- 著者
-
樋浦 郷子
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.219, pp.1-20, 2020-03-27
本稿は植民地期台湾の一地域にとって「御真影」がいかなる役割を担ったのかということを,学校沿革誌,郡誌,当該時期の戸口統計等の資料を手がかりに検討したものである。第一に,台湾における御真影は,朝鮮への下付と異なり,戦闘状況下の日本軍の展開に合わせて開始された。1920年代以降学校への下付は中等教育機関から広まりだしたものの,公学校(台湾人初等教育機関)へはほとんど下付されなかった。第二に,新化尋常小学校は,「御真影奉護」の人員確保を考えれば,教員数の減少は避けねばならかったが,1930年代には新化街の日本人人口が減少していた。学級編成および教員の数を確保できたのは,台湾人児童の尋常小学校在籍数に支えられたことが推定される。第三に,新化尋常小学校への御真影下付が同校だけにとどまらず,新化公学校と農業補習学校児童生徒に対する一定の役割も担った。その人数を見れば天皇・皇后写真による「教育」の対象は台湾人児童が圧倒的多数である。御真影を下付されていない学校の児童生徒に対して,「紀元節」「四方拝」(一月一日)などの学校儀式のあと尋常小学校まで移動して拝礼を実施する,奉護燈設置の寄付金を拠出させるなどの要求がなされた。一方では学校として御真影下付校に選ばれないという構造的な劣位への配置と同時に,他方で天皇崇敬教育のために御真影およびその奉護設備を利用した「教育」には巻き込まれたことを具体的な事象をもって示した。