- 著者
-
後藤 郁夏人
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.77, no.3, pp.161-166, 2022-03-04 (Released:2022-04-05)
- 参考文献数
- 7
物が地上に落下する現象や地球が太陽の周りを回る現象,これらの背後にはいずれも重力が作用している.今から100年前,アインシュタイン(A. Einstein)によって重力とは時間と空間の歪み(時空の幾何の性質)に他ならないことが明らかにされ,それに基づき一般相対性理論が構築された.一般相対性理論が天体などのマクロな重力現象を記述する一方,ミクロな振る舞いは量子論の法則に支配される.この二つの理論を柱として現代物理学は発展してきた.現代物理学が挑む最大の問題の一つに,これら二つの理論を如何に“量子重力”として統一的に理解できるかという問題がある.量子重力を理解するうえで大きな鍵を握る,ブラックホールの情報問題という長年未解決の大問題が知られている.この問題はホーキング(S. Hawking)によって発見された,ブラックホールの熱放射現象(ホーキング放射)に起因する.この放射によりブラックホールはエネルギーを失い,小さくなっていき,最終的に消滅してしまう.この現象はブラックホールの蒸発と呼ばれる.ここで蒸発前にブラックホール内部に何か情報を隠し込んだとしよう.ブラックホールが蒸発し,消滅すると,この情報は宇宙から完全に消えてしまうように思われる.これは量子論のユニタリ性と矛盾する.これがブラックホールの情報問題である.以上の議論はホーキング放射が完全な熱放射である(ブラックホールの温度の情報しかもっていない)ことを仮定していた.蒸発後に時空に残されたホーキング放射にブラックホール内部の情報がすべて含まれていれば,このパラドクスは回避される.ホーキング放射の中にブラックホール内部の情報が含まれているかどうかを知るにはホーキング放射のエントロピーの振る舞いを調べればよい.もし,蒸発に伴ってホーキング放射のエントロピーが増大していく一方であるならば,ホーキング放射にはブラックホール内部の情報が全く含まれていない.一方,ホーキング放射がある時刻を境に減少し,最終的にゼロになればブラックホール内部の情報はすべてホーキング放射の中に含まれていることになる.最近,筆者を含む研究グループは重力の経路積分という方法を用いて,蒸発するブラックホールにおけるホーキング放射のエントロピーを計算した.重力の経路積分は量子重力の計算を時空の幾何を用いて近似的に行う手法である.エントロピーの計算は元の時空をn個に複製したレプリカ時空を用いて行われる(レプリカ法).単に元のブラックホール時空をn個に複製したものを用いてホーキング放射のエントロピーを計算すると,時間とともに増大していく振る舞いが得られる.これは元々ホーキングが得た情報の損失を示唆する結果である.一方,重力の経路積分では,その他様々な時空の幾何からの寄与を考え合わせ,重力の量子揺らぎの効果を取り入れることができる.今回の重要な発見は,n個に複製された各時空を繋げるワームホールと呼ばれる時空構造が重力の量子効果によって形成され,このワームホール時空がレプリカ法で計算されたホーキング放射のエントロピーの振る舞いを大きく変えるということである.実際,このワームホール時空を考慮しホーキング放射のエントロピーを計算すると,従来の計算と異なりエントロピーはある時刻を境に減少に転じ,最終的にゼロになることが確かめられる.今回の発見は,ホーキング放射にブラックホール内部の情報が含まれていることを示唆し,ブラックホール情報問題の解決に向けた重要な知見になると考えられる.一方,ブラックホールの情報回復をもたらす蒸発過程のメカニズムはいまだ理解が不十分であり,量子重力の基礎的なメカニズムの理解に密接に関わるものと考えられる.