著者
大塚 隆生 中川内 章 下西 智徳 古賀 清和 岡崎 幸生 中房 祐司 宮崎 耕治
出版者
一般社団法人 日本消化器外科学会
雑誌
日本消化器外科学会雑誌 (ISSN:03869768)
巻号頁・発行日
vol.40, no.8, pp.1520-1524, 2007 (Released:2011-06-08)
参考文献数
9
被引用文献数
1

症例は69歳の男性で, 間歇性腹痛と新鮮血下血を来し, 近医で行った腹部CTで上腸間膜動脈閉塞症と診断され, 当科を紹介された. 心電図上心房細動を認めた. 血液検査で白血球とLDHの上昇, 血液ガス分析でアシドーシスを認め, 腸管壊死が疑われたため開腹手術を行った. 小腸は広範囲にわたり色調が変化し, 辺縁動脈の拍動も減弱していたが, 壊死所見はなかった. そこで, 術中血管造影検査を行ったところ, 上腸間膜動脈に空腸第1枝より末梢レベルでの閉塞を認めたため, 動脈壁を切開し, 血栓除去術を行った. その後, 小腸の色調は速やかに回復し, 辺縁動脈の拍動も良好となった. 造影CTでも上腸間膜動脈の血流は良好であった. 上腸間膜動脈閉塞症による腸管壊死の診断で開腹したが, 可逆的腸管虚血を疑い, 術中血管造影検査が部位診断と治療方針の決定に有用であった1例を経験したので, 文献的考察を含めて報告する.
著者
荒川 武士 上原 信太郎 山口 智史 伊藤 克浩
出版者
公益社団法人 日本理学療法士協会
雑誌
理学療法学Supplement
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.Ca0919, 2012

【はじめに、目的】 人工膝関節置換術(以下TKA)後の膝関節屈曲角度を獲得することは、立ち座り動作などの日常生活をスムースに行う上で重要である。機種や手術手技による相違はあるものの、120度の屈曲可動域を得ることは理論上可能と言われている。しかし、手術時の前方侵入による術野展開、更には筋中を深部に向かう術創が、皮膚・皮下組織の癒着・瘢痕などを引き起こし術後の屈曲制限に関係する可能性が十分に推察できる。特に皮膚は、関節軸から最も長いレバーアームをもつため、大きな動きを要求されるという点で癒着・瘢痕の影響を受けやすい組織といえる。そのため、皮膚可動性は屈曲制限に大きく影響すると推察される。そこで本研究は、他動的に膝関節を屈曲させた時の術創部周囲の皮膚可動性に着目し、TKA後の膝屈曲角度に及ぼす影響について検証することを目的とした。【方法】 対象は、TKA 後の入院患者20名(平均年齢76.7±7.7歳)とした。術後平均日数は45.0±17.9日であった。TKA患者は、膝関節屈曲角度120度未満の群(以下120度未満群)と120度以上可能な群(以下120度以上群)とに分類し、健常高齢者10名(平均年齢71.8±8.7歳)から成る対照群を含めた3群間の皮膚可動性の差を検証した。皮膚可動性の測定は浅野(2004)の報告に準じて行った。まず、膝関節伸展位にて脛骨粗面と膝蓋骨下端の距離を基準値とし、同距離を膝蓋骨下端から大腿骨長軸に沿って近位方向に3区間設定し、近位から順にa・b・c・d区とした。さらに各測定点の内外側2.5cmのところに測定点をとって5cmの基準距離とし、近位から(1)・(2)・(3)・(4)・(5)とした。次に膝関節を他動的に90度屈曲させ、その時のa~d(縦方向)、(1)~(5)(横方向)の区間距離を測定した。測定時の膝屈曲角度は、全ての患者が容易に行える角度として90度を選択した。得られた各区間の距離は基準値を100とした変化率に換算し、縦方向、横方向それぞれについて2元配置分散分析(群×測定点)を行った。下位検定にはBonferroni補正法によるt検定を用い、各区間それぞれについての群間差を検証した。有意水準は5%とした。【倫理的配慮、説明と同意】 ヘルシンキ宣言に基づき、事前に研究内容を十分に説明し同意を得た。【結果】 TKA患者を分類した結果、120度未満群は10名で、平均屈曲角度は101±7.7度であった。120度以上群は10名で、平均屈曲角度は120.5±1.6度であった。縦方向の皮膚可動性は、120度未満群でa区138%、b区126%、c区129%、d区122%であった。120度以上群はそれぞれ140%、129%、124%、118%であった。対照群は151%、163%、137%、130%であった。2元配置分散分析の結果、要因間に有意な交互作用が認められた。更に下位検定を行った結果、b区間においてのみ対照群と120度未満群、対照群と120度以上群との間に有意差を認めた。120度未満群と以上群の間に差は見られなかった。横方向については、120度未満群は(1)102%、(2)102%、(3)103%、(4)101%、(5)98%であった。120度以上群はそれぞれ101%、102%、102%、100%、99%であった。対照群は104%、104%、105%、103%、101%であった。2元配置分散分析に統計学的有意差は認められなかった。【考察】 TKA患者は健常高齢者と比較して、特に縦方向b区の皮膚可動性が顕著に低下していることが判明した。この要因の一つには、術創部の癒着・瘢痕化による皮膚そのものの伸張性低下が関係している可能性が挙げられる。また、本研究で計測したb区はちょうど膝蓋骨上縁付近にあたるため、この部分に内在する皮下組織、すなわち膝蓋上嚢や大腿四頭筋遠位付着部と皮膚との間の滑走の低下も複合的に関係している可能性が考えられる。一方、患者群同士に着目すると、120度未満群と120度以上群の間には縦方向の皮膚可動性に差を認めなかった。これは膝関節屈曲90度における縦方向の皮膚可動性が、TKA後に獲得できる膝屈曲角度に対する強い制限因子ではない可能性を示す結果と言える。しかし、実際の臨床では最終可動域付近において皮膚可動性が低下していることを多く経験し、皮膚へアプローチすることで即時に可動域改善が見られることがある。つまり、皮膚可動性は各個人の膝屈曲最終可動域付近にて強く影響しうるものであり、本研究で検証した90度屈曲時の可動性ではその影響を反映しきれていない可能性が推察された。【理学療法学研究としての意義】 理学療法介入において、関節可動域の制限因子解明は効率的治療の選択に繋がる。膝関節構成要素の一つである皮膚に着目し、TKA後の可動域への影響を見た本研究は、学術的にも臨床的にも有用な情報を寄与するものである。
著者
小泉 達治
出版者
農林水産省農林水産政策研究所
巻号頁・発行日
no.28, pp.25-62, 2018 (Released:2018-10-18)

自動車用燃料として使用できるバイオ燃料は,化石由来燃料からの代替エネルギー利用によるエネルギー安全保障問題への対応,温室効果ガスの削減,農業・農村経済の活性化等の目的により,世界中で導入が進められている。本研究では米国,ブラジル,EU,インドネシア,マレーシアのバイオ燃料政策・市場構造を定性的に分析し,バイオ燃料が世界の食料需給及びフードセキュリティに与える影響についての考察を行った。世界のバイオ燃料生産量の増加率は鈍化しているものの,いまだ増加傾向は続いている。バイオ燃料の主原料は依然として農産物が大部分を占めているため,現段階でもバイオ燃料は世界の食料需給に影響を与えている状況にある。バイオ燃料による食料価格下支え効果は,2000年代半ば以降の世界の食料需給構造を大きく変えた要因の一つであると考えられる。今後も,世界のバイオ燃料需要量はほぼ横ばいで推移するものの,食料由来のバイオ燃料需要量が世界の食料需給に影響を与え続けていく見込みである。これは,今後も食料価格が下落しにくい構造が継続していくことを意味する。一方,農産物は農民にとって重要な所得源であるため,バイオ燃料生産を通じて,食料価格を「下支え」し,価格の暴落を防ぐことは,農民の所得安定・増加にもつながると考える。このため,バイオ燃料が世界のフードセキュリティにとってプラスとなるような取組を国際社会で進めていくことが今後,重要となる。
著者
石塚 勝美 Katsumi Ishizuka
巻号頁・発行日
no.5, pp.11-30, 2007-03-31

この論文は、1978 年以来南レバノンに駐留してきた国連レバノン暫定軍(United Nations Interim Force in Lebanon: UNIFIL)の設立初期の活動状況について論じている。UNIFILは、その活動の基準となった国連安全保障理事会決議425 に記された3つのマンデートを遂行することはできなかった。それは、国連PKOを行うために本来備わっているべき諸条件が満たされていなかったからである。イスラエルは、その後も4度にわたりUNIFILを無視した形で、PLOやヒズボラ等、南レバノン駐留の武装勢力に軍事侵攻を行っている。UNIFIL初期の活動状況の未熟さがそれ以降のイスラエルの横暴振りを許している結果になってしまっていると考えられる。UNIFILの事例をとっても、今後の国連PKO は、さらに強健なものになっていくべきであろう。
著者
武藤 麻美 釘原 直樹 Muto Mami Kugihara Naoki ムトウ マミ クギハラ ナオキ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科対人社会心理学研究室
雑誌
対人社会心理学研究 (ISSN:13462857)
巻号頁・発行日
no.12, pp.173-181, 2012

本研究は、(1)異なる価値観を有する内・外集団ターゲットへの心理的距離の延伸と、印象評価の切り下げとが連関するか否かについての検証、(2)その連関は、認知者が保有するターゲットに対する期待値と、現実値との乖離が大きい場合に、顕著に出現することの検証、を目的とした。実験デザインは、2(戦争反対意見, 戦争賛成意見) × 2(内集団: 日本人, 外集団: 米国人)の参加者間計画とした。結果は次のとおりである。(1)戦争反対条件で、ターゲットに対する距離の短縮化と印象評価の上昇がみられた、(2)戦争賛成反対の両条件とも、外集団ターゲットよりも内集団ターゲットで、距離の延伸と印象評価の低下がみられた、(3)心理的距離と印象評価の変動は類似の傾向を示した。これらの結果について考察を行う。
著者
松尾 和洋
出版者
一般社団法人情報処理学会
雑誌
情報処理 (ISSN:04478053)
巻号頁・発行日
vol.44, no.5, pp.552-553, 2003-05-15
参考文献数
3

とうとうイラク戦争が始まった.連日,テレビや新聞,そしてインターネットで刻々の戦況が日本でも報道されている.米国では戦争反対の意見もかなりあるが,国が決断して戦争を始め,多くの家族が戦場に身内を送りだしているので,報道のトーンも日本とは違ったものになっている.
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.11, pp.131-163, 2014

日本全国に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,最も息の長い運動を続けたひとつが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。1965年から1973年の間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民による反戦デモである「十の日デモ」が続けられたのである。十の日デモは,さまざまな理由から1968年前半に運動上の大きな転換点を迎えている。そこで筆者は,1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした論考を準備した。本稿は,その第1部にあたる部分である(第2部以下は次号以降に掲載予定)。本稿ではまず,政党や労働組合といった組織によらない市民のベトナム戦争反対の動きが,福岡市ではどのように始まったのかを明らかにした。あわせて,その動きを起こした九州大学の中心的メンバーのプロフィールを検討し,福岡市におけるベトナム反戦市民運動発足時の運動の性格について論じた。しかし,ローカルなベトナム反戦運動の歴史は,全国的な動きのなかに位置づけて検討される必要がある。そのために本稿の後半では,いったん福岡からは離れ,ベトナム反戦運動の全国的動向の再検討を行なっている。政党や労働組合など既成組織の動向と市民の自発的な反戦運動の動向とを比較しながら,1967年2月の米軍による北ベトナム爆撃(北爆)以降,日本の中でどのようにしてベトナム反戦運動が広まっていったのかをみていく。またその際には,同時期に運動課題となった日韓条約反対闘争との関係,各種マス・メディアが世論や運動に与えた影響,ベトナム反戦運動において注目された自発性および個人性の問題,労働運動が反戦運動に取り組む際に直面した問題などに注目した。それら個別の論点の検討をとおして,日本におけるベトナム反戦運動全般の重要な特質を明らかにするよう努め,最後の小括のなかでその結果の提示を試みた。One of the longest-lasting anti-Vietnam War movements in Japan was that which emerged in the city of Fukuoka in Kyushu in the middle of the 1960s. Its citizens formed a small protest group and carried out regular protest walks for seven and half years between 1965 and 1973. The walk was called the 'tenth day protest walk' (Ju-no-hi-demo or To-no-hi-demo in Japanese), for it took place on the 10th, 20th and 30th of every month.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a long draft historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the first part of that essay and the subsequent two parts will appear in the next two issues of this journal.The article firstly looks at the beginning of the citizens' anti-war movement in Fukuoka, exploring the biographical backgrounds and ideas of its core members. In the second part of the article, a number of citizens' anti-Vietnam War movements that emerged in other areas in Japan as well as anti-war protest actions organized by trade unions and political parties are examined. This provides a wider context for the Fukuoka citizens' movement that should give a more balanced view of what happened there.In exploring the very beginning of the history of the anti-Vietnam War movement in Japan, this article pays special attention to the following questions which illuminate the peculiarity of the Japanese ant-Vietnam War movements: How did the Japanese people and society respond to the question of the Treaty on Basic Relations between Japan and the Republic of Korea of 1965, which left-wing intellectuals regarded as a part of the US military strategy in Asia? How did the mass media in Japan, which started to report on the Vietnam War intensely after the US bombing of North Vietnam, influence Japanese society? Why did so many people in Japan feel compelled to raise their voices against Vietnam War by themselves? And, what kinds of difficulties did trade unions encounter when they tried to organise a nationwide anti-war strike in 1966? The article concludes with tentative answers to these questions.0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられた抗議の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対――日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ――ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以下,次号以降に掲載予定)4. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1964年8月~1967年12月5. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7. 東京ベ平連との連携 1966年6月~8. 労働者と学生の参加9. 十の日デモの広がりとその評価
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.15-41, 2016

日本各地域に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,息の長い運動を続けたのが福岡市におけるベトナム反戦市民運動(「福岡ベ平連」)であった。その活動の前身となったのが「十の日デモ」と呼ばれた定例デモで,1965年から1973年までの間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民によって続けられた。本論考は3部構成の第3部に当たり,「福岡ベ平連」が発足する前の1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付けて検討対象とし,福岡におけるベトナム反戦市民運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにするものである。本誌11号および12号掲載の第1部,第2部の論考で明らかにしたように,福岡における十の日デモは九州大学の数学者たちが重要な担い手となって発足したものであった。しかし,1966年6月からは,福岡以外の日本諸地域におけるベトナム反戦市民運動との連携が東京のベ平連を媒介にして始まっている。本稿では,福岡における十の日デモが,そうした全国的なベトナム反戦のための連携ネットワーク形成にどのような経緯で接続,参与していったのかという点をまず検討する。ほぼ同じころ,十の日デモの参加者にも変化が見られるようになる。労働組合に組織された若い世代の労働者たちがデモに参加するようになった。また,九州大学の学生たちの参加も,医学部の学生たちが独自の反戦グループを作って主体的に参加するようになる。また,個人として十の日デモに主体的に参加するようになった九州大学の学生についても,3事例で具体的に検討していく。さらには,九州大学以外の学生の参加も次第にみられるようになる。その事例についても紹介する。1965年2月のベトナム北爆から68年1月の佐世保闘争までの約3年のあいだ,九大学生が大衆的な規模で最もこだわった問題は,ベトナム反戦でも日韓条約闘争でもなく,67年初夏の教養部田島寮の寮祭の樽神輿コースおよび九大学生祭の仮装行列コースの変更問題をめぐるものだった。このいわば「フェスティヴァル」の自治と自由に対する警察の介入に対してみせた九大学生たちの行動には,その後の大学闘争やベトナム反戦運動を予見させるものがあった。その点をみていく。最後に,十の日デモに対する当時の福岡市民の評価と態度を確認しつつ,さまざまな批判に応えつつ,デモ参加者たちがどのように自らのデモを位置づけていたのかを確認してみたい。Amongst many anti-Vietnam War movements in Japan, one of the longest sustained is that of Fukuoka city in Kyusyu. The focus of the movement was Jū-no-hi-demo' or Tō-no-hi-demo, citizen's protest walks in the city centre, organized every 10th day of the month from 1965 to 1973.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as Tō-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the third, the final part of that essay.As discussed in the previous parts of the essay, Tō-no-hi-demo no kai (Association for the Tenth Day Protest Walk) started with several mathematicians of Kyusyu University as its main membership. But by June 1966, Tō-no-hi-demo no kai began to collaborate with an anti-Vietnam War movement in Tokyo. This, so-called 'Tokyo Beheiren', proposed a nation-wide lecture tour on war on Vietnam, and Tō-no-hi-demo no kai accepted that it would host a public lecture in Fukuoka. This article firstly examines the process in which Tō-no-hi-demo no kai began to make connections with other anti-Vietnam war movements outside Fukuoka.Along the gradual formation of the anti-Vietanm war network with groups of other regions, To-no-hi-demo began to attract participants of more varied backgrounds. Trade union members of younger generations, an anti-war group of medical students, and students from universities other than Kyusyu University joined the demo. The second topic the article examines is the expansion of participants in Tō-no-hi-demo.Thirdly, the article looked at the Kyusyu university student's protest actions against the local police who tried to regulate the student's festival procession on the main city road. The procession had been running annually for many years, and the attempts from the police to limit it gave rise to the massive direct protest action from the students. Although this was not an anti-war protest in any sense, it seems to have revealed the ethos and attitudes of the students at the time.Lastly, the article examined the reaction to Tō-no-hi-demo among the general public in Fukuoka, as well as evaluates the self-awareness of the participants.0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられたベトナム侵略戦争反対の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対—―日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ—―ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以上,本誌11号に掲載)4. 承前(1)5. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1960年代初頭~1967年12月5-1. 福岡での反米軍基地運動5-2. 米国のアジア反共産主義軍事戦略と九州北部5-3. 改憲・核武装阻止福岡県会議5-4. 小林栄三郎5-5. 福岡県下米軍基地を通したベトナム戦争への加担への抗議5-6. 福岡県反戦青年委員会の結成5-7. 田川地区反戦青年委員会5-8. 日韓条約闘争後の福岡でのベトナム反戦運動6. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6-1. カリフォルニア大学「ベトナムの日委員会」に署名電報6-2. ベト数懇の発足6-3. 若き数学者たちの運動――東大SSS6-4. 九大数学教室の戦後7. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7-1. 直接のきっかけ7-2. 社会党を良くする会7-3. 渡辺毅,倉田令二朗7-4. 倉田ヒデ子7-5. 山田俊雄7-6. 金原ヒューマニズム7-7. 十の日デモの由来7-8. 東京ベ平連との関わり――意識していたが無関係7-9. 十の日デモは誰が参加して始まり,どのように行なわれていたか7-10. 十の日デモの特色8. 小括(2)(以上,本誌12号に掲載)9. 承前(2)10. 東京ベ平連との連携 1966年6月~10-1. 福岡での全国縦断日米反戦講演会10-2. 山田俊雄の日米市民会議(東京)への参加11. 労働者と学生の参加11-1. 九大医学部生による「ベトナム戦争反対に起ち上がる会」11-2. 個人として参加した学生たち11-3. 東京ベ平連と連携した講演会を継続開催11-4. 九大以外の学生の参加11-5. 既成組織の行なうベトナム反戦運動との違い12. 安保以来最大の九大生デモ――樽神輿と仮装行列13. 十の日デモの広がりとその評価13-1. 福岡市民の十の日デモ評価13-2. 組織による運動と市民個人による運動14. まとめにかえて
著者
窪田 規
出版者
The Japan Institute of Electronics Packaging
雑誌
HYBRIDS (ISSN:09142568)
巻号頁・発行日
vol.8, no.2, pp.8-13, 1992-03-01 (Released:2010-03-18)
参考文献数
5
出版者
日経BP社
雑誌
日経ものづくり (ISSN:13492772)
巻号頁・発行日
no.808, pp.80-82, 2022-01

そこで衣浦工場が考案したのが、くるくるちゃんである。コンベヤーと回転台が別々だった従来の方法を見直し、連続したコンベヤーの途中に回転台として機能する部分を設けた。その結果、検査のたびに作業者が治具を持ち上げて載せ替える必要がなくなった。
著者
岩本 誠吾
出版者
京都産業大学法学会
雑誌
産大法学 (ISSN:02863782)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.250-207, 2008-09

第1章・武力行使の法的根拠第2章・戦争法(Ⅰ~Ⅸ) (40巻3・4号) (Ⅹ~ⅩⅤⅠ) (41巻1号)第3章・人権 (Ⅰ~Ⅲ)第4章・戦争以外の軍事作戦における戦争法(Ⅰ~Ⅴ) (41巻2号) (Ⅵ~Ⅷ) (41巻3号)第5章・交戦規則 (41巻4号)第6章・軍事作戦を支援する緊急事態主要軍属第7章・不測事態契約企業派遣要員 (以下本号)

1 0 0 0 OA 伊藤痴遊全集

出版者
平凡社
巻号頁・発行日
vol.続 第3巻, 1931
著者
岩佐 孝彦
出版者
日経BP
雑誌
日経トップリーダー = Nikkei top leader (ISSN:24354198)
巻号頁・発行日
no.429, pp.58-61, 2020-06

コロナ対策は"見えない敵"と戦う第三次世界大戦とさえ言われる今日、経営者に求められるのは、社員とその家族の安全を守ることです。中でも経営者の頭を悩ませるのが「休業手当」の問題です。労働基準法上の「休業手当」とは、社員本人の都合ではなく、使用…
著者
長谷川 日出世 Hideyo Hasegawa
巻号頁・発行日
vol.15, pp.165-178, 2009-03-25