著者
中桐 裕子 栗田 治
出版者
公益社団法人日本オペレーションズ・リサーチ学会
雑誌
Journal of the Operations Research Society of Japan (ISSN:04534514)
巻号頁・発行日
vol.45, no.1, pp.44-63, 2002-03
参考文献数
10

本研究は,従来のモデルでは追従しきれない成長現象を記述するモデルとして,階層構造を有する成長現象の微分方程式モデルを取り上げ,考察を加えるものである.ある種の成長現象は,η種の性質を順番に取得するといった「階層的な」構造を持っている.そこで本研究では,ある段階の性質を身に付ける個体数の成長速度が,その段階および直前の段階の性質を入手している個体数に依存するという仮定を設けて,『段階的成長微分方程式モデル』を作成した.同様の仮定から,宅地化を経て市街化面積が広がる様子を上手く記述するモデル等が提案されているが,本研究では,従来の研究にはなかった多段階成長の連立微分方程式に着目して,これに一般解を与える.モデルの適用例としては,特にゲーム機の売上データを取り上げた.ハード購入希望者→ハード購入者→ソフト購入者といった階層的な構造を定式化したモデルを実データに当てはめた結果,発売直後のハード売上を再現するには,段階的成長モデルが有効であることが確認できた.更にこのモデルを応用して,値下げキャンペーンによる売上増を記述できる簡便なモデルを作成することに成功した.過去の分析例や今回の研究成果より,ゲーム機売上の記述に留まらず,他の社会現象の中にも,このモデルによる記述が有効な局面も存在するのではないかと考えられる.
著者
白水 紀子
出版者
東京大学東洋文化研究所
雑誌
東洋文化研究所紀要 (ISSN:05638089)
巻号頁・発行日
vol.143, pp.123-169, 2003-03

近代家族(Modern family)是在形成近代國家的同時產生的一種制度,與近代〈母親觀念〉的確立以及專業主婦的誕生是表裡一致的。本文從比較的角度介紹幾篇20-30年代日中女性文學中批判近代家族的作品。日本的伊藤野枝《某個妻子寫給丈夫的信》,田村俊子《她的生活》,宮本百合子《伸子》,中國的盧隠《何處是歸程》,沈櫻《舊雨》《喜筵之後》,丁玲《一九三〇年春上海(一)》等作品描寫了結婚生活後失去自我的悲哀,以及被社會拋棄後的焦躁感和孤獨感,切實地訴説了女性的自我實現在帶着愛的面紗下的近代家族中是很難實現的。日本的作品中,主人公對結婚并没有抱有很大的幻想,倒是在結婚生活開始之前,做好充足的心理準備,而結果還是以悲劇或是與家庭作對而告終。而在中國的作品中,主人公對戀愛結婚有着強烈的幻想,因而在之後所面對的對結婚生活的幻滅和失望感相當強烈,作品倒像是把重心放在了表達這種絶望的心情上。但是日本和中國的作品也有共同點:幾乎所有的作家都通過自己痛苦的親身經歷,對近代家族制度本身充滿了疑惑。至此在中國,對民國時期的文學進行闡述時,五四時期關於批判傳統家庭以及以〈戀愛神聖〉為主題的作品十分令人注目,然而很少提到女作家們描寫的對所謂〈新家庭〉的批判。但是這些作品所提及的夫婦關係的言説以及女性在新家庭中面對的社會性別等問題是在中國近代文學史上不可忽視的主題。
著者
川上 則雄
出版者
物性研究刊行会
雑誌
物性研究 (ISSN:05252997)
巻号頁・発行日
vol.77, no.6, pp.985-1010, 2002-03-20

この論文は国立情報学研究所の電子図書館事業により電子化されました。講義
著者
山口 惠三 大野 章 石井 良和 舘田 一博 岩田 守弘 神田 誠 辻尾 芳子 木元 宏弥 方山 揚誠 西村 正治 秋沢 宏次 保嶋 実 葛西 猛 木村 正彦 松田 啓子 林 右 三木 誠 中野渡 進 富永 眞琴 賀来 満夫 金光 敬二 國島 広之 中川 卓夫 櫻井 雅紀 塩谷 譲司 豊嶋 俊光 岡田 淳 杉田 暁大 伊藤 辰美 米山 彰子 諏訪部 章 山端 久美子 熊坂 一成 貝森 光大 中村 敏彦 川村 千鶴子 小池 和彦 木南 英紀 山田 俊幸 小栗 豊子 伊東 紘一 渡邊 清明 小林 芳夫 大竹 皓子 内田 幹 戸塚 恭一 村上 正巳 四方田 幸恵 高橋 綾子 岡本 英行 犬塚 和久 山崎 堅一郎 権田 秀雄 山下 峻徳 山口 育男 岡田 基 五十里 博美 黒澤 直美 藤本 佳則 石郷 潮美 浅野 裕子 森 三樹雄 叶 一乃 永野 栄子 影山 二三男 釋 悦子 菅野 治重 相原 雅典 源馬 均 上村 桂一 前崎 繁文 橋北 義一 堀井 俊伸 宮島 栄治 吉村 平 平岡 稔 住友 みどり 和田 英夫 山根 伸夫 馬場 尚志 家入 蒼生夫 一山 智 藤田 信一 岡 三喜男 二木 芳人 岡部 英俊 立脇 憲一 茂龍 邦彦 草野 展周 三原 栄一郎 能勢 資子 吉田 治義 山下 政宣 桑原 正雄 藤上 良寛 伏脇 猛司 日野田 裕治 田中 伸明 清水 章 田窪 孝行 日下部 正 岡崎 俊朗 高橋 伯夫 平城 均 益田 順一 浅井 浩次 河原 邦光 田港 朝彦 根ケ山 清 佐野 麗子 杉浦 哲朗 松尾 収二 小松 方 村瀬 光春 湯月 洋介 池田 紀男 山根 誠久 仲宗根 勇 相馬 正幸 山本 剛 相澤 久道 本田 順一 木下 承晧 河野 誠司 岡山 昭彦 影岡 武士 本郷 俊治 青木 洋介 宮之原 弘晃 濱崎 直孝 平松 和史 小野 順子 平潟 洋一 河野 茂 岡田 薫
出版者
日本抗生物質学術協議会
雑誌
The Japanese journal of antibiotics (ISSN:03682781)
巻号頁・発行日
vol.59, no.6, pp.428-451, 2006-12-25
参考文献数
17
被引用文献数
37
著者
鈴木 隆芳
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.67-86, 2009-03-15

ソシュールが晩年アナグラム研究と呼ばれる思索に耽ったことは良く知られている。また、彼がそこでやっていたことについても、多くが、それ以前のソシュールとはまったく別人の営為を見ることでほぼ一致している。本稿は、それとは反対のことを試みようと思う。つまり、ソシュールのアナグラム研究を、その挫折までも含めて、彼の思索の持続の中に置いてみようと思う。
著者
王 宇 小野 智司 武田 和大 佐藤 公則 中山 茂
出版者
情報知識学会
雑誌
情報知識学会誌 (ISSN:09171436)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.1-10, 2004
被引用文献数
4 1

本稿では,主成分分析を利用し,耳画像に基づいて個人認識を行う方式を提案する.近年,顔画像に基づく個人認識が広く研究されているが,顔画像は加齢や表情,体調の変化などに影響されるため,同一顔画像を長期間利用することは難しい.これに対し,耳は16歳前後から安定期に入り,形状が変化しにくいという利点がある.本方式は,入力画像に対し,輝度の正規化およびモザイク処理を施した後,主成分分析により,入力データの次元圧縮を行う.学習時には,1枚の入力画像に対して平行移動・回転を行った画像を登録することで,入力画像の位置ずれに対処する.実験により,提案する方式は110人の耳画像を99.7%の精度で認識できることを確認した.
著者
山田 耕作 大和田 幸嗣 渡辺 悦司
出版者
物性研究刊行会
雑誌
物性研究 (ISSN:05252997)
巻号頁・発行日
vol.97, no.6, pp.1273-1311, 2012-03-05

この論文は国立情報学研究所の電子図書館事業により電子化されました。
著者
大宮 卓 小野 智子 菅原 正和 OMIYA Takushi ONO Chieko SUGAWARA Masakazu
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.99-109, 2012-03-31

茶道の歴史は長く、古くは奈良時代にまでさかのぼる。茶ははじめ、薬用として用いられたが、時代が変わると、茶を飲用だけに使うのではなく、作法と茶の精神を合わせた「茶の湯」となった。これが現代で言う茶道である。茶道の精神は「和敬清寂」にあらわされ、和して敬い合い、清らかな心を持ち、不動の精神と心を持つことによって、何事にも動じない、どんなことにもゆとりを持つだけの心の広さが生じることを指向する。そして、日常の喧騒と雑事から一時離れ、ささやかな、いっぷくのお茶をとおして"well-being"たらんとする。本研究の目的は長年茶道をたしなんできた人々(SV)と、茶道部学生(GS)、一般学生(CS)のSWB 並びにその下位6因子の相違を探求することにより、茶道が有するSWB(Subjective Wellbeing)への影響を明らかにしようとすることであった。分析の結果、SWB に影響を与える要因は加齢と茶道歴の双方であり、加齢と茶道歴のどちらか片方のみでは、SWB に影響を与えることがないことが明らかとなった。
著者
相澤 雅文
出版者
全国障害者問題研究会
雑誌
障害者問題研究 (ISSN:03884155)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.147-156, 2004-08
被引用文献数
1

高機能広汎性発達障害児(者)は、適切な支援や療育を受けられる整備された環境のもとでは、生活に適応し能力を伸張できる。一方、配慮が十分になされない状態では、その生活環境への不適応から「不登校」や「ひきこもり」の状態となる場合がある。0.8%といわれる高機能広汎性発達障害児の出現率と照らし合わせると、高機能広汎性発達障害児が「不登校」に陥る割合は、健常児と比較して高いことが指摘できる。早期の段階で適切な対応がなされない場合は、さらに重篤な「ひきこもり」の状態に陥るケースがある。本稿は、高機能広汎性発達障害児(者)が「不登校」「ひきこもり」に至ったケースを紹介し、そこから把握できる様々な問題について述べる。また、予防・改善に期待できる方策について考察する。
著者
狩野 裕
出版者
日本行動計量学会
雑誌
行動計量学 (ISSN:03855481)
巻号頁・発行日
vol.29, no.2, pp.138-159, 2002-12-25
被引用文献数
20 26

It is well-known that structural equation modeling (SEM) can represent a variety of traditional multivariate statistical models. This fact does not necessarily mean that SEM should be used for the traditional models. It is often said that a general model is more difficult to handle than a specific model developed for a given situation. In this paper, we shall clarify relative advantages between SEM and several traditional statistical models. Rather than comparison in mathematical properties, we shall discuss how and when SEM outperforms corresponding traditional models in practical situations. Special attention is paid to statistical analysis of a scale score, the sum of indicator variables determined by factor analysis. In particular, we shall study relative advantages between (i) confirmatory factor analysis and exploratory factor analysis, (ii) multiple indicator analysis and correlational and regression analysis of scale scores, (iii) analysis of factor means and analysis of variance of scale scores, and (iv) path analysis and multiple regression analysis.
著者
岡出 美則 吉永 武史
出版者
筑波大学体育科学系
雑誌
筑波大学体育科学系紀要 (ISSN:03867129)
巻号頁・発行日
no.23, pp.21-35, 2000-03

2002年に実施に移される小学校新指導要領では、バスケットボール型ゲーム、サッカー型ゲーム、ベースボール型ゲームといった名称が用いられるようになった。それは、あふれる球技種目の選択基準を戦術という視点から ...
著者
佐藤 德
出版者
The Japanese Psychological Association
雑誌
心理学研究 (ISSN:00215236)
巻号頁・発行日
vol.85, no.4, pp.345-353, 2014
被引用文献数
2 1

Previous studies demonstrated that participants in left-to-right writing cultures showed a strong preference to associate the past with left space and the future with right space. The present studies investigated whether these spatial associations involved body-part-centered or extracorporal space. In Experiment 1, participants categorized words as referring to the past or the future by pressing button on the left with the left hand or a button on the right with the right hand. In Experiments 2 and 3, participants crossed their hands and were instructed to categorize words by pressing the left or right buttons (Experiment 2) or by moving their left or right hand (Experiment 3). Irrespective of the relative spatial positions of the response buttons, past words were more quickly categorized with the left hand and future words with the right hand. In addition, reaction times were slower in Experiment 2 than in Experiment 1, whereas there was no significant difference between Experiments 1 and 3. These results suggest that temporal concepts such as past and future are more strongly associated with embodied space than visual space.
著者
熊田 一雄
出版者
愛知学院大学
雑誌
人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (ISSN:09108424)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.398-386, 2004-09-20

現在, オウム事件や一部の異常な少年犯罪のために, 宗教教育をめぐる議論が活発である。しかし, 若い世代はそもそもどのような「生活思想」を抱いているのだろうか。この疑問に答えるために, ある仏教団体設立の宗門大学の3・4年生の学生を対象として簡単な質的アンケートを行った。彼らは, 1・2年次において宗教学入門・仏教学入門・禅学入門のうち2科目を選択必修科目として履修している。アンケートの設問は, 「なぜ人を殺してはいけないのか? 場合によっては殺してもよいと思う人は, その条件を述べよ」というもので, プライバシー厳守を約束した記名式アンケートであった。アンケート結果は, 以下の通りである。仏教の不殺生戒を用いて回答した学生はごく少数である。日本人なりの超越的なものの感じ方は, 「人間は自分一人の力で生きているのではなく, 生かされて生きている」というものであるが, この「生かされている感覚」を用いて回答したサンプルは多数あった。しかし, それに続いて多かった回答は, 「自分が殺されるのは嫌だから」というものである。「自分がされて嫌なことは人にしてはならない, だから人を殺してはいけない」という訳である。しかしこの回答には, 「自分が死にたくなったら (殺されたくなったら)」どうするのかという不安定さが感じられる。「殺したい人と殺されたい人を会わせる法的制度を作ればいい」という, こうした不安定さが直接出た回答もあった。ごく少数ながら, ニヒリズムに近い回答もあり, 僧侶の卵の中にもそうした回答が見られた。「自分が殺されるのは嫌だから」という回答には, 宗教倫理の「セラピー化」の傾向が見られる。「生かされている」感覚を直接表現した学生たちが他者と自己との関係性から回答を組み立てているのに対して, 「自分が殺されたくないから」と回答した学生たちは, まず自分の情緒的満足に目を向けて回答を組み立てているのである。この2タイプの学生の宗教倫理にはかなりの相違があり, 前者から後者への移行を「宗教倫理のセラピー化」と表現することが可能だろう。「セラピー的宗教倫理」の問題点は, アメリカの宗教知識人によって再三論じられてきたことだが, 日本の文脈でもある程度あてはまることが調査によって明らかになった。日本における従来の宗教教育をめぐる論議では, 宗教倫理の「セラピー化」の問題は, 軽視されてきたのではないか。それは, 近代の日本人の「功利的和合倫理」においては, 「我を捨てて人の和を大切にした方が結局は自分の利益にもなる」とされているから, 世界有数のキリスト教国でありセラピー大国でもあるアメリカの宗教知識人の好きなセラピー文化批判は当てはまらない, と考えられてきたからだろう。家族以外の持続的共同体を大幅に失った現在の学生の宗教道徳意識が「セラピー化」していくのは時代の必然であり, 「宗教知識教育/宗教情操教育」の二分法を越えて, そうした若者達に「生かされている」感覚を叩き込むような宗教教育こそ今こそ求められているものではないか。そうした宗教教育は, 教員と学生・学生と学生との間の人間関係の再編成を含んだものである必要があるだろう。現時点の日本では, 学校における宗教教育だけではなく, マンガ「寄生獣」や映画「バトルロワイヤル」のようなポップ・カルチャーもまたそうした役目を果たしているのではないか。