著者
狭間 節子 橋本 是浩
出版者
大阪教育大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1994

主要な研究成果は、次の3点に要約できる。(1)ジオボード(格子点)を使った数学的活動の特性を明確にし、その特性を活かした小・中・高校の数学的活動の枠組みを決定し、教材策定を行った。ジオボードの活動は、ボード上の図形間の関係についての子どもの気づきや疑問から出発し、分析、分類を通して関係を精密にし、推測を検証・精錬し、一般化及び形式化に至る数学化の過程であり、特に、関係の分析は、総合・統合を介する分析として、次の点を明確にした:(1)全体的・直観的把握から分析へ (2)図形の外部との関係へ広がる分析(3)移動や拡大・縮小と結びつく分析 (4)ジオボードから格子点へ広がる分析(5)長さ、面積などの連続量を、点や線分の数などの分離量に結びつける分析(2)上記の特性を活かした数学的活動の枠組みを設定し、素材開発と教材策定を行った。【小学校 低・中学年】実際的操作や観察を基に形を動的に全体的・直観的に捉え、分類する活動・形づくりと形の変形(★) *周一定な図形の面積(★)【小学校 高学年〜中学校 前期】分析・分類により推測を検証・精錬し、一般化へいたる活動*図形の等周変形 *正方形くずし(★)*フェアリ-数列 ・ピックの定理の発見的アプローチ(★)【中学校 後期〜高校】格子点を使った関係の一般化、形式化、及び局部的な論理的構成の活動*等周変形とピックの定理 *オイラーの定理を用いたピックの定理の証明上記*印の題材は素材開発にあたり、★印は授業実践によって検討、検証した。(3)実践では、ジオボードの数学的活動は、手(実際的操作)と目(イメージ)と頭(思考)と口(言語表現・伝達)が同時に働く、認知的・情意的両面からの子どもの"whole brain"の活動として検証された。トランプ型「ジオカード」考案により、分析・分類を手軽に興味ある活動にした。グループ活動による成果も大きく、また次の課題意識へつながるオープンエンドの様相を呈したことは注目に値する。
著者
YAMAUCHI Tomosaburo
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第Ⅰ部門, 人文科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.25-35, 2013-09

プラトニズムとキリスト教に発する西洋の二大伝統思想は,およそ二千年を経て習合して,ルネッサンスに至り,西洋近代主義を生み出すことになった。ところが現代においては,地球環境危機の原因として西洋近代主義が批判されるようになった。西洋近代主義はもはや人類を主導する力と影響力を失った。われわれを導く道徳の原動力はプラトンのイデアでもキリスト教の神でもなく,また進歩した機械技術,国際資本主義,人権や国家主権でもないとすれば,人類はもはや思想を失って,ニーチェが予言したようなニヒリズムに陥って無思想になってしまったように見える。他方,我が国では,戦後,伝統思想が何か悪いことのように考えられ教えられなくなった。しかも従来追従してきた西洋近代思想が力を失った状況では,無思想状態に陥っているように見える。この窮状から脱却する方法として考えられるのは,伝統思想の長所を見直し,西洋近代主義の短所を批判して,両者の長所を採り入れる批判的継承しかないのではないかと考えられる。本稿では,プラトニズムと儒教の自然観の決定的な差異にも拘らず,両者の社会倫理(倫理・政治)においては不思議な一致が見られる点を論じ,この一致が儒教を倫理・政治のイデオロジーとした江戸時代の幕藩体制における武士階級の役割と,プラトンの理想国における防衛者階級の役割のあいだに顕著に見られることを指摘した。この東西の社会倫理における一致には,東西を架橋する社会倫理の萌芽が見られる。
著者
井谷 善則
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C4)教育科学 04 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
no.22, pp.109-117, 1974-02

As an attempt to make clear the mechanism of the maternal and filial affections in a disordered family, I made a survey of the mechanism of school phobia. A primary factor is maternal excessive cares of children or home education. In this attempt, the following aspects are considered important as the basis of further studies of family ties: 1) We refuse to trust others with our judgements of value. 2) We confront diversity of value. 3) We worry ourselves about want of feelings of worth and a measure of value. In this paper these three aspects are reviewed and to consider the mechanism of a family it is found that these aspects play a important role to bring the domestic felicity.
著者
小林 和美
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 2 社会科学・生活科学 (ISSN:03893456)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.1-12, 2005-02

本稿は,韓国における高齢者の暮らしと福祉サービスの利用について,テグ市およびプサン市において行った高齢者にたいするインタビュー調査の事例を中心に検討したものである。高齢者の暮らしは,居住地域(都市/農村)と社会階層によって大きく異なるものとなっている。都市中上層の高齢者がジルバータウン,老人福祉館,老人大学などを選択的に利用しながら活動的な日常を送っているのにたいし,都市下層の高齢者は,敬老堂,老人福祉館,社会福祉館,近所の公園などで単調な毎日を過ごしていた。農村の高齢者は,敬老堂を中心に,緊密な近隣関係に支えられて生活していた。
著者
吾妻 修
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, pp.209-221, 2003-02

モリエール作の喜劇『ドン・ジュアン』は、スペインのドン・ファン伝説に想を得た作品である。しかしモリエールのドン・ジュアンは単なる女たらしではなく、思想上の真摯な造型である。ドン・ジュアンとは何者か。Dom Juan de Moliére est l'œuvre qui emprunte ses éléments à la légende du célèbre séducteur espagnol.Mais le héros de Moliére n'est pas un simple galant.C'est un per-sonnage qui réalise le nihilisme comme le résultat des aventures de sa pensée.Pour l'eclaicir nous avons examiné les particularités de l'amour de Dom Juan,son idée concernant la morale,et son mode de conduite.Nous avons aussi indiqué que le séducteur,quoiqu'immoral,est un homme de grand mérite à cause de sa sincérité propre.Puis nous avons exposé le rapport de la raison et de la conscience,qui se trouvait au fond des problémes du nihilisme.Enfin nous avons vu quel est le sens de la décision de Dom Juan de devenir hypocrite,laquelle le conduit à la perte.
著者
鉄口 宗弘 東 庸介 三村 寛一
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第4部門, 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.59-68, 2012-02

本研究は大学女子サッカー選手を対象に,運動後に市販酢酸飲料を摂取させ,その後の疲労回復に及ぼす影響について検討を行った。その結果,サッカー練習後の市販酢酸飲料は,翌日の疲労自覚症状を減少させる傾向を示した。高強度運動としてのウィンゲートテスト後の市販酢酸飲料摂取により,運動後5分と10分の血中乳酸濃度がスポーツドリンク摂取時に比べて低値を示す傾向を示した。また,対象全員が味に対して高評価を示し,ほぼ全員が運動後に摂取可能であると回答した。以上より,市販酢酸飲料は運動後でも比較的摂取しやすく,運動後の疲労回復効果および運動翌日の主観的な疲労を軽減させる可能性が示唆された。
著者
北川 純子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.1-12, 2010-09

「間(ま)」は,日本の芸事,作法,舞踊,話し言葉,音楽など,複数の領域で用いられてきた概念の一つである。しかし,「間」概念がそのように広く日本文化を横断して使われてきたことは,逆に,音楽における「間」の意味をぼやけさせてきたきらいがある。本稿では浪曲(浪花節(なにわぶし))の三味線において「間」の語がどのように使われているかを検討する作業を通して,精神的かつ「日本独特」だと見なされがちな「間」概念が日本音楽においてもつ,実体としての意味を明確にする。The purpose of this paper is to examine 'ma' concept in Japanese music.'Ma', literally means space, is a crucial concept for actors, dancers, performers and musicians in Japanese culture and has been considered as a unique aesthetics of Japan. The present paper deals with the usage of 'ma' at shiamisen playing in rōkyoku. The results show that 'ma' is not spiritualistic concept but refers actual musical aspects such as rhythm, timing an beat.
著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第4部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.1-13, 2007-09

第2次世界大戦終結後の占領期に形作られた法体系に関しては,戦後の半世紀以上にわたりその是非が議論されてきた。日本国憲法の制定から,社会科という一教科成立のレベルに至るまで,その形成プロセスに対する異論がある一方で,敗戦国としての自制を維持するのに効果的であるという論調も強かった。今般の国会勢力図は長年の懸案であったところの改憲問題,教育基本法改正問題をめぐる状況に変化をもたらし,連立与党の意向によって戦後の法制度を大きく変えることが可能になったのである。改憲手続きに関しては連立与党内でも意見の一致を見ないことから,すぐに実現することはないと思われるが,憲法改正に比して非常にハードルの低い教育基本法改正は,国会審議のプロセスに載せられ,改正が実現する運びとなったのである。2006年に教育基本法改正手続きが現実味を帯びてくると,主として左派勢力から教育基本法改正に対する強い反対意見が表明されるようになった。その主たる反対根拠は戦時下への回帰に対する危惧であり,「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンが教育基本法改正反対論者の旗印となった。一方政府与党内では,日本国内の治安の悪化とりわけ子どもの人格形成に関する危機感や,学力低下に対する危機感も高まっており,与党が国会で圧倒的多数を占めるこの時期の改正に非常に意欲的であると見られたのであった。本稿では,教育基本法の改正を取り上げて考察するものであるが,それはイデオロギーや法的な意味を解釈することに主眼を置くものではない。筆者が専攻している教科教育の授業実践においてさらには学校教育における指導において,旧来の教育基本法と新しい教育基本法の理念が現実にはどのような形で相違を生じさせるのかというレベルでこのたびの事態を考察したいのである。そもそも,子どもたちをどのような人間として育てるかという「善さ」の問題は法律レベルで十分に対応可能なものではないと考える。もっとも重要であるのは,法体系において理念として語られる「善さ」が真に学校現場の教育実践と結びついて機能するかどうかが問題なのである。子どもの成長に影響を与えるのは,教育基本法やその教育基本法の下で運営される学校教育に限定される問題ではない。家庭や地域社会・教師の資質などのレベルのみではなく,教師と家庭がいかに信頼関係を保ちつつ子どもの教育にたずさわることができるのかということによって,教育効果は全く異なるものとなるであろう。学校というストイックな空間と,現代の消費社会はその共存がかなり難しくなってきている。教育基本法の改正によって教育が連動的に改善されると考えている者は稀であろう。教育基本法の趣旨に添ったいかなる教育改革が必要であって,それはいかにして実現可能であるかを考察することなくしては教育基本法の改正は実効性を持たないであろう。改善可能であることと改善困難であることが何であるのか,また全般的な教育機能の回復にとっていかなる措置が追加されなければならないかという課題に関して,あくまで学校教育・教科教育のレベルで建設的な考察を行うことを本稿の目的としたいのである。
著者
出野 卓也
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第5部門, 教科教育 (ISSN:03893480)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.13-21, 2012-02

生物顕微鏡を用いた観察実習において,顕微鏡操作や観察の指導を個別に行うための教具について考察した。既存の顕微鏡観察の指導用機器や市販のデジタルAV機器の本目的への活用について検討を加え,iPod touchを中心とした新たな指導用教具を開発した。また,この指導用教具を利用した指導方法についても検討し,個別指導,グループ活動,全体指導における利用方法を提案した。
著者
赤木 登代
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.55, no.2, pp.1-13, 2007-02

ドイツの第一波女性運動は、19世紀半ばに始まり、20世紀のナチスの政権掌握まで続いたとされるが、女子教育制度の整備・発展、そしてそれに基づく就業の機会拡大、経済的自立をその大きな目標のひとつに掲げていた。本論では第I報として、当時の女子教育の現状を述べた上で、市民層が抱いた女子教育の理念とその理想を実現するための活動を、女性運動家たちが設立した「女性協会」という組織の紹介を通じて概観する。Die so genannte erste Frauenbewegung in Deutschland begann in der Mitte des 19. Jahrhunderts und endete im Jahre 1933, mit der Machtübernahme Hitlers. Für die Frauenemanzipation erhebten die Frauenrechterinnen aus dem Bürgertum Forderungen auf eine bessere Frauenbildung. Für dieses Ziel unterstützten sie gegenseitig und gründeten Frauenvereine. "Allgemeiner Deutscher Frauenverein (ADF)" war die erste organisierte Frauenvereinigung Deutschlands und machte großen Einfluß auf die weitere Frauenbewegung. Louise Otto-Peters, die Gründerin des ADFs, gab eine politische Frauenzeitschirft "Frauenzeitung" heraus, um Frauen politische Interessen nahezubringen. "Lette-Verein" förderte die Erwerbsfähigkeit der unverheirateten Frauen des Bürgertums. Der Verein kämpfte auch um die Einrichtung von Mädchengymnasien. "Deutscher Frauenverein Reform" gehörte zur radikalen Richtung der ersten bürgerlichen Frauenbewegung und setzte sich für das Frauenstudium ein. Im Jahre 1908 wurden die Frauen zu den deutschen Hochschulen zugelassen.
著者
森中 敏行 乾 まどか 木内 葉子 吉田 晴世
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 人文社会科学・自然科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University. Humanities and social science, natural science (ISSN:24329622)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.257-276, 2021-02

2018年10月にLenovo社および本学の支援を受けて、G Suite for Educationの実証研究がスタートした。まず始めに、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の選択者を対象に課題研究で、運用を始めた。さらに2019年4月からは、全校的な運用段階に移行したが、英語や理科の特定の教科での活用に留まっていた。しかし活用事例を蓄積することで、徐々に広がり、COVID-19による休校措置により、全校的運用に至っている。この間に、蓄積された活用事例を紹介するとともに、生じた課題についても報告する。
著者
馬淵 卯三郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第I部門:人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.38, no.2, pp.189-204, 1990-02-28

熊沢蕃山に始まる禮楽論のキーワードとなった「雅楽」について,隋書までの史書の音楽志類における用例を見ると,必ずしも一義的に天子の郊廟祭祀の音楽の名前であったわけでなく,「雅」には形容辞の性格が強い。他方,続紀の用例や令本文及びその解釈は,相互に矛盾することが多いが,伝統的な歌舞を雅楽とし外来の唐楽等を雑楽としていたとすることも不可能ではない。以上を序論として第2報で,蕃山以降の儒者達の禮楽論と音楽の様式について論じる。Fur die reigaku 礼楽(auf chinesisch:liyue)-Idee galt gagaku 雅楽(auf chinesisch:yayue)als Schlusselwort.In der konfuzianischen Idee soll yayue die Musik fur die kaiserliche Himmel-sowie Ahnenkult bedeutet haben,jedoch handelte es sich fur das gagaku-Repertoire eigentlich um die Bankettenmusik des Tang-Hofs.Da der Referent die Gebrauchsbeispiele des Wortes yayue in den Musikbuchern wie Liyue-zhi 礼楽志 ,Yiinyue-zhi 音楽志 der chinesischen Geschichte von Shiji 史記 bis Suishu 隋書 uberprufte,wurde es klar,daB das Wort kaum konkreten Inhalt zeigte,vielmehr dichterisch-ideenhaft benutzt worden war.Nun,die japanischen Quellen wie Shoku-nihon-gi(797)bzw.Ryo(718)und dessen Kommentar(c.880)verstanden die importierte Bankettenmusik unter Togaku(Tang-Musik)u.a.,also nicht unter gagaku.Die falsche Gleichsetzung des Wortes gagaku mit der Tang-Musik kann von den Konfuzianisten der Edo-Periode verursacht worden sein.
著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 4 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.173-185, 2006-02

本稿は,就学前の子どもの日常生活に存する事物あるいは事象の一切を教育的契機として位置づけ,それら教育的資源の有効な活用をはかるための指針と具体的方略及び課題を提起することを目的とするものである。それら教育的資源がいかなる教育的価値を孕んでいるか,さらに教育的価値を発現する上で妨げとなる懸念のある諸要素をいかに把握し,逆にそれらを価値ある諸要素に転換するための手だては存在するという見地から,可能な限り具体的に「日常経験の教育的価値」とその機能の仕方を記述してみたいと考える。筆者はこれまで20世紀初頭おけるドイツのHeimatkunde,昭和初期の郷土教育論及び実践,さらに戦後の地域学習の役割の再評価を通して,子どもの経験という視点から郷土すなわち日常生活空間が内包する教育的価値の解明にアプローチしてきたつもりである。本稿では支障ない範囲で「郷土」を「日常生活空間」と読み替えることで,子どもの日常生活における教育機会を抽出し,その意義と課題を考察してみるつもりである。さて,子どもの日常生活における教育的契機が多数見いだされ,その教育的機能の有効性が期待されるとしても,そしてさらにその有効性が疑いないものであるとしても,教育機会を提供し制御する主体が誰であるのか,またその人的・物質的支援は何人が責務を負うべきであるのかということは,教育の営みの中で常に問い直され続けなければならない課題であると思われる。筆者は学校教育における教科教育専攻に身を置いているが,教科教育の授業で実現可能である側面は一般に世間で認知される範囲を遙かに超えるものであるということを前提としてみても,授業を中心とする学校教育の中では実現が困難である側面があることを看過することはできない。そもそも教科教育を前提とした授業は成長のすべてをカバーしうるものではない。だとすれば,教科の授業を超える部分に対して,さらに就学前の子どもたちに対して我々はいかなるアプローチが可能であるのだろうか。学校教育を構想し運営する教育委員会や教師たちばかりではなく,国家・自治体さらには地域社会の市民がもっと意識的に教育を支援しなければならないのではあるまいか。国家が責務を負うのはすべての国民に平等な教育機会を提供することであり,学習指導要領に示されるような水準の学力・能力を身につけうる条件を確保することであり,そのことをもって我が国の国民・市民としての最低限の資質を身につけさせる機会を保証することである。子どもの個性のどこを伸長させ,どのような人間として育てるべきかということは学校や国家が決めるべきことではあるまい。それは第一義的には子ども個人の意志によるものでなければならないし,そして次には保護者の教育方針によるものでなければならない。子ども自身あるいは保護者の思い描く社会観・人間観が「公共の福祉」に反しない限りは,学校や国家にそれ以上の方針強要の余地もないし,その権利もないはずである。近年の学校教育現場で,学校側と保護者側の意思疎通の失敗から児童・生徒と担任教師の間に学級運営上の支障が生じていることを耳にすることが多くなっている。以前から言われているような,保護者の高学歴化にともなう教師の社会的地位の低下,学校と家庭の教育的機能分業の崩壊などさまざまな要因があるであろう。こうした問題は可視的に統計的に考察することが難しいばかりではなく,社会的な枠組みからの考察が個性的なひとりの子どもの教育という営みにおいて具体的な指針とならないという事情にも原因はあるだろう。保護者や地域社会と学校との協力関係の構築が今は急務なのである。そして,協力関係の構築のためにもっとも留意されるべきことは,子どもの「望ましい社会観・望ましい人間像」を共有することである。筆者は,家庭の側に無制限の教育方針の自由が許されているとも考えない。学校教育は子どもの学習能力の向上を担うのみでなく,それ以上に子どもの社会化という任務を負っているはずである。その学校の責務を阻害するのは保護者の利己的な主張に過ぎないことを改めて確認しておかなければなるまい。望ましい人間像は,理念的にはいくつもの命題で提示することが可能である。自主性のある子ども,創造的な子ども,個性的な子ども……等々である。これらの諸目標は極めて抽象的であるため,批判的解釈の余地が少なく,そのスローガン自体に異を唱えることは難しい。しかし,理念が正しくともそれが現実の子どもの指導方針を無条件に肯定するものではないこともまた明らかである。理念的な目標はしばしば具体的な場面において価値の対立や矛盾を露呈する。このことは「望ましい社会観・望ましい人間観」のレベルでの共通認識は,現実的な機能不全をもたらしかねないことを物語っている。抽象的な社会観・人間観は,「その実現プロセス」における共通認識の成立をもってはじめて「共有」「協力」が可能になるものであると考える。現在の教育の混乱,教育機関への不信は,社会的に通用するような「望ましい社会観」・「望ましい人間像」が共有できていないばかりでなく,それ以前に,共有の当事者であるところの保護者や教育者たちの中において「望ましさ」が具体的な像を結んでいないからであると思われる。「望ましさ」を明確にイメージ化できるかどうか,それを矛盾なく一個の人格の中に形成していけるかどうか,まさにこの点に子どもの将来,さらには我が国の将来の行く末を左右する要因が内在していると考える。
著者
畦 浩二 前川 太佑
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 総合教育科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:24329630)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.75-85, 2020-02

本研究は,日本中に広く分布し苔類の代表例として教科書によく取り上げられるゼニゴケの繁殖季節を明らかにすると同時に,中学校理科で活用できる発展的学習教材を開発することを目的とした。大阪府八尾市内の農業用水路で13ヵ月間定期採集を行い,配偶子のうの成長から胞子散布に至るまでの過程および胞子と無性芽から若い葉状体に成長するまでの過程を調査した。その成果は,以下のようにまとめられる。1)受精は3月と9月頃に開始される可能性が高い。2)胞子は年2回,4~5月頃と10~11月頃に散布されるが,同じ葉状体が2回連続して胞子体を形成しない。3)胞子と無性芽の発芽率はともに高いが,葉状体までの成長に要する期間は無性芽の方が比較的短い。4)ゼニゴケの一生を理解するための発展的学習教材として,図版「ゼニゴケの生活環」を開発した。
著者
松岡 礼子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 総合教育科学 (ISSN:24329630)
巻号頁・発行日
no.69, pp.245-251, 2021-02-28

マルチモーダルなコミュニケーション世界において21世紀型のことばの教授を志向するために、知の伝達授受および新しい知の創出に携わる教師にとって、教科書をマルチモーダル・テクストとしてとらえる視座は重要である。本稿は、教科書の挿絵を活用した古典の授業でなじみある『源氏物語』「若紫」の「源氏物語画帖」を素材にした実践の考察を通して、詞書と切り離され教科書の活字テクストを補完する画像テクストとして新たなコンテクストに組み込まれた画帖が、どのように学習者の意味生成に関わるのか、その可能性と課題を明らかにするものである。
著者
山本 信弘 光藤 雅康 須藤 勝見 上延 富久治 近藤 雄二 山下 節義
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 3 自然科学 (ISSN:03737411)
巻号頁・発行日
vol.37, no.2, pp.p287-297, 1988-12
被引用文献数
2

ファミリーコンピュータなどの家庭用テレビゲームが急速に普及し,児童の心身発達過程における悪影響が指摘されはじめた。われわれは,小学校高学年の児童を対象に質問紙法によりテレビゲームの実行状況を調査し,特に,画面を見つづけることによる視機能や身体・精神面への影響とテレビゲーム遊びがもたらす日常生活場面における影響に関するデータから,学校保健上の指導対策を考えた。その結果として以下の様な知見を得た。(1)テレビゲーム経験者は調査対象者の9割以上で,遊びの頻度と1回当りの時間については約4割の者が親や教師との約束を守りながら実行していた。(2)テレビゲーム実行後の自覚症行については眼の症状の訴えだけでなく,頸,肩,腕,手指などの訴えが多く,実行時の姿勢や環境に留意させる必要がある。(3)精神面については,「何もしたくない」,「イライラする」,「親の話を聞くのが面倒」などと訴える者が多く,無気力,短気,反抗的などの傾向がみられる。
著者
田中 翔一郎 畦 浩二
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第IV部門 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.43-52, 2013-09-30

児童の植物の生命の連続性における概念形成の状態を,植物の発芽の視点から,小学校第5学年の児童を対象に分析した。その結果,児童の植物の発芽に関する科学概念の形成は難しく,一度形成された科学概念も時間の経過とともに再び素朴概念へ戻ってしまうことや植物の発芽条件を植物の成長条件と誤って理解してしまうことが確認できた。さらに,植物の発芽の学習が,児童の植物の生命の連続性の概念形成に必ずしもつながっていないことも明らかとなった。これらの結果から,児童に植物の生命の連続性の概念形成を図るために,学習指導において以下の3点の必要性が示唆された:1)児童の素朴概念を活用した実験を実施すること,2)植物の発芽と植物の成長の学習順序を入れ換えること,3)植物の生命の連続性に関する新たな学習内容を設定すること。最後に,これら3点を踏まえた「植物の発芽と成長」の授業をデザインした。
著者
家木 康宏
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.73-85, 1999-01

アガサ・クリスティの作品には, 彼女の生まれ育ったデヴォン州が舞台としてよく登場する. 本稿は家木[1997]の続編であり, デヴォン州, コンウォール州など, クリスティの物語の舞台とその記述の関係を, 実証的に論じたものである. 彼女の物語に現れる地名は, 彼女がよく知っていた場所を描いたものと, 名前だけを借りたものとの2種類がある. また, 特に特定のモデルを持たず, いわゆる「メイヘム・パーヴァ」の概念に基づいて描写されている場所も多い. それと同時に, 物語の中で重要な役割を演じることがある鉄道についてのクリスティの知識についても引き続き論じたい.