- 著者
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岡 惠介
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.87, pp.217-236, 2001-03-30
北上山地の山村ではかつて凶作・飢饉が頻発し,藩の重税や耕地面積の狭さもあって,通年分の食料をいかに確保するかは最重要の課題であった。北上山地の山村の人々の多くは地域の野生植物を最大限に利用し,山を開墾して耕地面積を広げることによって,不足しがちな食料を確保してきた[岡 1990]。このような戦略を「居住地域内完結型生存戦略」ととらえ,東北の山村では一般的な戦略だとする意見もある[名本 1996]。筆者の調査地である北上山地の山村・岩泉町安家においては,戦後の食糧難の時代にも,シタミ(ナラ類の堅果)がアク抜きして利用され,焼畑が開墾された。これらは藩政時代の飢饉時の対応とほぼ同じであり,いわば100年以上の有効性を持ち得た持続可能性の高い戦略であった。この戦略をとるためには,東北地方の中でも北上山地に集中して分布する,広大なミズナラ林[青野ら 1975]の存在が不可欠であった。そして藩政時代のたたら製鉄や昭和10年以降の製炭産業の経営にも,豊かなミズナラ林が必要であった。安家にも出稼ぎは明治期から一部にあった。しかしこの居住地域外を志向する生存戦略が拡大しなかったのは,明治以降に発達した地頭名子制度によって,村人が小作・名子化していったことと,農村恐慌対策による通年稼働型の製炭産業の隆盛が大きかった。農村恐慌の時代には,東北農村からの娘の身売りが問題になった。しかし安家では,食料の確保が難しかった家は村内の富裕層に子供を奉公に出したため,外部への娘の身売りはなかった。また山村の富裕層は,平地農村の娘を引き取って育てることもあった。これらが可能だったのはまだ山村の経済がかなり自給的だったためで,その自給性を畑作・焼畑と共に支えたミズナラ林の存在は大きい。富裕層は小作・名子の労働によって豊かだったのであり,その小作・名子の生存を支えた柱の一つとしてシタミがあったからである。