
2008

制度:新 ; 報告番号:乙2185号 ; 学位の種類:博士(教育学) ; 授与年月日:2008/11/25 ; 早大学位記番号:新4891