著者
安田 正人 安部 正敏 田村 敦志 石川 治
出版者
The Kitakanto Medical Society
雑誌
北関東医学 (ISSN:13432826)
巻号頁・発行日
vol.52, no.6, pp.469-472, 2002-11-01 (Released:2009-10-21)
参考文献数
10

21歳, 男性.屋外作業時の全身の無汗と皮膚の痛みを主訴に来院.初診時, 手掌, 足底, 額部, 頸部, 上胸部, 腋窩, 外陰にわずかに発汗を認めたものの, それ以外のほぼ全身の皮膚は乾燥していた.入院後施行した発汗テストで発汗はなく, 患部皮膚の病理組織学的所見ではエックリン汗腺周囲に軽度の単核球浸潤を認めるのみであった.精査の結果, 明らかな基礎疾患を見出し得なかったことから特発性後天性無汗症と診断した.ステロイドパルス療法2クール実施後に症状は軽快した.
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.145-158, 2016-02-29

本稿は筆記環境の近代化と消費文化の様相を万年筆を通して考えようとするものである。ここではまず,明治の日本において万年筆が販売に際してどのような位置づけであったか,について,丸善における広告宣伝を確認し,特に夏目漱石が書いた「余と万年筆」(1912)をはじめとする万年筆関係の文章を分析した。さらに三越百貨店における万年筆の販売の様相を『三越』『三越タイムス』からうかがい,その特徴について考察した。その結果として,万年筆は筆記の近代化のシンボルとして,明治末から大正の初めにはかなり普及したが,特に三越では舶来品としての万年筆の販売に尽力し,さらに関連する商品も視野にいれ,商品そのものばかりではなく,関連する知識や使用法の啓蒙にも努めていたことが明らかになった。日本における万年筆の歴史,筆記文化の近代を考えるためには,ここで論じた以外にも国産化の過程をはじめとする複眼的な考究が必要であろう。
著者
鈴木 大慈
出版者
一般社団法人 日本応用数理学会
雑誌
応用数理 (ISSN:24321982)
巻号頁・発行日
vol.28, no.4, pp.28-33, 2018-12-21 (Released:2019-03-31)
参考文献数
20
被引用文献数
2
著者
北西 弘
出版者
大谷学会
雑誌
大谷学報 = THE OTANI GAKUHO (ISSN:02876027)
巻号頁・発行日
vol.48, no.4, pp.17-38, 1969-03
著者
磯 水絵
出版者
The Society for Research in Asiatic Music (Toyo Ongaku Gakkai, TOG)
雑誌
東洋音楽研究 (ISSN:00393851)
巻号頁・発行日
vol.1983, no.48, pp.5-41,L1, 1983-09-30 (Released:2010-02-25)

This article has two aims: firstly, to investigate the procedures used in the transmission of secret pieces in the biwa (lute) tradition of the early medieval period, based on the examination of a number of written works describing the details of the ceremony performed for such transmission; and secondly, from the writer's standpoint as a researcher on Bunki-dan (a collection of tales concerning music history and focussing on the biwa, compiled around 1270 by Bunkibo Ryuen, a student of Fujiwara no Takamichi), to undertake a detailed description of the Nishi (lit, west) school of the biwa tradition which was founded by Fujiwara no Takamichi, student of the Myoon'in, Fujiwara no Moronaga (1138-1192), from its initial establishment until its eventual decay.The three manuscripts concerning the ceremony for transmission of secret pieces used as material in this study are as follows:1. Gakka dengyo shiki, myo (a manuscript in the Fushiminomiya collection of the Archives and Mausolea Department of the Imperial Household; also, included in Gunsho ruiju, 2)2. Biwa dengyo shidai (a manuscript in the Fushiminomiya collection of the Historiographical Institute of the University of Tokyo; also in Fushiminomiya gokiroku, 7)3. Biwa dengyo shidai (a manuscript in the collection of the Research Archives for Japanese Music, Ueno Gakuen College)The first manuscript is an Edo-period copy of a copy made by Saionji no Sanekane of the original proceedings of the ceremony written by the Myoon'in (Moronaga); the second is described in its colophon as the procedure handed down by Sanekane to his son Kanesue; and the third is described on its outside cover as being in the hand of Emperor Komyo (emperor of the Northern Dynasty, reigned 1336-1348, died 1380). Aside from the one important distinction concerning the site of the ceremony (i. e. whether it was held at the Myoondo, a temple dedicated to Myoonten [a variant name for Benzaiten, the goddess Sarasvati], or the house of the person receiving instruction into the secret tradition), there is no great difference between the proceedings written in each manuscript. It seems clear that the procedure defined by Moronaga continued to be employed in later centuries.The oldest record in extant historical sources concerning the proceedings of the ceremony is that of Shoji 2nd year (1200), 18th March, when Nijo no Sadasuke transmitted secret pieces to Morisada Shinno. Sadasuke himself was a student of Morinaga's, and it seems likely that the proceedings for the ceremony that he used were based on a precedent set by Moronaga, and that the ceremony itself was probably already an established practice at this time. Inferring from the evidence provided by the three manuscripts above, it is possible to say that the ceremonies practiced in the middle ages were all based on an original formula for the proceedings established at the end of the Heian period by Moronaga. Further inquiries into the later history of the secret piece tradition has shown that its central school was that of the Saionji family, and that two other schools, the Nijo school founded by Sadasuke and the Nishi school founded by Takamichi, existed as side branches.
著者
濱 夏
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

発表者は、レヴィ=ストロースによる神話研究を手がかりにしながら、現代日本でサブカルチャーとして消費される漫画などのコンテンツを、神話として研究する「立体としての神話」研究の枠組みを模索している。本発表では特にクルアーンと古事記についての先行研究を継承し発展させながら、CLAMPの漫画を取り上げて図像(モチーフ)と音(セリフなどの反復やリズム)の観点から事例分析を試みる。

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著者
塗工之魁新聞社 編
出版者
塗工之魁新聞社
巻号頁・発行日
vol.昭和11年版, 1936
著者
若山 育郎 形井 秀一 北小路 博司 粕谷 大智 山口 智 赤尾 清剛
出版者
一般社団法人 日本東洋医学会
雑誌
日本東洋医学雑誌 (ISSN:02874857)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.651-666, 2008 (Released:2009-01-15)
参考文献数
30
被引用文献数
2 2

鍼灸は我が国に伝来以来1500年にわたって独自の発展を遂げてきた。その間,現代に至るまで,鍼灸は原則的に個人の力量に頼る医療であったが,現代医学にチーム医療という概念が浸透し始めてきたこともあり,鍼灸についてもチーム医療の一員として取り入れている施設が少しずつ増えてきている。特に近年大学病院などで鍼灸の応用が始まっているのはその現れである。そうした大学病院で,どのような疾患に対して鍼灸が用いられ,どのようにその効果を評価しているのかという点を明らかにするとともに,現代医療において鍼灸が果たすべき役割を考えてみる目的で,鍼灸を積極的に取り入れている4つの代表的な大学病院の状況を報告した。
著者
山下 仁
出版者
公益社団法人 全日本鍼灸学会
雑誌
全日本鍼灸学会雑誌 (ISSN:02859955)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5, pp.703-712, 2006-11-01 (Released:2011-08-17)
参考文献数
31
被引用文献数
1

欧米における鍼の利用状況と臨床研究の傾向を概観し、そこから見えてくる日本鍼灸の課題について述べる。欧米先進諸国における鍼受療経験者は増えつつあるが、国民に占める割合としては日本のほうが圧倒的に多い。鍼施術に関する法的な規制は国によって様々であるが、EU諸国では医師でなければ施術してはならない国が多い。欧米における鍼治療の方式や基礎としている理論は中医学が圧倒的に優勢である。近年ではevidence-based medicine (EBM) の考え方が医療界に浸透するのにともない、鍼のランダム化比較試験 (RCT) が盛んに実施されるようになった。RCT実施数や研究助成額の面から見れば、欧米のほうが日本よりも鍼の研究体制が進んでいるといえる。しかしRCTにおける偽鍼群の設定には大きな問題があり、今後はより臨床に近い設定であるpragmatic trialがもっと実施されるべきである。鍼灸が国際化してきた今、要素還元主義の強い研究手法ばかりを模倣していると、再び明治維新で日本政府が東洋医学を捨てたときのように伝承医術の大切な精神を失うことになりかねない。EBMの概念を尊重することは重要だが、同時に、日本鍼灸とは何か、鍼灸臨床におけるArtの側面をどうやって評価するのか、といったことについて深く議論してゆくことが日本の鍼灸の重要な課題であると考える。
著者
田中 研之輔
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.46-61,150, 2003-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
47
被引用文献数
1 2

わが国の都市空間において湧出してきた若者の「族」文化は、しばしば、地域住民や警察によって管理や排除の対象にされてきた。そこで本稿は、都市空間の利用をめぐり地域住民のまなざしや警察や警備員による管理が「ストリート」でのスケートボーダーの実践を制限し、彼らを都市広場に囲い込んでいるという90年代以降の都市的現象に注目した。具体的には、スケートボーダーとして2001年5月27日に土浦駅西口に開設した広場を利用しながら重ねてきたフィールドワークをもとに、90年代以降の「族」文化としてスケートボーダーが示しつつある「巧みな実践」の意味と意義を明らかにした。広場設置の背景には、スケートボーダーが地元のスケートボードショップ店長と署名活動を展開し、市議会議員と協力し陳情書を提出するという試みがあった。こうしたスケートボーダーによる積極的な都市広場の獲得は、同時に彼らの実践を都市広場へと囲い込むことにもなる。広場の獲得と囲い込みの中で日常的な実践を続ける彼らは、広場を自分たちが楽しめる空間に創り変えつつ、再び「ストリート」へと駆り立てられていく。彼らは地域住民や警察らによる管理や排除の圧力をかわしたり、ズラしたりしながら都市空間の「隙間」を探し求めているのである。このようなスケートボーダーの実践は、地方自治体や警察らによる「囲い込み」とそれに対する「対抗」「抵抗」図式で捉えることができない。彼らは、管理や排除に直接的に抗うのではなく、むしろ巧みに受け入れていく。本稿を通じて、筆者はスケートボーダーの日常的実践に従来の「対抗」「抵抗」図式では語りきれない彼ら一人一人の生を描き出していくとともに、「支配的なるもの」の圧力を無効化していくような「巧みな実践」を続ける彼らに新たな「連帯」の可能性を見出している。
著者
松本 良平 須原 哲也
出版者
公益社団法人 日本薬理学会
雑誌
日本薬理学雑誌 (ISSN:00155691)
巻号頁・発行日
vol.130, no.6, pp.464-468, 2007 (Released:2007-12-14)
参考文献数
15
被引用文献数
2 1

セロトニントランスポーターは多くの抗うつ薬の主要な結合部位のひとつであり,うつ病の発現に重要な役割を果たしていることが想定されている.PET(positron emission tomography)では,セロトニントランスポーターに特異結合する放射性リガンドを用いて,ヒト脳内のセロトニントランスポーターをin vivoで定量することが可能である.実際に,PET研究で,視床のセロトニントランスポーターがうつ病患者群において,増加していることが報告されており,セロトニントランスポーターがうつ病の病態に大きな役割を果たしていると推察できる.また,健常者において,うつ病の発症脆弱性が,視床におけるセロトニントランスポーターの発現と関連している可能性もPET研究から示唆されている.一方,セロトニン神経系の起始核がある中脳での有意な変化は,PET研究では報告されておらず,今後の知見の集積がまたれる.抗うつ薬のPETによる評価としては,セロトニントランスポーターに対して特異的に結合する放射性リガンドと抗うつ薬が競合阻害することから,占有率を算出して評価する方法が一般的である.PETを用いて,抗うつ薬による脳内セロトニントランスポーターの占有率およびその経時変化を測定することで,血中の薬剤濃度や半減期に比して,より適切な臨床用量や投与方法が設定可能である.実際に,既存の薬剤の再評価に加え,日本国内でも,新規抗うつ薬の治験にPETが使用されている.今後,新規の抗うつ薬の開発にPETが重要な役割を果たすことが,期待されている.