著者
森田 大介 Daisuke MORITA モリタ ダイスケ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, 2020-03-31

十六世紀は、『中原康貞記』や『中原康雄記』などの古記録があるものの、地下官人に関する研究が停滞している。その理由は、『中原康貞記』と『中原康雄記』が全面的に翻刻されていないことや、当該期の六位外記史に関する職員録がない点にある。そこで、本稿は、基礎的な作業となるが、十六世紀に現われる外記局・弁官局の六位外記史の系統・官職・在職時期などの考証を行う。これによって、中世から近世に至る六位外記史や外記局・弁官局の実態を解明するための礎を築くものである。その結果を述べると、まず、十五世紀半ばの外記局の構成員一族は、隼人正流中原氏と「種」流清原氏となっていたが、長禄年間(一四五七~六〇)を境に「種」流清原氏は姿を消し、それに代わって「賢」流清原氏が出現する。そのため、十六世紀は、隼人正流中原氏と「賢」流清原氏が外記を本官として活動する。十七世紀初頭には、隼人正流中原氏の康政と、「賢」流清原氏の賢好が、出家・引退してしまうものの、蔵人方出納を輩出していた中原氏や、京近郊で郷士となっていた隼人正流中原氏の傍流から、新たに六位外記となる一族が現れる。弁官局では、十六世紀前半に三善氏が加わるが、同時期に高橋氏がいなくなる。しかし、高橋氏は後陽成天皇の在位期に再興されるので、十六世紀末から十七世紀初頭に史を本官とする一族は、安倍氏・高橋氏・虫鹿流小槻氏・三善氏の四氏構成となる。これらのことにより、両局ともその構成は、十五世紀半ばから十六世紀末に至るまでいまだ流動的な状況にあったと判断されるのである。十六世紀の六位外記史の多くが「両局兼帯」していたことも確認できる。この「両局兼帯」の一般化によって、両局は多数の構成員一族で運営されることになり、それぞれの局内にいる特定の構成員一族が六位の極臈となる官職を目指し、それ以下の官職を家業習得の場として請け負っていく「下級官史請負」の仕組みは崩れた様子がうかがえる。当該期は、家業習得や極臈になることを目的として下臈から上臈に昇っていく階梯を少数の構成員一族が独占し請け負っていくのではなく、行事運営を支えるためにそれぞれの局を構成する一族が、両局の枠を超えて外記と史の両方を請け負う状態となったと捉える方が妥当である。こうして両局は、「下級官史請負」の進行がもたらした人員不足と、それに伴う少数の構成員一族による局内運営という組織運営上の構造的欠陥を克服し、組織の統廃合や改編を経ることなく近世へと存続したと考えられるのである。Research on low-ranking officials in the 16th century has been stagnant due mainly to an absence of contemporaneous staff records.Accordingly, this paper examines the history, responsibilities, and terms of service at the Rokuishi and Rokuigeki that emerged in the 16th century with the hope of laying a foundation for elucidating the actual situation of the Gekikyoku and Benkankyoku.Our examination confirmed that during this period, members of the main lineage of the Nakahara Hayato family and Shu lineage of the Kiyohara family served as the Rokuigeki Secretariat.Nakahara Yasumasa of the main lineage of the Hayato Nakahara family, and Katayoshi Kiyohara, from the Ken lineage of the Kiyohara family, became priests and retired in the early 17th century. A new family of Rokuigeki Secretariat then appeared from a side lineage of the Nakahara family, which had produced Kurodo-shutsuno or brewers’ treasurers, and from another side lineage of the Nakahara family, which had become country samurai in the suburbs of Kyoto. From the end of the 16th century to the beginning of the 17th century, the Benkankyoku was served by four families; Abe, Takahashi, Mushiga lineage of Oduki, and Miyoshi. In other words, the organizational personnel of the two bureaus was still unstable during the period from the mid-15th century to the end of the 16th century.It can also be confirmed from the history of the 16th century that most of the time the secretariat served both bureaus. When the practice of serving both bureaus persisted, both bureaus were operated by a large number of specific family members who aspired to achieve the position of Gokuro, or head chamberlain. The structure of taking positions as lower-ranking officials as opportunities to learn about their family business eventually disintegrated. During this period, instead of a few members of the family monopolizing the echelons from the lower to the upper ranks, a large number of the family members who were in charge shared the responsibilities beyond the scopes of the bureaus to learn their family business and reach the top Gokuro post. In this way, the two bureaus were able to overcome their structural deficiencies, such as shortages of personnel from excessive taking of positions as lower-ranking officials resulting in management by a small number of family members. The two bureaus survived to early modern times without experiencing organizational elimination, consolidation or restructuring.
著者
齋藤 圭介
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.3, pp.386-403, 2017 (Released:2018-12-31)
参考文献数
44
被引用文献数
1

社会科学の分野において, 政治学者を中心に1990年代後半から定量的研究と定性的研究のあいだで方法論についての論争が生じた. 定量的な方法論が定性的なものよりも科学的であるという主張にたいし, 定性的研究者は反論する過程で方法論・手法を洗練させていく.本稿の目的は, こうした定性的研究者の新たな方法論のうち質的比較分析 (QCA) に注目をし, 社会科学の分野で生じているこの方法論争を検討することで, 社会学で目下進んでいる方法論の多様化に積極的な意義を見いだすものである.本稿の構成は以下のとおりである. まず定量的・定性的研究という枠組みで方法論争が先鋭化した社会科学の方法論争を取り上げ, そこでの論点を整理する (2節). 続いてQCAの方法論を概観したのち (3節), 定量的手法とQCAの支持者たちが, 定量と定性の方法論をめぐる論点にたいして, どこに・いかに対立しているのかを確認する (4節). 以上の議論をまとめ, 方法論の対立は, 単なる手法 (テクニック) 上の違いにとどまらずその方法論が拠って立つ世界観にまで及ぶ根深い問題であることを指摘し, 方法論間にあるトレードオフの問題を考察する. そして現在の社会学の方法論の多様化という現状の理解に資する知見を導出し結論とする (5節).
著者
浦川 邦夫
出版者
数理社会学会
雑誌
理論と方法 (ISSN:09131442)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.35-52, 2013 (Released:2014-09-01)
参考文献数
80

本稿では,経済学の研究分野における「健康研究」の分析事例について近年の研究を中心にサーベイを行い,それらの学術的意義を評価・検討した.これまでの経済学の健康に対するアプローチの代表例は,健康を人的資本の一部とみなし,労働者や企業の生産性しいては一国の成長を促す重要なファクターとして捉えてその役割を評価するものであった.特に,ゲイリー・ベッカーやマイケル・グロスマンが提唱,発展させた人的資本理論は,「国民の健康水準と経済成長」の関係や「労働者の不健康な行動(飲酒・喫煙など)と彼ら(彼女ら)の賃金水準」の関係など,「健康と生産性の関係」についての実証的考察をより積極的に促してきたと言える.また,近年は,所得,学歴,職業などの社会経済変数に加えて,地域要因や企業要因と健康との関連を分析する事例が多く見られるようになってきており,健康の決定要因に関する研究は多様性を増している.また,医療経済学の分野では,「費用便益分析」や「費用効用分析」の手法を用いることにより,健康を「その達成に要する負担」と「それを享受することで得られる便益」の双方の観点から経済評価する試みが進められている.健康研究の発展に向けて経済学の果たす役割は大きいが,近年の「健康研究」は,高度化・専門化した分析課題に対応するため,医学,疫学,社会学,心理学など様々な学問分野の研究者との間での共同研究が積極的に進められている.今後も,健康の決定要因や健康の諸効果の多面的・本質的な理解を進める上で,多様な学問分野の融合が進むことが期待される.

12 0 0 0 OA 麻疹戯言

著者
式亭三馬
巻号頁・発行日
1803
著者
藤井 聡 宮川 愛由
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集F4(建設マネジメント) (ISSN:21856605)
巻号頁・発行日
vol.72, no.4, pp.I_97-I_109, 2016 (Released:2017-01-31)
参考文献数
29
被引用文献数
2

自然災害に見舞われるリスクが高い我が国において,社会資本整備のみならず,防災及び経済発展の担い手として,土木建設業が非常に重要な役割を果たしてきた.一方で近年,公共工事の入札市場では,闇雲な低入札等の弊害により,建設業界全体が疲弊しており社会全体が甚大な不利益を被ることが危惧されている.そこで本研究では,我が国の公共調達制度適正化に資する知見を得ることを目的として,明治初期から今日に至るまでの我が国の公共調達の歴史変遷を整理した.その結果,我が国の公共調達は純粋な競争を避け,実質的に受発注者で調整を行うことで個々の受注価格と請負者を特定し,その中で,適切な工事品質を確保するという公益に資する目的で行われていた談合の存在と,それを正式に活用するための制度発展という歴史的経緯の存在が示唆された.
著者
佐藤 久美 粟津原 理恵 原田 和樹 長尾 慶子
出版者
一般社団法人 日本調理科学会
雑誌
日本調理科学会誌 (ISSN:13411535)
巻号頁・発行日
vol.44, no.5, pp.323-330, 2011 (Released:2014-05-16)
参考文献数
28
被引用文献数
2

我々は和食献立の抗酸化能を高める食事設計法を具体的に提案することを目指し,料理に用いる素材や調理法を変化させながら料理および食事献立単位での抗酸化能を評価し,各種料理における最適条件を検討した。測定にはケミルミネッセンス法を用い,ペルオキシラジカル捕捉活性能をIC50値として算出した。その結果,鶏つくねでは電子レンジ加熱法が,きんぴらごぼうでは水浸漬なしのゴボウを用いる方法が,味噌汁では鰹一番だしと赤味噌の「基準味噌汁」に抗酸化能の高いナスを添加する方法が,それぞれ抗酸化能を高める料理と決定した。それらに[主食]の玄米飯と[副々菜]のホウレンソウの白和えを組み合わせた1汁3菜のモデル献立にすると,他の組み合わせ献立に比べ抗酸化能が有意に高くなった。抗酸化能の高い料理を工夫し組み合わせることで,酸化ストレスに対応する理想的な和食献立として提案できることが明らかとなった。
著者
青島 周一
出版者
一般社団法人 日本薬学教育学会
雑誌
薬学教育 (ISSN:24324124)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.2019-022, 2020 (Released:2020-04-24)
参考文献数
12

前景疑問に向き合う上で,EBM(Evidence-based Medicine)は優れた方法論の一つですが,臨床医学に関する継続的な学びを実践していくうえでも有用です.とはいえ,EBMスタイルで学ぶことにも,いくつかの障壁が存在します.本稿ではEBMスタイルでの学習を妨げている要因を考察しながら,その障壁を乗り越えるために設立された「薬剤師のジャーナルクラブ」の取り組み概要と,教育プログラムとしての有用性について論じます.
著者
藤堂 良明 入江 康平 村田 直樹
出版者
日本武道学会
雑誌
武道学研究 (ISSN:02879700)
巻号頁・発行日
vol.30, no.3, pp.40-46, 1998-03-31 (Released:2012-11-27)
参考文献数
26

Recently there comes a lot of debating about Judo suit and main points are its form and colour. We tried to reserach the historical changes of Judo suit, especially about its form and colour in Japan and the results are as follows;(1) During the war pesiod, the warrior put on a HAKAMA (a divided skirt forman's for mal wear) and a KOSODE (a wadded silk garment) under the armors. After the war ended, the warrior sheds the armor and put on a HAORI (a Japanese half coat) instead of the armor on a HAKAMA and a KOSODE. The warrior wore a JUBAN (a half undergarmet) and drawers as underwears and the colour of those wears were white with the raason of low cost without dyeing.(2) When the warrior practised KATA of Jnjutsu, they took off a HAORI and so the wears for the practice were KOSODE and HAKAMA. After the KATA practice, they did MIDARE-GEIKO (a practice of free fighting style) and then took off KOSODE and HAKAMA and wore half sleeves which were made wider and quilted to make it be stronger, and the form was as the same as JUBAN. They put on MOMOHIKI (drawers) too in the practice.(3) The founder of Judo, Jigoro KANO mentioned Jude suit in his book that an upper garment could be white cotton in colour and trousers, MOMOHIKI with strings around the waist. Those which were mentioned by J. KANO are the technical terms of underwears, so that the origin of Judo suit could be recogrized as the underwears in Japanese culture. J. KANO maintained traditions of the white colour and improved of length of sleeves for prevention against injuries. And he established Dan and Kyu grading system with the various colours of the belts.(4) There has been a traditional belief among Japanese peoqle that white colour means pureness and holiness which are much worthy to the life, so that could be the reason why the white colour of Judo suit could be maintained so far.
著者
青柳 卓雄
出版者
日本臨床麻酔学会
雑誌
日本臨床麻酔学会誌 (ISSN:02854945)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.1-11, 1990-01-15 (Released:2008-12-11)
参考文献数
5
被引用文献数
2 7
著者
小坂 誠 吉田 愛 大江 克憲
出版者
一般社団法人 日本集中治療医学会
雑誌
日本集中治療医学会雑誌 (ISSN:13407988)
巻号頁・発行日
vol.23, no.6, pp.625-631, 2016-11-01 (Released:2016-11-01)
参考文献数
37

集中治療室の生体情報モニタとして,心電図とパルスオキシメータは必須である。心電図は心臓の電気的活動を示すが,パルスオキシメータは血管容積脈波(plethysmogram)から脈拍数およびSpO2を測定する。SpO2はSaO2と違い動脈血採血の必要がなく,非侵襲的である。SpO2は赤色光と赤外光を用いた吸収分光法(absorption spectroscopy)で測定するが,種々の測定障害がある。特に脈波の検出が難しい末梢低灌流と体動では,測定精度が低下する。これらへの対策はメーカーによって異なり,表示されたSpO2値の解釈には,測定原理への理解が必要である。またSpO2には透過型と反射型の測定形式があり,前額部で測定する反射型はショック・低体温時にも動脈の拍動が維持され,酸素飽和度の変化への反応時間も透過型より短い。よって,末梢低灌流や体動がある集中治療室の患者の測定には反射型が適している。
著者
石井 芳樹
出版者
一般社団法人 日本内科学会
雑誌
日本内科学会雑誌 (ISSN:00215384)
巻号頁・発行日
vol.103, no.11, pp.2728-2734, 2014-11-10 (Released:2015-11-10)
参考文献数
9

重症感染症の病態では敗血症から多臓器障害を来たして予後不良であるため,原疾患である感染症に対する適切な抗菌薬の投与以外に,循環・呼吸管理をはじめ血液浄化療法,DIC対策,栄養療法など集学的な治療により全身的管理を行うことが救命するうえで重要となる.