著者
森岡 正博
出版者
大阪府立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

本研究において以下の研究成果が得られた。(1)「生存肯定」は「誕生肯定」のひとつの形式として解釈されるべきである。そしてそれは「産み」の概念と関連づけられるべきである。(2)デイヴィッド・ベネターの非-出生主義はきびしく批判されなければならない。(3)ペルソナ論には、実体性に基づいたものと関係性に基づいたものがある。(4)「生存肯定」は「人間のいのちの尊厳」と深い関わりを有している。
著者
芝田 豊彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.47-70, 2008-06-30 (Released:2017-07-14)

田辺の<死の哲学>は、他者としての死者を対象としている点で画期的な意義を有する。しかしながら田辺の<死の哲学>の問題点として、<絶対無の働き>と<死復活という行>との不可逆の関係が曖昧なこと、および死者が絶対無にどのような仕方で入れられているのかが不明であること、この二点を指摘できる。フランクルの「過去存在」の思想では、人生における人間のすべての営みが過去存在として永遠に保存される、と主張される。滝沢においては、死者は過去存在として絶対無に入れられており、フランクルとの大きな類似が見出される。滝沢の思惟の根底には常に「神人の原関係」があり、「死ぬ」ということも神人の原関係から、或は神の空間(絶対無)から脱することなどではあり得ない。死者を絶対無における「過去存在」として捉えることによって、死者と死者の記憶は区別され、さらに幽霊現象も視野に入り得るのである。最後に幽霊現象を扱ったベルゲングリューンの珠玉の短編が紹介される。
著者
古賀 万由里
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.107, pp.261-275, 2002-01

1. はじめに2. ヴァヤナードゥ県部族の状況3. アーユルヴェーダ4. 民俗医療 (1) クルマ族のVヴァイディヤン (2) カートゥナーイカ族のKヴァイディヤン (3) 衰退する蛇毒治療 (4) 州政府の奨励したAヴァイディヤン (5) 妊娠儀礼,ガッディガ(gaddika)5. 民俗医療の特徴と展望特集文化人類学の現代的課題研究ノート
著者
権 純哲
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1_a-40 _a, 1994

本稿は、茶山の体制構想を、彼の儒教古典解釈との関連で検討しようとするも。である。茶山思想の評価をめぐるさまざまな問題点を踏まえながら、特に王朝体制自体をどう見るべきかという問題、あるいは王朝体制を支えていた儒教思想をどう理解すべきかという問題を念頭に置き、論を進めていきたい。分析の対象としては、主に『経世遺表』の「序官」と「下官修制」を用いた。 『経世遺表』の改革構想は主に『周礼』に思想的根拠を求めたものであるが、まず、『礼』に執着せざるをえなかったことの歴史的経違や思想的背景を追跡し、茶山の儒教古典研究の現実的かつ実践的性格を明らかにすることにつとめた。次に、朝鮮王朝の基本法典である『経国大典』と茶山当時の支配体制が窺える『大典通編』の権力機構の編成を比較・検討することによって、体制の特徴及び問題点を幾つか整理し、茶山の体制構想を、機構の整備、官階の整備、軍制の整備という三つの政治的課題から考察した。 機構の整備においては、『書経』の〈三公一三孤一六官〉に思想的根拠を求めながら、〈議政府一六曹〉体制の強化が図られたことに注目した。六曹に属する衙門の数的均衡を成し遂げる際には、衙門の移動・統合・新設などが行なわれたわけであるが、その理論的根拠として、あるときは『周礼』などの儒教古典が引用され、また、あるときは『経国大典』の規定をそのまま存続させていることを解明し、そこから茶山経学の方法的性格を窺うことができた。 官階の整備においては、古典の〈三公一三少一卿一大夫一士〉という序列の体制に思想的根拠を求め、『経国大典』の「正・従九品」制度の簡略化がなされている。ここでは、まず、大夫ではないはずの三公が「大匡輔国崇禄大夫」と称されているように、改革構想自体とその古典の根拠との矛盾が指摘できた。また、大夫と士を厳格に区別すべきであるという茶山の主張は、文・武のバランスのとれた人事を目指すものである一方、動揺しつつあった身分制の問題を、体制強化の方向へ吸収しようとするものであったことも明らかにされた。 軍制の整備においては、備辺司の中枢府への統合、議政府の時任大臣と六曹判書の中枢府職の兼任禁止を通じて、軍務機関としての中枢府の正常化と最高機関としての議政府の復権が推進されていたこと。「無卒之将」と「無将之卒」を再組織することによって軍の組織と指揮系統の立て直しが図られていたこと。主力部隊である三営の兵卒数の縮小と屯田設置を通じて国家財政の再建が図られていたことに注目した。
著者
池上 健一郎
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.132, pp.309-341, 2014-03

特集 : 論集 美学・芸術学 : 美・芸術・感性をめぐる知のスパイラル(旋回)The symphonies of Anton Bruckner (1824‒1896) were evaluated both during his lifetime and subsequent to his death in terms of two opposing criteria : "absolute music" and "program music", terms that actually reflect aesthetic polemics. Especially since the 1980s, Bruckner scholarship has connected this dichotomy to methodological discussions of autonomic analysis and semantic interpretation. However, the methodological purism being undeniably at stake in both positions comes with the risk of misconceiving the multiple layers of Bruckner's symphonies.Hence my paper aims at demonstrating that both dimensions—the "purely musical" and the semantic—make up an inseparable unit in Bruckner's music. The third movement of his Ninth Symphony seems particularly suitable for this purpose, since Bruckner himself commented on its "content" on various occasions.By means of analysis, I seek to demonstrate how thematic ideas being integrated into a broader motivic network throughout the symphony are interlinked semantically. Remarkably, such "semantic networks" are strengthened through thematisch-motivische Arbeit, the technique which is commonly regarded as the "autonomous" principle. Along those lines, the culmination of the movement (mm.187ff.) gains a multidimensional character. In order to understand the related nature of Bruckner's "Doppeldasein"(Korte), the methodological purism ought to be overcome.
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.207-218, 1999-02-10

菅季治(1917-1950)は,若くして逝った北海道が生んだ哲学者であり,教師である。本稿は,ひきつづき菅の戦中における生活・思想・哲学のもつ意義をあきらかにすることである。とくに今回は,アミエル(H-F Amiel 1846-1881)について再度とりあげ,菅にとってアミエルとはなにか,について検証を行なった。キエルケゴールが,魂へのふかい洞察をもたらしたことについては,これまでみてきたが,アミエルの自然・人間観,社会観,自由論があたえた影響も深刻だと考えられたからである。(戦争について-読者には戦争下のなかであった-,あらゆる真理を解体するもの,誤謬たいして誤謬をたたかわせるもの,醜悪そのもの,と指摘したのも,アミエルだったことが忘れられない。岩波文庫(四)1879年3月3日参照のこと)こうして,到達した菅の思想・哲学の結節点である主体-主体関係論(前回,「相互承認論としてとりあげたが)について考察するとともに,両者がともに生きるために構想された,「場」とはなにかについてもふれ,その将来展望について,検討を行なっている。
著者
福田 学
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.96, pp.80-96, 2007-11-10 (Released:2010-05-07)
参考文献数
24

Étant donné que la théorie de l'écriture chez Derrida est fondée sur des études minutieuses relatives à la parole individuelle et au langage concret, elle comprend une vision importante pour les recherches sur l'enseignement de la langue. Cependant, dans les recherches relatives à la pédagogie, la philosophie de Derrida est le plus souvent envisagée sous un éclairage politique ou social en rapport avec la «déconstruction» et est rarement considérée comme une théorie ayant un lien étroitavec les questions concrètes de l'enseignement et les problémes de l'éducation. Cet article envisage donc de démontrer que la theorie de l'écriture chez Derrida peut grandement contribuer aux recherches sur la pratique de l'enseignement.Pour ce faire, j'examine tout d'abord, en me référant à la notion de «représentation», les critiques que Derrida adresse à la linguistique de Saussure, linguistique qu'il qualifie en effet de métaphysique typique qui sous-estime l'écriture. J'éclaircis ensuite trois prédicats essentiels de l'écriture selon Derrida, puis l'approche du langagepropre à ce dernier qui considère la parole comme une «origine» où s'impriment les différences. Enfin, je mets en évidence, en apportant une réflexion sur des situations typiques de l'étude avec le langage écrit selon la théorie de l'écriture chez Derrida, que les idées de celui-ci ont des liens étroits avec des actes et des faits tels que la recherche de l'exactitude, la substitution des choses ainsi que la dissociation entre sujet scolaire et contexte social, actes et faits qui ressortent des situations d'apprentissage linguistique et qui sont couramment constatés dans les pratiques éducatives générales.
著者
末村 正代
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.72-84, 2017-03-31 (Released:2017-06-01)

D. T. Suzuki (1870-1966) is a philosopher of Zen Buddhism known as a person who introduced it to the West. He is known for studies not only about Zen but also Pure Land thought on Buddhism, and he was certain that there was a kind of common state between Zen and Pure Land thought. He studied about both Zen and Pure Land thought all his life, in particular, his thought achieved remarkable development from the 1930’s to the 1940’s. One of the reasons for this development was connected with a discovery of the people called myoko-nin in the early 1940’s. Myoko-nin are the people who are firm believers on Shin Buddhism. Through contact with their faith and their religious experiences, Suzuki deepened his understanding about Pure Land thought. In this paper, the author will compare Suzuki’s Pure Land thought in the 1930’s with that in the 1940’s, and attempt to clarify the reason why he devoted himself to myoko-nin studies and how the studies influenced on his Pure Land thought and his whole philosophy.
著者
中山 剛史
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.383-408, 2008

ヤスパースの哲学は、実存と超越者とのかかわりにもとづくきわめて「宗教性」の高い哲学であるといいうるが、他方において、ヤスパースは哲学と宗教との相違を強調し、みずから「哲学」の立場に立って、権威への服従に基づく「宗教」に対して鋭い批判を行っている。とりわけ、「神が人となった」というイエス・キリストにおける神の「啓示」を唯一絶対の真理とみなすキリスト教の「啓示信仰」に対して、超越者の「暗号」を聴きとる「哲学的信仰」の視点から批判的な対決を行っている。ヤスパースは「啓示信仰」に対して、(1)神人キリストの放棄、(2)啓示の暗号化、(3)排他的唯一性の放棄という「三つの放棄」を要求するが、これは「啓示信仰」を「哲学的信仰」へと解消させることではなく、むしろキリスト教が教義への束縛と排他性の要求から脱け出て、その根源にある「真摯さ」へと立ち還ることを呼びかけるものである。ヤスパースの宗教批判の意義は、異なった信仰の根源同士が相互に出会いうる開かれた対話の道を開くことにあるといえよう。
著者
先川 暢郎
出版者
拓殖大学言語文化研究所
雑誌
拓殖大学語学研究 = Takushoku language studies (ISSN:13488384)
巻号頁・発行日
no.144, pp.97-127, 2021-03-25

本論はラフカディオ・ハーンの霊魂観を彼の作品に頻出する「蜃気楼」という現象をキーワードとして,仏教や西欧神秘哲学やスペンサー哲学を参考にしつつ考察しようとする試みであるが,ここには必然的に「神と人」,「人と宇宙」,「人と時間」という壮大なテーマがかかわってくる。ハーンが青年期を過ごしたアメリカは,キリスト教主流派教会の衰退に呼応して,東洋思想と心霊主義ルネサンスともいうべき新たな思潮が押し寄せていた時代で,ハーンも当然ながらそれらの影響を受けて来日したわけである。しかしながら,ハーンの日本体験は書物によらず,生の人間と自然との直接的交流に裏打ちされた体験であり,その結果の霊魂観,神観,時間論は既成の思想・信仰の二番煎じではない。ハーンの鋭い直覚から生まれた思想は飽くまでハーン独自の思想であり,反面,そこにはニューエイジ・サイエンスや現代の先端量子論の先取りとも思われる斬新ささえ見られるのである。我々はハーンの思想の淵源を追うというよりは,時代がやっとハーンに追いつきつつある事実を前に,彼の慧眼に驚嘆せざるをえない。
著者
中村 和敬 當仲 寛哲
雑誌
研究報告システムソフトウェアとオペレーティング・システム(OS) (ISSN:21888795)
巻号頁・発行日
vol.2017-OS-140, no.16, pp.1-8, 2017-05-09

ユニケージ開発手法は UNIX 哲学に基づいたシステム開発手法であり,企業システム開発に 20 年の実績がある.近年のシステム開発では,データベースの構築に多くの場合で RDBMS が用いられる.これに対してユニケージ開発手法では Unix の機能のみを用いてデータベースを構築する.ファイルシステムにテキストファイルとしてデータを格納し,シェルを通じてコマンドでデータを処理する事により,データベースの機能を実現する.本稿では,ユニケージ開発手法に基づく,Unix ファイルシステムとシェルを用いた,データベース構築と操作の方法について概説し,その発展について述べる.
著者
美馬 秀樹 丹治 信 増田 勝也 太田 晋
雑誌
研究報告人文科学とコンピュータ(CH)
巻号頁・発行日
vol.2012-CH-95, no.4, pp.1-8, 2012-07-28

本研究の目的は,1921年に創刊された岩波書店『思想』90年分(約1000号,約8600論文,約16万ページ)を題材とし,電子化・構造化を行うことで,a)『思想』という知の集積,分析により20世紀日本の哲学・思想史を明らかにすること,b)分析結果の学部・大学院教育での活用の方法論構築を進めること,及びc)歴史的文献テキストの電子化,アーカイブ化に関する方法論を確立すること,である.本稿では,上記『思想』のデジタルアーカイブ化とテキストマイニングに関し,『思想』雑誌の電子化・構造化の手順とその問題点を報告し,特に,OCRによる文字認識精度の向上,自動化・システム化に向けたレイアウト解析ソフトウェアの開発について,現状の取り組みと予備的に行った実験評価について報告する.
著者
小川 眞里子
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理 (ISSN:13434063)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.66-70, 1993-07-20 (Released:2017-04-27)

「なぜ生物は死ぬのか」という問いには、二つの局面がある。一つは老化や死の原因を問うもので、二つめは、生物が死ぬべく運命づけられている理由を問うものである。本論のねらいは、これらの疑問に生物学がどう答えてきたかを歴史的に明らかにしようとするものである。第一点については、自然死と事故死を区別してかからねばならない。古代ギリシャ時代から、自然哲学者にしろ生物学者にしろ、基本的には自然死すなわち老化過程を扱ってきており、一般に、老化過程は何ものかが失われていく過程として捉えられてきた。第二点については、ドイツのヴァイスマンが19世紀後半の進化論的考察の中から初めて明らかにしたものである。それによって、死は不可避な、忌むべきことがらではなく、外界によりよく適応するために生物が獲得した進化論的戦術と見なされることになった。
著者
中塚 健一
出版者
太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.215-221, 2015-03

米ハーバード大学のマイケル・サンデル教授による政治哲学の講義が放映されたのをきっかけに,日本でも「哲学ブーム」が起きた。日常生活とは縁遠いと思われる哲学を,身近に起こりうるジレンマを用いて議論するスタイルが,多くの人々に受け入れられた。わが国の教員養成課程の「教育学」関連の講義でも,教育哲学などが扱われているし,また,ジレンマに立たされることを想定して思考を深めていく講義なども実践されている。しかし,学校教育と哲学的課題を関連づけるのは難しいと学生には受け止められ,敬遠されがちであった。本稿は,哲学の問題を,社会生活で起こりうるジレンマと関連させながら,学生の思考を深めていく手法をとるサンデルの講義から,教育の直面する課題と哲学の関係を探り,教職課程の講義の改善につながるヒントを見出すことを試みる。