著者
本村 友一 松本 尚 益子 邦洋 薄衣 佑太郎 宇治橋 貞幸
出版者
一般社団法人 日本救急医学会
雑誌
日本救急医学会雑誌 (ISSN:0915924X)
巻号頁・発行日
vol.25, no.7, pp.281-287, 2014-07-15 (Released:2014-11-01)
参考文献数
16
被引用文献数
1

はじめに:外傷性窒息とは,胸部を強く圧迫されることで呼吸が障害され,呼吸不全による低酸素脳症から死亡に至り得る外傷形態とされるが,「圧迫部位」,「負荷の大きさ」および「負荷時間」などの物理学的パラメータとこれらの医学的事象の関係性は不明瞭である。本研究の目的は,成人男性において,「呼吸不全」に至る胸腹部圧迫条件(「負荷の大きさ」,「負荷時間」)を推定することである。対象と方法:健常な成人男性5人(体重61.1±3.7kg)を被験者として胸腹部へ3つの負荷様式(負荷A:胸腹部合計50kg,負荷B:同40kg,負荷C:同30kg)の錘による荷重を加え,血圧,心拍数,呼吸数,肺活量,1回換気量,呼吸相などのパラメータを経時的に測定した。また呼吸耐力予備指数breathing intolerance index(BITI)を算出し,各負荷様式における負荷開始から呼吸不全に至るまでの時間を推定した。結果:負荷Aで,経時的に呼吸数が増加し,1回換気量が減少した。BITIはすべての負荷様式で直線に回帰された。負荷A,BおよびCで,それぞれ負荷開始から32分,42分および81分でBITI=0.15(危険域)に達し,それぞれ77分,87分および126分後に呼吸不全に至ることが推定された。考察:本研究では,胸部圧迫に加え腹部圧迫も行い,合計30kgの胸腹部負荷であっても,負荷が継続すると呼吸筋疲労から呼吸不全に至りうることが推定された。小児や高齢者などでは,さらに呼吸耐性は低い可能性が示唆された。外傷性窒息を予防する工学的な空間デザインや急性期の治療の観点から,外傷性窒息のメカニズムやパラメータの解明は重要であり,今後さらなる研究が必要である。
著者
伊藤 友一 松本 昇 小林 正法 西山 慧 三好 清文 村山 航 川口 潤
出版者
日本認知心理学会
雑誌
認知心理学研究 (ISSN:13487264)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.43-56, 2022-08-31 (Released:2022-09-23)
参考文献数
76

エピソード記憶の想起は,過去の出来事を記述的に思い出すのではなく,過去の出来事を心的に再体験する感覚を伴う.すなわち,その記憶システムは,過去のエピソードに対するメンタルタイムトラベルを担っている.メンタルタイムトラベルは未来や反実仮想のエピソードへも可能であり,記憶システムはさまざまな時間軸でエピソードを(再)構成するものとして捉え直すことができる.この視点から,記憶システムがかかわる近年の研究を概観する.伊藤はエピソード的未来思考について,松本は自伝的エピソード記憶の詳細さについて,小林は外部記憶の利用によるcognitive offloadingについて,西山は記憶の意図的な制御と忘却について,三好は主観的メタ記憶の計算論とその反実仮想との関連性について紹介する.これら話題提供の後,村山と川口による指定討論を受け,記憶研究の新たな視点と今後の展開について議論する.
著者
松本 篤
出版者
デジタルアーカイブ学会
雑誌
デジタルアーカイブ学会誌 (ISSN:24329762)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2, pp.92-95, 2022-05-06 (Released:2022-07-04)

誰かが残した「私」の記録。その価値に着目したアーカイブづくりに取り組むプロジェクト・AHA!は、大地震から10年目の節目に開催される展覧会の企画を依頼される。筆者は準備の過程で、仙台市の沿岸部に暮らすかおりさん(仮名)と出会う。彼女は、初めての出産を経験した2010年6月11日から育児日記をつけ続けていた。1000年に一度といわれる大災害の経験を、たった1人の育児の記録と記憶から捉え直す。そんな展覧会『わたしは思い出す』は、どのように企画されたのか。本展の着想から開催に至るまでのプロセスをたどりながら、メモリアルとは何か、記憶の継承とは何か、忘却とは何かを問い直す。
著者
松本 昭彦 MATSUMOTO Akihiko
出版者
三重大学教育学部
雑誌
三重大学教育学部研究紀要, 自然科学・人文科学・社会科学・教育科学 (ISSN:18802419)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.92-100, 2014-03-31

歌枕「末の松山」について、それを「波が越す」という有名な措辞がある。古くは『古今和歌集』巻二十・第一〇九三番歌に、「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」とあり、「仮名序」にも和歌表現の歴史を言う中で、「あるは、松山の波をかけ」とある。この東歌の表現は、『万葉集』巻七・第一三八二番歌「泊瀬川流る水沫の絶えばこそ我が思ふ心遂げじと思はめ」等の類型表現と同様、「非現実的現象の非実現性」を、恋心の永続性の譬喩とするものだが、仮定の上下が逆になっている。わざわざ上下が逆転した作りになっているのは、貞観津波によって「末の松山を波が越える」ことは、実現一歩手前まで行ってしまったので、類型通りでは、自らの恋心の誓いにならないと感じられたためと思われる。つまり、この東歌の、そしてこの措辞の背景には、貞観津波で末の松山に津波が迫ったという事実があったはずなのである。この措辞が都に伝わると、一気に広まったが、やがて津波の知識・記憶は薄れ、元々の意味とは別に、面白い表現として使用され、「歌枕」となったものであろう。
著者
松本 耕二
出版者
一般社団法人 日本応用数理学会
雑誌
応用数理 (ISSN:24321982)
巻号頁・発行日
vol.29, no.3, pp.39-43, 2019-09-25 (Released:2019-12-26)
参考文献数
6
著者
松本 希
出版者
耳鼻と臨床会
雑誌
耳鼻と臨床 (ISSN:04477227)
巻号頁・発行日
vol.66, no.5, pp.190-195, 2020-09-20 (Released:2021-09-20)
参考文献数
15
被引用文献数
1
著者
川田 三四郎 神藤 修 落合 秀人 飯野 一郎太 宇野 彰晋 深澤 貴子 稲葉 圭介 松本 圭五 鈴木 昌八
出版者
日本腹部救急医学会
雑誌
日本腹部救急医学会雑誌 (ISSN:13402242)
巻号頁・発行日
vol.35, no.5, pp.619-622, 2015-07-31 (Released:2015-10-31)
参考文献数
8
被引用文献数
2

今回われわれはPress Through Package(以下,PTP)誤飲による消化管穿孔の2症例を経験した。【症例1】87歳女性。心窩部痛を主訴に受診。腹部CTで十二指腸にPTPと思われる高吸収構造と遊離ガス像を認めた。PTP誤飲による十二指腸穿孔を疑い,上部消化管内視鏡検査で,十二指腸水平脚にPTPを確認,摘出しクリップで閉鎖したが治癒に至らず,第48病日に十二指腸・空腸部分切除術を施行した。【症例2】60歳女性。上腹部痛で発症し,CTで遊離ガス像を認め消化管穿孔の診断で当院に搬送された。当院で再検したCTでも異物を指摘できず,穿孔部の同定も困難であった。緊急手術で,Treitz靱帯から240cmの回腸に穿孔部を認めPTPの一部が露出していた。【考察】消化管穿孔の原因としてPTPの誤飲も念頭におく必要がある。PTPは材質によりCTで描出されない場合があることを考慮し,画像診断すべきである。
著者
松本 富美 松井 太 矢澤 浩治 島田 憲次
出版者
一般社団法人 日本泌尿器科学会
雑誌
日本泌尿器科学会雑誌 (ISSN:00215287)
巻号頁・発行日
vol.108, no.1, pp.49-51, 2017-01-20 (Released:2018-01-23)
参考文献数
11
被引用文献数
1

2011年の保険適応以降,dextranomer-hyaluronic acid copolymer(DefluxⓇ)を用いた膀胱尿管逆流(vesicoureteral reflux:VUR)に対する内視鏡的逆流防止術は本邦でも多くの施設で行われるようになったが,その長期合併症についてはあまり知られていない.今回われわれは,3歳時にDefluxⓇを用いた内視鏡的逆流防止術の既往があり,12歳時に近医にて注入部位の石灰化のため,遠位尿管結石が疑われた症例を経験した.DefluxⓇ implantの石灰化は稀ではあるが,近年欧米で報告が増えつつある.不必要な検査を回避するために,このような長期合併症を認識する必要がある.
著者
長沼 宏 小河原 忠彦 後藤 振一郎 松本 由朗 須田 耕一 茂垣 雅俊 鈴木 範美
出版者
日本胆道学会
雑誌
胆道 (ISSN:09140077)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.509-514, 1990

イレウスの原因となった胆石が,きわめてまれな性状であった症例について,胆石の形成過程を考察し報告する. 症例は78歳女性. 突然の悪心, 嘔吐に続いてイレウス状態となり緊急に開腹したところ,4.5×3×3cmの胆石塊による回腸の閉塞で,胆嚢十二指腸瘻から消化管に逸脱したものであった. この胆石塊は直径1~1.5cm の混合石10個が胆石構成成分と同様の成分物質で接合され,gallstones in a giant gallstoneの状態となったものであった,成分分析の結果,小結石は多量のコレステロールと少量のビリルビンカルシウムから構成されている混合石であり,接合物質は,混合石よりは色素成分が多いがほぼ同じ構成成分からなるものであった.この胆石の形成機序は患者の生活史と密接に関係しているものと考えられ,興味ある症例と思われた.
著者
石渡 渚 鈴木 佳奈子 松本 晴菜 矢島 慶子 小野 麻里子 土田 沙織 保戸塚 麻里 湯原 瑞紀 前澤 佳代子 寺島 朝子 小林 典子 木津 純子
出版者
一般社団法人 日本環境感染学会
雑誌
日本環境感染学会誌 (ISSN:1882532X)
巻号頁・発行日
vol.24, no.5, pp.319-324, 2009 (Released:2009-12-10)
参考文献数
14
被引用文献数
1 1

手指衛生は病院感染予防策として重要である.中でも速乾性擦式消毒剤(擦式消毒剤)は簡便性と高い消毒効果を兼ね揃え,現在の医療現場では必須となっている.そこでグローブジュース法に準じた方法により,薬学生を対象として,現場で汎用されている代表的な擦式消毒剤0.2 w/v%ベンザルコニウム塩化物含有製剤,0.5 w/v%ポビドンヨード含有製剤,0.2 w/v%クロルヘキシジングルコン酸塩含有製剤,0.5 w/v%クロルヘキシジングルコン酸塩含有製剤の擦り込み量を変えて,消毒効果および持続効果を比較検討した.また,ノズル付きの各擦式消毒剤を用いて女子薬学生が日常手指消毒に用いるようにノズルを押して消毒剤を採取し,その用量を測定した.   各製剤を1 mL, 2 mL, 3 mLを3回ずつ擦り込んだ際の減菌率の比較において,いずれの製剤においても2 mL以上の擦り込みにより良好な消毒効果が得られた.さらに2 mLを3回擦り込むと,その消毒効果はいずれも4時間後まで持続した.また,日常の衛生的手洗いにおいて,0.2 w/v%ベンザルコニウム塩化物含有製剤と0.5 w/v%クロルヘキシジングルコン酸塩含有製剤は1回に約2 mLを採取していたが,0.5 w/v%ポビドンヨード含有製剤と0.2 w/v%クロルヘキシジングルコン酸塩含有製剤は2 mL未満であった.手指消毒を効果的に行うには,消毒剤の採取量についても注意喚起する必要性が認められた.
著者
松本 奈々
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
no.27, pp.1-61, 2018-10

This thesis aims to analyse Sobuji, which is a policy derived from Toyotomi Hideyoshi’s force and an anti-Hojo force in Kanto area. To shed light on a region formally called Shimotsuke (current Sano- a city located in the south-west part of Tochigi prefecture), paying a great deal of attention solely to Shimotsuke can internalise the history of Sobuji policy more in-depth. By scrutinising specifically, Sano clan will demonstrate its unique role in the medieval Japanese history, as its contribution has been relatively underrated in academia. Especially Tentokuji Hoen and his servant Yamagami Dogyu’s accomplishment conducted for Sano had a significant impact on the whole Japanese politics at the time. Sano was located right at the boundary between Shimotsuke and Kozuke (these two literally mean the lower and upper area). The border had a role in distinguishing the pro-Hojyo and the anti-Hojo forces. Hoen’s lineage was quite complicated but worth highlighting at the same time. Hoen was a son of Sano Toyotsuna, which namely means he was Masatsuna’s younger brother as well as an uncle of Munetsuna. Consequently, it is evident that he has a roots-wise relation to the main branch of Sano family. Although Hoen became a Buddhist priest in his early life, his strong connection with major aristocrats in the Kamigata area firmly remained in the political world. As a result, Hoen massively impacted on Japanese high society. At the time when Oda Nobunaga’s Togoku Shioki prevailed, Hoen was a diplomat of Takigawa Kazumasu, who was in charge of Kanto Otoritsugi. Hoen’s primary role was as an envoy between Oda administrations centred in the west and the anti-Hojo power in Kanto area. Following the famous Honnoji-no-hen in 1582, Hoen fought a battle with the Hojo force in Kozuke with a help of Takigawa Kazumasu as one of the sequels of Honnoji’s incident. This war, also happened in 1582, was later called as Kannagawa war. Despite his career in Kozuke, he returned to Sano and reassumed his position of a negotiator of Sano region soon after Kannagawa war. At just about the same time, the Hojo army attacked Sano that the Kanto anti-Hojo force became heightened after 1593. Therefore, the Kanto anti-Hojo force attempted to gain the favour of Toyotomi Hideyoshi to secure their safety behind Hideyoshi’s power. Toyotomi Hideyoshi, who overthrew a pro-Nobunaga force (also known as Shibata Katsuie’s troops), found these sequent to be a chance to build up his career to rule entire Japan. Hideyoshi’s interest towards situations in Kanto area reached a consensus between Kanto and Hideyoshi’s demand and supply. As a result, Kanto successfully got the most out of Toyotomi’s colossal force. Also, Hideyoshi was able to draw Kanto force into his army. Considering Sano’s geographically unique role, the Hojo group attempted to aqruire Sano to utilise the function of borders. Thus, Sano kept under pressure to stay close relations with the Hojo force. In the summer of 1575, Hoen left Sano to move to Kyoto since the Hojo force took over Sano’s rule. Hojo’s dominance over Hoen’s power resulted in Hoen’s remarkable decision to serve Hideyoshi with the intention of ousting the Hojo force from beloved Sano. As well as Hoen, Yamagami Dogyu was also in charge of Sano’s vassal in Hideyoshi’s Sobuji policy. This policy had a side that Hideyoshi’s intention to draw the Kanto anti-Hojo force. For instance, Uesugi Kagekatsu, who allied with the anti-Hojo force, took charge of a position to sort out the situations against the Hojo force through Sobuji policy. On the other hand, Tokugawa Ieyasu negotiated with the Hojo force and avoided apparently oppose to the Hojo force as Kagekatsu did. Amongst historians, the conventional appreciation of Sobuji policy has widely been recognised as Hideyoshi’s ordinance to prevail a truce all over Japan. However, this essay illustrates that Sobuji policy was established with Hideyoshi’s desire to control the Hojo force. Hoen’s extensive connection shows how military alliance had associated with the development of Sobuji policy. I hope it dawns on historians that it should be examined to fully grasp the importance of Sobuji policy for further understandings alongside Hoen’s desire to return to his dearest home, Sano.
著者
松本 仲子 甲田 道子 菅原 龍幸
出版者
一般社団法人 日本調理科学会
雑誌
調理科学 (ISSN:09105360)
巻号頁・発行日
vol.24, no.3, pp.204-208, 1991-08-20 (Released:2013-04-26)
参考文献数
7
被引用文献数
3

The analysis of the components of the first-class, second-class and third-class Rishiri-konbu and the first-class Ma-konbu and the sensory evaluation of Dashi prepared from these konbu were conducted to investigate the relation between the classes of konbu and the components/liking of Konbu Dashi. The results were as follows.1. In Rishiri-konbu, the upper-class one was high in the contents of protein, free glutamic acid, free aspartic acid etc. as compared with the lower-class one. Further, the first-class Ma-konbu was high in the content of these components as compared with the first-class Rishiri-konbu.2. No component difference was found among the Dashi of the first-class, second-class and thirdclass Rishiri-konbu. However Ma-konku Dashi was much in the elution quantity of palatable components as compared with Rishiri-konbu Dashi.3. Difference in the elution rate of glutamic acid was not found among these Risuiri-konbu Dashi.4. No significant correlation was found between the overall impression score of Dashi at the sensofy test and the class in a ranking. The score of Dashi prepared at 10-100°C for5 minutes became smaller in the order of first-class, second-class and third-class, but the score of Dashi prepared at 100°C for 5 minutes became in the revefse order. 5. As an effective method for the preparation of third-class Konbu-Dashi, it was advisable to heat the lconbu in boiling water for a sufficient elution of palatable components.