著者
三根 有紀子 佐藤 香代 浅野 美智留 石村 美由紀 吉田 静 鳥越 郁代 野中 多恵子 宮野 由加利 藤本 清美
出版者
福岡県立大学
雑誌
福岡県立大学看護学部紀要 (ISSN:13488104)
巻号頁・発行日
vol.3, no.2, pp.89-99, 2006-03
被引用文献数
1

目的 : 「身体感覚活性化(世にも珍しい)マザークラス」を実践する人材育成のための教育プログラム開発の資料として,福岡市で開催した医療者向けセミナーの評価と考察を行った.方法 : 2006年2月26日に福岡市で行われた「身体感覚活性化(世にも珍しい)マザークラス」医療者セミナーの参加者128名を対象に,質問紙調査を行った.結果 : 質問紙の回収率は93.8%であり,以下のような結果が得られた.1.セミナーの参加動機は「興味・関心」,「マザークラスの変革」,「学びたい・知りたい」が上位を占めた.また,101名(84.2%)がマザークラスの運営に困難を感じていた.2.セミナーの満足度は108名(90.1%)が「満足」と回答しており,その理由として「自分自身が体験できたこと」,「快」,「身体感覚活性化(世にも珍しい)マザークラスを知った・わかった」の3つが上位を占めた.「少し不満」「非常に不満」「どちらでもない」と回答した者は7名(5.8%)であった.3.今回のセミナーを今後のマザークラス運営に「役立てられる」と回答した者は99名(82.4%)であった.活用方法としては「身体感覚の刺激・"感じる"こと」が最も多く,ついで「妊婦同士の交流の場づくり」,「助産哲学・考え方」の2つが占めた.4.今後のセミナーやリカレント教育に参加の意思を持つ者はそれぞれ117名(97.5%),107名(89.2%)と高率であった.結論 : 参加者は現行のマザークラスのあり方を模索し,関心を寄せている現状が明らかとなった.参加者が「満足」であった理由は主催者側のセミナーの目的と一致していた.妊婦あるいはスタッフで参加した者の体験談は,マザークラスの概要や助産哲学理解の一助になっていると考えられる.したがって今回のセミナーの目的は達成されたと考える.しかし妊婦と同様の経験はできたが,根底に流れる助産哲学を用いてマザークラスを実践する段階までには至っていない。その実践の習得には,段階を追った継続したプログラムが必要であることが示唆された.

1 0 0 0 OA 感情は虚構か?

著者
山田 健二
出版者
京都大学
雑誌
京都大学文学部哲学研究室紀要 : Prospectus
巻号頁・発行日
vol.2, pp.58-66, 1999-12-01
著者
佐藤 慶太
出版者
上智大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2009

本年度は、カントの概念論の固有性を明らかにするために、「概念」の取り扱いに関してカントがカント以前の哲学者とどのように対決し、どのようにそれを乗り越えていったのかを検証した。研究は、『純粋理性批判』の「純粋理性の誤謬推理について」、および「純粋悟性概念の図式論について」に焦点を絞って行った。「誤謬推理」章を取り上げた研究に関しては、『哲学』第60号掲載の論文と、11月に行われた日本カント協会第34回学会のワークショップでの発表において、その成果をまとめている。この研究において明らかとなったのは、カントの概念論における「徴表(Merkmal)」の重要性である。上記の論文および研究発表において示されたのは、「徴表」という概念に着目して「誤謬推理」章を読解すると、カントの「概念論」の固有性のみならず、カントの形而上学構想の変遷の意味を理解する手掛かりも得られる、ということである。そのほか、カントの論理学講義の内容と、『純粋理性批判』との関連の明確化も併せて行ったが、この点でも意義があったといえる。「図式論」を取り上げた研究の成果は、9月に行われた実存思想協会・ドイツ観念論研究会共催シンポジウムにおいて発表することができた。この発表においては、カントの「図式」がデカルト以来の近世哲学における「観念」をめぐる論争の系譜に位置づけられること、またこのような系譜への位置づけおこなうことではじめて、「図式論」章の役割が明確になることを示した。また上記の二つの研究を含む課程博士論文「カント『純粋理性批判』における概念の問題」を京都大学に提出し、11月24日付で学位を取得した。
著者
上野 修 永井 均 入不二 基義 古荘 真敬 青山 拓央 郡司 ペギオ幸夫 小山 悠 勝守 真 中野 昌宏 三平 正明 山田 友幸 重田 謙 入江 幸男
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

独在的<私>と独今的<いま>が非常によく似た仕方で現実概念の根本にあることが明らかとなった。<私>と<いま>が世界のどの個人、どの時点を開闢点とするかは偶然である。にもかかわらず、いったん開闢されるとその特異点は諸個人のうちの一人物と歴史時間の現在に位置づけられ、特異性を失う。そしてこのことがむしろ現実性の条件となっている。このような二重性は、言語の使用者がまさにその使用によって言語世界の限界内に位置づけられる、その仕方によって理解されねばならない。
著者
戸所 隆
出版者
高崎経済大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2010

地域主権の視点から知識情報社会の国土形成に適した大型公共事業・社会基盤整備の在り方を研究した。この研究は従来の中央集権型地域政策でなく地方分権型地域政策の視点から、国土政策の思考過程を都市の論理と村落の論理の対立から両者を止揚して把握することに努めた。具体的には八ッ場ダム建設や新幹線建設などを例に、大型公共事業の整備やその建設中止・延期が地域づくりや国土構造形成に与える影響を研究し、地域主権に基づく地域開発哲学の在り方を検討した。その結果、次の結果を得た。工業化社会から知識情報化社会への転換し、人口縮減時代に入った日本は、市民も行政も混乱しており、国民、とりわけ若者に夢と希望を持って住みたい・働きたい社会・まちを創ろうとする新しい開発哲学・まちづくり哲学が不可欠となっている。かかる開発哲学に基づいた地域論の構築には、"ものづくり"中心の社会構造から"ものづくり"を基盤に"ひとづくり"・"時間づくり"に重点を移した社会構造にする必要がある。また、交流・情報・文化・創造・個性化・コンパクト化・国際化・多様化・ボーダレス化・地域連携をキーワードに、地域性を無視した大規模開発から地域資源を活かした地域づくりへの転換が求められる。かかる開発手法は、資本の論理・生産者の論理・強者の論理による地域経営から地域の論理・消費者の論理・弱者の論理に重点を置いた地域経営への転換を意味する。そのためには統治形態を中央集権型から地方分権型へと転換させ、地域主権を確立するための新たな開発哲学を創造する必要がある。また、新たな開発哲学に基づく地域づくり・まちづくりに努め、21世紀のあるべき国のかたちへと日本を再構築しなければならない。東日本大震災の復興には新しい開発哲学に基づいた復興グランドデザインを構築して推進する必要がある。そのためにも、この開発哲学に関する研究を更に深化させることが重要である。
著者
馬場 紀寿
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室
雑誌
インド哲学仏教学研究 (ISSN:09197907)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.17-31, 2003-03-20

The Interpretation of the Paţiccasamuppādangas in the Mahāvihāra Theravāda tradition changed in the order of the "Vibhasigasutta", Vibhańga, VIsuddhimagga and the commentaries on the Vinaya and the four Nikāyas. In this paper, I examine the process of change in these different interpretations. (1) The "Vibhańgasutta" (Samyuttanikāyu Nidānavagga2) is the only sutta in the four Nikāyas that describes paţiccasamuppāda as having twelve ańgas and defines all twelve paţiccasamuppādańgas. (2) The "Suttantabhājaniya" section of the "Paccayākāravibhańga" chapter in the Vibhańga follows almost the same definitions of the paţiccasamuppādańgas as are found in the "Vibhańgasutta", but changes the definitions of sańkhārā, nāma, and bhava. "Vibhańgasutta" → Vibhańga (a) sańkhārā : kāya-, vacī-, mano-sańkhāra → puñña-, apuñña-, āneñja-, kāya-, vacī-, mano-(abhi)sańkhāra (b) nāma : v edanā, sañña, cetanā, phassa, manasikāra → sañña-, sańkhāra-, viññāna-kkhandha (As a result of this change, viññāna and nāmarūpa came to mean pañcakkhandha) (c) bhava : kāma-, rūpa-, arūpa-bhava. → kamma-, uppatti-bhava These changes made both "sańkhārā ⇒ viññāna・nāmarūpa" and "bhava ⇒ jāti" common causation as follows. (a) sańkhārā ⇒ viññāna → nāmarūpa = puñña-, apuñña-, āneñja-abhisańkhāra ⇒ khandhā kāya-, vaci-, mano-sańkhārā (b) bhava ⇒ jāti = kamma-bhava (including puñña-, apuñña-, āneñja-abhisańkhāra) ⇒ khandhā uppatti-bhava ※jāti is defined as "khandhānam pātubhāvo" (the appearance of khandhā) in the Vibhanga. But in this text the standpoints of "kayia-, vaci-, mano-sańkhārā" and "uppatti-bhavia" are not yet clear. (3) The Visuddhimagga basically follows the same definition of the paţiccasamuppādańgas as found in the Vibhańga rather than those of the "Vibhańgasutta". Moreover, the Visuddhimagga interpretes the six sańkhāras as three sańkhāras, and restricts bhava as being the cause of jāti to only kammabhava. (a) sańkhārā ⇒ viññāna → nāmarūpa = puñña-, apuñña-, āneñja-abhisańkhāra ⇒ khandhā (b) bhava ⇒ jāti = kamma-bhava (including puñña-, apuñña-, āneñja-abhisańkhāra) ⇒ khandhā Therefore, it is clear those the Vrsuddhimagga interpretes both "sańkhārā" ⇒ viññāna→nāmarūpa" and "bhava ⇒ jāti" as "kamma (action) ⇒ rebirth". With these interpretations, Paţiccasamuppāda theory came to explain the causation of the past, present, and future. (4) The commentary on the Vinaya (Samantapāsādikā) and the commentaries on the four Nikāyas (Sumańgalavilāsinī, Papañcasūdanī, Sāratthappakāsinī, Manorathapūranī) do not explain paţiccasamuppāda in detail and advise readers to study it by reading the Visuddhimagga. Thus, the Visuddhimagga represents the final stage in the interpretation of paţiccasamuppāda theory.
著者
松山 昌司
出版者
神戸大学
雑誌
六甲台論集 (ISSN:02866404)
巻号頁・発行日
vol.9, no.3, pp.36-49, 1962-10
著者
中尾 央
出版者
京都大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2009

本年度は交付申請書でも記載したように,遺伝子と文化の二重継承節(Robert BoydやPeter Richerson),ミーム論(Daniel Dennett, Richard Dawkins),また心のモジュール説に基づいた文化の疫学モデル(Dan Sperber, Scott Atran)などを主に検討した.その検討の結果,これらが互いに対立するものではなく,むしろ補完し合うものであることを明らかにしてきた,これらの研究や(進化心理学や人間行動生態学に関する)前年度の研究をあわせて,これまで人間行動の進化的研究に関して提唱されてきた様々な研究プログラムは,部分的な修正を加えることによっておおむね両立しうるものであることが示された。これらの研究成果はこれまであまり明確な形で行われてこなかったものであり,その意味では意義ある成果であると言える(論文は,現在印刷中で来年度以降に出版予定である).また,本年度においては,これらの研究プログラムでは補いきれない部分にも着目し,研究を進めてきた,その一つが文化の系統学的アプローチである.他にも文化や人間行動の進化にとって重要な役割を果たすであろう(がこれまではあまり注目されてこなかった)教育や罰の進化について,より具体的な研究も進めつつある.前者については生物体系学者の三中信宏氏と共編で論文集を企画し,また後者については,2010年9月から2011年3月にかけて,ピッツバーグ大学科学史科学哲学科を訪問し,Edouard Macheryと共同で研究を行った.これらの研究はまだ明確な成果を残せていないが,来年以降には論文や発表などにおいて,成果を残すことができるだろう
著者
筒井 晴香
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2008

本研究の目的は、R・G・ミリカンの哲学を手掛かりとして人間の自然的側面と文化的側面の関係を解明する統一的理論を構築することである。とりわけ、ミリカンの議論のうちでも未だ注目されることの少ない慣習(convention)についての分析に注目してきた。本年度は以下に挙げる二点の課題に取り組んだ。それぞれを基礎的・応用的課題として位置づけることができる。まず、基礎的課題として、慣習論における重要な基礎概念である共通知識(common knowledge)概念の精査を行った。共通知識は慣習論において基礎概念としての役割を果たしているが、この概念自体、必ずしも自明なものではなく、慣習論の文脈とは独立に議論の対象となっている。慣習概念の分析、ないし、共通知識概念を必要としない慣習概念であるミリカンの「自然的慣習(natural convention)」概念の評価に当たっては、共通知識に関する考察を深めることが不可欠である。この考察の成果は海外学会において発表した。また、現在執筆中の博士論文の一部を構成するものとなっている。次に応用的課題として、昨年度より取り組み始めたセックス/ジェンダーの脳神経倫理学に引き続き取り組んだ。セックス/ジェンダーに関連する脳の差異や特徴をめぐる科学研究と社会との関係において生じうる諸問題には、人間の自然的側面と文化的側面の双方が複雑な仕方で関わっている。本年度は性同一性障害という具体的な事例に焦点を当てた考察を行うとともに、脳科学リテラシーに関する話題の一環として国内学会でのワークショップにおける問題提起を行った。また、脳神経倫理学を専門とする国際学会においても発表・議論の場を得た。
著者
馬場 純子
出版者
田園調布学園大学
雑誌
人間福祉研究 = The human welfare review (ISSN:13477773)
巻号頁・発行日
no.3, pp.59-78, 2000-12-30

近年,わが国においては「ケア」と「介護」を同義語とすることをはじめ,「ケア」という言葉が氾濫しているといっても過言ではない状況にある。公的介護保険制度の開始,社会福祉基礎構造改革や社会福祉法の制定など,わが国の社会福祉をめぐる状況が大きく変化している現在,本研究はそれを自明のこととするのではなく改めて「ケア」の概念,意味するところを問い直そうと問題提起するものである。その第一歩として,人が「ケア」或いは「ケアする行為」をするのはなぜか,その動機や理由,人を「ケア」「ケアする行為」に導くもの,その基盤について,特にインフォーマル・ケアを中心に主に社会学的側面からの検討を行った。その結果,個人には人との関係を通してのみ満たされることのできるwell-beingに必要なものがあり,異なる関係においては異なる機能がもたらされるということが判明した。そして同じケアでもその担い手との関係によりもたらされるものが異なるという知見は,今後の地域福祉型社会福祉における社会的分業に貴重な示唆を与えるものであるが,人を「ケア」或いは「ケアする行為に」導くものの説明に十分な説得力あるものとはならなかった。今後は併せて哲学的,倫理的な側面からの検討を行う。
著者
中村 光江 下山 節子 阿部 オリエ
出版者
日本赤十字九州国際看護大学
雑誌
日本赤十字九州国際看護大学intramural research report (ISSN:13478877)
巻号頁・発行日
no.5, pp.71-77, 2006

ストラウスとコービンは、慢性疾患を持つ人々に関する数多くの事例を基に「慢性疾患の病みの軌跡」という概念モデルを提示した。慢性の病いを持つ人間の反応を一つの「行路」と捉え、病気や慢性状況の行路を「軌跡」とした。この概念枠組みは、慢性の病気を持って生きることに対しての洞察や知識を提供するため、多くの看護実践・教育・研究・政策決定への活用が期待される。そのため、その発展の経緯を理解し、どの程度検証され、有用性や信頼性が確認されているかを明確にすることを目的に、文献研究を実施中である。今回、第一報として国内文献を検討した結果を報告する。「病みの軌跡」をキーワードとして収集した24 件の文献中、解説11 件、学会抄録7件、研究論文・報告6 件であった。比較的新しい枠組みとして活用され始めた段階にあり、大半は看護実践の事例検討において対象者理解や看護の振り返りの視点として使用されていた。「局面」等の下位概念はあまり使用されておらず、軌跡の枠組みを哲学的基盤や理論的前提とするにとどまっていた。国内文献では検証はなされておらず、モデルの発展には至っていないと考えられた。
著者
児玉 聡
出版者
実践哲学研究会
雑誌
実践哲学研究 (ISSN:02876582)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.33-52, 1999
著者
安彦 一恵
出版者
実践哲学研究会
雑誌
実践哲学研究 (ISSN:02876582)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.1-18, 1997
著者
西山 晃生
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.120, pp.19-34, 2008-03

はじめに1. 賭けの必然性 : 強制的参加2. 賭けの合理性 : 公平な選択3. 賭けの継続性 : 習慣の力4. 議論の評価と解釈5. 結論投稿論文
著者
竹中 利彦
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.16-27, 1998-09-01