著者
小宮 一夫
出版者
日本選挙学会
雑誌
選挙研究 (ISSN:09123512)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.19-34, 2016

中選挙区制下の静岡第2区は,伊豆半島以東の静岡県東部地域を区域とし,戦後は石橋湛山や社会党の勝間田清一の選挙区であった。本稿は,石橋や勝間田と競合した保守政治家・山田弥一の選挙戦を検討する。熱海の大月旅館/大月ホテルの経営者でもあった山田は,つるや旅館/つるやホテルの経営者であった畠山鶴吉と国政選挙で同士討ちを繰り広げた。 熱海を畠山と二分する山田は,山田会という個人後援会を組織し,沼津をはじめとする静岡県東部に進出を図った。山田は,当選を重ね,入閣を果たすことで,「熱海の山田」 から「静岡2区の山田」をめざした。しかし,宿敵畠山の参院選に絡む公職選挙法違反と, 河野一郎の秘書を務める伊東出身の新人・木部佳昭に強固な地盤の伊豆半島や静岡東部に根付きかけた地盤を侵食され,「黒い霧解散」にともなう第31回総選挙で落選し,政界から退場することになるのである。
著者
彌永 信美
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学國史研究 (ISSN:02874318)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.44-68, 1998-03
著者
速水 健朗
出版者
日経BP社
雑誌
日経アーキテクチュア (ISSN:03850870)
巻号頁・発行日
no.902, pp.76-79, 2009-06-15

文・写真:速水健朗(編集者・ライター) はやみずけんろう 1973年石川県生まれ。著書に『タイアップの歌謡史』(洋泉社)、『自分探しが止まらない』(ソフトバンククリエイティブ)、『ケータイ小説的。─"再ヤンキー化"時代の少女たち』(原書房)など 日本に最初のファミリーレストランが誕生して、来年で40周年。
著者
渡辺 優
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.3, pp.505-529, 2012-12-30

神秘主義研究にとって「体験」は最重要の鍵概念である。しかし、「神秘主義」概念自体が近世西欧キリスト教世界に起源をもつのと同様、現在に至るまで我々の神秘主義理解を多かれ少なかれ規定している体験概念もまた、固有の歴史的背景をもつ。近世神秘家たちの権威の源泉となった体験は、同時代の認識論的(学問論的)転回の産物であり、新世界旅行記や十七世紀科学革命において新しく構成された体験/経験概念と一致している。他方、少なくとも近世に至るまで、一人称の知覚的体験を信憑性の権威とする信とは異なる信の様態がたしかに存在した。近世神秘主義においても、体験より「純粋な信仰」に価値をおく傾向が認められる。十七世紀フランスのイエズス会士J.-J.スュランは、数々の超常の体験にもかかわらず、ついには通常の信仰に神秘の道を見出した。彼の魂の軌跡を辿ることによって、「現前」の体験を神秘主義の本質とみなす理解は根本的に問い直され、新たな神秘主義理解を提起する「不在」の地平が拓けてくる。
著者
飯野 智子
出版者
実践女子大学
雑誌
実践女子大学短期大学部紀要 = The bulletin of Jissen Women's Junior College (ISSN:13477196)
巻号頁・発行日
no.36, pp.37-48, 2015

ジェンダー、セクシュアリティの意識の変化とともに、性的サービスの需要や消費形態も多様化している。男性が作り、買い、女性が売るという構造にも変化の兆しが見える。女性向けのアダルトビデオや恋人を貸し出すデート産業などの利用者は、特別な存在ではなくなりつつある。このような現象は女性のセクシュアリティの自由な表現を意味しているのであろうか。あるいは女性に娼婦役割と母役割を求め、売りつつ買わないことを期待する性の二重規範が揺らいでいるのであろうか。本稿では、女性向けセクシュアリティ産業の調査を通して、「女性が買うこと」の意味を考える。 With changes in awareness of gender and sexuality, demand and consumption patterns of sexual commercialization have also diversified. There are signs of change in the structure (women to sell and men to buy). And some women watch adult videos for women. Some women use the dating industry. Is this a free expression of women's sexuality? Or is the double standard about sex changing? This is a Study of sex industry for women.
著者
大鐘 敦子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.42, pp.113-126, 2006-03

十九世紀末に一世を風靡したファム・ファタルの代表『サロメ』といえば、誰しもが思い浮かべるのはオスカー・ワイルドの戯曲である。ワイルドはビアズリーの挿絵にはじめはそれほど乗り気ではなかったと言われているが、そのモノクロの挿絵はワイルドの『サロメ』の妖艶さや退廃的、破滅的、悪魔的側面を全面に押し出して、読者や未来の観衆の関心を引き寄せることになった。しかしこれを遡ること十六年、ギュスターヴ・フロベールが最晩年の短編『ヘロディアス』においてサロメのダンスを初めて言語化することに成功したことや、ワイルドがフロベールに多大な影響を受け、意識的に初稿をフランス語で書いていたことは意外に知られていない。 『サロメ』は、1891年11月から12月にかけてオスカー・ワイルドのパリ滞在中にフランス語で書かれ、1893年にパリで出版された。本国では上演禁止となり、ロンドンでの出版は1894年となった。ワイルドはフランス文学に精通し、パリの文壇や社交界にも出入りし、ジッド、マラルメ、ピエール・ルイスなどと親しく交流して、マラルメの"火曜会"にも二度顔を出していることが知られている。 当時すでにフロベールは他界していたわけだが、ワイルドはフロベールを文学の師として、美学的にも仰いでいたことが書簡に残された証言からわかる。1888年のW. E. Henley 宛の手紙では、英語で散文を書くためにフランスの散文を勉強していることを述べ、「そう、フロベールこそわが師なのだ。そして『誘惑』の英訳が成功したなら、私は第二のフロベールになれるし、それ以上のものになるだろう。」と『聖アントワーヌの誘惑』の翻訳について意欲を燃やしている。また1890年には、Scots Observer の編集者への手紙で美学的問題に触れ、『ボヴァリー夫人』と『サランボー』を引き合いに出しながら、「フロベールは言葉の日常的な感覚において正しいだけでなく、芸術的にも正しかった。そしてそれがすべてなのだ。」と全面的に尊敬の念を表している。投獄中に友人に読書用の本を依頼した際にも、フランス語文献リストの筆頭にフロベールの La Tentation de saint Antoine, TroisContes, Salammbô を挙げている。一方、Pascal Aquien はフロベールとの関係について、サランボーの名前や巫女というアイデンティティー、ユダヤ人たちの議論、「サロメ」と「ヘロディアス」という主人公たちの名前の拝借、『ヘロディアス』の「ヨカナン」「マナエイ」から「ヨカナン」「ナアマン」という命名をしたことなど、かなり影響があったことを指摘している。 『サロメ』に関するワイルドの証言で特にフロベールに関係あるものを挙げておきたい。まず第一に挙げられるのは、1890 年のエドガー・ソルタスによる挿話で、サロメについて書くと宣言していたワイルドが、ある晩ピカデリーのレストランでソルタスと食事をした後、連れ立ってフランシス・ホープのアトリエをたずねたところ、逆立ちしたヘロディアスの版画が、まさにフロベールの作品のように描かれており、 « La bella donna della mia mente »(「わが夢見る麗しき女性よ!」)と叫んだという話。第二は、アメリカの象徴派詩人スチュアート・メリルとムーラン・ルージュに行ったときの挿話で、ルーマニア娘のアクロバット的な逆立ちの踊りを見たワイルドが、執筆中の劇の中のサロメのダンスを踊ってもらおうと思い、「フロベールの物語でのように、あの娘に逆立ちのダンスをしてほしいんだ。」と言ったという話である。どちらも注目されるのは、ワイルドがフロベールのサロメのダンスの「逆立ちの踊り」にとても惹かれていたということである。また、サランボーへの賛美も惜しまず、ビアズリーの挿絵について批判する際に「僕のサロメはサランボーの妹だ」という表現すらしている。 『ヘロディアス』の中でサロメの踊りの初の言語化に挑んだフロベールの先駆性と象徴性を論じた拙論では、その「逆立ちのポーズ」に読み取れるユダヤ教的世界観からキリスト教的世界観への逆転というメタファーを指摘したが、ワイルドが果たしてフロベールのサロメの「逆立ちの踊り」にこうした意味を読み取っていたかは定かではなく、踊りのト書きにも逆立ちのポーズへの言及はない。その代わり、ワイルドのサロメでは「七枚のヴェールの踊り」というメタファーと月のメタファーが全面に押し出されている。ことにワイルドがサロメを一幕物の劇にしたことから、登場人物の科白の文体が重要な位置を占めており、後にその作品の芸術性は、音楽性としてシュトラウスのオペラが証明することになった。以下、本稿ではワイルドのサロメの文体とリズムをフロベールのそれと比較しながら、『ヘロディアス』のサンボリスムから『サロメ』の世紀末文学への変遷をみることとする。
著者
尾形 希和子
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.42, pp.198-222, 1992-10-20

Sui portali delle chiese romaniche, spesso i tralci di vite o di acanto avvolgenti uccelli, belve, mostri e uomini (tralci abitati) sono scolpiti lungo gli stipiti e archivolti e/o architravi. Tutto insieme rappresenta il mondo da redimere attraverso il sacrificio di Cristo. Alcuni tralci escono dalla bocca di animali (lupi, leoni, pantere, ecc.), simboli del tempo che tutto divora e sputa. Nelle chiese romaniche del Lazio e dell' Umbria si trovano i volti trifronti al posto di questi animali temporali. L' esempio della chiesa di S. Pietro a Tuscania mostra, in un biforio a sinistra del rosone sulla facciata, due figure trifronti con le caratteristiche di Satana, una con le corna e l' altra con un serpente in mano. Altre figure trifronti, una al Duomo di Spoleto, una sulla lunetta del museo civico spoletino e l' altra all′ intradosso dell' architrave del duomo di Civita Castellana non dimostrano questa natura demoniaca dei tricefali di Tuscania, ma invece, a mio avviso hanno ancora il significato del tempo che crea il mondo. Il volto trifronte o tricefalo, che ha le sue origini remote nell' immagine degli dei pagani del sole, e usato per simboleggiare il tempo, e nel tardo medioevo e nel Rinascimento si trasforma nelle immagini della "prudenza" frequenti in quel periodo. Anche Giano italico, il dio del passaggio e l' iniziazione viene rappresentato con due facce e a volte anche con tre. Saturno il secondo re dell' Italia nell' eta primordiale fu anche il dio dell "inizio", in quanto insegno l' agricoltura agli uomini e li civilizzo. Noi troviamo le immagini di questi due primi re dell' Italia mitica in "Annus"(dominatore dell' anno ciclico e del tempo, al centro del ciclo dei lavori di 12 mesi o dei 12 segni zodiacali) nei calendari illustrati, nei pavimenti musivi delle chiese e nei cicli sculturali che ornano i portali delle chiese dell' epoca romanica. Inoltre "Annus" circondato dai 12 mesi e le quattro stagioni, viene associato al Cristo con quattro evangelisti e 12 apostoli. Cristo veniva simboleggiato dal rosone aperto sulla facciata delle chiese romaniche soprattutto nell' area del Lazio-Umbria. Rosone-sole-Cristo cosmocrator-Annus sono immagini intercambiabili tra di loro. Il sole e il tempo possono essere rappresentati con tre facce o tre teste. Anche il Cristo ha tra le sue raffigurazioni un' immagine tricefala come "Trinita". La concezione di Trinita e legata alla Creazione del mondo, e cosi il volto trifronte vomitante i tralci da due bocche laterali puo avere il significato del tempo che crea il mondo. Il volto trifronte che ha l' aspetto di "Green Man", la maschera divoratrice e vomitatrice dei tralci del mondo, era correlata con la forza della natura e la fecondita che fa rinascere la vegetazione. Il romanico fu un periodo in cui si cerco di unire il profano al sacro, il ricordo del passato (di Roma antica) al presente mondo cristiano, dove gli dei antichi italici potevano ancora avere il loro carattere benevolo prima di divenire esseri demoniaci come avvenne piu tardi. Il tempo profano durante il quale si svolgono i lavori dei contadini, era integrato nel tempo sacro delle chiese. Poiche tutto il medioevo era sostentato grazie alla terra, i contadini vennero considerati importanti e la rivalutazione del lavoro agricolo fu resa piu chiara. E soprattutto nel Lazio e Umbria posti non lontani da Roma, citta di antichi italici, paiono sopravvivere le immagini di Giano e Saturno come il tempo, datore della vita alla vegetazione. Il volto trifronte, immagine collegata con il sole, Giano, Saturno e Cristo, poteva quindi simboleggiare il tempo anche nel contesto cristiano del XII secolo.
著者
沢田 和彦 畠山 雄三郎
出版者
埼玉大学教養学部
雑誌
埼玉大学紀要. 教養学部 (ISSN:1349824X)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.203-222, 2021

本号から数回にわたって長崎市の長崎歴史文化博物館所蔵の『東京親朋書翰綴込』の翻刻を連載する。志賀親朋は本邦最初のプロのロシア語通詞である。第一回は文久元(一八六一)年二月十五日から八月十八日までの書翰計十一通を紹介する。
著者
逢見 憲一
出版者
国立保健医療科学院
雑誌
保健医療科学 (ISSN:13476459)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.236-247, 2009-09

目的:"スペインかぜ"を含む19世紀後半から現代に至るインフルエンザ流行の歴史を追い,その健康被害について可能な限り定量的に把握したうえで,公衆衛生の観点からみたインフルエンザ対策と社会防衛について検討する.方法:内務省衛生局編「流行性感冒」の他,各種資料,研究をもとに各時期におけるインフルエンザのパンデミック(世界的流行)あるいは非パンデミックの流行について記述した.インフルエンザの健康被害については,「超過死亡」の推計と検討を中心に把握した.その上で,各時期のインフルエンザ流行に対してどのような医療的あるいは公衆衛生的対策が行われたかを記述し,その役割と今日的意義について検討した.結果:"お染風"と恐れられた1889─91年パンデミックによる東京,神奈川の超過死亡は,1918─20年の"スペインかぜ"パンデミックに匹敵するものであった."スペインかぜ"以前の時期に比べて,"スペインかぜ"以後は年平均で約10倍の超過死亡がみられた."スペインかぜ"以後の1921年から1938年の超過死亡数の合計は,"スペインかぜ"流行期の超過死亡数の合計に匹敵するものであった.1952年から1974年までの間,アジアかぜと香港かぜのパンデミックを除いた非パンデミック期の超過死亡の総数は,両パンデミック期を合わせた超過死亡数の35. 倍以上であった.超過死亡年あたりの平均超過死亡数は,パンデミック期と非パンデミック期とでほとんど同規模であった.超過死亡に対するインフルエンザを直接の死因とする死亡の比は,パンデミック期には高く,非パンデミック期に入ると低下しており,非パンデミック期にはインフルエンザが"忘れられ"る傾向がみられた.わが国において学童への予防接種が実施されていた1970年代から80年代にはインフルエンザによる超過死亡は低く,1990年代の集団接種中止以降超過死亡が増加していたことに加えて,2000年代の高齢者への接種開始後はふたたび超過死亡が減少していた.インフルエンザへの対策は,1889─91年パンデミックの際には,迷信を非難し,滋養や医師の受診を勧める程度であったが,1918─20年の"スペインかぜ"パンデミックの際には,検疫,隔離,学校閉鎖,集会の禁止などの"公衆衛生的介入(Non-pharmaceutical Interventions)"が確立した.マスクや予防接種などは,その後個人防衛への遷移が進んだ.結論:インフルエンザ対策に関しては,非パンデミック期の対策を"忘れる"べきではない."公衆衛生的介入"については,"スペインかぜ"の経験に学ぶべきである.予防接種を含む"社会防衛"も再検討すべき時期である.