著者
下村 奈々子 黒田 圭子 松本 鉄也
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第3部門, 自然科学・応用科学 (ISSN:13457209)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.57-64, 2014-02

大阪教育大学の学生32名を対象とし,心拍変動に対する精油の効果について検討を行った。精油はイランイラン,ローズマリー,ペパーミントを使用した。心拍変動は精油吸入前の前後で比較した。心拍変動の高周波(High Frequency: HF)成分,低周波(Low Frequency : LF)成分を測定し,副交感神経の指標にはHF成分,交感神経活性の指標にはLF/HFを用いた。精油の嗜好調査も行い,心拍変動に対する精油の効果におよぼす嗜好の影響も検討した。 選択した精油を好きな場合には副交感神経機能が活性化し,そうで無い場合には交感神経機能が活性化する傾向を認めた。特に,ローズマリーを好きな群ではLF/HFは有意に減少した。 ローズマリーは交感神経機能を活性化する報告が多いが,その匂いが好みの場合には精油が持つ本来の効果を越えて副交感神経機能を活性化することを示唆している。すなわち,精油自体の特徴,効能も重要であるが,さらなる副交感神経機能の活性化を得るためには各々の精油の嗜好を考慮する必要がある。
著者
大藤 幹夫
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
no.22, pp.45-54, 1974-02

宮沢賢治の作品は、「色彩と光」の文学とよばれる。その色彩の中でもとくに青系統のものに彼の特質がうかがわれる。その意味で彼は「青型」の作家ともいえよう。この特質は、彼の全作品-短歌・詩・童話-についていえるものである。本稿では、彼の童話作品の中に見られる青系の色彩語をとりあげることによって賢治童話-ひいては賢治文学-の特質を検討したい。また、彼の作品の特質であるその多様性をさぐるために青系の色彩語による「空」の表現をとりあげた。
著者
林 洋輔
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 人文社会科学・自然科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:24329622)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.71-79, 2020-02

本論文においては,20世紀フランスの哲学者・哲学史家であるピエール・アド(1922-2010)が中心となって提唱された「生き方としての哲学Philosophy as a Way of Life」--その実質は「精神の修練Spiritual Exercise」--が教育思想として捉え直されることの可能性が明らかにされた。アドにおいて,哲学とは「生き方」およびその実現である。彼によれば,哲学を学ぶことは生き方を選ぶことと同義である。というのもアドが論じた古代哲学において,任意の生き方を選ぶことは同時に任意の「学派」に入門することを意味しており,その学派で学ばれるのが「精神の修練」と呼ばれるエクササイズだからである。各学派によってその実質は異なるものの,「精神の修練」では自らの生を変容させる知恵の獲得が目指されている。それゆえ「哲学の生を歩むこと」とは自らの完全な変容を期して知恵を求める営みである。アドの議論を精査していくことにより,ある生き方を決意した者が入門した学派において哲学者より「精神の修練」を通じて自らの生き方を創る,との過程を確認できる。それゆえ,学習者が哲学者となる過程は「精神の進歩」の方法とも捉えうるものであって,その進歩において学習者は自らを「精神の修練」によって教育する。「精神の修練」とは学習者が任意の学派において哲学者により手解きを受け,獲得された知恵の内面化によって変容を期するものである。この観点において「精神の修練」とは,学習者がそれによって哲学に拠る生き方を創る点において,教育思想と密接なつながりを有することが明らかとなる。
著者
倉本 香
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 1, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.19-34, 2012-09

カントの自由は人間の自然的な傾向性から独立して自らに法則を与えるという意味での自律としての自由であり,その法則は人間にとって自然的な自愛や自己幸福を度外視して意志の格律の普遍妥当性のみを純粋に命じる道徳法則である。このような法則に従う自由な意志が道徳的な善の根拠となる。しかし自由な意志は同時にこの法則に背く悪への傾向性を持つ。では,悪への傾向性を持つ人間はいかにして善へと転換しうるのか。主としてカント宗教論の論述に即してこの問題を論じたうえで,あらためて,宗教ではなく道徳の次元で人間の自由を問う意味を考えてみる。
著者
井谷 善則
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
no.20, pp.153-161, 1971

In order to make education for the handicapped fruitful, it is important for both sides, us and the handicapped children, to make efforts. On the one side, we must prepare the means to find vents for the children by directing their mental and physical energies into something valuable to them which tend rather to stagnate unconsciously. On the other, the wills or volitions are absolutely necessary in themselves. When we see the bottoms of severe lives trying to burn themselves for their lives, despite of being placed upon the limited situations, we can feel sympathy for the severity of their lives and understand them. By doing so, we can understand peculiarities of the handicapped children and come in contact with their existence without passing by their sides. And we see the lives wishing for others' warm looks, which are trying to burn themselves and struggle hard to express themselves. Thoughts and practices of education of the handicapped sprout there. It is not as a result that we valued them for their usefulness or our consciousness of their special valuation. In this education for the handicapped, letting reveal weaknesses and shortcomings of actual children, we try to realize holy things, beautiful things, true things, and good things in them. In education for the handicapped thoughts of humanism should be acting vividly. How has the system of valuation in human history or universal history been made up? It is also the matter in the ideas of education for the handicapped that there have been the things having no value of existence and there will be in the future in universal history. It is the same thing with judging the value of our existence and doing the value of the handicapped children's lives. In order to let the handicapped children who were born with heavy burdens into the organic solidarity of human beings rightly, a deep consciousness of social solidarity is necessary. If not, they only become draught horses with heavy burdens. The rule of social solidarity is to know how to lighten the torments of our neighbours, and not to suspend to help them. The problems of the handicapped children can not be placed as matters of individual misfortunes or domestic ones.
著者
瀧 一郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 人文社会科学・自然科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:24329622)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.157-169, 2020-02

ここに掲げる資料は,1892〜93年にベルクソン(Henri Bergson, 1859-1941)がパリのアンリ4世校で行った美学講義で,これを聴講したアルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry, 1873-1907)が筆録したノートから本文を校定し,それに註と和訳とを付したものである。オリジナルのノート(1891〜93年の哲学講義に関する6冊のカイエ(α239, A188, B131, C135, D172, E37 頁)のうち,カイエBの78-86頁が美学講義に相当する)は,パリ大学附属ジャック・ドゥーセ文学図書館に整理番号:Ms 21129 - Ms 21134 ; B' I 13のもとに,その6束(α236, A188, B131, C134, D172, E37 葉)からなるコピーは,整理番号 : V BGN 2, IX BGN III 29のもとに保管されている。Ce document présenté ici est le cours d'esthétique de Bergson professé au lycée Henri IV à Paris en 1892-93, dont le texte est restitué par des manuscrits autographes rédigées par Alfred Jarry qui l'a suivi, avec nos annotations et notre traduction japonaise. Les notes originales, 6 cahiers relatives des cours de philosophie en 1891-1893 (α239, A188, B131, C135, D172, E37 pages) dont pp. 78-86 du cahier B correspondant au cours d'esthétique, sont conservés dans la Bibliothèque Littéraire Jacques Doucet de l'Université de Paris sous la cote : Ms 21129 - Ms 21134 ; B' I 13, et ses photocopies en 6 liasses (α236, A188, B131, C134, D172, E37 feuillets) sous la cote : V BGN 2, IX BGN III 29.
著者
志智 莉永 井坂 行男
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第4部門, 教育科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.19-26, 2017-02

本研究では,聴覚障害児に対する音楽科指導の現状や今後の在り方を検討するために,聴覚特別支援学校小学部の音楽科指導に関する質問紙調査を実施した。第一次調査の結果,音楽科の4つの活動のうち音楽づくりの活動の実施率の低さ,指導の際の音の聴取における困難及び指導方法等での困難が多く挙げられた。また,活動毎の内容に関連する効果が児童に認められること等も明らかになった。第二次調査の結果,拡大楽譜や映像といった視覚的な教材の使用が,児童の理解や関心を促せること,理解度や授業に取り組む態度を重視する個人評価が実施されていることが分かった。聴覚障害児に対する音楽科指導の一層の充実には(1)ICT機器の充実度の違い,(2)教員間での情報交流の場の設定,(3)4つの活動毎の実施率のばらつき,という3点が課題と考えられた。

1 0 0 0 IR 啓蒙と自然(4)

著者
正塚 晴康
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.49, no.1, pp.1-19, 2000-08

魔女狩りとニュー・サイエンスの胎動が、これまたほぼ同時期に平行的に現象している。なぜそういうことになるのかを考え、次いでニュー・サイエンスが自然観とどうかかわるかに思いをめぐらす。当初、自然支配的であった自然科学だが、発展してゆく過程で、却って自然愛的感性の露払いをする点を強調する。Überall in Europa griffen berüchtigte Hexenjagden wütend um sich,als die New Science dort in Bewegung war.Wieso ereigneten sich gleichzeitig und parallel die rationalste und die irrationalsten? Wie hatte überhaupt die New Science mit der Naturliebe zu tun? Ob die neue Naturwissenschaft, die am Anfang so naturfeindlich gewesen war und beabsichtigt hatte, die Natur zu beherrschen, im Zug ihrer Entwicklung umgekehrt nicht eino Rolle des Wegbereiters für die Naturliebe spielte. Im vorliegenden Teil der Abhandlung geht es um solche Probleme.
著者
井谷 善則
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第IV部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.57-76, 1983-09-30

ダーウィンの進化論は自然科学領域の研究成果として歴史的に高く評価されるものである。同時に,この進化論の中にある自然淘汰,適者生存,優勝劣敗,生存闘争等々の考え方は,生物の社会のみならず人間の社会のあり方の原型でもあると解釈され,社会思想に大きな影響を与えた。しかし,この考え方を基盤とする社会ダーウィニズムは障害児教育の視点からはとうてい承服できないものである。そこで,本稿では社会ダーウィニズムの基盤となっている進化論そのものの欠陥を,棲み分け論,分子進化中立説,ゲラダヒヒ社会などを参考にしながら指摘した。進化論そのものの難点に光を当てることにより,社会ダーウィニズムの基盤の弱さを明きらかにした。一方,社会ダーウィニズムは,進化論の生物学的正誤とは別個に,思想として一人歩きをしている一面がある。そこで独立した思想としての社会ダーウィニズムに対して,人間の文化のあり方からの対応を考えた。その場合,発展社会から減速社会への転換を計ろうとしている現在,特に障害児の生き方が示唆に富むものであることを指摘した。そして,障害児や老人をくみこんだ多元的価値社会が,真に,人間性を擁護するものであると把えた。これらの問題を踏まえて,本稿において,障害児教育と社会ダーウィニズム超克の問題の核心と周辺を考察した。Wenn Wir die natürliche Auslesetheorie aus dem sonderpädagogischem Gesichtspunkt betrachten, dann gibt es neue Gesichtspunkt. Es handelt in diesem Essay sich vor allem um 7Akzente. -die Entwicklungslehre von Charles Darwin -die soziale Selektionstheorie -"habitat segregation" von Kinji IMANISHI -"neutral mutation-random drift hypothesis" von Motoo KIMURA -das soziale Zusammenleben ohne Rangordnung und Machtbereich von Theropithecus gelada -die Kontinuität und Nichtkontinuität mit der Tierwelt und dem Kulturleben -die menschliche Gesellschaft mit der Pluralität Die Entwicklungslehre von Charles Darwin ist in der öffentlichen Schätzung gesunken. Aber die soziale Selektionstheorie ist hochgeschätzt. Die natürliche Auslesetheorie, das Gesetz des Überlebens der Tauglichsten haben auf den Pädagogik einen grossen Einfluss gehabt. Doch wir der Entwicklungslehre von Charles Darwin kritisch gegenüberstehen. Wir sollen der Lehre nicht mehr gehorsam sein. "Habitat segregation", "neutral mutation-random drift hypothesis" und Kulturwissenschaft werfen die bisherige Theorie von Darwin um.
著者
東 庸介 鉄口 宗弘 難波 康太 三村 寛一 渡邊 俊之
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.175-185, 2011-02

本研究は,大学野球選手を対象に,体幹機能が投球動作にどのような影響を及ぼしているのか検討することを目的とした。その結果,遠投上位群は,身長,体重,胸囲,体組成項目全ての筋肉量,メディシンボール投げ,背筋力において有意に高い値を示し,腹筋・背筋バランス上位群は,コントロールにおいて下位群よりも有意に高い値を示した。 以上より,優れた投球動作には下肢で生まれた力を上肢に伝達するための体幹の動きが重要であることが示唆され,強く速いボールを投げるためには腹筋・背筋の筋力が重要となるが,正確なボールを投げるためには,腹筋と背筋をバランス良く鍛えることが重要であると示唆された。
著者
橋本 恒
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 人文社会科学・自然科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:24329622)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.221-228, 2019-02

筋力に頼るのではなく素早い身体動作に関する報告がある。それが抜重動作である。そこで本研究では抜重動作を獲得するトレーニングを行いその効果を明らかにすることを目的とした。野球部員12名に抜重トレーニング2種類を3週間行わせトレーニング前後に5mスプリントと垂直跳びの測定を行った。トレーニング前のスプリント平均値が1.90±0.27秒,トレーニング後の平均値が1.50±0.19秒でありトレーニング前より後の記録は約0.4秒短縮した。またトレーニング後の垂直跳びの平均値が50.41±3.31cm,トレーニング前が46.83±3.63cmでありトレーニング前より後の記録は約3.58cm向上した。以上のことから,抜重動作獲得が盗塁スタートを早くする効果的役割を果たすと考えられる。
著者
中村 浩也 内藤 誠二 平岡 義光 三村 寛一
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. IV, 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.23-32, 2005-09-30

本研究では,全日本実業団選手権大会で優勝経験のある9人制バレーボール選手の主カメンバー14名を対象に,その体力的特徴を明らかにするとともに,プレシーズン期におけるレジスタンストレーニングの効果について検討した結果,以下の知見が得られた。1) 9人制バレーボール選手は,ポジションによって,形態および無酸素パワー,敏捷性が異なることが示唆された。2) 高負荷のレジスタンストレーニングにより,最大筋力が有意に向上した。3) スピードを重視した体幹筋のレジスタンストレーニングにより,腹筋群の筋持久力が有意に改善した。以上の結果から,7月の本格的なシーズンを前に,期分けを考慮した、レジスタンストレーニングプログラムの必要性が認められた。今後は本格的なシーズンの開幕に向けて,スピードを重視した爆発的なパワー系トレーニングと全身のコンディショニングが課題と考えられる。
著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.1-14, 2008-02

「学力低下」は今や国民の一大関心事になっている。しかし,もっぱら問題とされているのは学齢期の子どもの学力であって,成人の諸能力についてはほとんどといっていいほど問題にされていない。大学生を含む成人の諸能力はおそらく半世紀前に比べて大幅に欠落している部分が多いはずである。社会的なモラル低下,社会的無関心,あるいはアイデンティティの喪失などに加えて,有名企業や公的機関の失態も目に余る状況である。子どもの学力低下を憂うるのであれば,成人の学力はどうであるのか。これは子どもを対象にした調査ほど明確な数値が出ていないのであるが,子どもの学力調査の対象となっているような分野に関する成人の知識・能力は子どものそれに比べて著しく劣っており,学力の剥離もまた重要な問題であるのである。さらに言えば,20歳を過ぎた成人にとって全く不要な諸能力を子どもに求めることそのものの是非についても検証の必要があるであろう。近々改訂が予定されている学習指導要領に関して中央教育審議会の基本方針が報じられた。本稿執筆時点ではまだ公式発表を見ることができないが,8月17日の読売新聞1)2記事によれば現行学習指導要領の方針を大きく転換し,「確かな学力の向上」を目指す方針に変更されると言うことである。現行学習指導要領が学校週5日制を前提として学習内容の大幅な削減をおこなったのは平成10年のことである。学習指導要領の改訂前の議論で基本方針は国民の知るところとなっていたため,学力低下への危惧が盛んに報じられていた。しかしながら学校週5日制は必然的に授業時数の削減を要求せざるを得ず,改訂は「ゆとり教育」を謳わざるを得なかったというのが現実であろう。学習指導要領の内容削減が行われても直ちにそれが学力低下をもたらすものではないこと,学力とは難しいことをたくさん教え込むことによって向上するものではないことなどを十分に説得できる改訂ではなかったことが問題であったのかも知れない。それ以降,国際学力比較調査において我が国の子どもたちの学力低下が数量的に明示されたことで,子どもの学力低下というイメージが既成事実化し,学力向上を求める意見がさらに高まることとなった。学習指導要領の内容削減が学力低下をもたらすという懸念が,因果関係はともかくとして結果部分において現実のものとなった以上,次の学習指導要領が学力向上に軸足を置いた改訂となることは大方予想されていたことである。本稿は,学習指導要領の難易度が子どもの学力向上と単純な相関関係にあることを否定する立場をとるものである。実際,かつての昭和43年版学習指導要領の改訂によって教育内容が高度化したときにもたらされたのは,学力の向上ではなくして「落ちこぼれ」といわれる子どもたちの多発と教育荒廃の発症という現実であった。昭和52年版学習指導要領によってゆとりが重視されることとなったが,その改訂によって教育の諸問題が解決を見ることはなかった。このことは学習指導要領の基本方針の転回によって無前提的に学力向上や豊かな人間性が実現するものではないことを示す重要な教訓として受け止めるべきではなかろうか。本稿では,学力の向上という教育の課題を重視する立場をとりつつも,学習指導要領の改訂のみではそれが実現困難であることを論じ,子どもたちの学力向上を実現するために他に何が求められるのか。学習指導要領の改訂にあわせて改革されるべき諸問題を明らかにし,学力向上を実現するための効果的な処方を提言しようとするものである。"The decline in academic ability" becomes the big subject of concern of the nation now. However, it is scholastic ability of the children of the school age to be considered to be a problem wholly, and it is not done in many problems about the many ability of the adult. Perhaps I compare the many ability of the adult including the university student half a century ago and largely lack. As well as social morals fall, social indifference or the loss of the identity, a prominent firm and the blunder of the public engine occur frequently. I compare knowledge / the ability of the adult about the field becoming the object of the scholastic ability investigation of the child with it of the child and I am remarkable and am inferior. The detachment of the scholastic ability of the adult is a problem important again. Furthermore, it will need the inspection about the right or wrong of the thing to demand totally unnecessary many ability from a child for the adult who was over 20 years old if it says. The basic policy of the conference of the Central Council of Education was reported about a course of study that revision was planned soon. I switch the policy of the existing course of study greatly, and it is to say that I am going to aim at ""the improvement of positive scholastic ability"", and it is changed. Learning contents are largely reduced by the existing course of study assuming the five-day school week. Through the revision discussion of the course of study, it is a well-known fact that anxiety to the decline in academic ability was proposed. However, the five-day school week needed the reduction of the number of lesson hours, and the course of study could not but appeal to you for ""education at ease"". I did thing that it was not the thing which the contents reduction of the course of study brought decline in academic ability promptly then, and it should have been necessary to prove that it was not the thing which improved by what a difficult thing instilled a lot with the scholastic ability enough. However, I did not make the efforts. Thereafter, decline in academic ability of the children of our country was stated clearly in an international scholastic ability competitive review quantitatively. The image called the decline in academic ability of the Japanese child becomes an established fact, and an opinion in search of scholastic ability improvement will rise more thereby. By this report, the degree of difficulty of the course of study denies the scholastic ability improvement of the child and a thing in a simple correlation. It was reality called the onset of the mass production of ""the dropout"" and the education dilapidation that it was brought by the modernization of past education contents. This is an important lesson to show that the revision of the course of study that attached great importance to scholastic ability does not bring scholastic ability improvement for no premise. I discuss that scholastic ability improvement has difficulty with realization only by an action of the revision of the course of study and the nature improvement of the teacher and, by this report, clarify a thing becoming basic of the scholastic ability improvement. I decide to investigate feasibility of the scholastic ability improvement through necessary thing and considering the many problems that I can put it together in the revision of the course of study, and should be reformed to realize scholastic ability improvement of children thereby.
著者
千住 真智子 新田 良子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. IV, 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.45, no.1, pp.129-139, 1996-09

本研究では, 集団表現・演技発表について, 小学校の体育的行事の中の運動会を中心に, その実施された内容を通して, 小学校教師に集団表現・演技発表の実践の重要性がどのように認識されているかを明らかにするために2つの調査を実施した。その結果, 大阪府下の昭和30~昭和49年と比較的学校設置年の新しい小学校, 特に40代, 30代女性教員の占める割合の高い小学校では, 運動会は, どの小学校でも例外なく開催されており, 体育的行事の中でも中心的な行事であった。運動会では, 9割以上の小学校が, 集団表現・演技発表を各学年毎多様な演技種目として実施していた。運動会での集団表現・演技発表の指導に当たる教師には, 体育分野の指導は重要視されている傾向にあり, さらにまた, 集団表現・演技発表の実践に対しても, 重要であると認識されているが, その実践に対する教師の捉え方は, 児童の学習の集積としての発表の場というものではなく, 運動会のための集団表現, 運動会のための集団表現作品であると考えられていることが明らかとなった。The purpose of this study is to ascertain what primary school teachers think about group performance practices and the important of it. Two interviews were conducted regarding what occurs in group performances at physical educational events in primary schools, in particular athletic meets. The result found was that at comparatively new schools established from 1955-1974 by the Osaka Prefecture, and among them specially at schools in which the proportion of women teachers were aged between 30´and 40´to other teachers is high, an athletic meet is held at every school without exception as the center of physical educational events. During the athletic meet, group performance is practiced by all students in various ways at 90% or more of the schools. It appeares clear that teachers who guide pupils in group performance at athletic meets tend to attach great importance to the field of physical education, and recognize the importance of practicing group performances. However, regartaing their viewpoints on the practice, they see it as only group performances for athlethic meet than as an occasion for pupils to express an accumulation of their learning.
著者
小林 佐知子 小島 律子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第4部門, 教育科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.113-124, 2017-02

研究目的は,事例研究を通して,わらべうた遊びを基盤とする幼児の表現活動においてどのように共同体形成が起こるかを明らかにすることである。事例とした保育実践は,わらべうた遊びからその替え歌づくりの表現活動へと展開する5歳児クラスの実践である。わらべうた遊びに内在するノリは,表現活動では身体・言語コミュニケーションを促進した。身体・言語コミュニケーションが共通の目的,共同行為,意味共有を可能にし,教室に共同体形成をもたらした。The purpose of this paper is to reveal the characteristic appearance of community formation in young children's expressive activity based on warabeuta play through case study. The case is an early childhood education practice to create a new version of warabeuta play "Hayashi no naka kara". Nori in warabeuta play worked to facilitate body/verbal communication in the expressive activity. Body/verbal communication made it possible to share an end, actions and meanings of expressive activity, and then formed community in the class.
著者
小寺 茂明
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.39-53, 2008-02

本稿では関係代名詞の2用法をめぐる問題点について,さまざまな角度から検討した。とりわけコンマの有無と制限的用法と非制限的用法との区別との関係について検討している。まず,制限的用法と非制限的用法の2用法についての議論では,特にコンマがないのに非制限的用法であるという関係代名詞の用法について考察した。その結果,事実としては,必ずしもコンマの有無のみで両者の対照が鮮やかに区別されるというようなことではないことが分かった。 また,そのことに関連して,日本語の修飾構造では制限,非制限の区別がしばしば曖昧になることについて吟味し,特に日本語の修飾構造と英語のそれとの違いなどについて論じた。英語では関係節を用いる場合,つねにその先行詞の全体を受けるか部分を受けるかによって,2用法の区別が基本的には存在するという違いがある。 そして,thatにも非制限的用法が存在することを確認し,その他のいわば中間的な用法として,who, which, whereなどの具体例を検討し,ときどきこのような用法が見られることについても議論した。そして,コンマの有無は関係代名詞の2用法の区別の絶対的な基準にはならないことを具体的に検証した。This paper is intended as a study of the restrictive and non-restrictive uses of relative pronouns in English. And so, we discussed those two uses of them from various points of view. We, in particular, examined the relationship of the commas and the two uses. Firstly we discussed this relationship, and in particular we had a close look at the examples of relative pronouns that are without commas whose uses are in fact non-restrictive, and we pointed out the fact that those two uses are not necessarily signaled by the presence or the absence of them. Secondly, in this connection, we discussed the correspondence between modifying structures in Japanese and those in English. And we pointed out the striking difference of the structures between the two languages, i.e., the Japanese language has always pre-modifying structures, and the English language has post-modifying structures when relative pronouns are employed. And we must note that there are examples that are restrictive when commas are used, and those that are non-restrictive when they are not used. Thirdly, we discussed whether the non-restrictive use of that exists or not, and we confirmed that that use of that does occur in English, though rarely in fact. Also we considered the uses of who, which, and where, which are sometimes employed non-restrictively without commas. And we can conclude that whether commas are employed or not in the sentences is not the absolute criterion by which we can distinguish the use of them.
著者
中西 一弘
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. V, 教科教育 (ISSN:03893480)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.29-42, 1970

ベザール著『文学の方法』については、その全体の構成、とくに教材の組織化と指導法の大綱を第1報で述べた。第2報では、読むことの学習指導を主にとりあげ、ベザールの「方法」を具体的にみていくことにする。「文学の方法」における読むことの指導は、「分析的索引」の「読む技術」の項目によってその構造が端的に示されている。読む技術 I.多読 1.一冊の書物または一章・一節の研究 2.作者の研究 3.文学史の研究 II.短いテキストの解釈 1.授業の前に 2.授業中に この多読と精読との2部構成がベザールの指導法の基本であるが,思想(イデー)の研究には、「I.多読」が有益であり、表現の学習には「II.短いテキストの解釈」(精読)が必須とみている。「書くことを学ぶ最良の方法は、もっぱら思想(イデー)に意を注ぐことである。そのために、もし絶対に二つの異なった方法のうち一つを選ばねばならないとするならば、私は、数行を詳しく学習するよりも、おおよその理解を求める長い分量の読みの方により大きな信頼を置くだろう。幸いなことに、この苛酷な二者択一をわれわれに迫るものはいない。最近の訓令(1909)が、前者の読みを加担しているようにみえるが、後者の読み方学習をもまた同様に勧めているのである。そして、訓令はこの二つの方法が相互に補い合うのがよいと認めている。しかしながら,訓令はつぎのことを付け加えている。短いテキストの解釈学習という方法それのみが、正確な表現への意識を諸君にもたらす、と。『選択することと正確に述べること』、この二つこそ、作品解釈に関して考えうるかぎりの忠告のすべてを含んでいる、とも訓令は述べている。」しかし、この2部構成の有機的活用が著者の最も苦心した点であろう。ベザールはどのような方法によって、二者の結合をはかったのか。つぎの4項目が考えられる。○学習計画の設定とその合理化○学級文庫の整備充実○ノート(ルーズ・リーフによるカード化)の作製と整理○課題作文の執筆 これらの4方法による「多読」と「精読」の読むことの学習指導を,『文学の方法』第2部芸術における理性の勝利-17世紀の古典精神-を中心とし、なかんずく、悲劇作家ラシーヌの学習に焦点を合わせて述べていくことにする。Méthode d'observation de Bezard consiste à apprendre la manière de prendre des notes. Exemple des notes analysant une tragédie, Andromaque de Racine, sous la forme de titre et compte rendu de classe qui nous indiquent comment l'auteur dirige l'étude d'un livre ou d'un chapitre.
著者
若生 正和
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.109-119, 2010-09

本研究では韓国人日本語学習者の中間言語にどのような特徴が見られるのかを明らかにするために,特に誤用に注目して分析を行った。本研究のために用いたデータはインタビューによって得られた発話データである。今回の調査を通して,典型的な負の転移と見られる誤用と,学習者が言語習得のために用いる学習ストラテジーが関わっていると見られる誤用の両方がデータ中に混在していた。学習ストラテジーが関わっている誤用としては,ユニット形成のストラテジーの関与が指摘されている,場所の助詞「に」と「で」の誤用があった。また,説明のモダリティー「のだ」の丁寧形「んです」の過剰般化が複数の学習者に見られたが,複雑な用言の丁寧形体系を単純化しようとする学習ストラテジーが関与しているのではないかと見られる。The purpose of this paper is to report characteristics of Korean JSL learner's interlanguage, analyzing errors found in their talk in Japanese. The data was collected by interviews with Japanese learners who were enrolled in a university in Korea. Both errors caused by negative language transfers and ones caused by strategies of second-language learning were found in the data. One of errors in the data which seemed to be caused by strategies of second-language learning is confused use of locative particles ni and de. Another example of errors related to L2 learning strategy is the overgeneralization of ndesu (polite form of no da) which indicate the modality of explanation. The confusion of ni and de seemed to be concerned to the strategy of linguistic unit formation. On the other hand, the overgeneralization of ndesu seemed to be related to learners' simplification of Japanese polite form system.
著者
山田 正行
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第IV部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.64, no.2, pp.113-126, 2016-02-29

東洋と西洋を通底する性的ハビトゥスの強靱さを,東洋における日本の売女と中国の婊子の音韻的な関連性,中国の売買婚の童養媳,新婦仔,東洋の中近東(中や近は西洋の視点から)の古代における神聖娼婦,西洋近代の『共産党宣言』の「女性共有」,中国共産党と人民解放軍の新疆「辺境守備開拓団女性兵士」,日本共産党の「ハウスキーパー」に即して具体的に詳しく論じ,それを乗り越える生と性が小林多喜二の『党生活者』に描かれていることを明らかにした。I describe tangibly in detail tenacity of sexual habitus underlying and connected at a fundamental and unseen dimension both in the Orient and in the Occident, as follows, the phonological relevance between "baita" of Japanese and "biaozi" of Chinese, "tongyangxi" and "xinfuzi" who is forced to be a wife by slave trade in China, sacred prostitute in the ancient Middle and Near East (middle and near is from the view-point of the Occident), "common in wives/community of women" in The Communist Manifesto in the modern Occident, "girl soldiers of Xinjiang frontier defense pioneer unit" of the Chinese Communist Party and the People's Liberation Army, "housekeeper" of the Japanese Communist Party. On these historical facts I elucidate that Kobayashi Takiji express the life and sexuality getting rid of "community of women" of Marxist Communism in Life of a Party Member.
著者
堀 薫夫
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.173-185, 2009-09

元マックス・プランク研究所研究員のポール・バルテス(1939~2006)は,1970年代から2000年代にかけて独自の生涯発達心理学を提唱してきたが,まだ彼の生涯発達論の全体像は十分に検討されていない。本稿は,生涯学習/社会教育領域の理論と実践への示唆を得ることをねらいとして,以下の3点から彼の生涯発達論の考察を行うものである。第一は,バルテスの生涯と著作を検討することである。第二に,バルテスの生涯発達論の核となる「選択的最適化とそれによる補償」の理論の内実を再検証することである。第三に,高齢期における発達のポジティヴな側面である,「知恵」概念を検討することである。この概念を用いてバルテスは,ポジティヴ・エイジングの体現化された部分を説明しようとしたが,しかし人生第四期の人びとの現実に直面した彼は,それまでの理論の修正の必要性を痛感した。とはいえ,ポジティヴ・エイジングを生涯にわたって追い求めた彼の姿勢は,生涯学習/社会教育の研究者にも必要とされる資質だといえよう。Paul Baltes (1939 - 2006), former researcher of Max Planck Institute, was an architect of lifespan developmental psychology from 1970s to 2000s. Holistic picture of his theory of human lifespan development was not fully examined in the literature of Japanese lifelong learning social education. In order to shed some suggestive light on the theory and practice of social education, this article attempts to reevaluate his theory of life-span development from the following three angles. The first is an examination of Baltes' bibliography and works in an effort to understand a total image of his life. The second is a reconsideration of Baltes' main theory of life-span development, namely "Selective Optimization with Compensation." The third is an examination of his idea of wisdom, positive aspects of human development in our later adulthood. With the idea of wisdom, Baltes elucidated the culmination of positive aging, but facing the realities of the oldest-old people, he then realized the needs of revision of his theory. But his attitude toward positive aging itself is a quality needed for the researchers in lifelong learning social education.