著者
上田 昇
出版者
東京大学文学部印度哲学研究室
雑誌
インド哲学仏教学研究 (ISSN:09197907)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.5-19, 1993-09-20

"In this paper I elucidate some semantic issues related to the notions of “extension” and “intension” which appear in the Pramāņasamuccaya(-vrtti). The main issue is "extension" of the word "śabda" in the proposition "śabdo 'nityah(Word is non-eternal)". If we regard --and I do-- "śabda" in the proposition as "sarvah śabdah", a problem arises as to the meaning of "sarva(all)". Such an interpretation of a proposition through set as is usually made in predicate logic seems not to be valid for the logic of Dignāga. That is to say, "śrāvaņatva(audibility)" can be a valid logical sign for proof of propositions such as "ayam śabdo 'nityah (This word is non-eternal)", "asau śabdo 'nityah (That word is non-eternal)", etc., whereas it is not a valid sign for proof of the proposition "śabdo 'nityah" in the logic system of Dignāga. If we modified the system of Dignāga we might possibly interpret the "sarvah śabdah" as a set of all śabda(words) and the proposition "śabdo 'nityah" as a total of propositions such as "ayam śabdo 'nityah", "asau śabdo 'nityah", etc. However, I preserve the system of Dignāga, and propose a new kind of notion of "all", which may well be termed "analogical wholeness", to resolve the above-mentioned difficulty. This "wholeness" is obtained by analogy with the notion of set in a collective sense, as was proposed in a set-theory called mereology, which Polish logician Lesniewski invented in 1916. As for "intension", it plays, it seems to me, an important role in the hierarchical structure of words and meanings in the apoha-theory of Dignāga. This issue is touched on slightly in the first and final sections.
著者
福田 正治
出版者
[富山大学杉谷キャンパス一般教育]
雑誌
研究紀要 (ISSN:1882045X)
巻号頁・発行日
no.40, pp.1-22, 2012-12

アメリカで心理学の父といわれているジェームズWilliam Jamesは、1884年、感情研究にとって記念すべき論文を書いた。それがここに掲げた「感情とは何かWhat is an emotion?」という論文である。ここで初めて、感情の末梢起源説として有名なジェームズ・ランゲ説James-Lange theoryが提唱された。情動は「怖いから逃げるのではなく、逃げるから怖い」という考え方で、その当時から情動の中枢説は考えられており、彼の末梢起源説は発表時から議論を巻き起こしていたことは容易に想像される。しかし彼の論文を詳細に眺めると、彼は身体変化を伴う情動についてだけ議論しているのであって、情動一般については議論していないことに注意を要する。そして身体変化を伴わない情動は「冷たくて中性的な状態」だけが残っていると指摘し情動における身体変化の重要性を指摘している。しかしこのジェームズの末梢起源説はキャノンCannonによって1920年代に完全に否定され、今日、感情の中枢起源説に取って代わっている。「感情とは何か」のテーマに答えるのは非常に困難で、その研究分野は、神経科学、心理学、哲学、社会学などの学際的な領域に渡っている。それらの研究を通して、感情の何がどこまで明らかになったのかと改めて考えてみると、130年前のジェームズの時代と比べれば情報は格段に多くなり、脳科学を中心とした神経メカニズムも明らかになってきているが、依然不明なところが多い。人びとから寄せられる質問の中で多いのは「なんとか嫌な感情をコントロールできないのか」という身に迫ったものが圧倒的に占めている。われわれは平和で安心でき、心穏やかな生活を送りたいと念じているが、人と人の間で生活する宿命として感情の軋轢は避けがたい。われわれは過去3000年の長きにわたって感情に関する考察を深め、その知恵を貯め込んできたが、未だにこのような負の感情の制御に関して有効な対策を見いだせていないでいる。最近の科学的知識の進展には目の見張るものがある。改めて感情の研究で、ジェームズが発した「感情とは何か」について過去130年間の進展を考慮しながら議論してみたい。
著者
赤松 明彦
出版者
京都大学
巻号頁・発行日
2005-03

平成14-16年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書 課題番号:14510025 研究代表者:赤松明彦 (京都大学大学院文学研究科 教授)
著者
石崎 嘉彦 飯島 昇藏 山内 廣隆 柴田 寿子 川出 良枝 中金 聡 太田 義器 柘植 尚則
出版者
摂南大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

この研究が目指したことは、大きく分けて以下の四点の纏め上げることができる。いずれの点でも十分な成果をあげることができた。第一は、シュトラウス文献の読解である。日本語版『リベラリズム 古代と近代』(ナカニシヤ出版、2006年),『僭主政治について』(上・下、現代思潮新社、2006-07年)を刊行するとともに、Persecution and the Art of Writing, The City and Man, Thought on Machiavelli, What Is Political Philosophy?などの翻訳を進め、その中で、啓蒙の弁証法、哲学の歴史的研究、市民社会と共同性、自然権、ユダヤ思想、僭主政治、哲人統治、アルキビアデス問題などの諸問題に考察を加え、そこからシュトラウス政治哲学の解釈を試みた。第二は、シュトラウスの秘教的教説と著述技法の問題を明らかにし、ポストモダン的哲学の試みとしてシュトラウスの哲学を理解することに努め、またその観点から、現代社会の諸問題に対処するために、哲学の歴史についての研究と哲学的思考の復権させることの重要性を明らかにすることができた。第三は、シュトラウスとシュトラウス学派の思想の世界的広がりとその影響力についての研究であったが、この方面の研究では北米、ドイツ、フランス、中国でのシュトラウス政治哲学の受容とシュトラウス研究の進展、シュトラウスの読解法による古典研究の進展、シュトラウスの思想と現代思想の関わりについての研究の進展を確認することができた。第四は、シュトラウス的哲学の現代のグローバル世界の中での意味についての研究であったが、この問題に対しても、共著書の形でわれわれの研究成果の一部を公表する機会を得た。研究成果のいくつかは、時間的制約もあってまだ公表されていないものもあるが、それらもこれから順次公表されていくはずである。
著者
遠藤 徹
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-52, 1994

「真の幸福を得ようとするならば、Xせよ。」(α) カントはαは道徳的命法ではあり得ないと主張したと思われるが、拙稿「仮言命法は法則であり得ないか」(以下「仮言命法論文」と略記)が取り上げようとした問題は、第一次的には、αは果たして本当に道徳的命法たり得ないか、であった。 カントが「実然的」(assertorisch)仮言命法と呼んだものがαだと思われるが、彼は仮言命法は法則たり得ず、又道徳法則たり得ない、ただ定言命法則だけがそうであり得る、と主張した。上記拙稿は仮言命法は法則たり得るはずであること、又αも、それに対して義務から従うことは可能である限りで、従ってその限りでカント自身のものさしに照らして、道徳的命法であり得るはずであることを示すことに努めた。そればかりでなく、そもそも具体的な道徳的命法はカント自身においても仮言形式とならざるを得ないのではないかと述べて、道徳的命法が定言命法だとの彼の主張に根本的疑問を向けると共に、もしこうして定言命法のみが道徳的命法であるとのカントの主張が崩れるとしたしたら、彼の倫理学の体系はどのような修正を迫られるはずであるかを大づかみに予測した。―以上が上記論文のあらましである。 この我々の疑問を深化することは二つの方向を取り得るであろう。一つは、仮言命法が道徳法則であり得る可能性を一層具体的に追究することであり、もう一つは、定言命法が道徳法則であり得る可能性を吟味することである。本稿はこの二つの道のいずれにおいても一歩推し進めることに努めたい。前者の道では、上記論文への疑問・再考点にも考慮を払いながら、道徳的命法としてのαの可能性を追究する。後者の道では、約束に関する義務の根拠の検討を通して、定言命法の基本定式が果たして真に道徳法則であり得るか、根本的疑問を提示することに努めるつもりである。
著者
大前 元伸
出版者
『年報 地域文化研究』編集委員会
雑誌
年報地域文化研究 (ISSN:13439103)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-21, 2014-03-31 (Released:2017-01-26)

Le présent article veut traiter du « discours » comme question centrale chez Jean-François Lyotard, en examinant notamment son oeuvre Discours, figure. Notre discussion commencera par clarifier la problématique générale de Discours, figure. Suivant une hypothèse selon laquelle Lyotard vise à décrire l’ « extériorité » de la langue, nous analyserons l’interprétation lyotardienne des théories de Freud qui, selon le philosophe, porte sur la relation entre le linguistique et le non-linguistique, permettant au philosophe d’introduire dans sa discussion la pulsion forclose qu’est la figure et le désir qu’est son expression. L’impossibilité de verbaliser la figure conduit Lyotard à analyser la fonction du désir. Il reconnaît dans le discours le désir à l’oeuvre, qui a les deux aspects contradictoires : régulation discursive et destruction figurale. Grâce à l’interprétation originale de la pulsion de mort, cette contradiction est considérée comme conflit entre le réglage et le déréglage de l’énergie, ce qui lui permet de déclarer que le discours tend à se détruire tout en se stabilisant. Cet argument nous amène à nous poser la question radicale de savoir si la philosophie lyotardienne n’est plus vraie vu que sa critique du discours s’applique au sien. Toutefois, elle consiste à affirmer que le discours ne représente pas une vérité, mais il est un lieu où advient ce qui est à penser. En commentant d’autres ouvrages tels qu’Économie libidinale et Le différend, nous montrerons que Lyotard a pour objectif la déconstruction de l’opposition extériorité-intériorité du discours et que cette problématique persiste pendant tout son parcours philosophique. Ainsi la pensée de Lyotard se manifeste-t-elle comme une quête sans cesse de problèmes plutôt que de la solution.
著者
金光 秀和 直江 清隆 本田 康二郎 寺本 剛 鈴木 俊洋
出版者
金沢工業大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2013-04-01

本研究は、技術が新しい行為の形を生み出し、社会のあり方を大きく変える現代において、技術のあり方に反省的な眼差しを向けることのできる批判的視点を獲得することを目的とした。この研究によって、第一に、技術に対する批判的視点に関する哲学的考察を進めてその成果を発表することができた。第二に、技術の営みを記述することの哲学的な意義について考察し、また、実際に日本の職人のフィールド調査を行い、その営みを哲学的に記述して成果を学会などで発表した。第三に、福島第一原子力発電所事故に関する記述的・規範的探究を進めてその成果を公表した。第四に、技術哲学の知見を反映させた教科書の作成に参加した。
著者
佐藤 透
出版者
東北大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

本研究の目的は、研究期間以前にすでに研究者が実施していた美学・芸術論一般に関する考察と、その考察の侘び概念への応用をさらに発展させ、日本特有の美意識と称される「侘び」「寂び」「幽玄」について、明確な哲学的規定をすることにあった。結果として、大西克禮らの優れた先行研究を批判的に継承しつつ、美および芸術の機能に関する研究代表者自身の見解から「寂び」および「幽玄」に関して、その美意識としての一般性と特殊性とを論定した。三つの美意識を相互連関の下において一つの全体に纏めることは残された課題となった。
著者
名須川 学
出版者
筑波大学
雑誌
哲学・思想論集 (ISSN:02867648)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.118-138, 1999

序 私は、かつて、「デカルトとオカルトー「共感 sympathia」理論を巡ってー」という論題で、デカルトが22歳の折に物した処女作『音楽提要 Compendium Musicae』(1619年)の第1章3段に現れる「共感 sympathia」の概念はルネッサンス魔術との影響関係をもたない、と主張した論考を書いたことがある ...
著者
村松 正隆
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 (ISSN:13481118)
巻号頁・発行日
pp.103-115, 2003-03-15

論者は本橋において,フランス革命期に学問上のリーダーシップをとると同時に,現実の医療政策にも少なからぬ影響を与えたイデオロジスト,カバニスの議論を取り上げる。カバニスの哲学は市民に対して,「自らの情念が公益のかわりを占めてしまうことがないように」良識を要求するものであったが,この要求は何らか超越的審級への訴えによってなされるものではなく,人間本性それ自身に基盤をもつものであった。この論点を理解するためには,カバニスの主要著作『心身関係論』の議論を整理しなければならない。「感覚性」の概念を導きの糸としつつ人間における「肉体的なもの」の重要性を強調するカバニスは,さらに人体において諸器官がお互いに「共感」しあいながら,全体的なネットワークをなしていることを強調する。この「共感」の概念は,さらに他者とのコミュニケーションの場面においても重要な意義を持つようになる。人間は他者に「共感」することによって初めて自らの情念ではなく公益に従う存在となる。だからこそカバニスにとっては,「共感」の能力,ならびにこれと密接なつながりをもつ「模倣」の能力を陶冶することが重要となる。