著者
津波 高志 Tsuha Takashi
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
人間科学 (ISSN:13434896)
巻号頁・発行日
no.23, pp.3-34, 2009-03
被引用文献数
1

本論文では、奄美・沖縄において火葬の導入に伴って葬祭業者が関与し、葬送儀礼の外部化が起きたとする説を奄美で検証するために1村落の事例を記述した。また、近代初頭あたりまで遡って見れば、奄美における葬送儀礼の外部化は2度あったことを明らかにした。その2度の外部化を1村落の事例に読み取りつつ、琉球弧の文化の研究において、こと奄美に関しては薩摩・鹿児島の影響を十分に考慮する必要があり、葬送儀礼の外部化もその例外ではないことを指摘した。
著者
小寺 茂明
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.39-53, 2008-02

本稿では関係代名詞の2用法をめぐる問題点について,さまざまな角度から検討した。とりわけコンマの有無と制限的用法と非制限的用法との区別との関係について検討している。まず,制限的用法と非制限的用法の2用法についての議論では,特にコンマがないのに非制限的用法であるという関係代名詞の用法について考察した。その結果,事実としては,必ずしもコンマの有無のみで両者の対照が鮮やかに区別されるというようなことではないことが分かった。 また,そのことに関連して,日本語の修飾構造では制限,非制限の区別がしばしば曖昧になることについて吟味し,特に日本語の修飾構造と英語のそれとの違いなどについて論じた。英語では関係節を用いる場合,つねにその先行詞の全体を受けるか部分を受けるかによって,2用法の区別が基本的には存在するという違いがある。 そして,thatにも非制限的用法が存在することを確認し,その他のいわば中間的な用法として,who, which, whereなどの具体例を検討し,ときどきこのような用法が見られることについても議論した。そして,コンマの有無は関係代名詞の2用法の区別の絶対的な基準にはならないことを具体的に検証した。This paper is intended as a study of the restrictive and non-restrictive uses of relative pronouns in English. And so, we discussed those two uses of them from various points of view. We, in particular, examined the relationship of the commas and the two uses. Firstly we discussed this relationship, and in particular we had a close look at the examples of relative pronouns that are without commas whose uses are in fact non-restrictive, and we pointed out the fact that those two uses are not necessarily signaled by the presence or the absence of them. Secondly, in this connection, we discussed the correspondence between modifying structures in Japanese and those in English. And we pointed out the striking difference of the structures between the two languages, i.e., the Japanese language has always pre-modifying structures, and the English language has post-modifying structures when relative pronouns are employed. And we must note that there are examples that are restrictive when commas are used, and those that are non-restrictive when they are not used. Thirdly, we discussed whether the non-restrictive use of that exists or not, and we confirmed that that use of that does occur in English, though rarely in fact. Also we considered the uses of who, which, and where, which are sometimes employed non-restrictively without commas. And we can conclude that whether commas are employed or not in the sentences is not the absolute criterion by which we can distinguish the use of them.
著者
佐分 ジュディス
出版者
桜花学園大学学芸学部
雑誌
桜花学園大学学芸学部研究紀要 = JSLA (Journal of the School of Liberal Arts) (ISSN:18849865)
巻号頁・発行日
no.10, pp.69-76, 2019-02-28

Selective Mutism is an anxiety disorder and a student with SM has a clinical phobia of speaking in class. This article covers identifying a SM student and different treatment methods. The article also provides teachers with information to support students with selective mutism by understanding SM studies triggers, communicating with parents, and therapists, and collaboratively developing strategies to encourage these students to have the courage to speak.
著者
湯浅 隆
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.67, pp.197-224, 1996-03

本稿では、近世都市江戸を事例として、当地の人びとへの周知を意図した情報が発信された場所について検討していく。このための分析対象として、開帳予告の建札およびその設置場所を取りあげる。この分析をとおし、江戸における情報メディアの発信地および受信地としての〝広場〟機能をもった場所や地域を明らかにしようとする。開帳とは、本来は宗教者が行う布教のための一行事で、日頃は秘蔵され公開されることがない神仏の厨子を一定期日に限って開き、人びとに結縁の機会を与えるものである。十七世紀から十九世紀半ばにおける開帳をみた場合、その実施形態は時期と場所とにより様々であった。このなかにあって十八世紀以降に、江戸をはじめとする大都市で行われた多くの開帳の目的は、本来の趣旨から外れて、寺社堂舎の修復費用を調達することにあった。このため、開帳の成否にとってもっとも重要な課題は、いかに多くの人びとを六〇日ないし八〇日未満に限定された開帳期間中に集めることができるかにあった。ことに、寺社が江戸以外の地にあってこの期間だけ出府して行われた出開帳では、人びとへの事前の周到な宣伝が不可欠であった。周知のための方策の一つに、秘仏公開を宣伝するための木札の設置があった。本稿では、この木札が実際に建てられるまでの過程と、江戸における設置場所とを明らかにする。このことで、江戸の人びとが恒常的に創り出していた、情報収集の場の存在というものを江戸のなかで浮かびあがらせていく。情報発信の場は、江戸下町よりもその周辺部、ことに五街道をはじめとする交通の要路、なかでも木戸や御門という江戸市中と市外との境界の地に存在していた。江戸の開帳は、十八世紀後半になると行楽としての色彩を強め、これにともなって開帳場所を江戸の行楽ゾーンの中枢である隅田川沿いに集中する傾向を示した。これにともない、建札もこの地帯を重点的な設置箇所としていった。そのなかでも、浅草寺雷門前、両国橋、永代橋という橋と寺社門前とは、この種の情報発信の精度が高い場所、すなわち開帳の情報にかんする高度な〝広場〟機能を持った場所であった。This study looks at the notice boards and locations used in Edo in the early modern period to announce the unveiling of special religious icons. The aim of the analysis is to show how these sites functioned as hiroba for the transmission and reception of public information.Shinto and Buddhist religious organizations held limited unveilings of rarely shown miniature shrines and icons essentially to propagate their respective faiths among the general community, thereby giving people opportunities to "make a connection" (kechien) with these deities. A survey of the period from the seventeenth century to the mid-nineteenth century shows that the nature of the unveilings varied significantly according to the historical period and location. From the eighteenth century onward, for example, most showings in Edo and other major cities were aimed less at this original goal than at raising funds for the restoration of shrine and temple buildings. The success of the events therefore rested upon how many people could be attracted to them during the sixty- or eighty-day period in which they were held. Particularly for shrines and temples which, based outside Edo, took their icons to the city only for that limited time, effective advertising was crucial.One of the ways to broadcast the events was to put up wooden notice boards around the city. By exploring the actual process by which these signs were produced and posted, and the locations in Edo where they were posted, this study hopes to provide an insight into the special sites created and maintained by Edo people for the gathering and distribution of information. In the case of signs heralding religious unveilings, these sites were originally fewer in the inner city of Edo than in the surrounding areas, particularly along major routes like the five major highways originating in central Edo, and at the city's border gates. As the unveilings came to take on a more festive nature in the late eighteenth century, however, they were held more frequently in the heart of downtown entertainment district along the Sumidagawa River. This meant that high-profile places also had to be found in that district for the display of notice boards announcing the events. Such places included bridges, such as Ryogokubashi and Eitaibashi, and the entrances to shrines and temples, such as the Kaminarimon gate to Sensōji in Asakusa. These sites thus served as effective hiroba for the advertisement of special public showings of religious icons.
出版者
日経BP社
雑誌
日経アーキテクチュア (ISSN:03850870)
巻号頁・発行日
no.977, pp.62-69, 2012-06-10

浅草文化観光センターは、複数の平屋を積み上げたように見える。各階に庇を設け、天井をはじめとする内装を階ごとに変えた。変化に富む内部空間を構築し、ビル内に「街並み感」を創出する狙いがある。 国内外から多くの観光客が訪れる東京都台東区の浅草寺。そのシンボルでもある雷門前に4月20日、浅草文化観光センター(以下、観光センター)がオープンした。
著者
サバットリィ ラウラ
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.96-123, 2007-10-20 (Released:2017-04-05)

イタリア、1930年4月から5月にかけてローマのパラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ・ディ・ベッレ・アルティの展示場にて大規模な日本美術展覧会が開催された。企画は大倉喜七郎男爵(1882-1963)によるもので、融資的な後援は男爵自身が全面負担した。ムッソリーニ政権の組織的な支援によって実現されたこの展覧会は、西洋において初の大規模な日本美術展であり、日本では後に「ローマ展」という名で知られるようになった。展示作品は日本美術院及び帝国芸術院所属の画家たちによる絵画で、その多くは近代日本画の傑作として知られるようになった。展覧会の具体的な準備は、日本画壇の代表者として日本芸術使節の役を担った横山大観(1868-1958)が担当した。大倉男爵・大観両方の希望でパラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニの展示場は日本人の職人達の手によって改装され、展示空間は本格的な日本様式へと変更された。このローマ展は当時の日本・イタリア両側のマスコミに大きく取り上げられ、評論界においても来客数においても大成功を収めた。イタリアのインテリ界に日本美学の解釈法及び日本画の本質を理解してもらうために、当時の在日イタリア大使、ポンペーオ・アロイージ男爵(1875-1949)は1929年にArs Nipponica(『アルス・ニッポニカ』、日本の美術)という本を500冊限定部数で発表した。この本は、日本美術の様々な表現を紹介したもので、当時の日本美術界の主な研究者及び芸術家による日本美術の特徴を解説したエッセイがイタリア語で掲載されていた。日本の代表的な建築物と芸術作品のきれいな写真及び日本人専門家のエッセイを集めたこの本こそは、イタリア側の評論家に不可欠な参考書になった。エッセイの中でも「日本絵画の本質に関する考察」と題する、画家・川合玉堂(1873-1957)によって執筆されたものは特に参考になったように思われる。そこには、日本美学の基本的な要素として《余韻》、《余白》などのような概念が述べられており、イタリア人記者・批評家の批評はそのコンセプトをしばしば借用した。本論文はその批評の中でより興味深いものを中心に議論することとした。イタリア側の多くの批評は〈繊細さ〉、〈優美さ〉、〈理想主義〉、〈鮮やかなポリコロミー〉及び〈様式性・本質性〉という日本絵画の独特な性質を特に評価した。その批評を書いた人物の中に作家及び語学者、ピエトロ・シルヴィオ・リヴェッタ氏(1886-1952)及び建築美術史家・評論家、ロベルト・パピーニ氏(1883-1957)がいた。前者は普及者として重要な役目をもち、後者は日本絵画に対する独自の評価が美術評論上興味深い意義を持った。リヴェッタはもともと美術評論家ではなかったこともあり、当時の定期刊行物に掲載された日本絵画に関する彼の批評は『アルス・ニッポニカ』からの借用が特に目立ち、美術評論上オリジナリティーがあまりないように思われる。しかし、1930年に出版された彼の本、La pittura moderna giapponese(『日本の近代絵画』)は、一般のイタリア人に日本文化に対する知識を普及させた。この普及者としての役割は重要である。この日本美術展に関するコメントを執筆した評論家の中で日本画の"gusto primitivo"、即ち"ルネサンス前派の芸術家たちらしい美的センス"を指摘し、意義深い批評を書き残したものもいた。ロベルト・パピーニはその批評家の一人である。彼は日本画には《無邪気さ》、《謙虚さ》、《盛大さ》及び《壮大さ》という独特な要素が見られると指摘し、日本の伝統的な絵画は"プリミティーヴィ(Primitivi)"と呼ばれる(特に13世紀と14世紀の)イタリアの中世後期・ルネサンス前派の画家たちの絵画に似たような特徴をもつと強調し、日本絵画を評価した。パピーニのような批評は実はローマ展以前にもすでに行われていた。1911年にローマで開催された博覧会にて日本絵画が展示され、日本画はルネサンス前派、"プリミティーヴィ"を連想させると、文学評論家エミリオ・チェッキ(1884-1966)がすでに指摘していた。ルネサンス前派と日本画・中国画との両絵画に形式上・技法上の類似点が実際存在し、自然と対峙されがちなところがあるが、イタリアのファシスト政権時代における芸術界の事情を考えると、パピーニの批評は新たな意義をもつようになると思われる。20世紀初頭、ヨーロッパ中に様々なアバンギャルドの芸術が風靡した後、20年代から30年代にかけてイタリアにおいても、そして欧州全体の芸術界においても、伝統の形像的な表現法への回復傾向が表れた。当時のイタリアにおける文化・芸術討論はジョット、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、マサッチョのようなルネサンス前派及びルネサンス前期の芸術家たちの遺産が高く評価され、その伝統様式への復興の呼びかけが強まると同時に、ファシスト政権は芸術界において新古典主義を強調していったのである。実際、日本画に対するパピーニの評価、即ち近代日本画の中で見られる、東洋の古典より着想を得た《本質的で堂々とした雄大さ》という彼の批評には当時のイタリアの美術史・美術評論界の思想・傾向及びファシスト政権の独自の理想が反映されていたと考えられる。その理想は国家の土着の伝統に見られる、その古典の"聖なる"、単純で高貴な性質であり、その復興への呼びかけ及び称賛が独特で、ファシスト政権の国粋主義の一面と重なった。ローマ展は様々な局面において重要なイベントであった。それまで非常に限られた小数の評論家の中に留まっていた日本美術への関心はこのローマ展で広まり、日本絵画の美学はようやくイタリアのインテリ界にて幅広く取り上げられるようになり、体系的に分析されることになった。ただ、日本美術がイタリアのマスコミによって大きく取り上げられたのは、このローマ展へのファシスト政権の組織的な関わり及び支持があったからだと思われる。この際に作成された参考書『アルス・ニッポニカ』の重要性も大きいと言っても過言ではない。そこに掲載された日本人専門家によるエッセイはイタリア側の批評に非常に参考になったものであり、この点に関しても、日本美術史上その歴史的な意義は極めて重要だと考えられる。また、イタリア側の批評に関して、日本美学の特徴が当時のイタリアの美術史・美術評論の傾向に従って評価され、その評価にファシスト政権の理想も反映されていたという点は特に意義深いことである。
著者
石井 照久 菊池 友希子 立花 希一 望月 一枝 ISHII Teruhisa KIKUCHI Yukiko TACHIBANA Kiichi MOCHIZUKI Kazue
出版者
秋田大学教育推進総合センター
雑誌
秋田大学教養基礎教育研究年報 (ISSN:13449311)
巻号頁・発行日
no.14, pp.47-54, 2012-03-26

日本語原作のマンガや文芸作品などでは.登場人物の性別が明かされずに物語が進み,途中で,性別が明かされることがある。この手法は,読み手の想像をかきたて物語を面白くする効果がある。それではそういった日本語原作のマンガや文芸作品が他の言語に翻訳された場合はどうなるのだろうか?英語や独語では,主語を省略することがほとんど不可能であるし性別が明白な代名詞を用いる。そこで本研究では,登場人物の本当の性別を伏せて物語が進む日本語作品が英語や独語に翻訳された場合に,どのように表現されたり,工夫されたりしているのかを解析した。その結果,日本語原作の直訳に近い翻訳例,逆に原作に忠実でない意訳された翻訳例が見出された。さらに原作よりも早く性別を明かしてしまっている翻訳例も見つかった。これらの翻訳は,翻訳者が日本人かどうかによって異なるようであった。本報告は,秋田大学教養基礎教育科目「総合ゼミ」の講座C「文化にみられる性」において、平成23年度I期の授業で展開された成果報告でもある。
著者
今沢 正興 上田 亨 浮田 忠之進
出版者
The Pharmaceutical Society of Japan
雑誌
Chemical and Pharmaceutical Bulletin (ISSN:00092363)
巻号頁・発行日
vol.23, no.3, pp.604-610, 1975-03-25 (Released:2008-03-31)
被引用文献数
19 30

New thiosugar nucleosides, 2'-deoxy-2'-mercaptouridine (III), its disulfide (IV), 2'-deoxy-2'-mercapto-3', 5'-di-O-acetyluridine (V), and 2'-deoxy-2'-methyl-thiouridine (VI) have been synthesized. The present synthetic method involves the use of 2'-deoxy-2'-acetylthio-3', 5'-di-O-acetyluridine (II) as the intermediate which was obtained by the reaction of 2, 2'-cyclo-3', 5'-di-O-acetyluridine (I) with thioacetic acid. The proton magnetic resonance (PMR) data of these compounds suggested that the introduction of sulfuratom at 2'-position resulted in the furanose ring puckering that is extremely biased to C2' endo-mode. 2'-Deoxy-2', 6-epithio-5, 6-dihydro-arabinofuranosyluracil (VIIIb), the 2'-epimer of III in an 2', 6-epithio form, was also synthesized.
著者
関谷 剛男 浮田 忠之進
出版者
The Pharmaceutical Society of Japan
雑誌
Chemical and Pharmaceutical Bulletin (ISSN:00092363)
巻号頁・発行日
vol.15, no.10, pp.1503-1507, 1967-10-25 (Released:2008-03-31)
被引用文献数
1 2

A complex neighboring approach provided a successful synthesis of 2'-deoxy-2'-thio-3'-deoxy-3'-aminouridine (IX). 1-(3'-Deoxy-3'-amino-β-D-arabinofuranosyl) uracil (I) afforded, in three steps, the blocked dithiocarbamoyl mesylate (IV), which, on heating in pyridine, cyclized to the thiazoline (V), that was deblocked to VI and reduced to the thiazolidine (VII). Compound (VII) was successively treated with mercuric chloride and hydrogen sulfide to furnish the desired product (IX).