14 0 0 0 OA アイヌの酒 (13)

著者
加藤 百一
出版者
公益財団法人 日本醸造協会
雑誌
日本釀造協會雜誌 (ISSN:0369416X)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.321-326, 1971-04-15 (Released:2011-11-04)

前回にひきつづき, アイヌが長い間伝承してきた《アイヌの酒》を捨てて, 米から造つた和酒に切り替えていく経過が記述されている。

14 0 0 0 OA 江戸の贋酒

著者
岩淵 令治 Reiji Iwabuchi
出版者
学習院大学史学会
雑誌
学習院史学 = Gakushuin historical review (ISSN:02861658)
巻号頁・発行日
no.54, pp.105-126, 2016-03

講演
著者
佐藤 拓哉 渡辺 勝敏
出版者
The Ichthyological Society of Japan
雑誌
魚類学雑誌 (ISSN:00215090)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.51-59, 2004-05-25 (Released:2010-06-28)
参考文献数
33
被引用文献数
6

Population size and spawning site environment of the endangered southernmost population of Kirikuchi charr Salvelinus leucomaenis japonicus were investigated in a tributary on the upper reaches of the Totsu River system, Nara Prefecture, central Japan, in 2001. The total number of fish≥100 mm in fork length (FL) in May was estimated to be 308±50 (SE). Water depth and gravel size at spawning sites were 15±13 cm (meant±SD) and 31±8 cm, respectively. Spawn-ing sites were found mainly at upstream sites, freely accessible to the fish. The number of fish≥130 mm in FL had dropped in the lower section of the tributary in July, most probably as a result of leisure fishing. Spawning redds were clearly fewer in the lower sections than further upstream. These results indicated that fishing pressure on the population had been heavy, resulting in a decreased level of reproduction population.
著者
工藤 雅樹
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.139-154, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
122

古代蝦夷については,アイヌ説と非アイヌ説の対立があることはよく知られている。戦後の考古学研究の成果は,東北北部でも弥生時代にすでに稲作が行なわれていたことを証明し,近年の発掘調査によって奈良,平安時代の東北北部の集落が基本的には稲作農耕をふまえたものであることも確実とされるに至っている。このようにして蝦夷日本人説は一層の根拠を得たと考える人もいる。しかし蝦夷非アイヌ説の問題点のひとつは,考古学的にも東北北部と北海道の文化には縄文時代以来共通性があったし,7世紀以前の東北北部はむしろ続縄文文化の圏内にあったと考えられ,アイヌ語地名が東北にも多く存在することなど,蝦夷アイヌ説が根拠とすることのなかにも,否定しえない事実があることである。もうひとつの問題点は,蝦夷非アイヌ説が稲作農耕を行なわない,あるいは重点を置かない文化を劣った文化と見なす考えを内包していることである。この点を考え直し,古代蝦夷の文化の縄文文化を継承している側面を正当に評価する必要がある。従来の蝦夷非アイヌ説は地理的には畿内に,時間的には稲作農耕の光源で東北の文化を見た説,蝦夷アイヌ説は地理的には北海道に,時間的には縄文文化に光源を置いて蝦夷の実体を照射した説,と整理しなおすこができる。しかし二つの異なる光源でそれぞれに浮かびあがるものは,どちらも東北の文化の実体の一側面にほかならない。北海道縄文人が続縄文文化,擦文文化を経過して歴史的に成立したのがアイヌ民族とその文化であると見るならば,これは東日本から北日本にかけての典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道のひとつということになり,早くから稲作文化を受容し,大和勢力の政治的,文化的影響を受けた,もうひとつの典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道と並列させることができる。古代蝦夷は両者の中間的な存在で,最後に日本民族の仲間に入った人々の日本民族化する以前の呼称とも,北海道のアイヌ民族を形成することになる人々と途中までは共通の道をたどった人々とも表現できる。このように考えると,現段階では蝦夷がアイヌであるか日本人なのかという議論そのものが,意味をなさないといっても過言ではないのである。
著者
桑畑 洋一郎
出版者
福祉社会学会
雑誌
福祉社会学研究 (ISSN:13493337)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.111-133, 2020-05-31 (Released:2021-06-23)
参考文献数
24

本研究は,里親として児童を養育している天理教信者である天理教里親に注目し, 天理教里親が,自身の里親養育実践に対して,天理教信仰との関連でどのような意味を付与しているのか, インタビュー調査をもとに考察することを目的とする.このことは, 里親の一定割合を占める天理教里親に関する研究がまだほとんどない状況において意義深いものとなる. またそこから,宗教や信仰と福祉実践との関係の研究に知見を提供することも可能となり, その点においても意義深い. 天理教里親の語りへの分析の結果,以下のことが明らかとなった. 第1 に天理教里親は,信仰に基づいて人助けを実践してきたことを基盤とし, その延長線上で里親養育を開始していること,第2 に里親の立場性においては, 他の里親と異なり〈時間的非限定性〉と〈関係的非限定性〉があること, 第3 にそうした天理教里親特有の〈時間的非限定性〉〈関係的非限定性〉を生じさせているのには, 他の里親とは異なる天理教里親特有の,里親養育の〈宗教的文脈〉が要因となっていることが明らかとなった. こうした,里親を意味付ける〈宗教的文脈〉の枠組みは,今後の里親研究において/福祉研究において重要となるだろう.
著者
脇本 仁奈 松尾 浩一郎 河瀬 聡一朗 岡田 尚則 安東 信行 植松 紳一郎 藤井 航 馬場 尊 小笠原 正
出版者
一般社団法人 日本摂食嚥下リハビリテーション学会
雑誌
日本摂食嚥下リハビリテーション学会雑誌 (ISSN:13438441)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.11-16, 2010-04-30 (Released:2020-06-26)
参考文献数
12

【目的】頸部回旋法は,頭を麻痺側に回旋して嚥下することで,嚥下後の咽頭残留を軽減させる摂食・嚥下代償法のひとつである.しかし,頸部を回旋した状態で長い時間食事をとるという姿勢は,身体へ負担がかかる可能性がある.そのため,頸部回旋の有効性を残したままで,できる限り摂食しやすい姿勢が望まれる.今回われわれは,若年健常者において,どの程度の頸部回旋角度から咽頭嚥下時の食物通過側に変化があるか検討した.【対象と方法】摂食・嚥下障害のない健常若年成人30 名(平均26 歳)を対象とした.被験者がバリウムを嚥下するときの頸部回旋角度を,正面位と左右各15 度,30 度,45 度および最大回旋位の合計9 角度に設定した.被験者が3 ml の液体バリウムを嚥下するところをVF 正面像にて撮影,記録した.デジタル化されたVF 映像上で,下咽頭での回旋側のバリウム通過の有無を同定した.各頸部回旋角度で,回旋側下咽頭をバリウムが通過した人の割合を比較検討した.【結果】正面位では,全例で両側をバリウムが通過していたが,頸部回旋角度が増すと,回旋側通過の割合が減少した.30度頸部回旋でのバリウムの回旋側下咽頭通過の割合は,右側回旋23%(7名/ 30名),左側回旋40%(12 名/ 30 名)と有意な減少を認めた(p<0.01).最大まで頸部を回旋すると,右側回旋1 名,左側回旋4 名のみで,バリウムが回旋側を通過していた.【結論】今回の検討より,頸部回旋が30 度以上になると,バリウムが回旋側下咽頭を通過した人の割合が有意に減少することが明らかになった.摂食・嚥下障害者への姿勢代償法は,必要十分な安全性をもち,かつできるだけ楽な摂食姿勢が望ましい.頸部回旋法の有用性は,通常VF や経鼻内視鏡を用いて決定される.今回の検討より,頸部回旋の有用性を確認するときには,30 度程度の回旋からその有効性を確かめてみる価値があることが示唆された.
著者
遠座 奈々子 中島 定彦
出版者
日本基礎心理学会
雑誌
基礎心理学研究 (ISSN:02877651)
巻号頁・発行日
vol.36, no.2, pp.243-252, 2018-03-31 (Released:2018-06-16)
参考文献数
77
被引用文献数
2

Exposure is a well-known efficient therapeutic technique for anxiety disorders or irrational fear. The present article reviews the behavioral mechanisms of fear reduction in exposure-based therapies including simple exposure and systematic desensitization. The traditional and current theories of associative learning of Pavlovian conditioning, extinction, and response reemergence are applicable to acquisition, treatment, and relapse of fear. Despite recent transactions between basic animal research and human clinical studies on simple exposure therapy, little attention is paid to the counterconditioning process in systematic desensitization. By focusing on theoretical and experimental studies with animals and their implications for clinical settings, we propose further collaboration between basic and clinical studies.
著者
絹川 武良司
出版者
社団法人日本鉄鋼協会
雑誌
鐵と鋼 : 日本鐡鋼協會々誌 (ISSN:00211575)
巻号頁・発行日
vol.25, no.3, pp.163-174, 1939-03-25
著者
大木 ひさよ
出版者
佛教大学
雑誌
京都語文 (ISSN:13424254)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.42-64, 2014-11-29

今回の論文は、受賞の翌年から50年経てば、毎年必要に応じて公開される、スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料を参考にし「なぜ、川端康成が初の日本人受賞者となったのか」を、川端の作品やその時代背景、又当時アカデミーから推薦を受けていた他の作家と比較・検討しながら考察した。選考資料によると、当時ノミネートボードに挙がっていた日本人作家は、現在(2014年10月)資料が閲覧出来る1963年度まででは、賀川豊彦、谷崎潤一郎、西脇順三郎、川端康成、三島由紀夫、の5名である。川端の名が、一番最初にノミネートボードに挙がったのは1961年であるが、それから七年後の1968年に受賞した。その間に他の作家や川端康成は、アカデミーの審査員からどのような評価を受けていたのか。様々な意見や批評がある中で、結果的に川端がどのような評価を受けて受賞に到ったかを、幾つかの視点から考察したが、公開された物の内最新資料(1963年)からアカデミーは、「日本文学の専門家」2名に日本文学に対する評価を依頼していたことが分かった。その2名とは、ドナルド・キーン教授(ニューヨークコロンビア大学/日本語学科教授)と、エドワード・サイデンステッカー氏(三島/川端文学の翻訳者)であった。「ノーベル文学賞」は、まだまだ一般にはその受賞理由がはっきりしないが、50年前の資料から、毎年少しずつその全容が見えてきている。例えば、世界各国からの推薦者が、どのような理由でその作家を推薦していたか、又その時代との融合性等からいくつかの受賞理由を考察する事が出来る。今回の論文の主旨としては、ノーベル文学賞の舞台裏を知ることで、日本文学が当時(1960年代)どのような評価をヨーロッパの文学界で受けていたのか、どれほどその文学性が理解されていたのかを、探るきっかけにもなるのではないかと思っている。
出版者
鉄道省
巻号頁・発行日
vol.附図, 1928
著者
木鎌 耕一郎
出版者
八戸学院大学
雑誌
八戸学院大学紀要 (ISSN:21878102)
巻号頁・発行日
no.50, pp.61-81, 2015-03-31

1596年のイエズス会年報では、津軽藩の初代領主である津軽為信は、大坂で修道士から信仰の手ほどきを受け、説教を聞き、洗礼を望んでいたとされる。また1607(慶長12)年の年報では、長男信建が自ら司祭を訪ね受洗した後に死を迎えたことが伝えられている 。津軽氏とキリシタンを扱う主要な文献は、基本的に上記の二つの年報に依拠している。そのような中、1591年度の年報には、インド副王使節として都に居たヴァリニャーノ巡察師を訪問した人物に、「奥州の大名」がいたとする記述がある。「奥州の大名」は高山右近を通じて説教を聞くことを望んだとされる。この人物が為信であれば彼のキリスト教接近の「契機」にキリシタン大名高山右近の存在が浮かび上がってくる。本稿はこの仮説について検証した。
著者
佐藤 晃
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.47, no.7, pp.1-9, 1998-07-10 (Released:2017-08-01)

安東(秋田)実季は、中世・安藤(東)氏から近世大名・秋田氏への転換期に、蟄居の身となった人物である。実季が、死の前年まで綴った系図は、蝦夷に系譜を持ち、奥州安倍氏の血を引く自家のアイデンティティを、「勅免シテ北国ノカタメトナ」ったものへと定位し直すものだった。そのため系図のなかの多くの記述が、朝廷に対する「勅免」劇の反復といった内容を持つものとなった。正史の歴史叙述の行間に自家の存在を滑り込ませ、かつ、その在り方を観念的に論理化してみせたのが、実季の系図作りの<創造>であったといえよう。