著者
塚越 健司
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.4, pp.89-99, 2014-03

フランスの哲学者・思想家のミシェル・フーコー(1926-84)は、晩年に「パレーシアπαρρησiα parrêsia」という古代ギリシア語の言葉を研究していた。本稿は、パレーシアを「真理陳述=真実語りvéridiction」の一つの形式だと述べるフーコーのパレーシア研究に沿いながら、預言者の真理陳述に着目する。パレーシアとは、古代ギリシア語で「すべてを語るtout-dire」あるいは「真実を語るdire-vrai」といった意味を持つ。さらにパレーシアは常に危険を伴う言説行為であり、また語る内容を語る本人が信じていなければならない等の条件がある。本稿では第1章として、フーコーが語った真理陳述としてのパレーシアが、古代ギリシアのアテナイ民主政社会においてその機能を健全に維持するための、一種の社会的装置であったと解釈する。第2章では、フーコーが直接語らなかった古代イスラエル社会における預言者の「真理陳述」の形式について、預言者に関する先行研究を参照することで、それが神との契約を想起させる社会的装置であったと解釈する。第3章では、預言者の言説がパレーシアとどのように異なるのかについてフーコーの主張を確認する。さらにフーコーが残した仮説から、古代イスラエルの預言者の真理陳述の形式が、現代ではパレーシアの形式と混合し、「預言的パレーシア」として名付けることができることを確認する。最後に、預言的パレーシアという真理陳述の形式が革命家の言説として、現代にも引き継がれていることを確認する。
著者
IMAZATO Satoshi
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.59, no.6, pp.38-62, 2007-12-28

This paper critically reevaluated the history of humanistic geography in Japan and English-speaking countries. Japanese applications to case studies have been mainly developed in rural and historical geography, maintaining its own humanistic perspectives nurtured in traditional Japanese academics. The essences of humanistic geography as positive science, however, have often been misunderstood, both inside and outside of Japan. The author accordingly reexamined the basic concepts and perspectives in the original approaches of Tuan, Relph, and Ley, as well as in the phenomenology of Husserl and Schutz, to more rigidly redefine humanistic geography: focusing on intersubjective order in human existential space or its representations; seeking universality of human reason and the senses; utilization of humanities or fieldwork materials considering inside humans' views; and philosophical reflections on the methodology of human sciences. From the viewpoint of this redefinition, we recognize that methodological cahllenges have accumulated within Japanese geography: semiotics of folk classifications of settlement spaces, quantitative textual analysis, epistemological reconsideration of space and landscape, and radical rethinking of the Western dualism betweeen 'human' and 'nature'.本稿では、日本と英語圏における人文主義(人間中心主義)地理学の歴史を、批判的に再検討した。日本での事例研究は、主に村落地理学と歴史地理学で展開され、国内で伝統的に培われてきた独自の人文主義的視点も保持されていた。しかしながら、実証科学としての人文主義地理学の核心は、国内外においてしばしば誤解されてきた。 そのため著者は、トゥアン、レイフ、レイそれぞれの元来のアプローチ、およびフッサールとシュッツの現象学に立ち戻って、基本的な概念と視点を再考し、人文主義地理学をより厳密に再定義した。すなわち、人間の実存空間やその表象にみる共同主観的秩序への注目、人間の理性と感性における普遍性の探究、内部の人間の視点に立った人文学的資料や現場調査資料の利用、人間科学の方法論の哲学的反省である。 この再定義からみた場合、日本の地理学においても、集落空間の民俗分類の記号論、計量的なテクスト分析、空間や景観に対する認識論の再検討、「人間」対「自然」という西洋流二元論の根本的再考といった形で、方法論上の挑戦が積み重ねられてきたといえる。
著者
森 哲彦
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.1-14, 2007-12
被引用文献数
1

神の存在証明についてヤスパースは「カント以来、誠実な思索にとっては、神の存在証明が不可能であることは確実である」(Jaspers:Glaube,32)とする。本論で見るようにカント自ら、この神の存在証明の不可能性を論証している。そこでは先行する哲学者たちの神の存在証明、つまり自然〔物理〕神学的証明、宇宙論的証明、および存在論的証明(デカルト的証明)は成立しえず、これらの神学、すなわち自然〔物理〕神学、宇宙論的神学、そして存在論的神学は、超越論的神学のゆえに批判される。しかしこのカントの主張は、理性の思弁的原理や認識論的立場からでなく、存在論的立場からの批判である。それゆえカントによれば「道徳諸法則が根底に置かれ」る「理性の神学」(A636,B664)は存在する。これがカントの道徳神学である。戦後ヤスパースは、先行する哲学者たちの「あらゆる神の存在証明を、カントが見事に論駁したあとを受けて、またヘーゲルが思想的には豊かだが安易で誤った仕方で再び神の存在証明を復活させたあとを受けて…今日では、神の存在証明を新たに哲学的に我がものにすることが、是非とも必要なことである」(Glaube,33)としている。しかも自らその必要性を急務としている。なぜなら神の存在証明を獲得しなければ「哲学者は、一般に何事も主張せず、何事も否定しえないところの懐疑的哲学の立場を取る。かまたは哲学者は、自分の立場を対象的に規定された知、すなわち科学的認識に限定して、我々は知りえない事柄については、沈黙を守るべき、という命題をもって哲学することをやめる」(Einfiihrung,40)と自戒する。本論で取り上げるカントの神問題については、問題史的、概念史的解釈を行う。しかし問題の概念史的解釈を行うには、それに先行して発展史的解釈が必要である。そのため本論ではカント前批判期と批判期(『純粋理性批判』)の発展史的解釈による小論(後掲引用・参考文献)を前提としているものである。
著者
森 一夫 出野 務
出版者
日本科学史学会
雑誌
科学史研究. 第II期 (ISSN:00227692)
巻号頁・発行日
vol.15, no.120, pp.196-199, 1977-01-31

周知のようにニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』(以下,『プリンキIピア』と略記する)の冒頭に 定義I 物質量とは,物質の密度と大きさ(マーグニトウードー)(体積)とをかけて得られる,物質の測度である. と質量を定義している.一見循環論法とも思えるこの不自然な定義をめぐり,E.Machを初めとして今日までさまざまな解釈が行われ,議論されてきた.わが国でも『科学史研究』誌上で,渡辺正雄・板倉聖宣両氏の論争が行われたことは記憶に新しい.両者の論争によって新しい視点が提供されたのは注目すべきであるが,なおも問題点は解決されないまま残されているので,筆者はあえて別の視点からニュートンの質量の定義に関して新しい解釈を試みようとした.筆者の見解を述べる前に,その素材を提供したともいうべき両氏の論争を最初に紹介しよう.
著者
森 一郎
出版者
東京女子大学論集編集委員会
雑誌
東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.1-26, 2012-09

Die Atomlehre im alten Griechenland ist—nach zweitausendjähriger Inkubationszeit—in der Renaissance aufgelebt und hat zur Entstehung der neuzeitlichen Naturwissenschaften beigetragen. Die Experimente aber, mit denen die Kernphysik des 20. Jahrhunderts der angeblichen Unteilbarkeit des Atoms entgegentrat, haben etwas völlig Neues zum Vorschein gebracht. Nach Heidegger, der über das „Atomzeitalter" nachzudenken versucht, läßt die moderne Technik sich bereits auf die „Herausforderung der Grundbestandstücke" ein. Das „Ge-Stell", als das Heidegger das Wesen der Technik bezeichnet, versammelt so alles und alle auf der Erde und vermehrt sich immer weiter. „Auf welche Weise können wir die unvorstellbar großen Atomenergien bändigen und steuern und so die Menschheit gegen die totale Vernichtung sichern ?" —Heidegger stellte dieselbe „Grundfrage der heutigen Wissenschaft und Technik" in einem Vortrag schon im Jahre 1955. Das Aufkommen des zeitlich ganz neuartigen Seienden, z. B. des Plutoniums, fordert von uns erneut eine „metaphysische Ontik".古代ギリシアの原子論は、二千年の潜伏期を経て、ルネサンスに復活を遂げ、近代自然科学の成立に与った。だが、原子の分割不可能性に挑戦した二十世紀の核物理学の実験は、まったく新しい何かをもたらした。「原子力時代」について省察を試みたハイデガーによれば、現代技術は「元素の挑発」に乗り出しており、その本質である「総かり立て体制」は、万人と万物をそこに包摂して自己増殖していく。「巨大な原子エネルギーをいかにして制御し、操縦し、安全性を確保することができるのか」—この「現代の科学技術の根本の問い」を、ハイデガーはすでに1955年の講演で立てた。プルトニウムという地上における新しい存在者の出現は、何らかの「形而上学的存在者論」をわれわれに新たに要求している。
著者
秋富 克哉
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.251-278, 2013-09-30

技術を哲学的に主題化するとき、そこには、技術の本質がどのように規定されるかという課題と、それに対して人間の本質ないし可能性がどのように理解されるかという課題が含まれる。ハイデッガーは、戦後四年目にドイツ・ブレーメンで行なった一連の講演で、技術的世界における「近さ」の不在という洞察のもと、そのような状況を産み出した現代技術の本質を「総かり立て体制」として取り出し、その根底に「危険」を指摘する一方、「近さ」の回復を、「四方界」と呼ばれる世界と「物」の独自な関わりにおいて描き出した。問題は、技術的世界のなかで四方界の世界がいかにして回復されるか、そこに人間がどのように関わり得るかということである。本稿は、上記二つの課題の観点から、ブレーメン講演を中心に同時期の主要テキストを読み解き、特に「死すべき者たち」としての人間に注目し、技術的世界における人間の本質と可能性を取り出すことを試みた。
著者
鷲巣 力 加國 尚志 小関 素明 中川 成美 樋口 陽一 三浦 信孝 桜井 均 湯浅 俊彦 渡辺 公三
出版者
立命館大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2017-04-01

本研究の課題は戦後日本を代表する国際的知識人加藤周一の思想を戦後思想史のなかに位置づけることである。本研究の基礎作業が加藤の「手稿ノート」の研究とその成果としてデジタルアーカイブ化して公表することである。本年度は《Journal Intime 1948-1949》《Journal Intime 1950-1951》の二冊について、デジタルアーカイブ化して公開した。昨年公開した8冊の「青春ノート」の抄録を刊行するべく、編集校閲作業を進めた。さらに『加藤周一 その青春と戦争』(共著)の編集執筆も進めた。加藤と丸山眞男との比較研究は、東京女子大学の丸山眞男記念比較思想研究センターと本研究を支える加藤周一現代思想研究センターとの間で研究提携の協定書を締結した。丸山研究センターの川口雄一氏は加藤研究センターの客員協力研究員についてもらい、研究会にて丸山眞男研究の推移について報告した。また『丸山記念研究センター報告』(第13号)に「加藤周一文庫と加藤周一の方法」を寄稿した。さらに山口昌男文庫をもつ札幌大学の公開講座に、本研究の研究者代表である鷲巣と川口雄一氏が参加して、研究報告を行なった。加藤と林達夫との比較研究では、鷲巣が中心となり林達夫研究を進め、成果として『イタリア図書』に「林達夫への精神史的逍遥」の連載を続けた。加藤は生涯を通して反戦を貫き、反戦小説も著わしたが、研究分担者の中川成美は他の戦争文学との比較のために『戦争を読む』(岩波新書)を刊行した。加藤周一記念講演会には、フランス哲学の浅田彰氏を招聘して「普遍的知識人の時代は終わったのか」と題した講演を行なって、加藤がもつ現代的意義について論じてもらった。研究会では、上記の川口氏の報告のほか、猪原透協力研究員の「科学し研究と加藤周一」と題した報告、石塚純一協力研究員の「網野善彦、山口昌男、加藤周一」と題した報告を受けた。
著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.57-67, 2015

ウォルター・リップマンの政治思想は、その「世論」民主主義批判の文脈において「エリート主義」「保守主義」と解釈され、ジョン・デューイらリベラリズムの論敵として理解されてきた。しかしながら、リップマンの「政治」と「教育」をめぐる議論を検証すると、そこにはニつの政治教育論が存在し、一方はデューイらと同様に学校教育を通じてアメリカ社会を民主的に変革するものとして、他方はそれとは別の教育論理でアメリカのリベラル・デモクラシーを再構築するものとして描かれていることに気づく。本論はこれまで論じられてこなかったこのリップマンにおける二つの政治教育論を取り上げ、一方の政治教育論が「市民教育」[メディア・リテラシー」「知能テスト批判」をキーワードとして市民の政治知識の向上に寄与するものであり、他方が「コモンローの精神」「公共哲学」「文明的作法」をキーワードとして一般公衆の精神的陶冶を強調するものであることを明らかにした。
著者
平田 公威 Hirata Kimitake ヒラタ キミタケ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.51-62, 2017-03-31

人間学・人類学 : 論文『差異と反復』において、ドゥルーズは、即自的差異を思考するために、同一性の優位を批判し表象を退けていた。しかし、超越論的領野を描くという同じ意図にも関わらず、ドゥルーズは、『意味の論理学』で、出来事は表象されるべきものであると論じている。ここに、ドゥルーズの態度の重要な変更があることは確かである。本稿では、ドゥルーズが、『意味の論理学』へのストア派の物体と非物体的なものの二元論の導入のために、出来事(非物体的なもの)の物体化と表象の理論を問題化していると考える。まず、われわれは、ストア哲学に焦点をあて、非物体的なものの表現を含み非物体的なものを物体化する表象の理論を明らかにし、ドゥルーズが、出来事の表現と思考のためにこの表象を必要としていることを示す。この試みは、『意味の論理学』の狙いとその限界を明らかにするだろう。In Difference and Repetition, Deleuze criticizes the priority of identity and avoids the representation in order to think about the difference in itself. Nevertheless, in spite of the same intention to describe the transcendental fi eld, Deleuze, in The Logic of Sense, argues that the event is what must be represented. Here, it is certain that there is an important change in Deleuze's attitude. In this paper, we hypothesize that Deleuze, because of the introduction of the stoic dualism of bodies and incorporeals into The Logic of Sense, problematizes the incarnation of the event (the incorporeal) and the theory of representation. First, focusing on Stoicism, we describe the theory of representations, which comprehends an expression of the event and materializes the incorporeal, and then demonstrate that Deleuze needs this representation in order to the expression and the thought of the incorporeal. This attempt will reveal an aim and a limitation of The Logic of Sense.
著者
杉村 靖彦
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2005, no.56, pp.82-97,4, 2005-04-01 (Released:2009-07-23)

L'idée des droits de l'homme fonctionnait depuis sa naissance comme principe de la résistance à partir duquel on lutte contre les figures variées de l'injustice. Pouvons-nous toutefois recourir encore au même principe, compte tenu du fait que nous sommes dans la situation où le mal semble se rendre invisible à mesure qu'il se maximalise ?L'hyperbolisation de la responsabilité chez certains philosophes de notre époque peut servir pour aborder cette question. Car, loin d'être l'extention de la capacité de prendre ses responsabilités sur soi qui puisse correspondre à celle des droits de l'homme au 20e siècle, cette hyperbolisation me semble devoir être considérée comme réaction au mal extrême contaminant toute sorte de pouvoir. Il s'agit done de la résistance qui n'invoque aucune modalité de capacité. Dans la recherche de la possibilité de telle résistance, cette étude examine succesivement «l'attention créatrice» chez Simone Weil et «la responsabilité infinie» chez Emmanuel Lévinas. C'est une tentative de poursuivre «en-decà» des droits de l' homme une première contestation essentiellement faible mais indéniable à l'injustifiable presque absolu.