矢部 鴎所 (@komusai06311)

投稿一覧(最新100件)

RT @happymnt: 山本読書室資料から発見された「初代駐仏公使鮫島尚信の右大臣岩倉具視宛書簡について(上)」神田外語大学日本研究所紀要14号掲載がウェブ公開された。https://t.co/iVnVPYxppd #山本読書室
RT @zasetsushirazu: 明治44年5月13日、谷干城が死去。幕末の土佐藩出身で、坂本龍馬とも交流があった。中野目徹氏は、小林和幸『谷干城』(中公新書、2011年)の書評(『史学雑誌』122-8に掲載)で、西南戦争での活躍や貴族院の重鎮としての立場など重要人物であ…
RT @zasetsushirazu: 明治41年4月24日、津田仙が死去(死去日に異説あり)。ペリー来航時、佐倉藩の一員として江戸湾警備に参加。慶応3年には通訳として、福沢諭吉らと共に渡米。津田梅子の父親で、嶋田順好「津田仙の信仰と生涯」(『キリスト教と文化』24)曰く、草創…
RT @kokeshinookimon: ではなく、水でもなく、お茶。 こういう論文を読むのである。 https://t.co/wM5KaVqp4R
RT @zasetsushirazu: 明治16年3月30日、幕末の山陵奉行だった戸田忠至が死去。外池昇「神武天皇陵御修復と戸田忠至「中元御祝義金三百疋」」(『成城大学共通教育論集』7、2014年)は、文久の修陵をめぐる戸田の悪評や、宇都宮藩家老の家督の身分から異例の大出世を遂…
RT @zasetsushirazu: 明治29年3月27日、前山清一郎が死去。幕末期に佐賀藩の藩校・弘道館教授補。佐賀の乱では、中立派の宗龍寺党首領として政府に協力。徳永暁「前山家文書「前山清一郎戊辰戦争関係文書」について」(『国士舘史学』23)は、戊辰戦争で大総督府の参謀を…
RT @kokeshinookimon: https://t.co/T06yFdRlzb https://t.co/1phrkAPAbO 海防掛の概要を論じているのが、前掲書の1・2章部分。このベースとなった論文は上記の2論文なのだが、加筆修正もあるので掻い摘んで読みたい場合も…
RT @kokeshinookimon: https://t.co/T06yFdRlzb https://t.co/1phrkAPAbO 海防掛の概要を論じているのが、前掲書の1・2章部分。このベースとなった論文は上記の2論文なのだが、加筆修正もあるので掻い摘んで読みたい場合も…
RT @zasetsushirazu: 慶応2年2月5日(1866年3月21日)、木戸孝允の手紙(薩長同盟の6か条)に、坂本龍馬が内容を保証する裏書きをした。町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)曰く、龍馬が長州藩要路の一部から薩摩藩士と…
RT @zasetsushirazu: 青山忠正「王政復古前後の政局と公議-新発田藩を事例に-」(『歴史学部論集』10、2020年)曰く、王政復古政変前後の政局では、「その他大勢」の在京諸大名勢力が京都政局の多数意見を形成し、政局の方向性を掣肘した。長州藩毛利家の官位復旧の問題…
RT @genmaysan: 超ー!!ややこしいですけど、こんな家系図です。 :藤田東湖と永井道明の家系図 #いだてん #青天を衝け https://t.co/RjQfCfS1J6 情報出典 :『遺稿永井道明自叙伝』 - 国立国会図書館デジタルコレクション https:…
RT @machi82175302: この間の事情にご関心がある方は、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好 (日本研究所主催講演会 要旨)」をご参照ください。#青天を衝け https://t.co/4aFWiVFAYN
RT @zasetsushirazu: 佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205、2020年)は、幕末の薩摩藩家老の寓居で、薩長同盟の舞台として注目されている近衛家別邸・御花畑について、「それ以前の実態」も含めて考察。薩土盟約の舞台となったこ…
RT @machi82175302: 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を久々に拝読。薩長同盟に関しては、だいぶ私の見解と異なっている。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)を参照下さい。 https://t.co/…
RT @zasetsushirazu: 昭和2年2月5日、川路寛堂(川路太郎)が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の孫で、幕末期に中村正直と共に英国留学。宮越勉「敗戦後の志賀直哉」(『文芸研究明治大学文学部紀要』128、2016年)によれば、志賀直哉は寛堂が編述した『川路聖謨之生涯』(…

3 0 0 0 OA 京洛史蹟歌

RT @tukinoojisan: 『京洛史蹟歌』は国立国会図書館デジタルコレクションでも見られます。81コマ82コマ。 https://t.co/Lqvl17YSVa
RT @zasetsushirazu: 昭和47年(1972年)1月21日、『帰ってきたウルトラマン』第41話「バルタン星人Jrの復讐」が放送。花岡敬太郎「「帰ってきたウルトラマン」制作過程から読み解く1970年代の変容の兆し」(『明治大学大学院文学研究論集』49)は、郷秀樹と…
RT @zasetsushirazu: 明治43年1月20日、清水卯三郎が死去。慶応3年のパリ万博に、唯一の日本人商人として出品。薩英戦争後に五代友厚と寺島宗則を匿った。白山映子「清水卯三郎の政治観」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』49)は、「海外からの啓蒙思想を移入した人…
RT @zasetsushirazu: 明治33年1月8日、浅野氏祐が死去。幕末期に神奈川奉行、外国奉行、陸軍奉行などを歴任。小笠原長行の率兵上京に加担した。岩瀬忠震は、文久遣欧使節団に浅野を加えるべきと考えていたらしい(河北展生ほか「木村喜毅(芥舟)宛岩瀬忠震書簡」『近代日本…
RT @zasetsushirazu: 明治27年1月8日、月形潔が死去。幕末の志士として知られる月形洗蔵の従兄弟で、北海道樺戸郡月形町の町名の由来。樺戸集治監の初代典獄時代、看守の剣術指南役として永倉新八を採用(吉田悦志「作家・子母澤寛誕生の風土-幕府軍敗残兵3人と厚田村-」…
RT @zasetsushirazu: 明治26年12月5日、松平容保が死去。幕末期、京都守護職を務めた。中西達治「孝明天皇の松平容保宛て宸翰」(『金城学院大学論集 人文科学編』16-2、2020年)は、孝明天皇が容保に与えた宸翰を明治天皇が把握していたかもしれないという、白石…
RT @zasetsushirazu: 昭和15年11月24日、最後の元老・西園寺公望が死去。十河和貴「元老西園寺公望と「憲政の常道」」(『立命館 史資料センター紀要』3、2020年)が分析の主軸に据えた中川小十郎(公望の秘書)は、公望が戊辰戦争で山陰道鎮撫総督として配下に迎え…
RT @zasetsushirazu: 大正2年11月22日、徳川慶喜が死去。大庭邦彦「幕末政局と徳川慶喜」(『国学院大学研究開発推進機構紀要』7)曰く、慶喜は有能だが、「逆境の中で頑張ることはしない。あえて泥をかぶっても逆境を挽回しようと粘らない」点が特徴で、その点が西郷隆盛…
RT @zasetsushirazu: 昭和5年11月17日、松平康荘が死去。幕末の越前福井藩主だった松平茂昭の子で、農学者。熊澤恵里子「他国修行-福井藩教育改革の軌跡-」(『福井県文書館研究紀要』9)は、康荘が海外留学先で農学を学んだ理由に、松平春嶽と親しかった福沢諭吉の助言…
RT @zasetsushirazu: 慶応3年10月3日(1867年10月29日)、土佐藩が大政奉還を建白。井上勲「大政奉還運動の展開過程」(『学習院大学文学部研究年報』20)曰く、徳川慶喜は土佐藩論に、幕府から離反しつつある勢力を議院制に組み込み、「幕府もしくは徳川氏の政治…
RT @zasetsushirazu: 小泉雅弘「史料紹介 駿州赤心隊富士亦八郎の「口書」」(『駒澤史学』69)は、戊辰戦争期に東征大総督・有栖川宮熾仁親王に随従した赤心隊(慶応4年結成)の、隊長を務めた富士亦八郎が、明治2年に旧幕臣殺害事件を起こした際の供述書を紹介。 htt…

12 0 0 0 OA 維新史蹟図説

RT @T_urade1987: 『維新史蹟図説』より平野国臣遺影。全く見たことがありませんでした。本物なんでしょうか。 https://t.co/DcPTEgq9xn
RT @zasetsushirazu: 安政6年10月7日(1859年11月1日)、松平慶永の腹心として活躍した橋本左内が処刑された。高木不二「グリフィスと橋本左内」(『福井県文書館研究紀要』13、2016年)は、米国ラトガース大学が所蔵する『橋本左内略伝』について考察。 ht…
RT @zasetsushirazu: 京浜歴史科学研究会編『近代京浜社会の形成』(岩田書院、2004年)。 神谷大介「弘化・嘉永期における幕府砲術稽古場と江戸湾防備の展開」、奥田晴樹「梵鐘の海防供出」、鈴木由子「和親条約締結直後のアメリカ船への対処」などを収録。 下記は上山和…
RT @zasetsushirazu: 明治40年10月4日、佐田白茅が死去。幕末の久留米藩出身で、真木和泉の影響を受けた。明治3年に朝鮮へ派遣された。沈箕載「版籍奉還前後の朝鮮政策と外務省(佐田)調査団の朝鮮派遣」(『史林』79-6)曰く、佐田の調査報告は後の明治政府における…
RT @zasetsushirazu: 大正9年10月5日、末松謙澄が死去。伊藤博文の娘婿で、第3次伊藤内閣の逓信大臣、第4次伊藤内閣の内務大臣などを歴任。『防長回天史』全12巻を編纂。源氏物語の英訳でも知られる。神山彰「森鷗外のなかの依田学海と末松謙澄」(『文芸研究』138)…
RT @zasetsushirazu: 明治4年8月19日(1871年10月3日)、広如(大谷光沢)が死去。幕末の西本願寺の僧で、長州藩や月性との結びつきが強かった。上野大輔「幕末期長州藩における民衆動員と真宗」(『史林』93-3)曰く、広如が法主の時期に「勤王の立場が明確化さ…
RT @zasetsushirazu: 明治6年9月27日、沢宣嘉が死去。文久3年8月18日政変の際の「七卿落ち」の公家の1人で、生野の変に参加した。吉岡誠也「慶応四年の長崎における佐賀藩」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13)曰く、大隈重信を新政府の徴士参与に…
RT @zasetsushirazu: 昭和54年(1979年)9月18日、木村毅が死去。『明治天皇』、『文明開化』などの著作がある。濱口裕介「榎本武揚「共和国」言説に関する一考察」(『札幌大学女子短期大学部紀要』65)は、箱館戦争の際の榎本武揚の政権を、木村が「共和国」と呼ぶ…
RT @zasetsushirazu: 能川泰治「幕末維新期における政治・社会の変動と大阪城」(『金沢大学歴史言語文化学系論集 史学・考古学篇』12、2020年)は、幕末期に来日した外交官が、見学対象として大阪城に興味を持っていた事実を紹介。オールコックなど、豊臣秀吉ゆかりの城…
RT @zasetsushirazu: 明治17年9月15日、安達清風が死去。幕末の鳥取藩出身で、京都留守居を務めた。桜田門外の変に参加した関鉄之介が逃亡中、頼って来た。横山俊一郎『泊園書院の明治維新』(清文同)第4章の元論文「安達清風の学術交流と開拓事業」(『関西大学東西学術…
RT @zasetsushirazu: 呉永台「幕末期肥後における〈藩是〉確立とその意味」(『年報地域文化研究』23、2020年)は、文久2年4月、藩是を決定した肥後藩政府には「徳川恩顧の大名としての自己認識があった」と指摘し、藩是の確立を要求した肥後勤王家とは、将軍家への距離…
RT @zasetsushirazu: 上田長生「維新期陵墓政策の特質と展開」(『待兼山論叢 史学篇』42)は、幕末期に創出された陵墓が、近代天皇制の形成と共にどのように管理されたのか、神仏分離の内実を含めて分析。上田氏の著書『幕末維新期の陵墓と社会』(思文閣出版、2012年)…
RT @zasetsushirazu: 昭和14年9月7日、渡辺蒿蔵(天野清三郎)が死去。吉田松陰の松下村塾門下生の中で、最後の生き残り。幕末期の海外留学で得た造船技術を活かして活躍した。牛見真博「近代造船の先駆者・渡辺蒿蔵(上)」(『大島商船高等専門学校紀要』51)は、海外留…
RT @zasetsushirazu: 文久2年8月13日(1862年9月6日)、成島司直が死去。将軍・徳川家慶の信任を得た儒学者で、『徳川実紀』を編纂した。家慶の日光参詣に随従した際の日記『晃山扈従私記』がある。成島柳北の祖父。具島美佐子「成島柳北研究」(筑波大学博士論文、2…
RT @zasetsushirazu: 平成23年(2011年)8月31日、歴史家の遠山茂樹が死去。主要著作の『明治維新』(岩波書店、1951年)は、今は岩波文庫に入っている。勝田政治「大久保利通とビスマルク」(『国士舘大学文学部人文学会紀要』38)曰く、「講座派の立場から戦後…
RT @zasetsushirazu: 慶応3年7月29日(1867年8月28日)、中岡慎太郎らが土佐藩の白川邸に入った(現在の京都大学北部構内)。陸援隊の屯所とされる。笹川尚紀「土佐藩白川邸・尾張藩吉田邸にまつわる覚書」(『京都大学構内遺跡調査研究年報 2016年度』、201…
RT @zasetsushirazu: 1929年8月26日、アーネスト・サトウが死去。幕末・明治の日本で通訳や公使として活躍した英国人で、神道や国学を研究するぐらい日本語が堪能。兪三善「日本語の教材としてのアーネスト・サトウ『会話篇』」(『實踐國文學』96)は、サトウの著作を…
RT @zasetsushirazu: 明治31年8月27日、島田篁村(島田重礼)が死去。幕末期に昌平黌の助教などを務めた漢学者で、明治期に東京大学教授。古賀勝次郎「安井息軒を継ぐ人々(三)」(『早稲田社会科学総合研究』11-1)曰く、「江戸時代の儒学の伝統を、明治以後の我が国…
RT @zasetsushirazu: 明治25年8月25日、中路延年(中路権右衛門)が死去。佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205、2020年)曰く、「幕末の尾張藩と薩摩藩を直接仲介した人物」で、「尾張藩の世論を王政復古に導くのに大きな役…
RT @zasetsushirazu: 明治33年8月23日、黒田清隆が死去。第2代の内閣総理大臣。小松京「山川健次郎の留学に関する一考察」(『青山史学』37)は、北海道開拓に携わった黒田について、「榎本武揚の助命嘆願を行ったことも含め、黒田の行動はすべて対ロシアを睨んだ行動と…
RT @zasetsushirazu: 明治35年8月18日、西村茂樹が死去。幕末の佐倉藩出身の啓蒙思想家。西川泰夫「千葉県郷土史:近現代史の一断面:幕末から開明期における佐倉藩士と洋学「西国の心学、心理学」との接点」(『放送大学研究年報』26)は、「心理学」という日本語誕生の…
RT @zasetsushirazu: 塚越俊志「幕末の条約について」(『弘前大学国史研究』141、2016年)は、岩下哲典編『江戸時代 来日外国人人名辞典』(東京堂出版、2011年)に掲載した文章を改稿したもので、幕末期に幕府が諸外国と結んだ条約を解説。「幕末期条約内容比較(…
RT @zasetsushirazu: 明治15年8月9日、大島友之允が死去。幕末の対馬藩士で、木戸孝允と親しかった。沈箕載「幕末期の幕府の朝鮮政策と機構の変化」(『史林』77-2)によれば、朝鮮進出(征韓)を主張し、対馬藩への財政援助を幕府に要求する運動に積極的で、幕閣に働き…
RT @zasetsushirazu: 明治29年8月5日、宮崎元立(宮崎蘇庵)が死去。小白藩医の家に生まれ、大村益次郎や伊東玄朴に師事した。日本で最初に市販された英和辞書『英和対訳袖珍辞書』の校訂者。三好彰「宮崎元立と英学」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』5、…
RT @zasetsushirazu: 上田純子「萩藩文久改革期の政治組織-政事堂の創設と両職制の改編-」(『史学雑誌』109-11、2000年)は、いわゆる長州藩の本藩である萩藩の文久改革期を分析。それによれば、文久期の藩権力中枢は、「自藩士に限らず「有志」を優遇」し、言路洞…
RT @Yoshisukekusaka: 南貞助さんの略歴を読んだのでメモ。 一 六歳 吉松塾に通学ス 一 十六歳 久坂氏ニ従(?)テ御所ニ戦ヒ又久坂氏ゟ敗戦報知ノ命ヲ受ケテ京師ヲ脱シ路上君公ニ報ス 伊藤博文履歴書 その他、南貞助略歴 https://t.co/leNsCZ…
RT @oretatami: CiNii 論文 -  国家と地域の歴史意識形成過程--維新殉難者顕彰をめぐって https://t.co/N6FfkA05nm #CiNii いまさら読みましたが幕末土佐人の顕彰活動について 中央の佐佐木・光顕・久元と地元の古勤派が絡んですっご…
RT @zasetsushirazu: 遠藤由紀子「会津藩家老山川家の明治期以降の足跡」(『女性文化研究所紀要』45、2018年)は、山川浩、山川健次郎、大山巌に嫁いだ捨松をはじめ、彼らが全部で7人の兄弟姉妹だったことを紹介。その中でも有名とは言い難いミワに焦点を当て、婚家の桜…
RT @zasetsushirazu: 池田勇太「元田永孚における開国論への転換」(『異文化研究』11、2017年)は、「攘夷は和親との対で和戦の問題、開国は鎖国との対で国交・貿易の問題」と整理し、鎖国体制下での和親や開国を見据えた破約攘夷論などの外交態度があったことを前提に、…
RT @T_urade1987: @machi82175302 こちらです。たぶんこれ熊本県立図書館に所蔵があるものと同一かと。轟木は結構史料が残ってますね。 https://t.co/VD2R7dsTAn
RT @zasetsushirazu: 間瀬久美子「近世後期の朝廷と幕府の災害祈禱」(『千葉経済論叢』61、2019年)によれば、幕末の京都朝廷が行う祈祷は攘夷問題が大半となり、一方で幕府は地震災害に関連する祈祷を推進。内憂外患で権威を喪失した幕府は、祈祷の発令で権威の回復を企…
RT @zasetsushirazu: 佐藤麻里「将軍の死と「自粛」する江戸社会」(『学校教育学研究論集』24、2011年)は、江戸時代後期の将軍死去による鳴物停止などをめぐる「自粛」と「強制」の問題を分析。特に、商売停止は町奉行の命令ではなく、町名主の「申合わせ」から始まった…
RT @zasetsushirazu: 安政4年11月6日(1857年12月21日)、岩瀬忠震が横浜開港を主張する意見書を書いた。長崎から江戸に戻る途中、江戸でのハリスの演説内容を知って執筆。岩瀬は横浜開港の恩人と見なされている(阿部安成「直弼/象山/忠震(2)-競争する記念碑…
RT @zasetsushirazu: 天保12年7月14日(1841年8月30日)、林述斎が死去。松平定信に嘱望されて林家を嗣いだことは、林家の最大の画期とされる(小野将「近世後期の林家と朝幕関係」『史学雑誌』102-6)。朝鮮通信使との窓口役も務めた。幕末外交で活躍した林復…

10 0 0 0 OA 佐賀藩海軍史

RT @zasetsushirazu: 昭和23年(1948年)7月2日、秀島成忠が死去。慶応元年生まれの海軍軍人(海軍少将)で、台湾総督府参謀長などを務めた後、『佐賀藩海軍史』(知新会)、『佐賀藩銃砲沿革史』(肥前史談会)を著した。両書ともに原書房が復刻。下記は、国会図書館デ…
RT @zasetsushirazu: 明治5年5月24日(1872年6月29日)、土肥大作が死去。丸亀藩出身の尊攘派志士としての活動を経て、丸亀藩権大参事に就任。中山光勝「明治4年・丸亀県土肥大作襲撃事件関係資料(1)」(『身延山大学仏教学部紀要』2)は、家禄削減をめぐる問題…
RT @zasetsushirazu: 文政5年5月7日(1822年6月25日)、亜欧堂田善が死去。江戸時代を代表する洋画家で、ゴジラやウルトラマンを生み出した特撮の神様・円谷英二の祖先。坂本篤史「亜欧堂田善の銅版画についての一考察」(『美術史論集』16)は、「ピョートル大帝」…

10 0 0 0 OA 幕末外交談

RT @lalan1858: @09Kumano @komusai06311 @kitakaji2014 国立国会図書館デジタルコレクションからですと、これですね。 https://t.co/cALAkUP8io この話、個人的に注目してしまいました。幕府と明治政府と、両方で…

6 0 0 0 OA 往事録

RT @T_urade1987: 西村茂樹が「往事録」にて回顧するところによると慶応三年十二月十三日(本人は十一月としていますが、途中まで一緒だった平野縫殿の記録では十二月)、西村は大坂に下る途中で伏見寺田屋に泊し、その地で土方歳三と土佐藩士の「小争闘」を見ています。 http…
RT @zasetsushirazu: 明治44年6月15日、大鳥圭介が死去。幕末の幕臣で、戊辰戦争・箱館戦争で新政府軍に抗戦。学習院の院長、清国公使などを歴任。長佐古美奈子「大鳥圭介関係史料について」(『学習院大学史料館紀要』18)は、大鳥の関係史料が孫の大鳥蘭三郎から寄贈さ…
RT @zasetsushirazu: 大正4年6月14日、鍋島直彬が死去。幕末の肥前鹿島藩主で、佐賀藩主・鍋島閑叟の甥。明治12年に初代沖縄県令に就任。高橋央「大隈重信と鍋島直彬」(『早稲田大学史記要』46)は、維新前から交流があった大隈重信の第一次内閣期に貴族院議員として協…
RT @zasetsushirazu: 京浜歴史科学研究会編『近代京浜社会の形成』(岩田書院)。 神谷大介「弘化・嘉永期における幕府砲術稽古場と江戸湾防備の展開」、奥田晴樹「梵鐘の海防供出」、鈴木由子「和親条約締結直後のアメリカ船への対処」など。 下記PDFは『社会経済史学』7…
RT @zasetsushirazu: 阿部裕樹「鳥取藩軍・新国隊をめぐる諸問題-創立者・岸本辰雄の周辺-」(『明治大学史資料センター報告』35、2013年)は、明治大学の創立者・岸本辰雄が所属していた組織で、慶応4年3月に京都で結成された新国隊を分析。新国隊を「鳥取藩の重要な…
RT @zasetsushirazu: 塩崎智「1870年に実施された米国国勢調査」(『人文・自然・人間科学研究』41、拓殖大学、2019年)は、幕末維新期に米国留学した日本人(例えば、日銀総裁となった富田鉄之助など)について、米国の国勢調査から分析。彼らが下宿した家の家主など…

8 0 0 0 IR 橘耕斎伝

RT @zasetsushirazu: 明治18年5月31日、橘耕斎が死去。幕末期にロシア使節プチャーチンが来日した際、密出国してロシア政府に仕えた。福沢諭吉が参加した文久遣欧使節団など、日本使節がロシアを訪問した際には、影で接待を取り仕切った。中村喜和「橘耕斎伝」(『一橋論叢…
RT @zasetsushirazu: 樋口雄彦「資料紹介 韮山県から慶應義塾への派遣学生」(『近代日本研究』34、2017年)によれば、明治初年の韮山代官江川家の当主は江川英武だが、幼少のため実務は柏木忠俊が担った。その柏木が推進したのが、県民の東京などへの遊学、中でも慶應義…
RT @zasetsushirazu: 彬子女王「女性皇族の衣装の変移について」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』24、2019年)は、お雇い外国人たちが「ヨーロッパ宮廷では古来の衣装を用いる向きがある」として女性皇族の洋装化に否定的な一方で、伊藤博文らが形からの西洋化を試み…
RT @zasetsushirazu: 明治42年5月24日、松平太郎が死去。箱館戦争の蝦夷島政権で、入札によって副総裁に選ばれた。濱口裕介「榎本武揚「共和国」言説に関する一考察」(『札幌大学女子短期大学部紀要』65)は、榎本らを共和国と呼ぶ根拠の1つが入札の実施とするが、実態…
RT @machi82175302: 続き)是日、佐次右衛門、帰藩の途に就き、慎太郎・楠左衛門、亦薩長二藩の連絡を図らんが為、西下す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)参照。https://t.co…
@draco_equus33 @ambujam10 @osho184064 https://t.co/GmPnLRKw8f よろしければこちらもどうぞ
RT @zasetsushirazu: 平成8年(1996年)5月6日、石井孝が死去。1957年刊行で1966年に増訂版が出た著書『明治維新の国際的環境』(吉川弘文館)について、池田敬正の書評(『史林』42-2、1959年)曰く、「後学のわれわれにとっては、全くかけがえのない贈…
RT @zasetsushirazu: 上野大輔「幕末期長州藩における民衆動員と真宗」(『史林』93-3、2010年)によれば、村田清風は海防のために宗教も利用しようと考え、長州藩内の真宗僧侶たちもキリスト教や排仏論への対抗から要請に応じた。月性の門下・大洲鉄然の僧兵隊結成の動…
RT @zasetsushirazu: 明治43年4月26日、木梨精一郎が死去。幕末の長州藩出身で、戊辰戦争で各地を転戦。真栄平房昭「琉球処分と軍隊・歴代宝案のゆくえ」(『沖縄史料編集紀要』41)は、戊辰戦争で「江戸城接収」を担った木梨が、琉球処分においても「首里城接収」の役目…
RT @zasetsushirazu: 明治22年4月26日、狩野派の絵師・河鍋暁斎が死去。藤實久美子「河鍋洞郁(暁斎)『絵本鷹かゝみ』の史料学的考察」(『鷹・鷹場・環境研究』3、2019年)は、明治12年に出版された『絵本鷹かゝみ』が、文久2年には準備されていたことを紹介し、…
RT @machi82175302: 今からちょうど155年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年…
RT @zasetsushirazu: 久住真也「「日本史」授業における考える習慣について」(『教職課程センター紀要』1)は、明治維新の始期と終期の考え方を巡り、「学説史においては,明治維新と言った場合,幕末を含むのが常識」だが、教科書の記述では「幕末と明治維新は別れている印象…
RT @zasetsushirazu: 明治24年4月22日、吉井友実が死去。幕末の薩摩藩士で、西郷隆盛や大久保利通が京都不在の際に代役を果たすこともあった。坂本龍馬とも親しかった。中川未来「雑誌『国光』の創刊と吉井友実」(『愛媛大学法文学部論集 人文学編』46)は、帝国議会開…
RT @zasetsushirazu: 工藤憲一郎「藩屏概念の具現化をめぐる相剋-寺田屋事件の思想的一断面-」(『國士舘大學政経論叢』27-1)は、島津久光の率兵上京に関して、久光と有馬新七らの間で基本目標はほぼ同じだったが、軍事力行使に対する考えに隔たりがあったと指摘。 ht…
RT @zasetsushirazu: 明治20年4月15日、伊地知貞馨(伊地知壮之丞、堀次郎、堀仲左衛門)が死去。幕末の薩摩藩出身で、島津久光の側近として重きをなした時期がある。薄培林「近代日中知識人の異なる琉球問題認識」(『関西大学東西学術研究所紀要』47)は、琉球処分に関…
RT @machi82175302: 拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、亀山社中について、「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。https://t.co/A65OnL…
RT @machi82175302: 続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https…
RT @Kokudai_kindais: 【山縣有朋関係文書 田中義一宛】大正10年2月12日「宮中某重大事件」に関する記述が確認できる。久邇宮良子女王(後の香淳皇后)の兄久邇宮朝融王に色覚異常が見られたため良子女王にもその遺伝子があるとして山縣有朋らが皇太子(後の昭和天皇)と…
RT @zasetsushirazu: 明治11年4月8日、川村修就が死去。初代新潟奉行、堺奉行、大坂町奉行、長崎奉行などを歴任。菅良樹「嘉永・安政期の大坂町奉行川村修就」(『日本研究』46)は、川村が「西洋流砲術に精通していたこと」を強調し、ロシア使節プチャーチンの大坂来航へ…
RT @zasetsushirazu: 1990年代以後の幕末維新史の実証研究に寄与した史料集の1つとして、小野正雄・稲垣敏子解読『杉浦梅潭 目付日記』と『杉浦梅潭 箱館奉行日記』を挙げることができる。どちらも1991年刊行。下記は、『史学雑誌』101-3(1992年)に掲載さ…
RT @zasetsushirazu: 安政7年3月3日(1860年3月24日)、井伊直弼が桜田門外の変で死去。幕末の彦根藩主で、安政の大獄を断行した幕府の大老。廣木尚「大隈重信にとっての歴史認識」(『早稲田大学史記要』50)は、井伊直弼の銅像除幕式に維新の元勲クラスで大隈重信…
RT @zasetsushirazu: 明治18年3月23日、亀井茲監が死去。幕末の津和野藩主で、明治初年の神祇行政を担った。岩谷泰之「森鴎外と仏教」(『大正大学大学院研究論集』42)は、亀井家典医の家に生まれた森鴎外について、その思想形成上の茲監の影響を、茲監が仏教を排除した…
RT @machi82175302: 拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好 」(日本研究所主催講演会 要旨)は以下でダウンロード可能です

5 0 0 0 OA 浮沈日記

RT @T_urade1987: 大久保利通関連文書、面白いですね。第二奇兵隊立石孫一郎が殺されたときに所持していたらしい「浮沈日記」が読めます。新館精一郎と会ったことは他の史料から分かりますが、楢林昌建とも面会していたり、色々と興味深い。 https://t.co/B1gS9…
RT @machi82175302: 拙稿「長州藩処分問題と薩摩藩―幕府・越前藩関係を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要11号、2019年)はこちらで!https://t.co/wcj78NFn9Z
RT @bibliophilism: 国際忍者学会会誌『忍者研究』第1号に掲載された拙稿が、今日からJ-STAGEで公開開始です。 J-STAGE Articles - 福井藩の忍者に関する基礎的研究 https://t.co/HMlddBam4K 藤田達生先生の「伊賀者・甲…
RT @zasetsushirazu: 天保7年1月18日(1836年3月5日)、石川忠房が死去。文政期の幕臣の中で、中川忠英・遠山景晋と共に三傑と呼ばれる。ロシア使節ラクスマンの応接を担当し、大黒屋光太夫を引き取った。多仁照廣「石川忠房と江戸幕府教化政策」(『敦賀論叢』14)…
RT @zasetsushirazu: 森谷秀亮「王政復古の大号令について」(『駒澤大学文学部研究紀要』26、1968年)は、慶応3年の王政復古について武家政治のみならず、摂政・関白の廃絶を宣言した意義を強調。森谷氏は、日本史籍協会叢書『伊達宗城在京日記』(東京大学出版会)の解…
RT @zasetsushirazu: 昭和9年3月1日、長沢鼎が死去。幕末の薩摩藩が英国に派遣した留学生(サツマ・スチューデント)の1人で、さらに渡米してブドウ王になった。森孝晴「長沢鼎のワイナリーの発展と帰国と家族の誕生」(『国際文化学部論集』19-1、鹿児島国際大学)曰く…

お気に入り一覧(最新100件)

宮間純一さんから『明治太政官文書を対象とした分散所在史料群の復元的考察に基づく幕末維新史料学の構築』(東京大学史料編纂所研究成果報告、JSPS科研費研究成果報告書)をご恵贈いただきました。ありがとうございました。貴重な成果報告、じっくり勉強させていただきます。 https://t.co/iHwourvDKY
拙稿「文久・元治年間における三条実美の歴史的位置」が機関リポジトリで公開されていました。よろしくお願いします。 https://t.co/pGSp8OEI74
拙稿「長州藩処分問題と薩摩藩―幕府・越前藩関係を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要11号、2019年)はこちらで!https://t.co/wcj78NXwo7…
続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https://t.co/A65OnLvEDg…
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、亀山社中について、「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。https://t.co/A65OnLvEDg…
山本読書室資料から発見された「初代駐仏公使鮫島尚信の右大臣岩倉具視宛書簡について(上)」神田外語大学日本研究所紀要14号掲載がウェブ公開された。https://t.co/iVnVPYxppd #山本読書室
明治39年4月8日、長岡護美(長岡雲海、長岡良之助)が死去。肥後熊本藩主・細川斉護の子で、熊本藩を代表する人物。明治期、オランダ公使などを歴任。呉永台「幕末期肥後藩の中央政治参加への試み」(『年報地域文化研究』18)は、文久2年までの長岡を幕末政治史の中で分析。 https://t.co/0c8kMnH8KD
平成5年(1993年)3月19日、歴史家の吉田常吉が死去。著書に『安政の大獄』(吉川弘文館)や『井伊直弼』(吉川弘文館)などがある。死後に刊行された『幕末乱世の群像』(吉川弘文館)は既発表の論考の再録で、小泉雅弘氏の書評(『駒沢史学』49)をネット上で読める。 https://t.co/lVaSxQmADH
明治6年3月14日、日本人と外国人の結婚について定めた内外人婚姻規則が、太政官布告第103号として公布された。小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11)曰く、国際結婚の問題は、条約改正の議論の中で論点となった内地雑居の問題にも、少なからず関係した。 https://t.co/CDYGvqoHMV
明治23年3月9日、尾崎忠征(尾崎八右衛門)が死去。幕末の尾張藩出身で、徳川慶勝に重用された。佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205)は、尾崎が近衛忠煕と緊密に連携し、「尾張藩と朝廷をつなぐ役割」を果たしたことなどに言及。 https://t.co/pAJttOBudV
明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去。何者かに暗殺されたが、真犯人は不明。当時、明治政府の参議を務めていた長州藩出身者は、広沢と木戸孝允だけだった。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、事件捜査に関する通説を再検証。 https://t.co/XCToPjhXws
“CiNii 論文 -  近世畿内における地域管理体制とその特質:――廻在者の取締りをめぐって――” https://t.co/ocOWSpvsVr ※本文リンクあり
大正2年2月17日、坂崎紫瀾(坂崎斌)が死去。坂本龍馬を主役に据えた小説『汗血千里の駒』の作者で、瑞山会の『維新土佐勤王史』の執筆も担当した。知野文哉「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)は、土佐の維新史を語る上での坂崎の重要性について考察。 https://t.co/llVIzrnJpP
https://t.co/OqE2018bbh 高知空襲で焼失した「土佐史料」の全索引がないかと去年いろいろ探してたんですが、国会デジタルで見れたんですね。今は読めない史料がたくさんある…
清水光明「昌平黌儒者・古賀侗庵の意見書」(『明星大学研究紀要 人文学部 日本文化学科』28、2020年)は、従来の研究で知られていない古賀侗庵の意見書には「天保改革期の政治史・思想史・文学史に関する重要な内容」が含まれ、幕末の尊王思想の出版・流通に影響したとする。 https://t.co/EhhpgFCIZ2

16 0 0 0 OA 維新日乗纂輯

明治24年1月12日、妻木頼矩(妻木多宮、妻木田宮、妻木棲碧)が死去。幕末の幕臣で、鳥羽・伏見の戦いの後、大坂城を新政府に引き渡す役目を担った。大塚武松編『維新日乗纂輯』第3巻(日本史籍協会)に、「妻木頼矩手記 戊辰正月大坂城引渡始末」が収録されている。 https://t.co/4HgLjditE1
1888年12月23日、ローレンス・オリファントが死去。幕末期に2度来日し、1度目は日英修好通商条約の交渉に参加。2度目には、第1次東禅寺事件で水戸浪士に襲撃された。北政巳「幕末日本と英国・スコットランド交流史」(『創価経済論集』42-1・2・3・4)が、その生涯を紹介。 https://t.co/LJYspbzcMZ
大正13年12月10日、谷森真男が死去。香川県知事などを歴任した官僚。父親は国学者の谷森善臣。高重久美「歴史学者谷森饒男と芥川龍之介」(『文学史研究』57)曰く、芥川龍之介が歴史学者・谷森饒男の父を、誤って谷森真男と書簡に書いている。実際は、真男の甥が饒男らしい。 https://t.co/jM1h2fleki
明治31年11月30日、田中千弥が死去。ペリー来航3年前(嘉永3年)〜明治31年まで、約50年間の日記を書き残した。特に、秩父事件を詳細に記録した史料として知られる。青木亮人「「祖翁」を称えよ、教導職」(『同志社国文学』71)は、その日記から「明治俳諧の一側面を考察」。 https://t.co/c7prN9iFiA
明治22年11月29日、井田譲が死去。幕末の大垣藩出身で、西南戦争の際に陸軍卿代理を務めた。各国公使を歴任し、笠原英彦「明治帝室制度の形成と伊藤博文・シュタインの「邂逅」」(『法学研究』92-11、)曰く、伊藤博文の憲法調査においてシュタインとの邂逅をお膳立てした。 https://t.co/viO9zW7VOf
明治11年11月29日、柏木忠俊が死去。幕末期は江川英龍に仕え、新政府が江川英武(英龍の息子)を韮山県知事に任じた際には、「実際に県治を遂行した」のは韮山県大参事の柏木だった(樋口雄彦「韮山県から慶應義塾への派遣学生」『近代日本研究』34、2017年)。後に足柄県令。 https://t.co/7trm2zex3O
元治元年10月17日(1864年11月16日)、真田範之助が死去。北辰一刀流の剣客で、渋沢栄一と交流があった。天狗党に参加して戦死。『武術英名録』の編者。死去日は前村晃「豊田芙雄と草創期の幼稚園教育に関する研究(8)」(『佐賀大学文化教育学部研究論文集』15-2)に依拠。 https://t.co/k7fKxYhrau
明治16年11月15日、岸良兼養が死去。幕末の薩摩藩出身で、矢野祐子「ボアソナードと、その法思想」(『早稲田法学会誌』47)曰く、明治5年に司法制度視察のため欧州に派遣されたエリートの1人(ほかは井上毅など)。帰国後、佐賀の乱や西南戦争の裁判で検察を指揮した。 https://t.co/n6o8xvsjcb
宮澤歩美「維新期江戸における譜代藩の「大勢挽回」運動」(『國學院大學大学院紀要 文学研究科』52、2021年)は、大政奉還後の譜代諸藩の江戸における上洛命令拒否・徳川慶喜助命嘆願運動を、先行研究(鈴木壽子『幕末譜代藩の政治動向』同成社など)とは異なる視点で分析。 https://t.co/rPvepmHFXv
昭和56年(1981年)11月3日、経済史研究者の堀江英一が死去。主な著書の1つに『明治維新の社会構造』(有斐閣、1954年)があり、『堀江英一著作集』全4巻(青木書店)の第1巻に所収。朝尾直弘氏の書評(『史林』38-2)があり、『朝尾直弘著作集』第2巻(岩波書店)に再録。 https://t.co/aqvDT7NkrQ
安政6年10月7日(1859年11月1日)、頼三樹三郎が死去。梅田雲浜らと交流し、安政の大獄で処刑された。遺体は大橋訥庵が埋葬。任萌萌「頼三樹三郎が頼山陽を偲ぶ詩」(『比較日本文化学研究』14、2021年)は、文人としての面に着目し、父・頼山陽を手本としたことなどを分析。 https://t.co/I4WG2QhC4o
明治31年10月29日、小野友五郎が死去。万延元年、太平洋を横断した咸臨丸に乗船。文久期の小笠原諸島の調査に咸臨丸の艦長として参加。平山洋「福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?」(『国際関係・比較文化研究』8-2)は、慶応3年の福沢との対立にまつわる疑惑の研究。 https://t.co/TirYg23gSe
重田麻紀「毛利家家臣による知行地支配の基礎的考察」(『駿台史学』171、2021年)は、元治甲子戦争(禁門の変)の責任者として切腹した幕末期の当主・益田親施(益田右衛門介)が有名な、長州藩の永代家老・益田家について、家臣団や知行地をめぐる基礎的事項を分析。 https://t.co/YNYZJxD74Y
明治10年10月22日、佐野鼎が死去。万延元年の遣米使節団と文久の遣欧使節団に参加した砲術家。共立学校(開成学園の前身)の創設者でもあり、今井一良「佐野鼎の英学とTommy・立石斧次郎のこと」(『英学史研究』15)曰く、「英学史上にその名を逸することのできない」人物。 https://t.co/mIYzKy0R2z

13 0 0 0 OA 漂民御覧之記

寛政5年9月18日(1793年10月22日)、漂流した末にロシアで数年を過ごして帰国した大黒屋光太夫が、将軍・徳川家斉や松平定信に謁見。光太夫は、ロシアで知られている日本人として、桂川甫周(その場にいた)と中川淳庵の名前を挙げた。桂川甫周『漂民御覧之記』より。 https://t.co/FzclTjTDlL
大正5年10月16日、宮本小一が死去。幕末期に神奈川奉行所で働いた旧幕臣で、明治期に外交官として江華島事件の処理や日朝修好条規などに関与した。諸洪一「明治初期の朝鮮政策と江華島条約」(『札幌学院大学人文学会紀要』81、2007年)は、従来の研究における評価を再検討。 https://t.co/xKHhYRCVdg
文久3年9月2日(1863年10月14日)、フランス陸軍軍人カミュが、横浜で殺害された(井土ヶ谷事件)。沢護「井土ヶ谷事件と遺仏使節池田筑後守」(『千葉敬愛経済大学研究論集』29)曰く、事件はフランスに対して、横浜居留地防衛のための軍隊を常時駐屯させる口実を与えた。 https://t.co/c1B7vDDuHO
文久2年閏8月20日(1862年10月13日)、本間精一郎が死去。安政期に、幕臣の川路聖謨に仕えたことがある。笹部昌利「「人斬り」と幕末政治」(『鷹陵史学』31)曰く、「越後出身の浪人で、義挙を企て、土佐の吉村寅太郎とも親交」があった。岡田以蔵らに暗殺されたと言われる。 https://t.co/irwGXHBXPI
明治17年10月12日、川路高子が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の妻で、聖謨が自殺した後、川路家当主になる孫の川路太郎が海外留学から戻るまで、家を守らなければならなかった。井上勲「史料紹介 川路高子『上総日記』解題」(『学習院大学史料館紀要』13、2005年)参照。 https://t.co/iH4qcbN7sQ
平成28年(2016年)7月27日、歴史家の安岡昭男が死去。講演「明治日本と万国」(『法政史学』50、1998年)で、朝鮮に使節を派遣しようとした将軍・徳川慶喜の外交について、「鎖国から開国した幕府が、今度は逆に外国のことを第三国として調停に乗り出そう」としたと評価。 https://t.co/01TqbmWgPk
今日はあんまり凌雲先生に関する話は思いつかないのですが。強いていえば凌雲先生は本格的に医術を学ぶため、昭武公のお傍を離れて木村宗三とともに下宿生活に入ります。地名がわからないのですが、リウサンはル・サンでしょうか… 『巴里御在館日記』 https://t.co/ThYC8DvGvD https://t.co/zsffkDjN56
文久3年5月29日(1863年7月14日)、中島名左衛門が死去。幕末の長州藩に雇用された洋式砲術家。上田純子「萩藩文久改革期の政治組織」(『史学雑誌』109-11)曰く、世子御前会議で「西洋諸国の軍事的優位を指摘し、下関の手薄な配備を痛切に批判した」後、暗殺された。 https://t.co/7f9iQ9RlY0
村瀬 典章 「伊藤三弥(謙吉)に関する一考察 ―天誅組志士、政治家、実業家―」 愛知大学綜合郷土研究所紀要 https://t.co/LurBMqcrb5
慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、武市瑞山(武市半平太)と岡田以蔵が死去。笹部昌利「幕末期土佐藩の国事運動と「政治犯」化」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』26、2021年)は、武市ら「土佐勤王党による藩外交主導の状況」に対する土佐藩当局の対応などを分析。 https://t.co/WvTSa3GYHr

8 0 0 0 OA 東湖全集

平岡円四郎のことを調べるのであれば、実父岡本忠次郎(豊洲)のことから調べなければならない。藤田東湖の『見聞偶筆』に忠次郎のことが書いてある。 https://t.co/U0mQOxfuSf
明治44年5月13日、谷干城が死去。幕末の土佐藩出身で、坂本龍馬とも交流があった。中野目徹氏は、小林和幸『谷干城』(中公新書、2011年)の書評(『史学雑誌』122-8に掲載)で、西南戦争での活躍や貴族院の重鎮としての立場など重要人物でありながら、研究が少ないと指摘。 https://t.co/VRwmDsOHrf
明治29年5月6日、高崎五六(高崎猪太郎)が死去。町田明広「第一次長州征伐における薩摩藩」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)及び同『薩長同盟論』(人文書院)曰く、元治元年に岩国領主・吉川経幹に対して、長州征伐を寛典処分とする薩摩藩・島津久光の方針を伝えた。 https://t.co/xUZx0nyPvK

24 0 0 0 IR 尊攘論の時代

慶応4年4月5日(1868年4月27日)、水戸藩主・徳川慶篤が死去。徳川斉昭の子で、徳川慶喜の兄。文久3年に「生麦事件処理の責任者」(高橋秀直「尊攘論の時代」『京都大学文学部研究紀要』44)。慶篤の死で、パリにいた弟・徳川昭武が帰国し(渋沢栄一が同行)、水戸藩主に。 https://t.co/ynNtrigDya
明治41年4月24日、津田仙が死去(死去日に異説あり)。ペリー来航時、佐倉藩の一員として江戸湾警備に参加。慶応3年には通訳として、福沢諭吉らと共に渡米。津田梅子の父親で、嶋田順好「津田仙の信仰と生涯」(『キリスト教と文化』24)曰く、草創期のキリスト教界の指導者。 https://t.co/BiBbisqVl9

15 0 0 0 OA 茶湯一会集

ちなみに武家の茶の湯というと、「麒麟がくる」のO田N長さんのように名品コレクターのイメージがありますが、井伊は「(茶器は)珍物を誉れとするにあらず。尋常の品にて取合はすは殊勝の事なり」としており、珍物名器主義を批判しています。 https://t.co/1yC1siQUKS
大河ドラマ『青天を衝け』第8回、井伊直弼の描き方が良かった。徳川慶喜らの処分について、「家定が死去すれば、少年の慶福は一橋派の徳川一門に囲まれるように孤立してしまう」、それを避けるためという指摘がある(井上勲「大老井伊直弼」『学習院史学』35)。 #青天を衝け https://t.co/SaZ2sGjtnd
ではなく、水でもなく、お茶。 こういう論文を読むのである。 https://t.co/wM5KaVqp4R
明治16年3月30日、幕末の山陵奉行だった戸田忠至が死去。外池昇「神武天皇陵御修復と戸田忠至「中元御祝義金三百疋」」(『成城大学共通教育論集』7、2014年)は、文久の修陵をめぐる戸田の悪評や、宇都宮藩家老の家督の身分から異例の大出世を遂げたことなどに言及。 https://t.co/2mmDsYjLT5

1 0 0 0 OA 昨夢紀事

水野忠徳は、田安家家老になったのにも関わらず、ここから一橋派として慶喜公擁立に向けて、各方面へ工作活動を始めます。(笑) 安政5年1月14日、水野忠徳が福井藩主松平慶永に招かれた時の出来事はここからです。 『昨夢紀事2』 https://t.co/XMDyexRd3W

16 0 0 0 OA 江戸城本丸絵図

江戸城の図面もあるので、青天を見る楽しみとして参考にすると良いかも。 https://t.co/dNed5lwKB8
大正5年3月30日、中牟田倉之助が死去。幕末の佐賀藩出身で、明治の海軍中将。英語を学んでいたため、高杉晋作や五代友厚と同じ船で上海に渡航した際、高杉に頼られた。藤田佳久「幕末期に上海を訪れた日本人青年藩士たちの行動空間」(『同文書院記念報』24)などを参照。 https://t.co/lIKrSue9aV
明治29年3月27日、前山清一郎が死去。幕末期に佐賀藩の藩校・弘道館教授補。佐賀の乱では、中立派の宗龍寺党首領として政府に協力。徳永暁「前山家文書「前山清一郎戊辰戦争関係文書」について」(『国士舘史学』23)は、戊辰戦争で大総督府の参謀を務めた際の史料を紹介。 https://t.co/mU7a26bJza
https://t.co/T06yFdRlzb https://t.co/1phrkAPAbO 海防掛の概要を論じているのが、前掲書の1・2章部分。このベースとなった論文は上記の2論文なのだが、加筆修正もあるので掻い摘んで読みたい場合もやはり本の方をお勧めしたい。
https://t.co/T06yFdRlzb https://t.co/1phrkAPAbO 海防掛の概要を論じているのが、前掲書の1・2章部分。このベースとなった論文は上記の2論文なのだが、加筆修正もあるので掻い摘んで読みたい場合もやはり本の方をお勧めしたい。

11 0 0 0 OA 水府名家手簡

烈公の書は品がある隷書が多いですけれど、躍動感溢れる書翰の文字はアートと言っても過言ではないと思います。 https://t.co/HJIhpEasrw https://t.co/vjVhVkmIAe
慶応2年2月5日(1866年3月21日)、木戸孝允の手紙(薩長同盟の6か条)に、坂本龍馬が内容を保証する裏書きをした。町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)曰く、龍馬が長州藩要路の一部から薩摩藩士と見られていた点が意味を持った。 https://t.co/Vz75SjD6eh
青山忠正「王政復古前後の政局と公議-新発田藩を事例に-」(『歴史学部論集』10、2020年)曰く、王政復古政変前後の政局では、「その他大勢」の在京諸大名勢力が京都政局の多数意見を形成し、政局の方向性を掣肘した。長州藩毛利家の官位復旧の問題も同様だったとのこと。 https://t.co/mQtU5Cpids
昨日の青天を衝けで出てきた狐憑きについての論考。 近世中後期から武蔵において尾裂き狐が社会問題化していったからこそ、栄一の家はあんな騒動になったわけで… https://t.co/JMeaFo5lmW
超ー!!ややこしいですけど、こんな家系図です。 :藤田東湖と永井道明の家系図 #いだてん #青天を衝け https://t.co/RjQfCfS1J6 情報出典 :『遺稿永井道明自叙伝』 - 国立国会図書館デジタルコレクション https://t.co/k1z2vjSsQG https://t.co/I8LFSTdrZl
この間の事情にご関心がある方は、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好 (日本研究所主催講演会 要旨)」をご参照ください。#青天を衝け https://t.co/4aFWiVFAYN
井上勲「幕末政治社会の形成」(『学習院大学史料館紀要』9)によれば、ペリー来航に際して福井藩の松平慶永(松平春嶽)らが主張した、オランダから要求拒絶の意志を米国に伝達してもらう方法は、自ら折衝の場を設けて逆に通信の関係が成立することを避ける目的があった。 https://t.co/W9VCdt8DfF
拙稿「長州藩処分問題と薩摩藩―幕府・越前藩関係を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要11号、2019年)はこちらで!https://t.co/wcj78NFn9Z
天保7年1月18日(1836年3月5日)、石川忠房が死去。ロシア使節ラクスマンの応接を担当した幕臣で、多仁照廣「石川忠房と寛政期北方外交と蝦夷地経営」(『敦賀論叢』5)曰く、松平定信の意を受けて、「寛政期の幕府北方外交と蝦夷地経営を唯一通して実務を担当した人」。 https://t.co/ROfNfdbYU6
昭和10年3月3日、天照義団という団体の構成員の一部に、横浜の井伊直弼の銅像の首を斬る計画があったが、未遂に終わった。旧暦と新暦の違いはあるが、桜田門外の変の日付に合わせたもの。阿部安成「ナオスケの首が」(『滋賀大学経済学部Working Paper』122、2010年)が検証。 https://t.co/mtWHIync0e
平成27年3月2日、河野本道が死去。『アイヌ史/概説』などの著書がある研究者だが、マーク・ウィンチェスター「分類学者:河野本道のアイヌ民族否定論(上)」(『神田外語大学日本研究所紀要』10)は、河野がアイヌを「民族」と認めなかったことの問題や社会的影響などを分析。 https://t.co/5fCHFauhnU
慶応4年2月1日(1868年2月23日)、土御門晴雄が、幕府天文方の所管だった暦法業務を京都に戻してほしいと朝廷に願い出た。木場明志「近代における陰陽師のゆくえ」(『大谷学報』75-3、1996年)曰く、「明治維新は、公家であった土御門家に朝廷政治の復活を夢想」させた。 https://t.co/BK8JBUWIHR
この論文おもろいで。 https://t.co/bg8KYI5W0U
佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205、2020年)は、幕末の薩摩藩家老の寓居で、薩長同盟の舞台として注目されている近衛家別邸・御花畑について、「それ以前の実態」も含めて考察。薩土盟約の舞台となったことへの言及もある。 https://t.co/pAJttOjkZN

5 0 0 0 OA 昨夢紀事

賄賂の甲斐もあってか、嘉永2(1849)年には火附盗賊改となりました。 水野はのちに慶喜公の将軍継嗣擁立に暗躍するのですが、その頃に福井藩士の中根雪江に語った話です。 https://t.co/gvcbIMMRUD 水野の名誉のために書いておくと、出世してからは、多分賄賂はやってないです(^-^;;
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を久々に拝読。薩長同盟に関しては、だいぶ私の見解と異なっている。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)を参照下さい。 https://t.co/qtxOT4vv0S
昭和2年2月5日、川路寛堂(川路太郎)が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の孫で、幕末期に中村正直と共に英国留学。宮越勉「敗戦後の志賀直哉」(『文芸研究明治大学文学部紀要』128、2016年)によれば、志賀直哉は寛堂が編述した『川路聖謨之生涯』(吉川弘文館)を読んでいた。 https://t.co/NyHHMOKJi5

3 0 0 0 OA 京洛史蹟歌

『京洛史蹟歌』は国立国会図書館デジタルコレクションでも見られます。81コマ82コマ。 https://t.co/Lqvl17YSVa
大正11年2月1日、山県有朋が死去。長州藩出身で、幕末期に奇兵隊の幹部。内閣総理大臣に2度就任。伊藤博文と並ぶ元老の最有力者で、政治・軍事の両面で大きな影響力を有した。佐藤信「山県有朋とその館」(『日本研究』51)は、「空間に興味を持った人物」として分析。 https://t.co/bpc1fSErMm
弘化3年12月13日(1847年1月29日)、箕作省吾が死去。『坤輿図識』などを編纂し、世界地理を紹介。吉田松陰らに影響を与えた。辻田右左男「箕作省吾「坤輿図識」-著者をめぐる1,2の問題-」(『奈良大学紀要』2)曰く、省吾の著作は幕末社会にセンセーションを巻き起こした。 https://t.co/yCWaEmxjwp
平成18年(2006年)1月22日、高橋秀直が死去。大著『日清戦争への道』(東京創元社)の著者。井上勝生氏は、高橋氏の幕末研究をまとめた遺稿集『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館)の書評(『史林』91-2)で、「比肩することができない、大きな業績をあげた著者」と呼ぶ。 https://t.co/7cyckFO5zs
明治43年1月20日、清水卯三郎が死去。慶応3年のパリ万博に、唯一の日本人商人として出品。薩英戦争後に五代友厚と寺島宗則を匿った。白山映子「清水卯三郎の政治観」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』49)は、「海外からの啓蒙思想を移入した人物」の1人として分析。 https://t.co/94lpM0o3v7
明治27年1月8日、月形潔が死去。幕末の志士として知られる月形洗蔵の従兄弟で、北海道樺戸郡月形町の町名の由来。樺戸集治監の初代典獄時代、看守の剣術指南役として永倉新八を採用(吉田悦志「作家・子母澤寛誕生の風土-幕府軍敗残兵3人と厚田村-」『創価教育』11)。 https://t.co/47PEBTQpmD
明治33年1月8日、浅野氏祐が死去。幕末期に神奈川奉行、外国奉行、陸軍奉行などを歴任。小笠原長行の率兵上京に加担した。岩瀬忠震は、文久遣欧使節団に浅野を加えるべきと考えていたらしい(河北展生ほか「木村喜毅(芥舟)宛岩瀬忠震書簡」『近代日本研究』5、1988年)。 https://t.co/TeZDVRWhKd
明治25年12月20日、幕末の宇和島藩主だった伊達宗城が死去。明治期にも日清修好条規を調印するなど活躍したが、三好昌文「幕末期宇和島藩の動向(13)」(『松山大学論集』12-6)曰く、宗城の解任で宇和島出身の政府官僚の多くが帰郷し、藩閥は形成されなかった。 https://t.co/ErSjmJSIEO
明治20年12月18日、矢田堀鴻(矢田堀景蔵)が死去(死去日は異説あり)。幕府の軍艦操練所教授方頭取や海軍総裁などを歴任。安藤洋美「明治数学史の基礎工事」(『桃山学院大学人間科学』19、2000年)は、甥の荒井郁之助、甲賀源吾、新島襄などが矢田堀の教えを受けたとする。 https://t.co/fKkNDAF2yA
拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』、2016年)は以下を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAxGwv
明治26年12月5日、松平容保が死去。幕末期、京都守護職を務めた。中西達治「孝明天皇の松平容保宛て宸翰」(『金城学院大学論集 人文科学編』16-2、2020年)は、孝明天皇が容保に与えた宸翰を明治天皇が把握していたかもしれないという、白石烈氏の近年の見解などを考察。 https://t.co/HLGKVvJKbb
昭和15年11月24日、最後の元老・西園寺公望が死去。十河和貴「元老西園寺公望と「憲政の常道」」(『立命館 史資料センター紀要』3、2020年)が分析の主軸に据えた中川小十郎(公望の秘書)は、公望が戊辰戦争で山陰道鎮撫総督として配下に迎えた丹波の郷士・中川家の出身。 https://t.co/hXKwiuqbP6
大正2年11月22日、徳川慶喜が死去。大庭邦彦「幕末政局と徳川慶喜」(『国学院大学研究開発推進機構紀要』7)曰く、慶喜は有能だが、「逆境の中で頑張ることはしない。あえて泥をかぶっても逆境を挽回しようと粘らない」点が特徴で、その点が西郷隆盛や大久保利通と異なる。 https://t.co/rHqA2LFuBF
昭和5年11月17日、松平康荘が死去。幕末の越前福井藩主だった松平茂昭の子で、農学者。熊澤恵里子「他国修行-福井藩教育改革の軌跡-」(『福井県文書館研究紀要』9)は、康荘が海外留学先で農学を学んだ理由に、松平春嶽と親しかった福沢諭吉の助言があった可能性に言及。 https://t.co/efdPb5gvmH
田中悟「戦後会津における「観光史学」の軌跡」(『国際協力論集』17-1、2009年)は、同氏の著書『会津という神話』(ミネルヴァ書房、2010年)第5章の元になった論文。会津における「戊辰戦争の語り」や観光資源としての白虎隊などを巡って、郷土史家・宮崎十三八を分析。 https://t.co/a3PLMA2gXw
『原市之進暗殺事件の高橋泥舟・山岡鉄舟黒幕説を否定する』がciniiに投稿されていました。この事件に関しては画期的な論考になりました。 https://t.co/VpAa3pCoba
慶応3年10月3日(1867年10月29日)、土佐藩が大政奉還を建白。井上勲「大政奉還運動の展開過程」(『学習院大学文学部研究年報』20)曰く、徳川慶喜は土佐藩論に、幕府から離反しつつある勢力を議院制に組み込み、「幕府もしくは徳川氏の政治統合力を回復する展望」を見た。 https://t.co/PaFHpL84v2
明治24年10月28日、幕末の対馬藩家老だった樋口鉄四郎が死去。明治元年、対馬藩が、日本の王政復古を朝鮮に通告するよう新政府から命じられた際、朝鮮に派遣された。牧野雅司「維新期の書契問題と朝鮮の対応」(『待兼山論叢』44、2010年)は、朝鮮側の対応を分析。 https://t.co/vsbxRnBZE9
町田明広「長州藩処分問題と薩摩藩」(『神田外語大学日本研究所紀要』11、2019年)によれば、長州再征をめぐる薩摩藩の抗幕姿勢を気にかける幕閣に対して、中根雪江の意見に見られる越前藩の方針は薩摩藩に友好的で、薩摩藩と会津藩の確執が国政混乱の原因とするものだった。 https://t.co/DXrUyOs3WI
京浜歴史科学研究会編『近代京浜社会の形成』(岩田書院、2004年)。 神谷大介「弘化・嘉永期における幕府砲術稽古場と江戸湾防備の展開」、奥田晴樹「梵鐘の海防供出」、鈴木由子「和親条約締結直後のアメリカ船への対処」などを収録。 下記は上山和雄氏による書評(PDF)。 https://t.co/xmVLLU3Xxh
大正9年10月5日、末松謙澄が死去。伊藤博文の娘婿で、第3次伊藤内閣の逓信大臣、第4次伊藤内閣の内務大臣などを歴任。『防長回天史』全12巻を編纂。源氏物語の英訳でも知られる。神山彰「森鷗外のなかの依田学海と末松謙澄」(『文芸研究』138)は、末松の演劇改良論を紹介。 https://t.co/FSCOxphazx
明治40年10月4日、佐田白茅が死去。幕末の久留米藩出身で、真木和泉の影響を受けた。明治3年に朝鮮へ派遣された。沈箕載「版籍奉還前後の朝鮮政策と外務省(佐田)調査団の朝鮮派遣」(『史林』79-6)曰く、佐田の調査報告は後の明治政府における対朝鮮政策の根幹をなした。 https://t.co/HGSxm382SS
明治4年8月19日(1871年10月3日)、広如(大谷光沢)が死去。幕末の西本願寺の僧で、長州藩や月性との結びつきが強かった。上野大輔「幕末期長州藩における民衆動員と真宗」(『史林』93-3)曰く、広如が法主の時期に「勤王の立場が明確化され」、朝廷や新政府に献金。 https://t.co/epYE9XctKu
明治6年9月27日、沢宣嘉が死去。文久3年8月18日政変の際の「七卿落ち」の公家の1人で、生野の変に参加した。吉岡誠也「慶応四年の長崎における佐賀藩」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13)曰く、大隈重信を新政府の徴士参与に推挙した。外務卿などを歴任。 https://t.co/FCiMiYm2NR
昭和54年(1979年)9月18日、木村毅が死去。『明治天皇』、『文明開化』などの著作がある。濱口裕介「榎本武揚「共和国」言説に関する一考察」(『札幌大学女子短期大学部紀要』65)は、箱館戦争の際の榎本武揚の政権を、木村が「共和国」と呼ぶことに執着した点を分析。 https://t.co/Z5j7Jk8x7d
能川泰治「幕末維新期における政治・社会の変動と大阪城」(『金沢大学歴史言語文化学系論集 史学・考古学篇』12、2020年)は、幕末期に来日した外交官が、見学対象として大阪城に興味を持っていた事実を紹介。オールコックなど、豊臣秀吉ゆかりの城と知っていた者もいた。 https://t.co/lobJnXEhlH

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