- 著者
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寶月 拓三
- 出版者
- 熊本大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 1995
1991年6月3日の大火砕流の発生以来,雲仙普賢岳の東向き斜面には引き続き火砕流および土石流が襲い,8,000人以上が被災者した。被災者は自治体の指導による長期の避難生活の結果,転居を余儀なくされ,被災者は散在し,地域の住民の再構成が成されることになった。被災地域内の各地域では,民間住宅,公営住宅あるいは仮設住宅などの特徴を持つ住宅への入居の状況が異なっていた。これらの状況の類似性から,地域性を指摘できるが,この地域性は被災の時期や程度の地域性,被災者用の公営住宅等の設置場所によって生じていると判断した。多くの被災者は被災前の住居付近に転居することを望んでいたが,実際には,離れた場所に設置された被災者用住宅であっても転居する傾向が認められた。家屋を含め財産の多くを失った被災者にとって,経済的負担を軽減することが第一義的に重要であったと判断できる。被災者世帯のほぼ3分の1は避難の過程で分離した。世帯の分離は,一般の世帯でも観られるように,世帯内での世代構成に依存しているようである。即ち,老親・未成年の扶養・養育や,成人した子供の独立に依存する。ただ,被災地域内の地域によっては,このような世帯の分離が促進されたようである。それに加えて,被災前に比較して,被災後は世帯から分離した人々が被災地である島原市の外へ出ていく傾向が強まったようである。また,就業者のうち,農業従事者が被災後に転職あるいは無職になっている例が多数認められ,生産基盤である農地を失うことにより,離農が加速されていることが窺えた。結局,被災世帯の分裂および都市近郊農村社会における就業構造の変貌が恐らく不可逆的に加速し,さらには居住地の分散移動の結果,地域社会が質的および空間的に再編成され,新たな地域社会が形成されてきた。地域社会の再編を促す触媒として,今回の火山災害を位置付けることができると現時点では考えている。