- 著者
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仁藤 敦史
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.152, pp.79-104, 2009-03-31
安閑・宣化期に集中的に屯倉記事が記載されている点については,那津官家へ諸国の屯倉の穀を運んだとの記載を重視するならば,当該期における対外的緊張がその背景に想定され,屯倉と舂米部のセットにより兵粮米を用意し,「那津官家」を中心とする北九州の諸屯倉に集積する体制を構想した。先進的と評価されてきた白猪・児島屯倉における「田戸」は,編戸・造籍により戸別に編成された田部ではなく,成人男子の課役負担者を集計するのみであり,「田部丁籍(名籍)」も一旦作成されると十年以上更新されない単発的なリストであった。「田戸」・「田部丁籍(名籍)」などの表現はそのままでは信頼できず,通説的な律令制的籍帳支配を前提とする評価は疑問である。孝徳期の改革は,行政区画の設定よりも重層化した徴税単位の設定に重点があり,国造のもとで官家を拠点とする統一的,直接的な税の貢納および人の徴発を構想した。国造(国造制)だけでなく制度的に異なる伴造(部民制)・県稲置(屯倉・県制)が歴史的に「官家」(在地における貢納奉仕の拠点)を領したと認識され,その実績が評造や五十戸造といった新たな官家候補者の選定の前提になった。「譜第」意識の連続性において品部や屯倉の廃止命令は,国造を除く伴造や県稲置にとっては大きな転換点として認識された。ミヤケの伝承のうちには郡司の「譜第」に関係した伝承や註記が存在した。「皇太子奏請文」は「改新之詔」の原則に従って,王土王民的な建前から王族による大王への定量的な課役負担を新たに開始する宣言として解釈される。仕丁以外の王族が所有した旧部民たる民部(入部)や家人的奴婢たる家部(所封民)の実質は王子宮内部のツカサの運営費として温存され,基本的に天武四年の部曲廃止まで存続する。