著者
山崎 竜二 藤波 努
出版者
日本創造学会, 北陸先端科学技術大学院大学
雑誌
第五回知識創造支援システムシンポジウム報告書
巻号頁・発行日
pp.24-31, 2008-03-14

近年、急増する認知症高齢者をめぐり、行政課題として認知症・介護の予防事業が喫緊のものとして浮上してきた。市と連携した事業の検討からアクション・リサーチを進め、コミュニティ・ケアの方法論を探る。本研究の目的は高齢者の秘めた力を引き出し有効に活用すると同時に、認知症高齢者が地域に受け容れられる仕掛けとしての社会システムを構築することにある。プロジェクト全体の流れをつくる第一段階と、予防事業における問題の本質を探る第二段階に分かれる。まず回想法を発展させ、児童が校区高齢者の体験談を作品化し、創作劇を媒体に認知症高齢者とのセッションを行う手法を取った。高齢者の思い出という知識資源を子どもの教育に活用し、認知症高齢者の秘めた力を発揮できる環境を整えて身近な理解が地域の人々に浸透する仕組みを築いた。認知症やその状態にある人に対して、実際セッション前に児童の多くは病態としての理解を得てもなお恐怖や哀れみを記述していた。この検討課題を考慮し、プロジェクトの第二段階として論点の深化を図る。認知症の病気としての説明以前に、さまざまな不自由を抱えていく老いの捉え方を主題として取り上げ、高齢者と子どもと共に老いゆくことの価値を探る。本プロジェクトにおける地域社会のシステム構築はその枠組みに加え、この臨床哲学の取組みを内実として予防事業に本質的な方向性を付与するものである。人々が世代を越え、認知症の人と共に生きるなかで価値観を成熟させる創造的なコミュニティのあり方を検討し、少子高齢社会に対応する社会システム構築の根底的な論点を追究する。 : In Japan, dementia prevention is an urgent issue and the importance of the prevention is emphasized by Government policy. We explored the possibility and direction of the prevention project. The purpose of our study is to investigate how the latent ability of elderly people can be brought out and the elderly with dementia can be accepted by neighbours without prejudice. Our approach is to shape a community with children at its centre. Making use of knowledge resources of elderly people can be promoted by transmitting their experience to children. Moreover, creative dramas collaborated by children and elderly become media by which they communicate with the elderly with dementia. Through the inter-generational communication project, children's conception of the elderly with dementia may be spread to their parents and those around them. As a first step, we constructed a framework of the social system which realizes this process of the project. It was shown by statistics that the children's images towards the elderly with dementia changed positively through the project. However, it remained a difficult issue how to take up the theme of dementia. Most of the children wrote their feelings of fear about dementia and pity for the person, even after they understood dementia as disease separated from the person. As a second step, we introduced a program for children and their related adults to think about the values of ageing, in which we face with various inconvenience. We approach the investigation of the point at issue philosophically, and focus on the viewpoint which is required to accept the elderly with dementia.
著者
柏葉 武秀
出版者
北海道大学哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:02872560)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.47-65, 2008-02-29
著者
黒川 勲
出版者
大分大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

交付申請書の「研究の目的・研究計画」に対応した研究実績の概要は以下の通りである。1.ホッブスの物体論とスピノザのコナトゥス論との比較を通して,コナトゥスに関してホッブスがもっぱら位置の移動としての運動の意義を見いだすのに対して,スピノザはものの本質として包括的・有機的に運動を説明する方向性が見いだせる。2.デカルトの物体的世界とスピノザの物体的世界の構成に関する比較を通して,デカルトの物体論は物体の本質を不完全性のもとに位置づける伝統的な把握であるが,スピノザの物体論は延長に無限性・完全性を認める特徴的なものであることが明らかになった。3.スピノザのコナトゥス論の中世哲学との連関の検証については,関連する文献・先行研究の資料収集に努めるとともに,『Suarez Opera Omnia』の物体論・運動論及びヘールボールド『Meletemata philosophica』の著作における「原因性」・「実体性」に関する該当箇所の翻訳を試みた。4.スピノザのコナトゥス論及び物体的世界の構成に基づき,スピノザ哲学の頂点である「最高善」・「第三種の認識」について検証を行った。すなわち,最高善とは「コナトゥスの自覚化」において見いだされるものであり,第三種の認識は人間存在全体の統合的本質である「コナトゥスの認識」に他ならないのことが明らかになった。
著者
黒川 勲
出版者
大分大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

交付申請書の「研究の目的・研究計画」に対応した研究実績の概要は以下の通りである。1.ホッブスの物体論とスピノザの物体論との比較,及びコナトゥスの意義の抽出については,ホッブスの物体論の精査と文献・先行研究の資料収集に努め,一方スピノザ哲学の成立史に関係する文献・先行研究を網羅的に収集した。コナトゥスに関してホッブスがもっぱら位置の移動としての運動の意義を見いだすのに対して,スピノザはものの本質として包括的・有機的に運動を説明する方向性が見いだせる。2.デカルトの物体的世界とスピノザの物体的世界の構成に関する比較,及びコナトゥスの位置付けについては,その結果,デカルトの物体論は物体の本質を不完全性のもとに位置づける伝統的な把握であるが,スピノザの物体論は延長に無限性・実体性を認める特徴的なものであることが明らかになった。3.スピノザの物体論の中世哲学との連関の検証については,関連する文献・先行研究の資料収集に努めるとともに,スアレス『Disputationes Metaphysicae』及びヘールボールド『Meletemata philosophica』の著作における「完全性」・「無限性」の該当箇所の翻訳を行った。4.スピノザの物体論の核心は,無限性を中心とする特徴的な神理解にあり,その根幹は実体性であることが明らかになった。
著者
荻野 弘之 大橋 容一郎 田中 裕 渡部 清 勝西 良典 谷口 薫
出版者
上智大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

過去4年間の研究を集約して以下のようなまとめを得た。(1)西洋古代哲学の領域では、実践的推論の結論を字際の行為に媒介する「同意」の概念から派生した「意志」に相当する「われわれのうちにあるもの(如意)」(epi hemin)に関して、後期ストア派、特にエビクテトスとマルクス・アウレリウスにおける展開が跡づけられた。これについては07年度末までに、単行本として成果の一端を刊行する予定。(2)アウグスティヌスの内面的倫理思想の分析として、正戦論の祖とされる聖書解釈の検討により、中世盛期スコラ学の自然法思想との相違が明らかになった。これらについては単行本の形ですでに刊行された。(3)同時にこの概念が、仏教的な「如意」の思想として近代日本思想史に接続する状況を跡づけた。その結果、西川哲学を、孤立した(独創的な)日本独自の思想としてのみならず、明治期の西洋哲学の受容史のうちに置き据えることにより、これまで仏教、特に禅との比較でのみ論じられがちであった西田哲学を、キリスト教の受容史の視点から読み直すという新しい視座を獲得しつつある。これについては渡部によって引き続き研究が継続される。西田に関しては新カント派を経由するかたちで大橋によって、また東西の比較霊性史の見地から田中によっても積極的な提題があり、とりわけ「自覚」と「意識」「人格」の概念的な結びつきが改めて問われることになった。清沢満之の新しい全集の刊行もあって、今後はストア倫理学と仏教思想、キリスト教修道思想の微妙な関係を歴史的、構造的に問題にしていく可能性が開かれつつあることは大きな前進といえよう。(4)残された課題も依然として多い。そのうちでも、近年英米圏の哲学において「後悔」「自信(自負)」といった感情の分析が、モラル・サイコロジーの手法によって、また哲学史研究としても隆盛を見せている、こうした研究動向を睨みながら、従来の思想史の読み直しがどういった可能かについては、今後の課題でもある。
著者
日吉 大輔
出版者
北海道大学
雑誌
哲学 (ISSN:02872560)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.右1-右19, 2005-07-17

In Posterior Analytics B1-10, Aristotle constructs theory of inquiry, which has two crucial theses: (a) "everything which is inquired is the inquiry into a middle term" and (b) "what it is and why it is are the same." These are concerned with definition and demonstration. Then I will show how the relation between (a) and (b) is, while he seems to put them as mutually dependent conceptions in the relevant context. I distinguish B1-10 into three phases: phase 1; practice of inquiry (B1-2), phase 2; traditional framework (B3-7), phase 3; his theory of inquiry (B8-10).These three phases, I think, reflect on the relation between (a) and (b), and provide us backgrounds of the construction of the theory. Especially, phase 2 maintains the balance of definition and demonstration in the beginning of B8 on the basis of a traditional concept; essence.
著者
藏田 伸雄 石原 孝二 新田 孝彦 杉山 滋郎 調 麻佐志 黒田 光太郎 柏葉 武秀
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2004

本研究ではまず、科学技術に関するリスク-便益分析の方法について批判的に検討し、リスク論に社会的公平性を組み込む可能性について検討した。第二に、ナノテクノロジー、遺伝子組換え農作物等の科学技術倫理の諸問題をリスク評価とリスクコミュニケーションの観点から分析した。第三に、リスク論に関して理論的な研究を行った。さらにリスク論と民主主義的意思決定について検討した。第四に、技術者倫理教育の中にリスク評価の方法を導入することを試みた。まず費用便益分析に基づくリスク論は、懸念を伴う科学技術を正当化するための手段として用いられることがあることを、内分泌攪乱物質等を例として確認した。また研究分担者の黒田はナノテクノロジーの社会的意味に関する海外の資料の調査を行い、アスベスト被害との類似性等について検討した。また藏田は遺伝子組換え農作物に関わる倫理問題について検討し、科学外の要因が遺伝子組換え農作物に関する議論の中で重要な役割を果たすことを確認した。そしてリスク論に関する理論的研究として、まず予防原則の哲学的・倫理学的・社会的・政治的意味について検討し、その多面性を明らかにした。他に企業におけるリスク管理(内部統制)に関する調査も行った。リスク論に関する哲学的研究としては、確率論とベイズ主義の哲学的含意に関する研究と、リスク論の科学哲学的含意の検討、リスク下における合理的な意思決定に関する研究を行った。またリスク評価と民主主義的な意思決定に際して、参加型テクノロジーアセスメントや、双方向型のコミュニケーションによって、リスクに関する民主主義的決定モデルが可能となることを確認した。また技術者倫理教育に関して、研究分担者の間で情報交換を行い、上記の成果を技術者倫理教育に導入することを試みた。
著者
藤木 篤
出版者
神戸大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2009

本年度は、技術者倫理の成立した背景とわが国でのこれまでの歩みに焦点をあてながら、昨年度に引き続き専門家としての技術者の責任に関する研究を行った。主要な業績は以下の二点である。1.「工学倫理の教科書の変遷」では、日米それぞれの主要教科書の内容を検討し、その傾向について分析を加えた。技術者倫理の教科書を網羅的に扱った先行研究としては、石原の論考(2003)が挙げられるが、以降の趨勢の変化を反映したものとしては本研究が現時点で唯一のものであり、その点において一定の意義が認められる。アメリカの教科書は従来より技術者倫理におけるプロフェッショナリズムの重要性を強調しており、近年に至ってますますその論調を強めている。本稿では、こうした論調の変化をどのように受け止めるかが、わが国の技術者倫理の今後を考える上で非常に重要な鍵となる、という点を指摘した。2.『21世紀倫理創成研究』に掲載された「工学倫理の国際普及における外的要因:技術者資格と技術者教育認定制度の国際化」では、アメリカで興った工学倫理が、わが国を含め世界中でなぜこれほどまでに急速に広まったかという理由について技術者資格と技術者教育認定制度の国際化という観点から詳述した。これらの研究活動の他に、優秀若手研究者海外派遣事業により、平成22年6月から翌23年3月まで、派遣先機関であるコロラド鉱山大学にて資料の収集を行った。具体的には、同大学附属のアーサーレイク図書館に所蔵されている、鉱業関連企業の会社報告書コレクションの内、アスベスト取扱企業に関する資料を収集した。また同館が所蔵する、アスベスト使用・規制の歴史に関する資料も併せて複写した。
著者
御子柴 道夫 長縄 光夫 松原 広志 白倉 克文 清水 昭雄 大矢 温 加藤 史朗 清水 俊行 下里 俊行 根村 亮 坂本 博
出版者
千葉大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2003

18世紀後半から19世紀前半までのロシア思想史を、従来の社会思想史、政治思想史に偏る研究視点から脱し、それらを踏まえたうえで、狭義の哲学思想、宗教思想、文学思想、芸術思想の多岐にわたる面で多面的に研究してきた。その結果、従来わが国ではもっぱら思想家としてしか扱われてこなかったレオンチェフの小説にスポット・ライトが当てられ、逆に小説家としてしか論じてこられなかったプラトーノブやチェーホラが思想面からアプローチされた。またロシア正教会内の一事件としてわが国ではほとんど手つかずだった賛名派の騒動が思想ないし哲学面から解釈された。さらに象徴派の画家やアヴァンギャルド画家が哲学あるいは社会思想史の視点からの考察の対象となった。と同時に、これらの作業の結果、ロシアでは文学、芸術、宗教儀礼、あるいは社会的事件さえもが思想と有機的に密接に結びついているのではないかとの以前からの感触が具体的に実証されることとなった。また、文化のあらゆる領域を思想の問題としてとらえた結果、当該時期のロシア思想史をほとんど遺漏なく網羅することが可能になった。この基本作業をふまえて、いくつかのテーマ--近代化の問題、ナショナリズムとグローバリズムないしユニヴァーサリズムの問題、認識論や存在論の問題などが浮上してきた。分担者、協力者各自の研究の中で当然それらのテーマは咀嚼され発展させられてきたが、今後はこれらのテーマを核に、この4年間で蓄積された膨大な素材を通史的に整理し止揚する作業を継続してゆき、書籍として刊行して世に問うことを目指す。
著者
鈴木 貴之
出版者
南山大学
雑誌
若手研究(スタートアップ)
巻号頁・発行日
2006

本研究の目的は、現代の自然科学的世界観のもとで価値や規範にかんする実践はどのように変化するかという問題を、神経科学を具体例として考察することにある。本年度の研究では、前年度の研究成果をふまえ、神経科学の発展が司法制度に与える影響について考察を進めた。具体的には、論文「神経科学と刑罰」としてまとめた前年度の研究成果をもとに、この問題についてさらに考察を進め、神経科学の発展は現在の刑事司法制度に根本的な変化をもたらす可能性があり、さらには、自由や責任をめぐる常識的な世界観を揺るがす可能性もあるということを明らかにした。これらの研究成果は、2007年10月に南山大学社会倫理研究所で行った講演「脳科学と社会-司法制度への影響を例として」、2007年11月に日本倫理学会で行われたワークショップ「脳神経科学の倫理-ニューロエシックスの展開」における提題「脳神経科学と司法制度」として発表された。後者の内容は朝日新聞2007年12月14日29面でも紹介された。これらの成果は、信原幸弘編『脳神経倫理学の展望(仮)』(勁草書房、近刊)に収録の論文「脳神経科学と司法制度」として公刊予定である。また、本年度には、本研究の成果をもとに、南山大学における共通教育科目「モダンの系譜(科学の諸相)」で「脳科学と現代社会」と題した講義を行った。これは、大学学部レベルの授業で神経倫理学を紹介する日本で初めての試みと思われる。
著者
萩原 優騎
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. II-B, 社会科学ジャーナル (ISSN:04542134)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.205-223, 2007-03

The concept "paradigm" has been used in many research areas since Thomas Kuhn used it in his book The Structure of Scientific Revolutions. However, as this concept was applied to various areas, its critical meanings in philosophy of science tended to be lost. The aim of this paper is to reconsider paradigm theory and deepen an understanding about it in relation with social anthropology and Lacanian psychoanalysis. Paradigm is necessary to form a scientific community, where scientists study following shared models. It brings about the stable situation of community which Kuhn called normal science. Kenelm Burridge called the subject in this situation the person. According to Burridge, the person is a result of socialization, which is necessary for the subject to become a member of society. From a viewpoint of Lacanian psychoanalysis, it means to enter the symbolic order. The subject follows this order, and it makes him/her stable because the symbolic controls the imaginary which is a dimension of the identity of ego. The imaginary conceals the lack of a basis of the symbolic, and then the stability of daily life is maintained and reproduced. When this stability is shaken, a chance of paradigm change comes. However, paradigm does not change easily even if irregular cases which are not consistent with a given paradigm appear. Paradigm changes only when its instability reaches the limit where the balance of its system cannot be maintained. This deadlock of symbolization is the real. The person can become the individual who is a creative ignition to change a given tradition, when he/she meets the real. Conversely, the individual cannot come into existence without the person; the real cannot be recognized retroactively as a miss of perfect symbolization until symbolic order is formed. Paradigm change is a change of referent. The subject can compare different paradigms, but he/she cannot understand them perfectly. If he/she can do so, paradigm A which he/she belongs to should be equal to paradigm B which he/she recognizes as a different paradigm. He/she cannot avoid distortion of understanding, which is called incommensurability. When he/she recognizes something as an incommensurable object, this object is object a as a remainder of the real. It is a structural gap of his/her imaginary identity or a mirror of nothing where he/she meets the real. He/she as the individual can recognize this object as the real, but he/she as the person cannot do so because the imaginary usually conceals a structural lack of the symbolic by putting the object as an object of fantasy on the gap. The individual transcends a given paradigm through such processes, then he/she accepts the lack of a basis of the symbolic. However, he/she does not leave the symbolic because the subject cannot exist without the symbolic. Because of this psychoanalytic structure, he/she cannot help accepting his/her structural limit and trying to symbolize the real again. A new paradigm appears here through a process of symbolization. To symbolize consistently, theorization is necessary; he/she uses a theory as a frame of reference to see consistently. Even if he/she symbolizes successfully, this is not a goal. He/she has a lack of the symbolic, which guarantees him/her structurally to continue self-critical praxis.
著者
長谷川 陽子
出版者
北海道大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2008

ハンナ・アーレントの1920年代から1958年までの論考が、その後の著作に重要な影響を与えていることを論証するため、当該期間に著された論考の原文による読解をおこなった。今年度は主として『全体主義の起源』、草稿である『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』と、同じく草稿である『政治の約束』の前半部を中心的に読み解くことで、アーレントの思想が、『人間の条件』執筆以前に完成された形で提示されていたことを論証することができた。1920年代のアーレントの思想から、連綿と受け継がれてきた「実存哲学」思想が、『人間の条件』以前までの論考の中に主軸として発展させられていたことを確認した。従来の研究ではこのアーレントの「実存哲学」思想には、全体主義につながる契機となるのではないかとするマーティン・ジェイを代表とする指摘を受け、重要視されることはなかった。しかし、この「実存哲学」こそが、アーレントの人間の『複数性』と「個別性」とを訴えかける貴重な契機となっていることが了解されたのである。この成果をもとに、前年度までに学会報告等において知り合うことができた、国内の他のアーレント研究者の協力を求めて話し合うことで、より多面的な見地から、意見を伺うことができた。また、1920年代から1930年代にかけてのアーレントの思想を改めて追う中で、「公的空間」における「創造の契機」こそが、アーレントにとって最も重要であったことを再確認した。このことは、アーレントの「公的空間」が、その中での問題解決を最初から見込んでいるものではないとする、思想射程を明確化する機会ともなった。上述してきた研究成果を、発展させ、アーレントの思想における「他者存在」と「政治的公共空間」とがどのようにその思想の中核となっていったかを明確化した上で、博士論文の執筆を行った。
著者
中務 哲郎 岡 道男
出版者
京都大学
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1991

3年間の研究を通じて、古代の民間伝承がギリシア・ラテン文学をいかに豊かにしたか、また、民間伝承を摂取するにあたり詩人たちがいかなる創造的才能を発揮したか、が明らかにされた。中務は、エウリピデス『キュクロプス』が普通考えられているようにホメロス『オデュッセイア』9歌の挿話に基づくものではなく、前5世紀に民間に流布していたと思われる「ポリュペモスの民話」を前提にして作劇されたと仮定すれば、数々の疑問が解けることを指摘した。岡はソポクレス『オイディプス王』の解釈に民話の構造分析という新しい観点を導入した。オイディプス物語の類話(父親殺しの予言、捨て子のモチーフ)は民間説話としてもオリエントからギリシアに広く流布していたが、それらには共通の構造が認められる。その構造はこの類話群の最も基本的な要素であるばかりでなく、悲劇『オイディプス王』の構成をも律している。素材としての民間説話の構造分析を踏まえて悲劇の構造を再考した結果、オイディプスは不撓不屈の真実の追究者か、真実から逃れようとする人間か、という問題に関して極めて明快な解釈が得られた。中務はまた、古代ギリシアの昔話の実態に関して、昔話の呼称、担い手、語り出しと結びの形式、社会的役割などを、文学・哲学・歴史・弁論等の資料から明らかにできる限りを記述した。なお、中務は論文「ホメロスにおけるアポストロペーについて」において、文字以前の口承詩の伝統の中で、詩人と聴衆が相互に干渉しながら口承詩特有の技巧を発展させていったことを考証した。しかし、研究目的に掲げた「口承伝承と文書伝承の関係」一般に考察を及ぼすことはできなかったので、今後の課題としたい。
著者
柳瀬 陽介
出版者
日本教科教育学会
雑誌
日本教科教育学会誌 (ISSN:02880334)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.1-10, 2002-09-30

コミュニケーション能力に関して,応用言語学においてはウィドウソンの論を例外として,個人内での意味交渉などの動的過程を説明する理論は形成されなかった。本論は哲学者デイヴィドソンの議論が,ウィドウソンの論を拡充し,第二言語教育に貢献するものであることを示す。デイヴィドソンの事前理論・即事理論の論証は,言い誤り・聞き誤りを多く含む第二言語コミュニケーションをうまく説明する。彼の理論は,特定のコミュニケーション成立からコミュニケーション能力を説明し,原則に基づいた認知的な推論の働きがコミュニケーションに大きく関与していることを明らかにしている点で,コミュニケーション能力論に独自の貢献をなしている。彼の議論は,コミュニケーションは,従来考えられていたように事前理論の共有によって成立するものではないこと,およびコミュニケーションを目指す教育は言語学的意味での「言語」を超えた教育となることを明らかにしている。