著者
滝川 鈴彦
出版者
大阪夕陽丘学園短期大学
雑誌
大阪女子学園短期大学紀要 (ISSN:02860570)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.137-146, 1965-07-01

カントの実践哲学における道徳と幸福との関係を問うことは,かれの人間把握の具体性を明らかにする上に,きわめて重晏な手掛りとなる問題である。筆者は,さきに,本紀要第4号において,「カントの道徳哲学における幸福の問題」と題する小論でこの問題をとりあげたのであるが,そこでは,もっぱら,カントの道徳哲学の主著である「道徳形而上学への基礎づけ」「実践理性批判」および「道徳形而上学」にみられる思想のあとづけを通して,カントの人間把握の真相を明らかにしようと努めた。本稿では,上記著作に先きだち,そしてカント自身,のちの道徳哲学上の各著作を予想せずにあらわしたといわれる「純粋理性批判」の,特にその中の「先験的方法論」にみられる道徳と幸福との関連についてとりあげてみたい。
著者
林 正子
出版者
岐阜大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

日清戦争後から大正期にかけての日本におけるドイツ思想・文化論が、当時の知識人の意識や国情の実態を反映していることを確認し、国民国家確立期の日本におけるドイツ哲学・芸術の受容の意義について論じるというのが、本研究の目的であった。次のようにその結論の概要を挙げておきたい。1.当時の青年知識人たちにとって、ショーペンハウアー、ニーチェ、ウァーグナーらが代表するドイツ思想・文化は、俗化の方向をたどる文明の改革と主体性のない社会の道徳への反抗を実現するための支柱となった。2.ドイツ思想・文化受容の成果が雑誌「太陽」に掲載されたことで、数多くの読者に具体的な情報が与えられ、相対的・客観的な日本文化論の展開によって、日本(=自己)自身への認識を深めさせるというパラダイムが創り上げられ、時代精神そのものが形成されていった。3.<生の哲学>(Lebensphilosophie)の受容とその評論の隆盛は、明治というひとつの時代を閲した時期の[日本=自己]の存在の基盤を問う風潮と精神性を象徴的に表わすものであった。4.オイケンの<新理想主義>が移入されたことによって、現代文明・自然主義の超克、精神生活の建設が提唱されることとなった。5.<文明>と<文化>が、当該の社会状況や思潮の動向に応じ、用語として区別されるようになるのは1910年代であり、ドイツ語<Kultur>の翻訳である<文化>概念の登場が<文化主義>を導き出した。その要因としては、明治期における<日本文明>の進展についての自覚、<国民文化>確立の重要性の認識、ドイツ思想の受容による<教養>の練磨などが挙げられる。
著者
北澤 毅 近藤 弘 佐々木 一也 有本 真紀
出版者
立教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本共同研究におけるテーマは、感情をめぐって、(1)発達・社会化、(2)文化的規範、(3)人間関係(解釈学の視点から)、(4)情操教育(音楽教育の歴史と現状)の観点に大別される。これらの観点から3年間研究を重ね、上記(1)〜(4)までの観点を、主に(a)理論的検討、(b)相互行為における子どもの泣き、(c)記憶と涙、(d)ジェンダーと涙という研究課題へと展開させた。その成果として研究協力者の協力を得つつ、下記構成のもとで報告書を執筆した。以下の成果が本研究のまとめとなる。第1部 問題設定と理論枠組第1章 本研究のねらい-「文化」概念に着目して-第2章 感情概念の捉え方の変遷-その社会性に着目して-第2部 相互行為における子どもの泣き第3章 発達という文化-保育実践における泣きの記述に着目して-第4章 園児間トラブルにおける保育士のワーク-<泣き>への対応に着目して-第5章 児童のく泣き>を巡るトラブルの構成-遊び場のフィールドワークから-第6章 「涙」をめぐる定義活動及び修復活動の開始と園児の「泣き」-「泣き始めること」と「泣き続けること」の相互行為分析-第3部 制度化された涙3-1.記憶と涙第7章 卒業式の唱歌-共同記憶のための聖なる歌-第8章 制度化された場面の感情喚起力-テレビドラマの分析を通して-3-2.ジェンダーと涙第9章 表象としての涙とジェンダー-絵本の表現技法の分析を通して-第10章 涙・泣きに関するジェンダー言説の分析補論関係性としての涙-哲学的考察-
著者
宇都宮 京子 稲木 哲郎 竹内 郁郎
出版者
東洋大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1997

3年間の研究期間のうち、1年間は、「呪術」という概念の意味を確認するために、それぞれの研究者が分担して、購入した民俗学、宗教学、社会心理学、哲学の領域の書籍を検討し、また、必要に応じて地方にも情報集めに行った。2年目は、1年目で得た情報に基づいて調査を行った。3年目は、それらの結果を整理しつつ分析を行い、総合的見解と今後の課題とをまとめた。2年目の調査においては、1)宗教的伝統に基づいた行為、儀礼、儀式、2)民俗学などの著書に記されている言い伝え等、3)真偽が疑われつつもマスコミなどで時々取り上げられる超常現象、4)いわゆる慣習に基づいた諸行為、5)意志決定に際して、示唆を得るための呪術的行為などの様々な項目について、学歴や職種や地域によって見解の相違が見られるかどうかを調らべることにし、その対象地域は杉並区と荒川区とした。そして、調査結果の単純集計をとり、さらに、呪術的要素と説明変数(地域性・性別・年齢層・学歴・職種・危機体験の有無・科学観など)とのクロス集計をとった。以上のような調査結果の検討を通して、人々の生活の中には、現在も伝統、慣習、宗教などさまざまな要因と結びついて、非合理的と思われる要素が多様なかたちをとって深く染み込んでいるということがわかった。そして、科学的に説明されていなくても、社会的に通用している呪術的要素は多々あり、生活の中における「合理性」の意味をあらためて問う必要性を感じた。同時に、今回の調査を通して、初めは外すつもりであった地域に根ざす文化的要素が意外と重要な意味をもっていることに気づいた。今回は、杉並区と荒川区という東京都の2区でしか調査をおこなえなかったため、地域差についての一般的な結論を出すことはできなかったが、今後、より広い地域で調査をおこない、地域にもとづく文化的要素と呪術的要素との関係の考察を進めていきたいと考えている。
著者
岡部 晋典
出版者
日本社会情報学会
雑誌
社会情報学研究 (ISSN:13429604)
巻号頁・発行日
vol.13, no.2, pp.1-12, 2009-07-30

This article discusses an idea of Objective Knowledge thatparticularly caught the attention of a field of Information studiesback to 1980's. Objective Knowledge, proposed by a philosopher ofscience K. R. Popper, shows similar tendency of the theory ofIn-formation Space that does not assume the basis of recognition. Thisarticle does not only bring up the relevance to other theoriespropounded by K. R. Popper such as Falsifia-bility and Open Society,but also discusses the solution which subtends Popper'sFalsi-fiability to skirt the issue of existing view which has beencriticized in the context of Objective Knowledge and Falsifiability.
著者
林 正樹
出版者
一般社団法人映像情報メディア学会
雑誌
映像情報メディア学会誌 : 映像情報メディア (ISSN:13426907)
巻号頁・発行日
vol.62, no.7, pp.1017-1021, 2008-07-01

情報伝送工学の仕事は,対象を伝送して人に届ける,という図式に則っている.本稿では,廣松渉の哲学を参照し,この図式では人が対象に感動するという状況を説明できないのではないか,との問題提起をしている.そして,今後重要なコンテンツを扱う工学においては,一度旧来の図式を忘れて,物づくりや手仕事を見直すべきではないか,と述べている.
著者
木村 清孝
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.947-961, iii, 2005-03-30

本論文は、近代日本において、西欧から移入された文献学的な仏教研究の軌跡を辿ることを基軸として、このおよそ百年間における仏教研究の歴史を顧み、その特徴を明らかにするとともに、それがもつ問題点を探り、合わせて今後の仏教研究のあり方について述べようとするものである。明治時代の初め、<近代的>な仏教研究の扉は、少なくとも表面的には伝統的な仏教学と切れたところで、南條文雄によって開かれ、高楠順次郎によって一応定着した。それが、文献学的仏教研究である。この伝統は、のちに歴史的な見方を重視する宇井伯寿によって新展開を見た。さらにその愛弟子の中村元は、宇井の視点と方法を継承しながらも、それに満足することなく、新たに比較思想の方法を導入し、「世界思想史」を構想し、その中で仏教を捉えることを試みた。この比較思想的な仏教研究が、西田哲学を継承する哲学的な仏教研究と並んで、現在も主流である文献学的な仏教研究に対峙する位置にあると思われる。最後に付言すれば、これからの仏教研究は、その中軸として、文献学的研究と、それを踏まえた思想史的研究、さらには、その思想史的研究によって明らかになる重要な「生きたテキスト」をよりどころとする比較思想的研究が遂行されることが望まれるのではなかろうか。
著者
坂本 拓弥
出版者
日本体育・スポーツ哲学会
雑誌
体育・スポーツ哲学研究 (ISSN:09155104)
巻号頁・発行日
vol.39, no.2, pp.121-136, 2017 (Released:2018-05-02)
参考文献数
89
被引用文献数
1 1

This paper provides a new contention, which could be needed for developing the anti-doping education in Japan, through the critical consideration about its present situation. For this purpose, the question, “why do athletes choose doping?”, is explored from the perspective of Girard’s theory of desire. This theory suggests that the competitive sport includes the desire for victory and that the desire could paralyze the judgement of athlete with extravagance. Girard points that human desire is the “triangular” desire as a mimetic one and it means that the desire of a subject is not linear to an object but the mimesis of the mediator’s desire. In the position that the essence of competitive sport is the competition, the essence is equal to the desire for victory. Therefore, in the competitive sport, athletes have the desire for victory which is mimetic desire of the opposition. Moreover, the mediator also mimics the subject’s desire and its mediation form is called as the reciprocal mediation. This mediation form becomes “the hell of reciprocal mediation” in the case in which the spiritual distance between the subject and the mediator is close, and it builds the hostile relation between an athlete and the opposition. This relation makes the athlete to have the cognition which wants to just defeat the opposition rather than to win the game or match. Hence, in the hell of reciprocal mediation, an athlete chooses doping with paralyzing her sense of reality which is willing to follow the written rule or the spirit of fair play in competitive sport. Finally it is presented that, in anti-doping education, athletes themselves have to recognize the risk of the triangular desire in competitive sport.
著者
槇野 沙央理
出版者
日本倫理学会
雑誌
倫理学年報 (ISSN:24344699)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.129, 2017 (Released:2019-04-16)

Wittgenstein’s Philosophical Investigations(hereafter PI)is known for its dialectic style. Wittgenstein, as a therapist, makes his interlocutor reflect on his own wording. Several studies have been conducted regarding Wittgenstein’s interactive style. However, little attention has been given to a conflict between Wittgenstein and his interlocutor. They often talk past each other. Wittgenstein gets irritated at his interlocutor’s reaction. The interlocutor complains that Wittgenstein’s advice is irrelevant. The question why Wittgenstein describes the conflict in a positive way remains unanswered. The key to solving the problem is to consider the interlocutor’s perspec tive. I will answer the question through an examination of the interlocutor’s reaction towards Wittgenstein’s advice. First, I will examine in detail the therapy of PI §§191─195. In these sections, Wittgenstein not only points out that the interlocutor’s expressions lack a concrete example and context in which we could use them, but also offers objects of comparison in which Wittgenstein makes his interlocutor reflect on his own wording. However, the interlocutor does not receive Wittgenstein’s offering in a straightforward manner. Second, I will investigate the interlocutor’s reaction in PI §195. I suggest that the interlocutor seems to realize the analogies between objects of comparison and his own expressions but refuses to admit such analogies are tenable. If my explanation is true, the question why Wittgenstein describes the conflict in a positive way can be answered. Finally, I will reconsider the reason why Wittgenstein positively describes the conflict by focusing on the readers’ point of view. I assert that Wittgenstein encourages us to scrutinize our foundations of thought.
著者
吉谷 かおる
出版者
北海道大学宗教学インド哲学研究室
雑誌
北大宗教学年報 (ISSN:24343617)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.38-41, 2019-08-31

宗教とかかわる女性の課題に取り組む活動の一端を報告するため、日本聖公会というキリスト教の団体に所属し、フェミニスト神学を学ぶ者として、今日教会の現場で議論になっている「結婚」をどうとらえるかという問題を取り上げたい。私は聖職ではなく一信徒であるが、日本聖公会の管区女性に関する課題の担当者(女性デスク)と神学教理委員会委員を務めている。英国国教会の流れを汲む教会、Anglican Churchを日本では聖公会と呼ぶ。カンタベリー大主教のいるカンタベリーの主教座との交わりをもつゆるやかな繋がりの教会をAnglican Communion と呼び、世界におよそ160か国、40の管区がある。日本は日本で1管区をなし、国内は11の教区に分かれている。分類上プロテスタントであるが、典礼はローマ・カトリックと近いかたちで行われている。女性デスクのポストは、Anglican Consultative Council(全聖公会中央協議会)による各管区への要請を受けて、日本聖公会では2006年に設置された。そのタスクは、女性のエンパワメントを目的とすることの企画・運営と、国内・国外の女性団体との連絡・調整である。日本聖公会では20年前に法規が改定され、女性の司祭按手が実現されたが、いまでもそれに反対するグループが活動を続けている。そうした中で女性の権利を中心にジェンダーの平等が求められてきたが、しだいに多様な性のありかたが強く意識されるようになり、最近では性的少数者についての講演会や学習会を開きたいという信徒の要望も増えている。
著者
高橋 英彦
出版者
日本生物学的精神医学会
雑誌
日本生物学的精神医学会誌 (ISSN:21866619)
巻号頁・発行日
vol.23, no.4, pp.249-254, 2012 (Released:2017-02-16)
参考文献数
18

情動,意思決定,意識といったこれまで心理学,経済学,哲学などの人文社会の学問で扱ってきた領域が,fMRIを中心とした非侵襲的脳イメージングや認知・心理パラダイムの進歩により,脳神経科学の重要なテーマになり,社会的行動の神経基盤を理解しようとする社会脳研究,social neu-roscienceとして急速に興隆してきている。精神・神経疾患を対象とした社会脳研究も精力的に行われてきている。精神・神経疾患の意思決定障害の分子神経基盤の理解に向け,我々が分子イメージング(positron emission tomography)を用いて心理学,経済学などの研究者と学際的に研究を進めてきた成果の一例を紹介する。線条体のD1受容体の密度が低い人ほど,低確率を過大評価し,高確率を過小評価する認知バイアスが強かった。また視床のノルアドレナリントランスポーターの密度が低い人ほど,損失を忌避する傾向が強く慎重な意思決定をする傾向があることを見出した。この分野が発展し,精神・神経疾患の意思決定障害の客観的評価や新規薬物療法の開発に繋がることを期待する。
著者
草野 原々
出版者
北海道大学大学院文学研究院応用倫理・応用哲学研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.34-44, 2022-06-30

本稿の目的は、ソーシャルロボットの倫理問題に対して、フィクションの哲学を使ったアプローチを提案することにある。第一部では、われわれがロボットを、社会的関係を結ぶことのできる社会的存在者として見なしているという事実を確認し、そこに倫理的問題が秘められていること、また、その問題がフィクションについて論じられてきた問題と類似していることを論ずる。第二部では、ロボットとわれわれとのあいだの社会的関わりを広い意味での「フィクション」とする「フィクション論的アプローチ」を提案する。先行研究であるRodogno(2016)と水上(2020)を確認し、水上はウォルトンのメイクビリーブ説を採用しているが、それは記述的には正しくないことを指摘する。第三部では、フィクションにかかわる情動を分析した「フィクションのパラドクス」を利用し、ソーシャルロボットにかかわる情動についてのトリレンマとなる「ソーシャルロボットのパラドクス」を提案する。そして、その分析からソーシャルロボットとの社会的関係をフィクションと見なしたときに生ずる倫理的問題を考察する。最後に、ソーシャルロボットの倫理的問題に関して、美学的観点から新しい光を投げかける。すなわち、社会的存在者としてのソーシャルロボットをフィクションと見なすべき美的規範があるのではないかという新たなアプローチを唱える。