著者
三浦 宏文
出版者
実践女子短期大学
雑誌
実践女子短期大学紀要 (ISSN:13477196)
巻号頁・発行日
no.35, pp.73-84, 2014-02

本稿では、2011年に日本テレビ系列で放送された連続ドラマ『妖怪人間ベム』に見られる仏教思想を考察した。このドラマの中で、ベムたちは自分たちがどのような境遇にあっても救いを求める人間がいる限り救い続けるという浄土教の法蔵菩薩に通じる行動原理を示していた。さらにその最終回では、自らの人間になりたいという夢を断念して人間たちを永久に救い続けるという決断をする。これは大悲闡提の菩薩に通じる境地を示していたのである。 This paper investigates Buddhism thought included in a Japanese serial TV drama "Humanoid Monster Bem". In the story, Bem helps anyone in need, even if he also had any difficulties. In his attitude, we can find a kind of Bodhisattva thought of Buddhism. In addition to this, in the last episode of this TV drama, Bem chooses to continue his salvation activity forever at the sacrifice of his own dream of becoming a human being. It is the thought of Boddhisattvaicchantika, which immeasurably deepens Altruism of Bodhisattva, that his decision in this episode represents.
著者
ナンニーニ アルダ ビオンディ マルコ
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.61, pp.237-270, 2011-10-15

本稿で紹介するのはGiscel(Gruppo di intervento e studio nel campo dell'educazione linguistica、www.giscel.org) Giapponeのメンバーによって作成された日本人学習者を対象とした「初心者のためのシラバス」である。Giscelはイタリア言語学学会(Societa di Linguistica Italiana:SLI)の一部として、イタリア語教育研究を進めるグループである。日本のグループは2005年より存在している。当然のことながら、イタリア語は日本のコミュニティの言語ではない、「外国語(伊:lingua straniera,LS)と呼ばれるものである。ある言語を使うコミュニティ内で学ぶ言語は「第2外国語」(伊:lingua seconda,L2)と呼ばれる。学ぶ環境が異なると、ある程度異なったシラバスが必要となる。そこで、Giscel Giapponeのメンバーは日本の環境に合ったシラバスの研究を行なっている。まだ初期段階に過ぎないが、日本でのこのようなアプローチは初めてのため、イタリア語教育の関係者に紹介することを目的として執筆した。様々な意味を持つ「シラバス」(sillabo)は、イタリア語教育の文献では専門用語としてカリキュラム(curriculum)の一部をなし、「知識や能力の観点から(必要とされ、)教える内容の選択とその順序を整えたものを表す(Ciliberti 1994:100,il sillabo e"quella parte dell'attivita curricolare che si riferisce alla specificazione e alla sequenziazione dei contenuti di insegnamento fatta in termini di conoscenze e/o capacita")。つまり、「講義要綱」でも、「教科書」でもない。それらはシラバスの次の段階のものであり、curriculumの発展段階に位置する。Giscel Giapponeのsillabは2つの基本的な文献を出発点にしている。まずは、L2/LSに必要な知識や能力を特定するためにQuadro comune europeo di riferimento(QCER,ingl.CEFR)を基にしている。特にこのsillaboが目的としているのはQCERのレベルA1とレベルA2の一部である(cf.http://www.lanuovaitalia.it/profilo_lingua_italiana/sei-livelli.html, 2011年1月)。次にLo Duca,Sillabo di italiano L2,Roma 2006を参考にしているが、次の2つの点でLo Ducaから離れている。その違いこそがGiscel Giapponeのシラバス研究のオリジナリティをなしている。一つは文化的な内容と能力を明確にする点である。Lo Ducaは、ヨーロッパのErasmusプログラムで留学する大学生を対象としているため、文化的な内容は、イタリアで滞在することによって学ぶことができるものとし、シラバスでは扱わないことにしている。それに対し、Giscel Giapponeのsillaboでは、日本で学ぶ学習者を対象にしているため、いかなる文化的な内容でも教えるべきものとして考慮しており、日本文化とイタリア文化の似た部分と似てない部分を明確化し、誤解を招かない正しい知識を与えるにふさわしいものとなっている。もう一つは学習者が既に持っている言語的・社会文化的知識(conoscenze pregresse linguistiche e socioculturali)を系統的に考慮する点である。最近の言語習得研究においても、母国語が学習者の使う一つのストラテジーとして重要視され始めている(cf.Chini 2005)。筆者の考えでは、言語だけでなく、その文化にもアプローチするならば、学習者は母国語と文化(lingua e cultura materna:略:L1/C1)に対する「既存の知識と経験」を懸け橋として、「新しい言語と文化(lingua e cultura seconda:L2/C2 o straniera:LS/CS)との間に様々な形の関係を作ることで、新しい知識を得ることができる(cf.Nannini 2002,2005,2009a)。実際、De Mauro-Ferreri(2005)が、こうした既知の知識や経験をlinguistica educativa(教育的言語学)研究の一部として認めているのも偶然ではない。というのも、De Mauro-Ferreriは"l'incremento del patrimonio linguistico gia in possesso di chi apprende"(学習者が既に持っている言語財産の増進化)を出発点としているからである。このsillaboは言語の全てのレベルを考慮することで、《宣言的知識conoscenze dichiarative「〜を知る」》と《手続き的知識conoscenze procedurali「〜を使うことができる、ノウ・ハウがある》の齟齬を乗り越えることを試みている。学習者が練習問題を解く段階では、「できる」ように見られてしまうことがよくあるが、現実には、「習った」とされる同じ要素を自律的に使うことができない(一例を挙げれば、冠詞の意味、使い分けなど、cf.Nannini 2007b)。どのコミュニケーション・タスクにも言語的な形が必要とされ、その中には社会的・文化的・語用論的な要素だけでなく、語形論的・統語論的な要素も含まれる。こうした要素は相互に補い合って、言語能力の発展に寄与するものである。その結果、このアプローチの中心になるのは語彙となる(cf.Ferreri 2005)。Bettoni(2001:77)が断言するように、「ある単語を学ぶということはその単語の文法を学ぶということだ("imparare la parola significa impararne la grammatica")からである。換言すれば、単語の中に表れる「文法」に注意を向け、それをコミュニケーションの一部として考えない限り、「文法」を正しく理解して学ぶことはできないということである。このように、sillaboでは、そこで扱われるコミュニケーション・タスクをそれぞれ以下の観点から順番に分析を加えている。1)基本的な言語表現2)語彙3)社会・語用論4)音声・音素学;プロゾディ(イントネーションなど)5)意味・統語論的なカテゴリー(例:冠詞の意味的な範囲と使い分け)6)文化的諸要素7)形態・統語論とメタ言語の自覚 また、初心者に必要とされたコミュニケーション・タスクは下記の通りである。挨拶。自己紹介と他人の紹介。自分と相手の家族について話す。情報の尋ね方と与え方。バールやレストラン、ホテル、店でのやりとり。体調や気分・感情の基本的な表現。自己や他者に関する身体や性格の簡単な描写。銀行員との簡単なやりとり。
著者
島崎 宇史 小田 洋一
出版者
日本比較生理生化学会
雑誌
比較生理生化学 (ISSN:09163786)
巻号頁・発行日
vol.37, no.2, pp.111-118, 2020-07-31 (Released:2020-08-20)
参考文献数
71

危険な刺激や敵から素早く逃げる逃避運動は,ほぼすべての動物が生きのびるために行う必須の行動である。逃避運動は刺激や敵の情報を素早く察知し,可能な限り速く遠ざかることが求められているので,逃避運動を制御する回路(逃避運動回路)は,一般的な神経回路には見られない特性と構成因子を持つことが多い。逃避運動回路の中心には,しばしば巨大なニューロン(giant neuron)が存在し,様々の感覚情報・環境情報を統合して「逃げろ」という司令を出し,できるだけ早く効果器に伝えて逃避運動を実行する。 ここでは,イカ,ザリガニ,ショウジョウバエ,キンギョ,ゼブラフィッシュ,ラット,マウスなどを例にあげて,異なる種の動物が示す逃避運動とそれを制御する逃避運動回路を紹介し,逃避運動回路における巨大ニューロンの存在とはたらきを紹介する。興味深いことに,巨大ニューロンが活動しなくても動物は敵や刺激から遠ざかることは辛うじて可能であるが,瞬時に素早く逃げるには巨大ニューロンが唯一無二の役割を果たしている。また,なぜ逃避運動回路に巨大ニューロンが組み込まれているかについても考察を加える。
著者
三輪 昭子
出版者
愛知教育大学
雑誌
教養と教育 : 共通科目研究交流誌
巻号頁・発行日
vol.4, pp.81-90, 2004

映画は大衆文化であり,社会を映す鏡でもある。アメリカにはハリウッドという映画をビジネスとする拠点があるが,興行成績を意識する限り,社会の在り方とかけ離れたものは制作できない。ハリウッド以外のところでの制作も,同様である。本稿はアメリカ映画を素材にし,アメリカ社会や人権意識を知る教材に活用するために,「平和と人権」展開講座でとりあげるようになって,映画のテーマ・内容を分類することの必要性を感じ,それを試みるのが目的である。
著者
山本 輝太郎 石川 幹人
出版者
一般社団法人 日本科学教育学会
雑誌
日本科学教育学会研究会研究報告 (ISSN:18824684)
巻号頁・発行日
vol.31, no.5, pp.31-36, 2016 (Released:2018-04-07)
参考文献数
7

現在インターネット上で展開している「疑似科学とされるものの科学性評定サイト」における活動内容を紹介し,科学リテラシー向上に向けた科学教育の重要性を主張する.本稿では特に,蔓延する疑似科学にまつわる諸問題に対応するための,教育成果の「社会的な活用」という側面に焦点を当てた.これまでに収集した知見から,疑似科学に関連する問題の多くは,社会的な人間関係と深く関わっていることが推定できる.そのため,単なる科学的知識の蓄積だけでない実践的な問題解決能力も,これからの教育成果には求められるだろう.こうした社会状況において,科学教育の実践としての「疑似科学」はよい教材として機能することが期待でき,本稿を通してその意義を検討したいと思う.
著者
密山 要用
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.58-77, 2022 (Released:2023-01-28)
参考文献数
5

本論文では、医師が地域医療に携わる上で生活者の視点と医療専門家の視点をどのように取り扱えばよいか、その振る舞いにフィールドワークの経験と人類学者との対話がどのような影響を与えうるのかについて、一人の医師である私の事例を基にして検討する。 医師になるとは、生活者である若者が異文化の場としての医学部に入り、医療の「あたりまえ」を自文化としていく過程であり、一方で生活者としての視点を失っていく過程でもある。生活者目線の「ふつうの医師」を志し、大学ではなく地域で、臓器別専門医ではなく家庭医への道へ進んだ筆者だが、次第に医師の視点が強化され、生活者の視点を失っていった。一方で地域医療という生活と医療が交差する現場で、両者の「あたりまえ」の違いに悩み、「もやもや感」が生まれていた。そこでもやもや感の探求のために一度臨床現場を離れ、島根のとある集落で酒づくりをする人たちとコミュニティナースを自称する看護師たちの実践を調査者としてフィールドワークする経験を得た。そして、人類学者らとの対話を通して、当初のもやもや感がいずれも医師の視点から一方的に地域の生活を捉えるものであったことに気付かされ、また地域に住む生活者の視点をそのままに受け取るというフィールドワークにおける重要な姿勢を学んだ。医師にとって、地域での医療の実践を深めていく上で、生活と医療の境界に生まれる様々な「もやもや感」を大切に扱うこと、医療と生活両方の視点を包括する「いかにしてともに生きていくか」という問いを立てて生活者視点を再構築すること、「健康づくり」ではなく「地域づくり」の一員として地域の人々の仲間に加わることが重要かもしれない。このような医療と生活の境界をフィールドワークする営みを「地域でふつうの医師として医療をすること」と呼びたい。
著者
黒島 晨汎
出版者
日本生気象学会
雑誌
日本生気象学会雑誌 (ISSN:03891313)
巻号頁・発行日
vol.40, no.1, pp.25-34, 2003 (Released:2003-06-06)
参考文献数
6

体温の認識から,体温計の開発,発熱を含む体温調節反応の発見とそれらの調節機序の解明に至るまでの体温医学の歴史的発展について概観した.
著者
新田 孝行
出版者
美学会
雑誌
美学 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.44-55, 2009-12-31 (Released:2017-05-22)

The development of Paul de Man's deconstruction as well as his theory of reading is closely related to the transformation of his discourse about music. In "The Rhetoric of Blindness (1971)", he states that melody is superior to harmony since the former deconstructs the mistaken illusion of imitation as his famous "deconstructive reading" does. Melody functions as a metaphor of the reading. What is at stake in "Shelley Disfigured (1979)", however, is neither melody nor harmony but measure. Measure is defined as articulated sound, present in both music and language. Reading merely according to the rules of measure or punctuation, called "syntactical or grammatical scansion", is another more important de Manian deconstruction, for the difference between the order of words (grammar) and their meanings (rhetoric), which de Man sees as most problematic, could be deconstructed by accident, as a result of failure to decide how to punctuate sentences in the process of the reading.
著者
久保 昇三 秋元 博路
出版者
一般社団法人 日本航空宇宙学会
雑誌
日本航空宇宙学会誌 (ISSN:00214663)
巻号頁・発行日
vol.50, no.585, pp.220-224, 2002-10-05 (Released:2019-04-12)
参考文献数
6
被引用文献数
1
著者
宮澤 栄司
出版者
The Society for Near Eastern Studies in Japan
雑誌
オリエント (ISSN:00305219)
巻号頁・発行日
vol.50, no.1, pp.128-155, 2007

Circassian place-names in the district of Uzunyayla (Kayseri, Turkey) are to be analysed in terms of an anthropological approach to landscape. Circassians were forced to migrate to Anatolia by Russia's military conquest of the North Caucasus in the mid-19<sup>th</sup> century. Uzunyayla, with 73 Circassian villages, is one of the principal locations where these refugees' eventually settled down and strove to reconstruct their homeland.<br>A landscape emerges at points where geography and human intentions meet. Place-names are the medium by which people inscribe history on natural environments and read history from them. S. Küchler (1993)'s "landscape <i>of</i> memory" is a landscape composed of a number of landmarks that record human actions. At the same time, she proposes to work on "landscape <i>as</i> memory", i. e. a process by which history is re-negotiated on each occasion that events associated with these landmarks are recalled.<br>In Uzunyayla, a "landscape <i>of</i> memory" can be observed in the use of Circassian place-names that make a connection between the Circassians' homeland and their new "home". Most Circassian villages are named after families known as "lords". This practice tells a story that Circassians followed powerful leaders who struggled against each other. Such a landscape is part of Circassians' efforts to maintain an ethnic identity and territory in the face of the state's nationalist policy.<br>The fact that the great majority of these village names are contested means that the process of making a "home" is yet to be completed. Villages are given different names in a competition for prestige, and different village names are often supported by different types of resources. The history of the Circassians' settling in Uzunyayla is constantly re-shaped as different village names accompanying different foundation stories are set off one against another. In this "landscape <i>as</i> memory", the production of history is open to dialogue.
著者
坂井田 麻祐子
出版者
日本小児耳鼻咽喉科学会
雑誌
小児耳鼻咽喉科 (ISSN:09195858)
巻号頁・発行日
vol.34, no.3, pp.366-370, 2013 (Released:2014-03-20)
参考文献数
8
被引用文献数
5

ピーナッツなどの乾燥豆類による気道異物事故は,乳幼児に多く,毎年一定数起こっている。保護者への教育が肝要であるが,そもそも,保護者がどの程度気道異物の危険性を認識しているかを把握したいと考えた。2011年 6 月,ある幼稚園にて気道異物に関する講演会を行い,園児保護者46名に対し,気道異物に関する 7 項目のアンケートを実施し集計した。  保護者の65.9%が「気道異物」という言葉を知っており,65.2%が,乾燥豆類は気道異物の原因となり危険だと認識していた。しかし,危険性を認識していた保護者の50%,危険性を認識していなかった保護者の75%が,子供に乾燥豆類を与えていた。講演終了後は,ほとんどの保護者が,乾燥豆類を与えないようにすると回答した。  保護者への十分な教育によって気道異物事故が予防できる可能性がある。地域の耳鼻咽喉科医は,様々な形で乳幼児を持つ保護者に地道に啓発する責務があると考える。