著者
八田 隆司 櫻井 直文
出版者
明治大学人文科学研究所
雑誌
明治大学人文科学研究所紀要 (ISSN:05433894)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.319-337, 2003-03

「神」論は中世のキリスト教の時代だけでなく,近代においても重要なテーマである。ただ中世と異なって近代の「神」把握の特徴は,現実を超えた彼岸あるいは内的心中の問題に限定するのでなく,現実社会と密接な関係において捉えた点にある。本研究ではこうした方向性を近世においてきわめて異質な仕方で表現した哲学者としてスピノザを,同時にまたこの問題を近代的思考の枠組みにおいて総括した哲学者としてへーゲルを論ずることで,近世・近代における「神」把握の展開のいくつかの道筋を確認したい。尚,Ⅰのスピノザに関する問題を桜井が,Ⅱのへーゲルに関する問題を八田が担当している(なお,桜井担当部分は,今回の人文研研究費を活用して作成された電子テクスト・データベースを活用することによって得られた研究の成果である―Ⅰの注3参照)。
著者
池見 達也 大野 真 生天目 章
雑誌
全国大会講演論文集
巻号頁・発行日
vol.54, pp.375-376, 1997-03-12

エージェントは独自のあり方を追求するが, 他者との関係の中でしか生きられなく, 本質的に社会的存在である. エージェントは自らに固有な何かを実現させようとせざるを得ない存在であり, 社会的位置づけによって行動することを余儀なくされる. これは, エージェントは何らかの組織の中に自らを位置づけることによってのみその生活を維持し, 他者との接触により社会的学習をしつつ成長するからである. 各成員がお互いに何らかの心理的関与を持っている集合体は「集団」と定義される. 自己の効用を持ち, それを最適するための合理的な意思決定をするエージェントの集団を考えたとき, エージェントは相互作用し, その結果, 同調行動をとるようになる. エージェントがいかに合理的な意思決定をするかは, 自己の効用関数と, エージェント間の相互作用の結果生み出される集団規範による集団圧力との間のバランスをどのようにとるかが一番の問題となる. 本研究では, このような同調行動問題を定式化し、また, 同調行動によって引き起こされる社会ゲームの一つであるバンドワゴン効果について考察する.
著者
藤井 千佳世
出版者
The Philosophical Association of Japan
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2013, no.64, pp.173-190_L12, 2013

Chez Spinoza, la norme est immanente à l'activité de la vie. De même pour Canguilhem, elle est, primordialement, instituée et constituée par le vivant lui-même. Dans cet article, par la comparaison du concept spinoziste de <i>conatus</i> en tant que développement pratique (de la théorie de la vérité à celle de la vie) de sa notion de <i>norma</i> avec l'idée de normativité chez Canguilhem, nous tâchons d'éclairer le rôle de la norme immanente selon eux, ainsi que sa portée éthique.<br>Pour ce faire, nous analysons, d'abord, les points communs entre la théorie de la norme de la vie sur la base de laquelle Canguilhem définit la santé et la maladie, et celle du <i>conatus</i> à partir duquel Spinoza explique deux modes de la vie : la vie affective et la vie menée sous la conduite de la raison.<br>En outre, pour passer du problème de la norme de la vie à celui de l'éthique, nous examinons la valeur de la négativité pour l'un et l'autre (la position de la pathologie ou de la maladie chez Canguilhem et le problème du mal chez Spinoza).<br>Enfin, nous éclairons l'importance du concept d' <i>exemplar</i> de la nature humaine qui se trouve au noyau de l'éthique spinoziste. Celle-ci nous permet de délimiter la continuité et la rupture des deux modes de la vie et d'y trouver des divergences de perspective éthique entre Spinoza et Canguilhem, qui, tous deux, attachent de l'importance à la norme immanente à l'activité de la vie.<br>Ces analyses proposent une interprétation du problème du projet ou de la possibilité de l'éthique de Spinoza et, par la lecture de Canguilhem, explicitent un certain contexte intellectuel qui prépare la réinterprétation de Spinoza au 20<sup>e</sup> siècle.
著者
原 尚人 松尾 知平 高木 理央 星 葵 佐々木 啓太 橋本 幸枝 澤 文 周山 理紗 岡崎 舞 島 正太郎 田地 佳那 寺崎 梓 市岡 恵美香 斉藤 剛 井口 研子 都島 由希子 池田 達彦 坂東 裕子
出版者
日本内分泌外科学会・日本甲状腺外科学会
雑誌
日本内分泌・甲状腺外科学会雑誌 (ISSN:21869545)
巻号頁・発行日
vol.33, no.4, pp.205-209, 2016 (Released:2017-01-26)
参考文献数
10

2016年4月内視鏡甲状腺手術が良性疾患に対して念願の保険収載が認められた。しかし,質の担保などの課題は残る。今後の最大目標は今回見送られた悪性腫瘍に対する内視鏡甲状腺手術の保険適応である。しかし,難解な問題点と課題が山積みである。そして将来は日本独自のロボット支援手術機器の開発が望まれると考える。これら今後の展望における問題点と課題についての考えを述べる。
著者
小泉 康一 コイズミ コウイチ Koizumi Koichi
雑誌
大東文化大学紀要. 社会科学 (ISSN:09122338)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.276(1)-254(23), 2014-03-31

在日ビルマ人の多くは、首都圏に住む。特に、東京都新宿区に集まっている。同区の推定で、ビルマ人の約60%が難民・難民申請者である。彼らは20~40代の単身男性である。多くのビルマ人は難民申請をし、仮放免中と不安定な立場である。彼らは就労を禁止されているが、生活のため厳しい労働条件化で長時間働いている。"不法就労"のため、入管、警察の摘発に怯えて暮らしている。入管からの呼び出しは恐怖である。元々、ビルマ人は民主化したらビルマに帰る気持ちが強い。一方、米、加、豪に再定住の気持ちを持つ人もいる。日本には、短期ビザで入国しやすいから来ている。しかし帰国か、米等への再定住かという二つの選択肢に、"揺らぎ"が出ている。将来の展望が見えない中で、日本での長期滞在、定住化が進んでいる。ビルマ人は、日本の出入国管理制度・難民認定制度と、母国の政治状況の間で浮遊している。
著者
漆﨑 まり
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.55-100, 2013-09

江戸歌舞伎においては、舞踊の場面に、半太夫節・河東節、長唄、常磐津節・富元節・清元節など多彩な音曲が用いられてきた。新作が上演されると、音曲の詞章は演じる役者や演奏者などの上演情報とともに三~五丁程度の小冊子に載せられ、芝居茶屋や絵草子店に頒布された。これが歌舞伎の音曲正本である。 筆者は江戸版の長唄本について広く書誌調査を行ってきた。伝本は、享保十六年(一七三一)から明治期にわたりほぼ継続して残っている。長唄正本には上演後も稽古本としての用途があったため、多くの版元が再販を手がけており、異版の非常に多いことが一つの特徴である。その伝本の多さからも、長唄本が地本の主要品目の一つであったことが窺える。異版はいずれも初版を踏襲した体裁をとっており、そのなかには、共表紙(本文と同じ料紙)に描かれる役者絵や外題・本文の書体などが初版に酷似するものも存在する。この異版の存在によって、地本における当時の偽版の実態や版権の確立する過程を知ることができるのである。本稿は、長唄本を江戸における草紙(地本)の一品目として捉え、版権の確立する過程(すなわち株板化)について考察したものである。 これを中村座の長唄本によって説明すると、以下の段階を経て株板化に進んでいる。まず、版元村山源兵衛は座と専属的関係をつくり、長唄正本の版行を独占する。するとこれに伴い、その独占的な利益に不正参入しようとする偽版も現れるようになる。その偽版には、村山版を版下に流用して作成する手法が多く用いられている。 次の段階として、村山源兵衛は、偽版の版元を相版元とし、出版にかかる経費を偽版の版元に担わせるようになる。これにより原版の不正利用に対する弁済の方策が立つようになったと考えられる。 寛政期になると版元が沢村屋利兵衛に代わり、蔵版して再版を数次行うかたちに版行形態が変化する。そして、再版に際しても沢村屋と他の版元との相版のかたちがとられ、沢村の原版に対する所有権は概ね守られていると見なされることから、株板化したと判断される。 これは、寛政二年(一七九〇)の出版令により、地本問屋仲間行事による新本に対する自主検閲が義務付けられるようになったことを受けて、地本にも版権を明らかにして取り締まりを強化する体制が整えられたことに連動した動きと捉えられよう。しかしその一方で、こうした長唄正本の版行形態の変化が、稽古本の需要の高まりを受けて再販性の高い出版物へと成長した長唄本の出版益を、座あるいは芝居町に取り込む目的のもとに、座側の主導によってもたらされている面は看過できない。