著者
金城 政勝 東 清二
出版者
琉球大学
雑誌
琉球大学農学部学術報告 (ISSN:03704246)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.311-316, 1991-12-04

1. 西表島に分布する8属9種のセミの分布を種ごとに図示した。ヤエヤマニイニイの分布は,リュウキュウマツの分布と重なることが多い。リュウキュウクマゼミは島の周縁部の林や,里山に生息する平地性のセミである。ヤエヤマクマゼミ,イワサキヒメハルゼミ,タイワンヒグラシの3種は,里山から内陸部の林地に見られ,イシガキヒグラシは内陸部の原生林のみに見られた。イワサキゼミは各地に見られる広域分布型であり,ツマグロゼミの分布域は狭いようである。イワサキクサゼミは道路沿いのイネ科草地の種である。2. 西表島では,3月から12月までの10ヶ月間,いずれかのセミが見られ,7,8,9月の3ヶ月に発生する種の多いことがわかった。西表島のセミの出現期を沖縄の他の種と比較すると,出現期の遅れる種があることがわかった。3. 1988年9月12日,船浦において5種のセミの発音日周活動を調査し,その結果を示した。
著者
筒井 康隆
出版者
新潮社
雑誌
新潮
巻号頁・発行日
vol.94, no.7, pp.110-117, 1997-07
著者
小林 文明 藤田 博之 野村 卓史 田村 幸雄 松井 正宏 山田 正 土屋 修一
出版者
社団法人日本気象学会
雑誌
天気 (ISSN:05460921)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.53-64, 2007-01-31
参考文献数
27
被引用文献数
4

2002年10月6日から7日にかけて発達した低気圧の北東進に伴い,各地で突風災害が相次いだ.横須賀市内では10月7日04時頃突風災害が発生した.現地調査の結果,被害は100か所を越える住家で確認され,被害域はほぼ直線的で長さ2.5km,最大幅は約150m(平均で30〜50m)であった.被害スケールはF1から局所的にF2であった.被害域は連続しておらず,かつ蛇行していた.また,最も被害の大きかった公郷小学校付近で被害幅が広がっており,竜巻の複雑な挙動が示唆された.最大風速に関しては,被害が最も甚大であった場所の東端に位置する道路標識から少なくとも風速は34〜38ms^<-1>と見積もられ,被害スケール(F1)を裏付けた.今回の突風は以下の理由から竜巻であったと推測された.地上被害の特徴から,1)被害域の幅が狭く直線的である.2)回転性(低気圧性)の風による痕跡が確認された.3)吸い上げ渦とおもわれる痕跡が2か所確認された.4)吸い上げ渦の痕跡近傍では,実際に体育館の屋根や空調室外機が少なくとも高さ10mは吹き上げられた.上空の積乱雲の特徴は,5)強エコー域の南西端に被害域が対応していた.6)ドップラー速度パターンには直径7kmの渦が上空に確認された.7)このメソサイクロンの影響をうける地上観測点では,1hPaの気圧降下が確認された.横須賀市の竜巻被害は,発達した低気圧の暖域で形成された積乱雲群が広範囲にわたりもたらした竜巻(ダウンバースト)の中のひとつに位置づけられる.
著者
エブベキーロフ セルヴェル
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.103-121, 2003-05-31

本講演で取り上げるイスマイル・ガスプリンスキイはロシア軍士官ムスタブァ・ガスプリンスキイの長男として1851年に生まれ、クリミア戦争期に一家は挙げてクリミアの古都バフチサライに移住し、1914年に死去するまでクリミア・タタールの文化復興運動に身を捧げた人物として知られる。彼が生涯を捧げた教育啓蒙活動はクリミア・タタールの歴史と文化の復興にとどまらず、足跡は広く中央アジア各地域にまで及び、後世"汎トルコ主義の父"と呼ばれるようになった。彼の受けた教育には19世紀中葉のロシア・インテリゲンツィアの教育啓蒙思想が色濃く反映しており、それを背景として帝政ロシア支配下のトルコ系諸民族の覚醒運動に影響を行使したといわれる。クリミア・タタールの祖国クリミア汗国はチンギスハーンの直系として金帳汗国の内訌から分裂して誕生した一汗国として1500年にバフチサライに首都を定め、学芸の拠点として大学を設立するなど繁栄を極めた。300年に及ぶ繁栄を謳歌したクリミア汗国は北方のリトアニア大公国やモスクワ大公国(のちのロシア帝国)へ略奪遠征を繰り返すなど、スラヴ諸民族の視点からは悪い評価が下されがちである。しかし、エカテリーナニ世により1783年4月に帝政ロシアに併合されるまでは中央アジアとヨーロッパをつなぐ文化交流の橋渡しの役割を演じ、その歴史的意義は無視されてはならない。クリミア汗国は金帳汗国の支配民族として黒海北岸に伝統的な遊牧生活するノガイ系のほか、海岸部には往時のギリシア(ビザンツ)系、ジュノヴァ系などのヨーロッパ系住民が居住し、首都バフチサライ周辺にはユダヤ系一派カライム人が居住するなど多民族社会を構成していた。チンギスカーンの直系たるクリミア汗はイスラム世界における政治的権威は高く、黒海対岸に勢力を拡大したオスマン帝国のスルタンもクリミア汗を格別の待遇をもって接したといわれる。高い学識と教養を備えたクリミア・タタール出身者はオスマン帝国社会でも重用され、幅広く活躍したといわれる。汗国の滅亡後クリミア・タタールの多くはオスマン帝国領内に散っていったが、故地バフチサライに残った人たちの間から文化復興の機運が芽生えたのは19世紀末になってからである。その中心人物がイスマイル・ガスプリンスキイであった。初等教育をバフチサライのズィンデルルィ神学校で学び、10歳のときにシンフェロポリのロシア・ギムナジウムで学んだあと、父の意向によりボロネジの幼年学校へ、ついでモスクワの士官学校へ進学した。しかし軍務を好まなかったガスプリンスキイは1867年密かにオデッサへ向かい、そこからイスタンブールへの密航を企てるが、旅券不所持ゆえに乗船できず、バフチサライへ帰郷した。バフチサライでは上記ズィンヂルルィ神学校のロシア語教師に任用され、精力的にロシア・インテリゲンツィアの社会思想を摂取した。並行して生徒向けにトルコ語の講習も自主的にはじめた。まもなくガスプリンスキイはタタール語の文法規則にアラビア語表記を当てはめることの不都合さを感じ、やがて神学校の旧弊な教育方法に批判的になり、その態度が神学校の保守派の反感を招き、辞職を余儀なくされた。1872年、ガスプリンスキイはヨーロッパ旅行へ出かけ、パリに落ち着いた。3年間のパリ滞在はその後の生涯にとって大きな意味をもった。というのもイヴァン・ツルゲーネフの秘書となる僥倖に恵まれ、ツルゲーネフの助言により彼はフランス語を習得して翻訳業に専念し、西欧文化を徹底的に学び、後の偉大な啓蒙家へ転身する足がかりをつかんだのである。西欧文明の摂取こそが後進的諸民族の開化の道筋と確信するに至ったガスプリンスキイは、帰国の途中イスタンブールを訪れ、冊子『西欧文化の概観』を発表し、「西欧文化を内部から学ばずしてわれわれは何も理解できない」と述べ、ムスリムの伝続社会を厳しく批判した。1875年冬、クリミアへ戻ったガスプリンスキイは、まずオスマン・トルコ社会の状況をつぶさに検討し、ムスリム社会の革新の方策を模索した。1879年、ガスプリンスキイはバフチサライ市長に就任する。市長職にあった4年間の最大の課題は民衆の啓蒙教化であった。啓蒙教化を図るには、何よりも誰も手にできる雑誌の刊行が実現されなくてはならなかった。ロシア政府にトルコ語による新聞雑誌の印刷を許可してもらおうと志し、1881年、シンフェロポリの印刷所で偽名の小冊子「ロシアのムスリム」を刊行し、「ロシアの同胞よ!われわれには学問と文化が必要だ。助けて欲しい」と書いている。その甲斐あってトルコ語による出版活動の許可が下り、1883年4月10日からのちにガスプリンスキイの名を高めることになる情宣誌『翻訳』を発刊するに至った。これはロシア語とトルコ語の併用であった。当初320部のみであった『翻訳』詰は、カフカス、カザン、中央アジア、シベリア、オスマン帝国領内、ルーマニア、ブルガリア各地に配布され、15,000〜20,000部までに発行部数を拡大した。ロシア帝国領内でも『翻訳』誌や彼の啓蒙活動は東洋学の大御所バルトリド等の高い評価を得、またペテルブルグの『イスラム世界』誌に紹介されている。啓蒙活動の一環としてガスプリンスキイは20世紀に入り、インドのデリー大学で講演したのを皮切りに、1908年にはエジプトでアラビア語による『覚醒』誌を発行するなど1914年に没するまで精力的な啓蒙活動を続け、中央アジアのトルコ系諸民族のあいだに強い影響を及ぼした。しかし、こうしたガスプリンスキイの輝かしい啓蒙活動はソヴィエト政権下では否定的な扱いを受けた。とくにスターリン体制下では「軍事的封建的帝国主義の鼓吹者」、「タタール・ブルジョアジーのイデオローグ」といったレッテル張りがなされ、「汎トルコ主義者」、「汎イスラム主義者」、「反動家」と規定されるなど歴史から抹殺される運命をたどった。1944年のクリミア・タタールの中央アジア追放後は文献に僅かに名を残すのみとなった。1970年代にクリミア・タタールの名誉回復が行われてから徐々にタブーが取り除かれ、1987年に雑誌『東方の星』に掲載された論文が肯定的な評価を与えた最初である。1991年3月、彼の生誕140年記念を機にシンフェロポリで国際会議が開催され、旧ソ連や東欧諸国をはじめ西欧諸国の東洋学者が一堂に会してガスプリンスキイの顕彰作業がはじまった。ガスプリンスキイの見直し作業は今後の課題である。クリミア・タタールの歴史と文化の複興、トルコ系諸民族の民族復興運動は、ガスプリンスキイの再評価と連動している。
著者
平林 幹雄 江渡 浩一郎
出版者
一般社団法人情報処理学会
雑誌
情報処理学会研究報告データベースシステム(DBS) (ISSN:09196072)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.78, pp.215-222, 2006-07-13
被引用文献数
1

全文検索システムの転置インデックスを実現するにあたり,テキストデータからN-gram法によって切り出したトークンを検索キーにする手法が広く用いられている.この手法には,言語中立性や再現率の完全性という利点がある反面,検索対象の文書群から抽出するトークンの数が膨大になるために,転置インデックスのサイズが肥大化して空間効率が悪化するという欠点がある.検索の際にクエリから切り出した各トークンが対象文書のテキスト内でも連接しているかどうかを判断するためには,転置インデックス内にトークンの文書内での出現位置を記録しておくことが必要となるが,この位置情報が転置インデックスの肥大化の一因となっている.本稿では,N-gram法の欠点である転置インデックスの空間効率を改善する手法として,N.M-gram法を提案する.N.M-gram法では,各トークンの文書内での位置情報のかわりに後続のトークンのハッシュ値を用いることによって,N-gram法の利点である言語中立性や再現率の完全性を保持したまま,空間効率を改善することができる.When constructing inverted index for full-text search system, using N-gram is very popular for tokenizing text data of target documents. Although the method has many advantages like language neutrality and perfect recall ratio, it has also shortage that the inverted index becomes large. The tokens extracted from documents tend to be enormous. The system needs to record each offset of tokens into inverted index because the offset is used for checking adjacency of tokens. The inverted index tends to be large because of the offset. In this paper, we describe N.M-gram method, which improves space efficiency of N-gram. The method uses hash values of succeeding tokens instead of offset in each document. The method can improve space efficiency without losing advantages of N-gram.
著者
新美 幸夫
出版者
日本天文学会
雑誌
天文月報 (ISSN:03742466)
巻号頁・発行日
vol.90, no.10, pp.472-479, 1997-10
著者
永田 孝信
出版者
大阪音楽大学
雑誌
大阪音楽大学研究紀要 (ISSN:02862670)
巻号頁・発行日
no.51, pp.38-52, 2013-03-01

古典派音楽と比較すると、ロマン派音楽の和声には機能的に把握できない一連の和音の動きが含まれることが多い。本稿では、その中からRoving Harmony(浮遊和声)とParallelChord(平行和音)を取り上げ、両者が機能和声に基づく長・短調システムからの離脱であり、調性に曖昧さや不確定性を与える「非機能的和声」としての性格をもつこと、さらに両者は機能和声との相関的関係において調性の確定度に関与し、ロマン派音楽における調性の4 つの局面、すなわち「安定」「不安定(流動的)」「曖昧」「不確定」の状態をもたらすために必要不可欠な要素であることを明らかにする。また、この調性の4 つの局面が「夢と愛」に集約されるロマン主義の理念とどのように関連するかについても概説する。
著者
長井 純市
出版者
公益財団法人史学会
雑誌
史學雜誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.95, no.12, pp.1881-1894, 1966-1965, 1986-12-20

The Extraordinary Postal Regulatory Law, promulgated in October of 1941, stemmed from an urgent Imperial decree that called for the censorship of the mail, with particular attention to foreign mail. Behind the enactment of this Law lay the necessity of protecting many military secrets related to the prolonged war between Japan and China. The main impetus for the Law seems to have come from the Ministry of War, although the Military Police and the Ministries of the Navy, Home Affairs and Communications also seem to have been highly supportive of it. Prior to the passage of this Law, these Ministries and the Military Police had been conducting illegal censorship of the mails for the express purpose of protecting military secrets or collecting foreign intelligence. After the enactment of the Law, Postal Inspectors or Assistant Postal Inspectors were deployed to the major post offices handling foreign mail, such as those at Tokyo, Yokohama, Osaka, Kobe and Shimonoseki. Their activities were centralized and overseen by the Ministry of Communications. Among these inspectors were some who held positions in the Military Police or the Special Thought Control Police. Needless to say, the volume of foreign mail exceeded the capacity of their work ; but about 10% of the foreign mail was effectively put before the censor's eyes. Of those persons who were prosecuted, there included not only those who exposed military secrets, but also those who expressed feelings of war weariness or made political criticisms. The use of the Law was not limited only to the protection of military secrets but also extended to war-time research efforts into the Japanese people's private attitudes and feelings. Such reports were actually drawn up by the Ministries of Communications and Home Affairs on the basis on their postal censorship activities. Considering the political meaning of the Extraordinary Postal Regulatory Law, it is impossible to say that the "freedom of the people" as described in the Meiji Constitution was completely overlooked. That is, those bureaucrats who were engaged in the exercise of the Law were compelled to take extreme caution for fear of the people's criticism, despite the fact that several other leading powers such at Great Britain already had similar postal censorship institutions in operation. With Japan's defeat at the end of the War, the Extraordinary Postal Regulatory Law was immediately abolished ; but under Douglas MacArthur it re-emerged under a different form during the Occupation period.
著者
石原 俊
出版者
京都大学文学部社会学研究室
雑誌
京都社会学年報
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-33, 2005-12

In the 19th Century the Ogasawara/Bonin Islands were the center of the automatic life world in the Northwestern Pacific Ocean called "Japan Ground" by the seamen and whalers. From 1830 to 1875 the settlers of the Ogasawara Islands came from all parts of the world. They contacted and traded with whalers who stopped at these islands. In 1875 "the Empire of Japan" began to occupy these islands and these settlers were naturalized to "Japanese", but these people named "kikajin" (meaning naturalized people) re-arranged and kept their automatic life world. They kept trading with "foreign" seamen who stopped at these Islands. After 1870's they were employed as hunters by the "foreign" schooners to the Sea of Okhotsk for fur-seal hunting every year, often "violating" the border of "Russia" or "Japan". Under such condition the Ogasawara Islands and the life world of the settlers attracted the attention of the politicians, economists, journalists and explorers in "the Empire of Japan" in 1880's and 1890's. The oceans and islands in "Japan Ground" were named "Nan-yo" (meaning the southern ocean of "the Empire of Japan"). They "found" the Ogasawara Islands the center or the strongpoint of the oceans and islands in "Nan-yo" and the very model of the development of "Nan-yo". About that time the key word of the discourses and practices on "Nan-yo" was "Jiyu-koueki" (meaning free trade). Before the occupation of "the Empire of Japan" the Ogasawara Islands and "Japan Ground" had been focused by "the British Empire" (e.g. Rutherford Alcock), the United States of America (e.g. Matthew Perry) and the Tokugawa Regime (e.g. "John Mung") as the proving ground of the development based on the principle of "free trade". After the occupation the Ogasawara Islands came to be regarded as the strongpoint and the model of "Nan-yo" by the discourses and practices which supported "Jiyu-koueki" (e.g. Ukichi Taguchi, Tohru Hattori and Han-emon Tamaki). Such discourses and practices supported utilizing the life world around "kikajin(s)" in the Ogasawara Islands, especially their automatic and border-transgressing practices. They promoted the development of the Ogasawara Islands and "Nan-yo" through the "free" trading and colonizing without strong sovereign or military power. However in 1900's the development of the Ogasawara Islands became the big undertaking accompanied with the strong sovereign power and the large budget of "the Empire of Japan". The "Ogasawara-sima En-yo Gyogyo Kaisha" (meaning "the Ogasawara Islands Pelagic Fishery Company") which was founded and backed up by the local agency of "the Empire of Japan" took the initiative in this undertaking. Moreover the company began to appropriate the life world around "kikajin(s)". In 1910 the naturalized people in the Ogasawara Islands repelled the local agency to defend their automatic life world. "Nan-yo" was "found" the ideal proving ground of the development based on the principle of "free trade", and/but "Nan-yo" was the critical point of such development. This critical point was the inevitable and immanent result of "the imperialism of free trade" (by J. Gallagher & R. Robinson).
著者
東長 靖
出版者
上智大学
雑誌
上智アジア学 (ISSN:02891417)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.25-44, 2002-12-27

<特集> ジャウィ文書研究の可能性(Study of Jawi Documents) 第1部:ジャウィからみた東南アジアの諸相(Part1:Aspects of Southeast Asia from the Viewpoint of the Jawi document)
著者
山田 尚勇
出版者
国立情報学研究所
雑誌
学術情報センター紀要 (ISSN:09135022)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.33-71, 1997-03

現在世界的な規模で進行しつつある、社会の情報化と国際化に伴い、日本語とその表記法とは、いま新たな問題に直面している。すなわち、言語学的には世界でもっともやさしい部類に属する日本語が、世界でもっとも複雑な表記法を用いているが故に、外にはなかなか国際的に受け入れられず、内には情報化の出発点となる機械可読化、すなわち入力が複雑で非能率、かつストレスの多い作業となることである。本稿では、長期的な課題として、いかにして日本語の表記を国際化するかについて、また短期的な課題として、いかにして現在の表記法のままの文章を能率よく、かつ楽に入力するかについて、考察する。
著者
山下 絢
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.322-332, 2013-09-30

本研究は、相対的年齢効果が生み出されるメカニズムに着目し、子どもの生まれ月と親の階層(社会経済的地位)や教育へのかかわり方との関係を、国内の全国規模データに基づき、定量的に明らかにするものである。分析の結果、母親が教育費の支出に積極的な場合に、その子どもが早生まれではない傾向が確認された。さらに通塾率に基づく地域区分から見た場合、通塾率が平均よりも高い地域において、同様の傾向が確認された。
著者
岡本 素治
出版者
日本昆虫学会
雑誌
昆蟲. ニューシリーズ (ISSN:13438794)
巻号頁・発行日
vol.14, no.4, pp.263-275, 2011-10-05

ヒラズゲンセイの配偶システムについて,羽化脱出直後からの行動観察に基づいて概要を明らかにし,あわせて生活史に関して得られた知見を報告し考察した.ヒラズゲンセイはキムネクマバチに寄生し,成虫は,長い擬蛹期と蛹期を経て,近畿地方では5月の末から6月の中旬に出現する.羽化してクマバチ巣から出ると,雄は特徴的な姿勢をとり,恐らくフェロモンを放出して雌を呼ぶ(コーリング行動).雌は,羽化脱出してしばらくすると飛び立ち,雄のいる巣を探索する.数10m離れた遠方から匂いを頼りに雄の周辺に飛来するのは容易なようであるが,そこから雄がいる巣の場所に到達するには時間がかかる.特に,雄がコーリング行動を止めると,雄のそばに到達するのに要する時間は著しく増大する.雌が雄のそばに至ると交尾が行われるが,通常のマウンティングに先立ち,雄が雌の上に逆向きに重なる特異な行動パターン(「逆マウント」と名付けた)が見られた.交尾がすむと,雌は産卵のためにクマバチ巣内に侵入しようとするが,クマバチによるさまざまなレベルの抵抗を受ける.侵入・産卵に成功した雌は,巣坑内で卵を防御する位置にとどまる.雄も雌に続いて巣坑内に侵入するが,その後も午前中は巣坑外に出てコーリングを行う.2週間程度で孵化した1齢幼虫は,クマバチの毛に大腮でしがみつき,分散していく.トウネズミモチの花の雄蘂の上で訪花活動を行うクマバチを待つヒラズゲンセイの1齢幼虫を発見し報告した.
著者
速水 敏彦 小平 英志
出版者
日本パーソナリティ心理学会
雑誌
パーソナリティ研究 (ISSN:13488406)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.171-180, 2006-01-31
被引用文献数
1 7

これまで,他者軽視に基づく仮想的有能感に関して,感情経験との関連を中心とした検討が行われてきた(速水ほか,2003).本研究では,低い自尊感情を補償しようと,他者軽視を行う典型的なタイプを抽出するために有能感の類型論的アプローチを用い,学習観と学習に対する動機づけとの関連を検討した.高校生395名に対して他者軽視,自尊感情,学習観(学習量,環境,方略志向),および自己決定理論に基づく動機づけ(外的,取り入れ的,同一化的,内発的動機づけ)の尺度が実施された.相関関係からは,他者軽視に基づく仮想的有能感は学習量志向と負の関連にあることが示された.また各類型の特徴を整理した結果,仮想型では,自尊型と比べて,外的動機づけおよび取り入れ的動機づけが高く,同一化的動機づけと内発的動機づけが低い傾向にあった.萎縮型では,いずれの動機づけも低い傾向にあった.