著者
松浦 一登
出版者
一般社団法人 日本耳鼻咽喉科学会
雑誌
日本耳鼻咽喉科学会会報 (ISSN:00306622)
巻号頁・発行日
vol.116, no.12, pp.1290-1299, 2013-12-20 (Released:2014-02-22)
参考文献数
27

がん治療の究極の夢は「薬」で病が治ることである. 効果を得るために治療強度を増すことはしばしば行われるが, 副作用も強くなるというジレンマがある. 近年, 分子標的薬剤など新しい創薬がなされ, 治療効果とともに新たな副作用が認められてきた. 大多数の頭頸部がん患者は, 外科治療を主とする耳鼻咽喉・頭頸部外科医によって治療がなされており, われわれは多様な有害事象をマネジメントしつつ, 標準治療を理解して完遂しなければならない. 元来は兵器であったという生い立ちを忘れて抗がん剤を用いることは, 「角を矯めて牛を殺す」になりかねず, 不必要な抗がん剤使用を避けることが何よりの有害事象対策となる. 現在, われわれが最も多く用いる抗がん剤はシスプラチンであるが, 代表的な副作用は, 腎障害と悪心・嘔吐である. 腎障害は尿細管障害が主体であり, 大量補液と利尿剤で軽減を図るが, NSAIDsを避けることやMgの補充を行うことも重要である. 悪心・嘔吐対策は, 初回からアプレピタント, ステロイド, 5-HT3拮抗剤を用いて十分な対応をとり, 患者に我慢させないことが大切である. 近年, 化学療法施行時のB型肝炎再活性化が問題となっており, ハイリスク患者には抗ウイルス薬 (エンテカビル) の予防投与が推奨されている. また, 頭頸部がんに対する分子標的薬剤 (セツキシマブ) が保険収載されたことにより, 本剤の使用が始まった. シスプラチンに比べて, 補液の管理や嘔気・嘔吐管理が格段に簡便になる反面, インフュージョンリアクションや間質性肺炎など致死的な症状が生じることがあり, われわれもこの薬剤に対する理解を深めなければならない. 現在の頭頸部がん治療では多職種でのチーム医療が必要不可欠であり, 抗がん剤の有害事象をマネジメントするにも, 担当医一人では十分な対応はできない. 看護師を含む医療従事者にも知識の共有と教育を繰り返し行い, チーム力の向上を図ることが何よりも重要である.
著者
松浦 倫子 安達 直美 小林 俊二郎 中埜 拓 白川 修一郎
出版者
一般社団法人 日本女性心身医学会
雑誌
女性心身医学 (ISSN:13452894)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.114-120, 2016 (Released:2016-12-28)
参考文献数
34

【目的】睡眠に関する訴えは50代以降の女性で高率に見られる.本研究では,睡眠の質の低下を訴える中高年女性の主観的な睡眠改善を目的に,αs1-カゼイン加水分解物(カゼインペプチド)+L-テアニン含有食品の有効性をプラセボと比較し検証した.【対象と方法】56~69歳の女性11名を解析対象者とした.参加者は,カゼインペプチド+L-テアニン含有食品あるいはプラセボ食品をそれぞれ10日間ずつ就床1時間前に摂取した.各条件の間で4日間のウォッシュドアウト期間を設けた.食品摂取の順序は,参加者間で順序効果が相殺されるようランダムに配置し,食品条件についてはダブルブラインドとした.各条件の後半3日間は,就床・起床時の気分と眠気(Visual Analog Scale),起床時の睡眠内省(OSA睡眠感調査票MA版,入眠感調査),最終日にはピッツバーグ睡眠質問票を聴取した.事前調査時と各条件の最終日には,参加者に簡略更年期指数質問票の記入をさせた.【結果】カゼインペプチド+L-テアニン含有食品の摂取は,プラセボに比べて就床前に眠気が高まっており,PSQIにより評価した睡眠の質が高かった.また,カゼインペプチド+L-テアニン含有食品を摂取した条件でのみ簡略更年期指数による自律神経症状の得点が,事前調査時に比べて有意に低下し改善した.【考察】カゼインペプチドとL-テアニンを併せて摂取することにより,就床前の眠気を高め,睡眠の総合的な質を改善する可能性が示唆された.
著者
松浦 友紀子 伊吾田 宏正 寺田 千里 鈴木 正嗣
出版者
「野生生物と社会」学会
雑誌
野生生物と社会 (ISSN:24240877)
巻号頁・発行日
vol.2, no.2, pp.1-8, 2015-07-01 (Released:2017-06-16)

We carefully evaluated hunting incidents to identify risk factors and develop preventive measures. We analyzed 1,471 cases that were reported to the Japanese Hunting Association as fraternal insurance between 2007 and 2011. Most hunters responsible for the incidents were in their sixties and were veterans. Although these cases were treated as "hunting" incidents, the number of incidents associated with firearms was low. Only 144 (9.8%) of all "hunting" incidents were related to firearms, and 18.6% of the cases resulted in death. The most frequent factor responsible for firearm-related incidents was improper handling of firearms. In cases where the victim was mistaken for game, at least 61.5% of the victims were wearing fluorescent orange clothing. It was clear that the main cause of firearm-related incidents was violation of basic hunting rules. Therefore, a new qualification system is required for hunters and managers so that they can demonstrate their understanding of basic hunting principles.
著者
松浦 晃宏 苅田 哲也 森 大志
出版者
公益社団法人 広島県理学療法士会
雑誌
理学療法の臨床と研究 (ISSN:1880070X)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.17-21, 2020-03-31 (Released:2020-08-21)

大脳皮質運動野は外部の状況変化に対して柔軟かつ可塑的である。脳卒中後の運動皮質または運動皮質を起源とする運動下行路においても、回復の過程に応じて時々刻々と活動を変化させている。運動機能回復に影響する活動変化としては、発症早期の損傷側皮質脊髄路の興奮性とその後の皮質内、皮質間ネットワークの活性、非損傷側皮質脊髄路の過活動性、皮質-網様体脊髄路の活動性などが挙げられる。これらは損傷の重症度に応じて、適切な時期に、適切な活動性へと調整され再編されていくことが、より良い運動回復の為に必要である。
著者
松浦 紀之
出版者
公益社団法人 日本化学会
雑誌
化学と教育 (ISSN:03862151)
巻号頁・発行日
vol.63, no.6, pp.298-301, 2015-06-20 (Released:2017-06-16)
被引用文献数
2

酸化還元反応は,基本的な化学反応の一つであり,この反応を利用した酸化還元滴定は,古くから過マンガン酸カリウム水溶液による鉄(II)化合物の定量などに利用されてきた。高価な装置が不要であり,測定精度が優れているため,現在,様々な化学物質の分析法として広く用いられている。高等学校においても,反応の量的関係を扱う実験として多くの学校で行われている。本稿では,高等学校での「酸化還元反応」の教科書での取扱いや,酸化還元滴定を実施する上での工夫を紹介する。
著者
米野 翔太 長尾 みづほ 松浦 有里 星 みゆき 鈴木 尚史 今給黎 亮 小堀 大河 藤澤 隆夫
出版者
一般社団法人日本小児アレルギー学会
雑誌
日本小児アレルギー学会誌 (ISSN:09142649)
巻号頁・発行日
vol.34, no.3, pp.325-333, 2020-08-05 (Released:2020-08-20)
参考文献数
22

【目的】重症喘息に投与されるオマリズマブが呼吸機能を改善させるか否かの評価は未だ確立していない.オマリズマブの投与を必要とした小児喘息で長期観察できた例で呼吸機能の推移を評価した.【方法】オマリズマブ投与後1年以上の小児気管支喘息患者を対象とし,診療録から後方視的に呼吸機能と臨床情報を収集した.%FEV1の変化量/年は投与前後の期間で,すべての測定データを線形回帰分析で算出した.【結果】対象は10例.オマリズマブ投与前の観察期間が1年以上の6例すべてで線形回帰から求めた%FEV1の変化量/年は負の値であった.1年未満の例は評価しなかった.オマリズマブの投与期間は1年9か月~7年6か月で,変化量が正の値となったのが5例,負の値が5例であった.負の例でも投与前観察期間が1年以上の3例では負の値が軽減していた.投与後に変化量が正に転ずる予測因子は同定できなかった.【結論】コントロール不良の喘息児においてオマリズマブ投与は呼吸機能を改善させるもしくは低下の程度を軽減する可能性がある.
著者
松浦 正治 木村 善行 奥田 拓道
出版者
体質研究会
雑誌
日本体質学雑誌 (ISSN:04466578)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.1-9, 2000-01
被引用文献数
1

1 0 0 0 OA 家相秘伝集

著者
松浦琴鶴 著
出版者
文魁堂
巻号頁・発行日
1893
著者
松浦 昇
出版者
東京藝術大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2014-04-01

本研究「浮世絵における西洋陰影法の消去に関する基礎研究」は、江戸中期~後期を中心にした浮世絵の一次資料調査および文献調査を通じて、絵師による西洋陰影法の利用と、その背景にある日本固有の観察方法や陰影概念を明らかにすることが目的である。調査によって、浮世絵における西洋陰影表現は眼鏡絵や洋風版画の影響を受け、葛飾北斎以降江戸の実景とともに使用されていることが明らかになった。また歌川国芳を中心に、西洋陰影表現は月影と影法師との関係として再解釈されていたことが明らかになった。
著者
濱田 裕子 藤田 紋佳 瀬藤 乃理子 木下 義晶 古賀 友紀 落合 正行 賀来 典之 松浦 俊治 北尾 真梨 笹月 桃子 京極 新治 山下 郁代
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2014-04-01

子どもを亡くした家族の悲嘆に関するケアニーズを明らかにし、アクションリサーチによって悲嘆に対するサポートプログラムを作成することを目的に研究を実施した。子どもを亡くした家族に個別インタビューを行った結果、子どもの疾患や年齢によって、家族のケアニーズの特徴は異なったものの、共通していたのは【子どものことをなかったことにしたくない】、【子どもの事を知ってほしい】、【ありのままの自分でよいことの保証】、【気持ちを表出できる場がほしい】などであった。グリーフケアプログラムの試案として、フォーカスグループインタビューを4回、グリーフの集いを1回実施するとともに、グリーフサポートブックを作成した。
著者
松浦 茂
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.176-208, 2003-03

個人情報保護のため削除部分あり雍正四年(一七二六) から五年にかけて、清とロシアは北京で国境交渉を行ない、モンゴル地方と並んで、ネルチンスク条約で先送りされたウダ川地方の帰属に関しても、協議を行なった。その際に両国は、それぞれの地図を交換して検討することにし、ロシアは清にホマンの地図帳などを提供した。その中には巨大なカムチャツカ半島が描かれていて、幻の土地エゾはその南端にあると記されていた。清はエゾ問題に関心をもち、エゾの地を探して沿海地方やサハリン北部を調査したこともあったが、サハリン中部以南については、一度も調査を行なったことはなかった。北京会議では結局ウダ川地方の帰属を決定することはできなかったが、清はエゾをロシア領とするロシアの見解に衝撃を受けた。そこで会議の終了直後から、サハリン中・南部とエゾとの関係を明らかにするために、サハリン中・南部の調査を開始し、同年には早くも上京していたアムール川下流のホジホン、ダイジュをサハリン中部の東海岸を派遣した。さらに雍正七年にはシサ国(日本) との関係を解明するために、イランハラの驕騎校イブゲネらを同地方に送ったが、このときイブゲネらは、日本本土製のよろい・刀・漆器などをもち帰っている。それから雍正十年にはイブゲネらを再度サハリンに送り、中・南部のアイヌを始めとする、全部で百四十六戸の住民を従属させた。この結果清の勢力は、サハリンの南端に達して、サハリンのほぼ全島がその勢力下に置かれたのである。In 1690 (the twenty-ninth year of the Kangxi reign) the Qing government dispatched nine investigative parties to the regions on the left bank of the Amur River in order to certify the border with Russia, which had been determined by the Treaty of Nerchinsk the previous year. One of the parties reached the northern part of the Sakhalin. Then, in 1709 (296) and 1711 the Qing again dispatched parties to the Maritime Province and the northern part of Sakhalin in order to create a new map of East Asia, ''she Map of a Comprehensive View of Imperial Territory" 皇輿全覧図. But the parties were unable to investigate the central and southern parts of Sakhalin. In 1726 (the fourth year of Yongzheng reign) and 1727, the Qing and Russian governments entered diplomatic negotiations in Peking concerning the border between the two countries. They discussed the demarcation lines of not only the Mongol district but also the Uda River district, which had not been settled during the negotiations for the Treaty of Nerchinsk. On this occasion the two countries exchanged and examined each other's maps. The Russian ambassador provided the Qing ambassadors Homann's atlas, in which there was depicted an enormous Kamchatka peninsula to which the legendary land of Yezo had been appended in the south. Ultimately, the two countries were unable to decide on the border in the Uda River district at the Peking conference, and the Russian view that Yezo was the territory of Russia caused alarm within the Qing government. Therefore immediately after the conference, the Qing government began to investigate the central and southern parts of Sakhalin in order to clarify the geographical relationship between Sakhalin and Yezo. In 1727 the Qing government sent Daiju, who lived in the lower reaches of the Amur River but happened to have been in Peking, to the eastern coast of central Sakhalin. In 1729 it dispatched bannermen such as Ibgene, a Lieutenant in Ilan hala, to the same district in order to clarify the relationship with Sisa gurun (Japan). They collected and brought back Japanese armor, swords, and lacquer ware. Then in 1732, the Qing again dispatched Ibgene and others to Sakhalin. They subordinated three clans of the Ainu people in the central and southern areas as well as three clans of the Nivkhi people in the northern part of the island, totaling 146 households in all. As a result of these efforts, the Qing advanced to the southern end of the Sakhalin, and obtained control of almost all the island.