著者
信原 幸弘
出版者
日本科学哲学会
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.33, no.2, pp.1-14, 2000-11-25 (Released:2009-05-29)
参考文献数
12

Classical computationalism sees cognition as manipulation of syntactically structured representations while connectionism sees it as transformation of syntactically unstructured representations, namely, activation patterns of neurons. J. Fodor and Z. Pylyshyn argue that connectionism fails because every cognitive ability is systematic so that representations in any cognitive domain are syntactically structured. But I argue that some cognitive abilities are not systematic. Classical computationalism holds only for some cognitive domains. But I do not think that our brain is a hybrid of a classical model and a connectionist one. It is wholly connectionist. Syntactically structured representations exist not in our brain but in our environment as external representations. Consequently, eliminativism is right in that propositional attitudes such as belief and desire do not exist in our brain.
著者
河上 正秀 河上 正秀
出版者
筑波大学人文社会科学研究科哲学・思想専攻
雑誌
哲学・思想論集 (ISSN:02867648)
巻号頁・発行日
no.30, pp.1-14, 2004

はじめに 実存思想をめぐっては多岐にわたる批判的論議が交わされてきた。またその論議の多様性がこの思想のもつ息の長さを示してもいる。しかしあらためていえば、実存という言葉によって何かが論議され、何かが捨象され、過去のものになったのかという問いについては、必ずしも明確にされてこなかったようにも見える。 ...
著者
河上 正秀
出版者
筑波大学
雑誌
哲学・思想論集 (ISSN:02867648)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-17, 2001

一 著書『おそれとおののき』を基本テキストとしながらキルケゴール思想を現代的解釈に付す、さらにはこのテキストを通して現代における倫理学的基礎理念を構築しようとする思想動向がある。その動向は、かつてハイデガーの実存思想の発展的解消として ...
著者
武笠 桃子
出版者
東京女子大学
雑誌
東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.125-142, 2017-09

哲学と音楽にはいかなるつながりがあるのか。哲学は、「理性」の学問であり、「音楽」は音による芸術である。音楽は、聴覚器官によって、つまり、人間の感性によって知覚される。西洋哲学の伝統においては、理性を感性よりも上級とみなす理性主義的傾向があったため、感性的な音楽について積極的な評価はなされてこなかった。ところが、19世紀になって、ドイツ観念論の哲学者の一人であるA.ショーペンハウアーは、音楽を積極的に評価し、哲学と音楽の間にきわめて深い連関を示唆した。確かに、ドイツ観念論を定めたI.カントはあまり音楽を評価しなかったが、それにもかかわらず、ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の中で、音楽を意志の客観化として高く評価した。ここでは、彼がなぜ、カント哲学の継承者でありながら、音楽を評価するに至ったかを綿密に研究することが、本論の重要な目的である。本論では、哲学と音楽について、特にI.カントとA.ショーペンハウアーの音楽論を考察する。
著者
宇野 重規 宮本 雅也 犬塚 元 加藤 晋 野原 慎司 網谷 壮介 高見 典和 井上 彰 馬路 智仁 田畑 真一
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

1971年に公刊された『正義論』に端を発するジョン・ロールズの正義論は、いまなお自由、平等、そして民主主義をめぐる多様な研究の重要な基軸である一方、刊行から半世紀近くを経て、それ自身が一つの歴史になりつつある。本研究は、ロールズの正義論について、現代政治哲学における最先端の研究と、政治思想史や経済思想(史)からの歴史的な再定位を結びつけることで、「平等かつ自由な社会とは何か」というロールズの最も根源的な問いに答えることを目指す。この作業を通じて、政治哲学と政治思想史、さらに経済思想(史)研究の研究者のプラットフォームを作り、21世紀のリベラルな民主的社会のあり方を考察する。
著者
久木田 水生 大澤 博隆 藤原 広臨 林 秀弥 平 和博 伊藤 孝行 大谷 卓史 笹原 和俊 中村 登志哉 村上 祐子 唐沢 穣
出版者
名古屋大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2019-04-01

本研究は、第一に、インターネット上の悪質な情報の流通とそれに起因する現代の諸問題の根本的な要因・メカニズム・影響を明らかにする。第二に、そのような問題に対処するための新しい情報リテラシーの概念を探求し、その基礎になる技術哲学理論を構築する。第三にその概念と理論に則した情報リテラシー向上のための方法を探求する。このことによって本研究は情報技術と社会が互いに調和しながら発展していくことに貢献する。
著者
桑島 秀樹
出版者
広島大学大学院総合科学研究科
雑誌
人間科学研究 (ISSN:18817688)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.59-69, 2015

本稿は, 18世紀イギリスの主要な美的カテゴリーたる「崇高(サブライム)」・「優美(グレイス)」・「絵様美(ピクチャレスク)」を, 「安芸ノ宮島」風景の美学的・芸術学的特性の分析に応用したものである。別言すれば, 宮島風景のもつ「聖性」と「美」の関係を比較美学ないしは応用芸術学の観点から論じた視覚感性文化論の試みといえる。なお, 分析に当たっては, 上記の美的カテゴリー論の採用にくわえ, 19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した, ユダヤ系ドイツ人哲学者G・ジンメルの「山岳美学(アルペン=エステティーク)」に見られた景観分析手法をも援用している。ジンメルによれば, 「山」の風景とは, 「山麓の草木」・「山腹の岩塊」・「山頂の氷雪」といった3つの異なるフェイズから成る。彼はこのような空間配置の差異に基づき, それぞれのトポス(場=景観)に働いている空間力学を考慮しながら、その美的特性のモードを分析・弁別していった。さて, 本稿でもジンメルに倣い, 宮島風景を, ①まずは「山頂部」の弥山を中心とする山林部(景観上層:垂直方向), ②次に, 「海と陸の境界部(インターフェイス)」にある厳島神社本殿と附属社殿群(景観中層:水平方向), ③最後に, 大鳥居を焦点に, 山・社・海が織りなす絵葉書的な全体景観(景観低層:垂直方向+水平方向/全方位的スペクタクル)に分け, これら3種のトポスに分割して考察を試みる。そして結論として, 各トポスの景観それぞれに働く視覚的・宗教的な感性力学の有様が描き出されることになろう。以下, 簡単に本稿各節のポイントを日本語で概括しておこう。第1節 「崇高(サブライム)」:弥山主霊峰・弥山は, 仏教上の「須弥山」に由来する。海面から屹立する峰々は「自然曼荼羅」である。宮島はまた, 人間を寄せつけない「神の島(斎島)」でもあった。アニミスティックな古神道的な世界観からすれば, 原生林上部に位置する弥山の巨岩山塊部は, 神々の降臨する「磐座(いわくら)」だ。ここに偉大な神々の顕現を想うとき, そこに《崇高》が現出する。第2節 「優美(グレイス)」:厳島神社山から神が降り海から人が来て, インタラクティヴな交流・交感が起こる場所。そこに厳島神社の社殿はある。「聖」と「俗」(「山」と「海」/「天」と「地」/「彼岸」と「此岸」)が融けあうインターフェイス(境界/界面)に, 水鳥が羽を広げたように, 平安・寝殿造の《優美》な姿が浮遊する(じっさい社殿のもつ建築学的「浮板」構造は, 暴風対策以上の感性的含意をもつものなのだ)。この構造は, しなやかに謡い舞う平安貴族の女性的美の象徴を具現しているといってもよかろう。第3節 「絵様美(ピクチャレスク)」:大鳥居と山・社・海の統一対岸から宮島に向かうと, 朱の大鳥居を焦点(ないしフレーム)として, 美しい弧の曲線を描く「白沙青松」の入江が奥まったところに《優美》な厳島神社が見える。社殿から右後方へと原生林が迫りあがる。その先には霊峰の《崇高》な雄姿。ここにダイナミックに展開する全方位的なスペクタクル, すなわち「海」・「社」・「山」の景観が綜合的に紡ぐ「多様性の統一」こそ, まさに《絵様美(ピクチャレスク)》となる。こんなわけで, 「日本三景」に数えられる宮島の「美」とは, 多様な絵画的パースペクティヴが混淆した精華だと考えることができよう。以上を踏まえたうえで, 対岸から「生も死もなき聖島」宮島を訪問する者の眼を借り, もういちど具体的な宮島風景に即して確認すれば, こうなろうか。屹立する弥山山頂の巨石群は, 天上世界の領域に属し, 神々の降臨する磐座だ。これは《崇高(サブライム)》出来を予期させるトポスとなっている。山からは神々, 海からは人々が来て交流・交歓・交易が起こる。まさに「彼岸」と「此岸」が触れあい, 融けあうのが, この寝殿造の浮遊する社殿。そこはまた, 能や舞を奉納する場であり, たおやかなダイナミックスがそこに生じ, この地上世界で《優美(グレイス)》が姿を現わす。対岸から宮島へ向かって, 「日本三景」と謳われる島全体を見渡してみよう。とりあえず船で近づくと想ってほしい(が, しかし, 場合によっては想像力を駆使して, もっとダイナミックに大鳥居をかすめる鳥の眼となって, 上空から社殿さらに弥山に迫ってもよかろう)。まずは海中に屹立する朱の大鳥居を焦点(アイ・キャッチャー)に, おおきく弧をなして展開する白沙青松の浜の海岸線が眼に入る。入江の奥まったところに, あたかも水鳥が羽を広げてやすらうがごとき神社社殿が鎮座する。否, 軽やかに浮かんでいるのが見える。社殿の背後から右後方へと――すくなくとも視覚的には――社殿裏の社叢林から山腹の原生林までがひと筋に連なり, そのまま急激に迫りあがる。視点を尾根づたいに急上昇させれば, そこに主霊峰群の峻厳な雄姿がぱっと現れ出づるだろう。畏怖すべき神々と出逢う領域へのまなざしがそこにはある。遠来の参拝客は, 船で大鳥居をかすめて上陸を果たし, 社殿の参道を一歩また一歩と社殿に近づきあゆむ。そのとき彼の眼に展開する「海」・「社」・「山」が織りなす多様な美的景観の動性は, 「絵葉書」(あるいは,江戸期なら名所図会)に象徴的に切り取られるがごとき《絵様美(ピクチャレスク)》として映じよう。数種の「美」「聖性」が宮島の各トポスに立ち現れている。しかしながら, それらはみごとな配置とバランスをもつがゆえ, 統合的に享受されうるものである。まさしく絶妙な感性力学が, つねにこの島の風景には働いているわけだ。安芸ノ宮島では, このような「美」の競演のダイナミクスが, その風景美の秘密を構成しているのである。The aesthetics of the "Aki-no-Miyajima (安芸ノ宮島)" landscape in Hiroshima constitute a form of scientific application of several western aesthetic categories to a specific Japanese site. Specially speaking, this study considers the adoption of 《the Sublime》, 《Grace》, and 《the Picturesque》, which were flourished and discussed in Europe (especially in Britain) around the 18th century, for one of the Best Three Views among Japan.Additionally the present paper also incorporates the analytic method of "die Alpen-ästhetik" from Georg Simmel's Philosophische Kultur (1911). The Jewish-German philosopher divided the landscape of the Alps into the three aspects: grass-fields at the mountain-foot, rocky massif at the mountain-side, and perpetual snow at the heavenly peak.Now we will make full use of the three aesthetic categories and Simmel's method, and examine to treat the rocky and rugged peak of Mt. "Misen (弥山)" in terms of 《the Sublime》, the floating "Itsukushimajinja (厳島神社)" shrine between land and sea (or heaven and earth, or gods and human beings) in terms of 《Grace》, and the entire landscape of the integrated parts: mountains, coastal lines, and shrines with the large red "Oh-torii (大鳥居)" gate in the sea in terms of《the Picturesque》.The paper may also illustrate the reason why the Miyajima landscape has ever been called one of the "Nippon-sankei (日本三景)", The Best Three Views of Japan, defined by Shunsai HAYASHI (林春斎), a Confucian scholar at the early Edo period. And finally we will find it here a contest of the various sorts of the beauty, or their secret co-existence.
著者
石黒 ひで
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
no.91, pp.p125-141, 1990-12

1. 序2. 一般命題と単称命題3. 単称命題とレアリズム4. 対応と指示5. 因果関係と指示文学部創設百周年記念論文集ITreatise
著者
小川 将也
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.106-121, 2020 (Released:2021-03-15)

本稿は、グィド・アドラーの著作『音楽史の方法』(1919年、以下『方法』)を主たる対象に、彼の音楽学体系内にその座を与えられる「音楽美学」とは〈心理学的美学〉であることを示すとともに、音楽様式の「内容分析(Inhaltsanalyse)」と〈心理学的美学〉との接点を、特にオーストリア哲学の文脈から読み取る試みである。 従来のアドラー研究は、彼の美学批判に繰り返し注目してきた。たしかに、論文「音楽学の範囲、方法、目的」(1885年、以下「体系論文」)や『方法』内には、美学理論が思弁的であり厳密な根拠に欠ける点を批判する記述がある。しかし、両著作中に掲載された音楽学体系図には、音楽学の体系的部門の一分野として「音楽美学」が記されていることも事実であり、アドラーの美学に対する消極的姿勢を強調するのは一面的であるように思われる。本稿では、これまで個別に論じられてきた、美学、心理学そしてオーストリア哲学に対するアドラーの見解を引用テクストと照合しながら総合的に検討し、「内容分析」をこれらの結節点として捉える。 はじめに、アドラーによる美学批判を確認したのち、彼が体系内に認める「音楽美学」とは〈心理学的美学〉を指していることを明らかにする(第1節)。続いて、「内容分析」に関連して、クレッチュマーの音楽解釈学、ディルタイの解釈学、そしてリップスの感情移入理論に対するアドラーの見解を分析する(第2節)。最後に「内容分析」と〈心理学的美学〉との接点を、ブレンターノ学派に属するクライビヒの論文「芸術創造の心理学への寄与」(1909)を手掛かりに考察する(第3節)。以上の考察を通じて、アドラー思想と心理学説との布置連関の一端が明らかになるとともに、歴史的心理学と記述的心理学との潜在的対立が彼のテクスト内に見出される。
著者
宮地 たか
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1966, no.16, pp.158-170, 1966-03-31 (Released:2010-01-20)
参考文献数
18

Dieser Versuch wünscht eine Antwort darüber zu sein, ob die Fähigkeit der Erkenntnis mit der Wesensanschauung als der neuartigen Funktion, die Wesenserkenntnis zu begründen, a priori versehen sei oder nicht. Ich finde den Anfang dieses Versuches in dem Analyse der Wesenserkenntnis. Nach Husserl hat die Wesenserkenntnis zwei gründliche Seiten : das Urteil über “Was” des Individuums und das “rein eidetisches Urteil”. Als einen passenden Typus des letzteren Urteils ziehe ich die Geometorie in Betracht. Dann finde ich zwei Bestimmungen der Wesensanschauung in den Husserls Erörterungen : 1.der mit der Wahrnehmung gemeinsame Charakter, das Wesen originär erfassen zu können. 2. der Charakter, durch die “Blickwendung” auf ein Individuelles dadurch, “die Bildung des exemplarischen BewuBtseins” vorauszusetzen, eine Ideation zu vollziehen. Nun, es wird klar, daß für die Ideation von “, Was” des Individuums die zweite Bestimmung der Anschauung wichtig ist, und die Ideation inadäquat ist, wenn diese Voraussetzung unsicher sei.Nun, Husserl meint, die geometorische Erkenntnis könne nur auf der Wesensanschauung, die “Eidos überhaupt” originäl erfaßt, beruhen, und diese könne die schlechthin unbedingte Allgemeinheit für die Form des Raums, das Wesen des Dinges, begründen. So stelle ich auf dem heutigen Zeitpunkt, wo die nichteuklidischen Geometorien bestehen, zwei folgende Fragen. 1. die Frage auf die schlechthin unbedingte Allgemeinheit der geometorischen Erkenntnis fur den realen Raum. 2. die Frage auf die Figur überhaupt, den sogenannten Gegenstand des geometorischen Universalurteils, d. h. des Lehrsatzes. In Beziehung auf die erste Frage : solange ich den Grund der Bestehung jeder Geometorie betrachte, schließt sich theoretisch, daß die Geometorie nicht eine Wissenschaft, die dem realen Raum entspricht, sondern eine Wissenschaft über einen imaginären Gegenstand ist, der gemüß den das System konstruierenden Axiomen besteht, und jedes System bezeichnet sich also als eine Wissenschaft, deren Sätzen verbürgt sind, nur in demselben System die Allgemeingültigkeit zu haben. In diesem Punkte findet dieser Versuch eine wichtige Verschiedenheit gegen Husserls Meinung.In Bezug auf die zweite Frage : nach dem praktischen und theoretischen Versuch, wie die Lehrsätze aus Axiomen bestehen, kann ich klar feststellen, daß das Universalurteil der Lehrsätze nicht, wie Husserl behauptet, auf die Wesensanschauung, die “Eidos überhaupt” originär erfaßt, sondern auf die Verallgemeinerung vom individuellen Urteile über individuelle Figuren zum Universalurteile besteht.Nach obengedachtem Versuch kann ich folgendes beschließen, in der Tat besteht die geometorische Erkenntnis, ohne auf der Wesensanschauung nach Husserls erster Bestimmung zu beruhen, sogar solche Anschauung nicht sein können. Aber, die Anschauung nach der zweiten Bestimmung kann in dem bedingten Sinne sein. Jedoch ist der durch solche Anschauung erfaßte Inhalt nicht das Wesen des natürlichen Dinges, sondern nur das imaginare Wesen, gemäß den vorausgesetzten Bedingungen konstruiert.