著者
木村 将也 竹野 健夫 植竹 俊文
雑誌
第81回全国大会講演論文集
巻号頁・発行日
vol.2019, no.1, pp.339-340, 2019-02-28

運転代行業では,顧客の待ち時間の短縮と代行車間の負担分散を意思決定基準として代行車の初期配置場所の決定や依頼の割当てを行っている.現状では代行車と依頼の管理は無線番が手作業で行っており,依頼を断られてしまう機会損失が生じている.本研究では,運転代行業を対象とした配車計画システムを提案し,検証を行う.過去の約1年分の業務記録をもとに休日配置と気温による需要予測を行う.そして予測した需要を用いた代行車の初期配置場所の決定を意思決定基準に即したLocation-Alocation問題としてモデル化する.また,業務中に各代行車の業務状況を考慮した依頼の割当てを行う.
著者
片山 怜
出版者
西南学院大学大学院
雑誌
西南学院大学大学院研究論集 (ISSN:21895481)
巻号頁・発行日
no.1, pp.171-180, 2015-11-20

近年、国際結婚の増加にともない、日本から配偶者の国である海外へと移住する日本人が増えている。中でも、女性の移動の方が男性より多い。1990年頃から、国外における日本人男性の国際結婚が減少しているのに対し、同時期における日本人女性の国際結婚は、逆に増えているのが現状である。本稿では、台湾に住む日本人妻を研究対象とし、日本人女性が台湾人男性との結婚に至るプロセスとそのメカニズムを解明するとともに、異文化に暮らす日本人妻たちが、いかにしてホスト社会に適応しているかについて考察する。本研究の主な目的は、異文化間で結婚し、外国に移住する日本人女性の「出会い」のパターンと台湾において日本人妻たちが自ら築き上げてきた社会的ネットワークを解明することで、日本人女性の海外での活躍及び異文化適応のプロセスを理解するとともに、日本と台湾双方の文化の違いや社会の変動によって変化していく国際結婚のあり方を模索することである。異なる文化の中に住む人々とともに生きていく日本人女性にとって、自分のアイデンティティを維持しながら、異文化にうまく適応していくためには、自分たちの社会的ネットワークを組織する必要があった。この社会的ネットワークの実態を解明することは、異文化で生活する人々の適応過程から問題点を見出すことができ、ひいては、民族間の摩擦や対立、偏見の問題に新しい視点を提供できることが期待できる。研究対象の国際結婚相手国に台湾を選んだのは以下の理由による。台湾の高度成長と国際化に伴い、日本と台湾の交流が盛んにおこなわれるようになった。1980年代後半から、台湾では民主化が進展し、1987年に戒厳令が解除されたが、それから一気に台湾における日本ブームが到来した。まず、1990年代には民主体制が確立され、1993年に日本語及び日本のテレビ番組の放送が解禁になったのに続いて、映画、雑誌、キャラクターグッズなど日本のモノが大量に輸入されるようになった。こうして日本製品が出回る中で日本語ブームが起き、台湾各地で「地球村」、「世界村」、「科見」、「永漢」などといった日本語補習班ができたほか、台湾の大学でも相次いで日本語学科が新設されるようになった。また、こうした趨勢のなかで、日本に留学する台湾人が増え、一方で、台湾での日本語教育の需要の高まりと共に、台湾で日本語教師として働く日本人も増加している。また、台湾では、台湾に居住する日本人妻が自ら組織した日本人妻の親睦会が各地にいくつも存在し、その会員数が増えている。これは、夫台湾人・妻日本人のカップルが増加していることを意味する。1975年に日本人妻の親睦会「なでしこ会」が台北に発足したのを皮切りに、台中には「桜会」、台南には「南風」、高雄には「ひまわり会」と台湾各地に次々と日本人妻の会が発足している。その他にも、国際結婚家庭の居留環境の改善を目的に活動している「居留問題を考える会」や母親になった日本人女性のための母乳の会である「ねねの会」など、国際結婚し、母国ではない国で暮らすことになった日本人妻のよりどころとなる様々な組織が存在するのである。これだけ多くの組織を発足させたということは、国際結婚した日本人女性が増えているということ、そして、これから先も増え続けるであろうということを示唆している。本稿では、日台間の人的移動に関する日本と台湾の政府統計データ、新聞雑誌記事の分析に加え、(1)今回筆者が行った台湾人男性と国際結婚をした日本人女性のライフヒストリーの聞き取り調査、及び(2)在台日本人妻の会「なでしこ会」での参与観察によって得た資料などの分析をもとに、台湾に居住する日本人妻の異文化適応における新たな展開について考察する。
著者
木庭 顕
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

11-12世紀にローマから占有慨念が受け継がれた後も、西ヨーロッパではこの概念は十分には定着せず、そもそもその正確な概念内容が理解されるためには15-6世紀の人文主義を要した。しかるにこの概念こそ、およそ法学的概念体系、特に民事法、民事訴訟、の発展のために鍵を握るものであった。この研究の基本的なねらいは、人文主義における概念の正確な把握の過程と、実務における概念の定着を、必ずしも矛盾無しではない画像としてギャップを描くことに存した。つまり単なる乖離ではなく、相互作用や相互克服の試行錯誤として把握するということである。人文主義つまり学識法の側においては、従来の学説史ではあきたらず、概念の掘り起こしのための思考や装備の問題に焦点をあてて再考することを目指し、一定の成果を得た。つまり人文主義ローマ法学のみならず、人文主義一般のテクスト解釈メカニズムに立ち入り、占有概念の古典的形姿を再発掘する様を分析しようと試みた。特に、16世紀フランスの人文主義法学にも固有の限界が認められ、これが社会の真の問題に鋭いイムパクトを与え得ない結果を将来するのではないかとの見通しを得た。しかしながら、このことを実務法学の側の悪戦苦闘、ディレンマ、の描き出しによって裏付ける作業は、緒に就いたばかりであり、かつ後続の研究計画が認められなかったため、一旦ここで終結せざるをえない。とはいえ、若干の文献に触れた限りにおいて言うならば、確かに一旦正確な占有訴訟の原則は理解されたとはいえ、従来考えられていたように、直ちに占有概念は十全な形で定着したのではなく、特におそらく17世紀に入って行くに従って、よく機能し始めた占有訴訟自体が、一方では単純な物の取り戻しのために、他方では凡そ平和秩序維持のために、使われ、再度混乱に向かっていくのではないかと考えられる。確かにそうでなければ、19世紀になってのサヴィニーによる大整理は必要なかったであろう。

2 0 0 0 OA 鬼面山谷五郎

著者
豊国
出版者
佐野喜
雑誌
相撲錦絵
巻号頁・発行日
1857
著者
鈴木 秀人
出版者
一般社団法人 日本体育・スポーツ・健康学会
雑誌
体育学研究 (ISSN:04846710)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.409-427, 2021

Hirobumi Daimatsu was a legendary sports coach in Japan, especially after coaching the Japanese women's national volleyball team ("the Oriental Witches") that won the World Championship in 1962 and the gold medal in the 1964 Tokyo Olympic Games.<br> He was famous for his extreme training methods and had a great influence on coaching methodologies for Japanese sports as a whole. Although many studies have examined his way of thinking from various perspectives, the relationship between his war experiences and his approach to coaching has not been analyzed sufficiently. The present study aimed to examine how Daimatsu's first-hand war experiences ("keiken") developed into his coaching beliefs ("taiken"), focusing specifically on a theory created by Yoshida that war veterans' understanding of their experiences had been changing over time from when they re-entered society and grew older. Yoshida made this transformation clear by referring to 5 periods since the end of the Second World War in 1945.<br> Firstly, many demobilized soldiers including Daimatsu had to face civilians who hated the Japanese military just after defeat. They lost their morale, from 1945 to around 1950 could not talk about the military or the War. Secondly, even after former professional officers and wartime politicians had been rehabilitated, the veterans themselves still found it difficult to positively address some topics related to the War in the 1950s.<br> Thirdly, the generation that had experienced the War who shouldered the responsibility of reconstruction from the destruction and devastation gradually gained confidence and became able to talk about their wartime experiences. Some of them discovered a positive meaning in their own experiences on the battlefield from the late 1950s to the late 1960s. Daimatsu was a typical example of the third period because he spoke clearly about the positive meaning of his war experiences.<br> Penultimately, in the 1970s and 1980s, that generation of Japanese became able to accept the responsibility for the War, especially in Asia, and to gradually acknowledge the negative aspects of their experiences. Finally, in the 1990s, a small number of survivors chose to disclose tragic stories that had not come to light previously.<br> Thus, Daimatsu was only one of a generation that had experienced the War and who became recognized as a spokesman for many of that generation who held common feelings.
著者
松野 良寅
出版者
日本英学史学会
雑誌
英学史研究 (ISSN:03869490)
巻号頁・発行日
vol.1994, no.26, pp.103-123, 1993 (Released:2009-10-07)
参考文献数
11

German medicine had overwhelming influence by its theoretical study on the medical circles of Japan from the 10th year of Meiji (1877). It was adopted by the Daigaku-tokoO, the predecessor of the medical department of the Tokyo Imperial University, in 1869, when British medicine, whose supeority in practical medicine was shown by William Willis, was being forgotten in the medical circles, and doctors and students were showing a marked trend toward medical research for research's sake.Kanehiro Takagi, who learned British medicine as a Japanese naval surgeon at the attached medical school of St. Thomas's Hospital in London, insisted on having to change such a trend and make more account of medical treatment in order to deliver patients from their illness. He supposed beriberi, which in those days was thought to be caused by germs, would be caused by lack of some nutriments. He buckled himself down to the work of improving meals of the naval men and at last succeeded in protecting them against beriberi. And since 1884 an outbreak of beriberi had never been seen among the Japanese navy.This paper treats from the viewpoint of the English studies in Japan how much British medicine influenced upon Kanehiro Takagi, one of the naval surgeons in the Meiji era, and also how much British pragmatism infiltrated into the Japanese navy. After all Takagi owed a great deal to British medicine based on pragmatism and it can be said that his success in stamping out beriberi among the Japanese navy was a victory of British medicine.
著者
長野 昌生 ナガノ マサオ Masao NAGANO
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2008-03-19

著者は掃引式スペクトラム・アナライザの掃引速度を高速化するアーキテクチャを開発し、<br />実験装置を製作した。これにより掃引式のダイナミックレンジの優位さと測定条件の多様性<br />という特長を保持したまま、測定速度を向上させることができた。測定速度が向上すること<br />でスペクトルの検出感度も向上し、電波天文観測にも簡易な分光計としても使用可能である<br />ことが分かった。<br /><br />(1)掃引式スペクトラム・アナライザは擬似的なフーリエ変換装置である。掃引式スペク<br />トラム・アナライザでは、掃引速度を高速にすると「過掃引現象(over sweep response)」が<br />発生し、観測結果にひずみが生じる。一般には、そのひずみの許容値を定め、それに対応し<br />た低速の掃引速度で使用しているのが実情である。著者は数値および実機による実験からそ<br />の性質を分析し、動作原理と数学モデルを明らかにした。このモデルから掃引式の過掃引現<br />象を厳密に議論することができた。その結果、掃引式における掃引速度がこのように制限さ<br />れる主たる理由は、スペクトラムを得るために、周波数掃引しながら、分解能フィルタにI<br />F信号を入力させていることにあることが明確になった。<br /><br />(2)掃引式スペクトラム・アナライザの掃引速度の制限を軽減するには、IF信号のチャ<br />ープ成分を複素信号処理により相殺すればよい。著者はこの新しい手法を「Super Sweep<br />Method (超掃引方式)」と名づけた。その数学モデルを確立し、有限の掃引速度においても擬<br />似的フーリエ変換が成立することを確認した。このモデルは、観測スペクトラムが、分解能<br />フィルタのフーリエ変換と被測定信号のフーリエ変換の畳み込みで得られる、というもので<br />ある。<br /><br />(3)(2)の数学モデルを検証する実験装置を考案・製作し、その詳細な実験結果を報<br />告した。実験装置は、既存のスペクトラム・アナライザを用い、局部発振器が掃引発振する<br />周波数ダウンコンバータとして活用したもので、そのIF信号出力(21.4MH<sub>-z</sub>)を80MH<sub>-z</sub>) 14bit<br />にてA/D変換し、デジタルダウンコンバータにより帯域幅とサンプルレートを、測定条件に<br />応じた所定の割合で減じたのち、複素数の係数を持つ「逆チャープ・フィルタ」によりスペ<br />クトラムを抽出するものである。<br /><br />提案方式において掃引と同期してスペクトラムを得るには高速な演算装置が必要となる。<br />本方式で要求される演算速度は、分解能帯域幅と倍速率(従来の掃引式に対する掃引速度の倍<br />率)の二乗に比例することを解明した。<br />本方式を実現するには、システムに関与する多数のパラメータを整合させなくてはならな<br />い。特に、水平軸を測定すべき周波数と合致させるには、各処理段階におけるサンプル数を<br />厳密に管理しなくてはならない、著者は、これらのパラメータの最適化を計り、歪のないス<br />ペクトル計測を超高速の周波数掃引で実現した。<br />(4) 著者が製作した実験装置により、従来方式よりも3倍、10倍、30倍、100倍の掃<br />引速度においても過掃引現象が発生しないことを確認した。より高速な掃引を実現するに<br />は、より広帯域なIF信号に対して複素信号処理を施せばよいことを明らかにした。IF信号<br />の広帯域化に伴って高速演算が必要になるが、昨今のDSPやFPGAを用いれば十分実現は<br />可能であり、そのモデルを提案し将来の発展方向も示した。<br /><br />(5) 著者は超過掃引方式の性質について議論し、次のよう3つの特徴を明らかにした。<br />1.FFT方式ではIFフィルタの周波数特性は、観測スペクトラムに対する乗算の形<br />で観測結果に影響を与えるのに対して、超掃引式では畳み込みの形で現れる。超掃引式で<br />はIFフィルタの特性は、より狭帯域な分解能フィルタの効果が支配的になり、観測結果<br />にほとんど影響しない。これはFFT方式に対する優位性である。<br />2. 著者は、既存のスペクトラム解析手法であるチャープZ変換と超掃引方式の関連を<br />明らかにした。超掃引方式はチャープZ変換と主要な部分を共有し、重要度の低い部分を<br />簡略化し、前半はアナログ、後半をデジタル信号処理で実現したものであることを明確に<br />した。本実験装置は、掃引式局部発振器をもつ受信機を前段に用いることでチャープZ<br />変換によるスペクトル分析を可能にした最初の装置である。<br />3. 掃引式スペクトラム・アナライザでは、ときとして内部のひずみ等によるスプリアス<br />が発生し、観測信号との識別が困難である。本方式では、スプリアス信号は、周波数軸上<br />で拡散され、かつレベルが低下した状態(過掃引現象の状態)で観測されることにより、実<br />際の測定信号との判別が可能となっている。これは従来の掃引式にもFFT方式にもなか<br />った特徴である。 <br /><br />(6) 本研究の実験装置により、電波望遠鏡による水メーザー天体のスペクトトル観測を<br />行った。掃引式に対してスペクトル計測感度の点で格段の優位性を実証した。電波望遠鏡の<br />簡易な分光器としての応用も可能であることを確認した。また本方式による性能の限界と実<br />現可能性を考察し、より高性能な分光装置開発の可能性を検討した。<br />
著者
中村 尚史 Nakamura Takashi
雑誌
川崎医学会誌 = Kawasaki medical journal (ISSN:03865924)
巻号頁・発行日
vol.40, no.1, pp.1-11, 2014

思春期,青年期の適応障害患者において広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorders,PDD)を基盤にもつ患者の割合を検討し,その場合,どのような臨床的特徴があるかを調査し,PDDの有無に関連する要因について検討した.DSM-IV-TR(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders,Fourth Edition,Text Revision)によって適応障害と診断された12歳以上30歳以下の患者58名を対象とし,以下の自記式質問紙を用いて臨床的特徴を評価した.精神症状の評価は,日本語版パラノイアチェックリスト(JPC:Japanese version of Paranoia Checklist),思春期の精神病様体験(PLEs:Psychotic Like Experiences),精神症状評価尺度(SCL-90-R:Symptom Checklist-90-Revised)を用いた.PDDの評価については,詳細な養育歴の聴取と,患者に対して自閉症スペクトラム指数日本版(AQ-J:Autism Spectrum Quotient-Japanese Version)を用いて,養育者に対しては,自閉症スクリーニング質問紙(ASQ:AutismScreening Questionnaire)を用いて総合的に判断し評価した.その結果,1)58名のうち,PDDと診断されたのは,32名(55.1%)であった.2)AQ-Jについては,PDDの有無に関してコミュニケーションが有意な関連性を示した.3)JPCについては,PDD群が,非PDD群と比較して総得点,確信度において有意に高い結果となった.PDDの有無に関して,確信度が有意に関連していた.4)SCL-90-RについてはPDD群では,恐怖症性不安,妄想,精神病症状,強迫症状,対人過敏,抑うつ,不安,その他の8項目において非PDD群に比較して有意に高かった.PDDの有無に関して強迫症状が有意に関連していた.5)各質問紙の総得点とPDDとの関連を見ると,JPCの総得点のみがPDDと有意な関連性を示した.思春期,青年期の適応障害患者では,PDDを基盤にもつと,被害妄想や,強迫症状など様々な精神症状を自覚する可能性があり,JPCなど質問紙も併用して,PDDの存在を念頭において診療を行う必要があることが示唆された.
著者
WOON Jae-Ho 伊藤 均 多田 幹郎
出版者
日本食品照射研究協議会
雑誌
食品照射 (ISSN:03871975)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1-2, pp.1-3, 2007-09-30 (Released:2010-06-28)
参考文献数
3

Threshhold dose for organoleptic changes by gamma irradiation in shell eggs is at 0.5 kGy, whereas frozen egg products is at 2.4 kGy and dehydrated egg products is at 3 kGy respectively. For the elimination of Salmonella, necessary dose is estimated to be 1 kGy for shell eggs and to be 2 kGy for dehydrated egg products from survival fraction of S. Typhimurium or S. Enteritidis. Contamination of Salmonella occur significantly in liquid egg products and for the reason of threshhold dose of organoleptic changes, irradiation treatment should be applied to dehydrated condition with 2-3 kGy.
著者
藤川 吉美
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.25-36, 1971-12-01 (Released:2009-05-29)
参考文献数
17
被引用文献数
1
著者
平井 昂宏 貝沼 関志 林 智子 長谷川 和子 青山 正 水野 祥子 鈴木 章悟 西脇 公俊
出版者
一般社団法人 日本集中治療医学会
雑誌
日本集中治療医学会雑誌 (ISSN:13407988)
巻号頁・発行日
vol.23, no.6, pp.647-650, 2016-11-01 (Released:2016-11-01)
参考文献数
10
被引用文献数
2

プロポフォール注入症候群(propofol infusion syndrome, PRIS)は,プロポフォール使用中に横紋筋融解,急性腎傷害(acute kidney injury, AKI),乳酸アシドーシス,脂質異常症などを来す症候群である。早期にPRISを疑いプロポフォール中止によって救命できた一例を経験した。症例は44歳の男性,スタンフォードA型大動脈解離に対して弓部置換術を行った。術後にプロポフォールを用いて鎮静を行っていたところ,血液生化学検査でCKが15,247 IU/lまで上昇し,AKI,乳酸アシドーシスを認めたためにPRISを強く疑った。プロポフォールの投与中止によりCKは速やかに減少し,AKI,乳酸アシドーシスも改善した。後に撮影されたCTで大腿から臀部の筋内に高吸収域を認め,横紋筋融解後の変化があった。プロポフォールの長期投与中はCK,pH,乳酸値などを定期的にモニタリングし,PRISを疑った場合は早期に他の鎮静薬への変更が必要であると考えられた。
著者
畠山 輝雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<b>1</b><b>.はじめに</b><br> 近年,脆弱財政下の地方自治体における新たな収入源の確保策として,公共施設へのネーミングライツ(命名権)(以下,NR)が注目されている。NRとは,施設等の名称を企業等に売却して資金を得る方策であり,日本の公共施設では2003年に東京スタジアムで導入されて以降,全国の多くの自治体・公共施設に導入されている。そのような中で,大阪府泉佐野市の市名や,東京五輪後の新国立競技場への導入など,国民的な議論となる案件もある。また,横浜開港資料館,徳島阿波踊り会館,渋谷区宮下公園,京都市美術館,愛媛県県民文化会館では,導入検討時や導入時,導入後に住民や施設利用者,競合企業などから反発が生じたように,各地域で物議を醸すような事例も報道されている。<br> 報告者は,日本の公共施設にNRが導入された時期から追跡をし,研究をしてきた。しかし,統計的にまとまったものがなく,実態把握が困難なことから,2012年に全国の都道府県,市区に対してアンケート調査を実施した(畠山2014)。同調査では,大都市を中心にNRの導入が広がっていること,NRによる施設名称から地名が消失していること,NR導入に際して議会をはじめとする合意形成が図られていないことなどが明らかとなった。<br> 同調査後,わが国ではさらにNR導入が進んでおり,小都市や町村部にまで広がっている。そこで,報告者は公共施設へのNR導入の最新動向を明らかにするために,2018年11月に対象を全国の都道府県,市区町村にまで広げ,アンケート調査を実施した。本報告では,2018年に実施したアンケート調査の結果により,2012年時のアンケート調査との比較も含め,公共施設へのNR導入状況の考察を行う。<br> また,公共施設へのNRに関しては,既存研究では法学・行政学における法的解釈や導入手続きに関して,スポーツ経営学などにおける導入推進を前提とした事例分析が中心である。地理学では,Rose et al(2009)が,アメリカ合衆国の事例から公共の場に企業名を付与することの危険性を指摘し,地名研究の新たな方向性を示唆している。また日本における地名標準化を目的とした「地名委員会(仮称)」の設置に関する日本地理学会の公開シンポジウムでの提言でも,NRに関する懸念が指摘されている。しかし,これらは具体的な検証ではなく,地名研究からのさらなる検証が必要である。また,畠山(2017)や畠山(2018)では京都市を事例にNR導入に伴う合意形成や住民のアイデンティティの変化について分析をしている。このように,公共施設へのNRに対する地理学的研究の蓄積は少ないため,アンケート調査の結果を踏まえて今後の地理学的研究の可能性についても探りたい。<br><b>2</b><b>.研究方法</b><br> 本報告で使用するアンケート調査は,2018年11月に全国の都道府県および市区町村(1,788自治体)を対象に,郵送配布により実施した。回答は,報告者のウェブサイトに回答フォームをダウンロードできるようにし,郵送もしくは回答フォームのメールによる送付という2種類から選べるようにした。回収率は67.9%である。<br><b>3</b><b>.考察</b><br> NRを導入している自治体は1割強であり,その多くは都道府県や大都市の市区に集中している。これは,導入可能な大型施設を保有していること,スポンサーとなれる企業等が立地していることなどが要因である。また,畠山(2014)よりも,導入自治体は増加しており,小規模自治体でも導入するケースが増えた。導入施設では,スポーツ施設が多いほか,近年増加している歩道橋への導入が目立った。<br> 施設の名称(愛称)には,企業名や商品名,キャラクター名などさまざまな形態が存在する。このような中で,施設名称から地名が喪失したケースが多くみられる。これらの施設では,施設所在地が不明確になることや利用者のアイデンティティ喪失が懸念される。<br> 自治体がNRを導入する際の合意形成については,特に何もしていないケースが大半である。議会承認についても,ほとんどの自治体・施設で行われておらず,住民の税金等で建設される公共施設の名称変更に対する合意形成が図られていないことは大きな課題である。<br> 以上のように,地域政策としての合意形成のあり方や政策形成の地域差,さらに地名問題など,地理学的研究の必要性があると考える。
著者
西川 亮 中島 直人 窪田 亜矢 西村 幸夫
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.82, no.740, pp.2597-2607, 2017 (Released:2017-10-30)
参考文献数
61
被引用文献数
3 5

This research focuses on the city planning of Beppu city before WW2. Beppu is one of the famous tourist destinations in Japan since late modern period. Its start of city planning was a road development project started in 1906. It lasted for about 20years and the road of the Beppu city changed to grid patterns. After city status were given to Beppu in 1924, the discussion about the city planning of Beppu city started. Because Beppu had unique characteristics as a tourist destination, city planning engineers from the Japanese government had much interest in and expectation to the planning. On the other hand, engineers from Oita prefecture and Beppu city, who were in charge of the planning, struggled with the methodology to plan. The city planning law was applied to Beppu city in 1927 and just after that Mr. Hiroyuki Kayanoki, an engineer from the Home Ministry, visited Beppu city and decided the vision of Beppu city as “the city with a scenic view and hot spring”. Along the lines of the vision, engineers from Oita prefecture and Beppu city cooperated and worked together on the planning of streets in 1932 and land use in 1935. Characteristics as a tourist destination were reflected in the planning of them. As for the streets, the railway track and the street was planned as grade intersections to avoid the atmosphere of the tourist destination. As for the land use, the ratio of the industrial areas was only 3% of the city planning area. However, the planning regarding streets and the use of land only covered the city central area and most of the suburbs had no city planning. This situation encouraged Beppu city to make plans on its own in 1937, which was called as “Sento Toshi Keikaku (Hot spring capital city planning)”. Beppu city created the plan with the help of Dr. Tokutaro Kitamura, who was an engineer from the Home Ministry, and Prof. Eitaro Sekiguchi, who was a specialist of landscape architecture. It included the planning of streets, parks and tourist facilities. Also Dr. Tokutaro Kitamura was in charge of the planning of scenic districts. The scenic districts surrounded the city area. Not only natural areas but also tourist attractions and recreation areas for residents were also included in the scenic districts. Even after the Sino-Japanese war was started in July 1937, Beppu city continued making efforts to realize the plan. One large park was created following the Sento Toshi Keikaku with the help of a private company in 1942. Three large land readjustment plans were designed to control over lands, which were owned by owners outside Beppu city. In the previous research, it was mentioned that the city planning technique for the tourist destination before WW2 was the “park system”, which connects parks by roads. However, in Beppu, one of the famous tourist destinations in Japan, how to control land and space were one of the issues to be solved by city planning techniques.
著者
徳永 智史 堀田 和司 藤井 啓介 岩井 浩一 松田 智行 藤田 好彦 若山 修一 大藏 倫博
出版者
日本ヘルスプロモーション理学療法学会
雑誌
ヘルスプロモーション理学療法研究 (ISSN:21863741)
巻号頁・発行日
vol.10, no.2, pp.73-79, 2020-07-22 (Released:2020-08-04)
参考文献数
36
被引用文献数
3

【目的】地域在住高齢者におけるアパシーの身体活動量に及ぼす影響を明らかにする。【対象】2017年7月に茨城県笠間市で行われた長寿健診に参加した地域在住高齢者328名とした。【方法】アパシー評価としてやる気スコア,身体活動量評価としてPhysical Activity Scale for the Elderly,抑うつ評価としてGeriatric Depression Scale 短縮版(GDS‐15),ソーシャルネットワーク評価としてLubben Social Network Scale 短縮版(LSNS‐6),身体機能評価として握力,5回椅子立ち上がり,開眼片足立ち,Timed up and go test,長座体前屈,認知機能評価としてファイブ・コグ,Trail Making Test(TMT)を実施した。【結果】アパシーのみ呈した者の割合は23.2%,抑うつのみ呈した者は12.2%,アパシーと抑うつを合併していた者は15.2%であった。重回帰分析の結果では,身体活動量に対してやる気スコアやLSNS‐6,長座体前屈,ファイブ・コグ,TMT が有意に影響を及ぼしていた。GDS‐15の有意な影響は認められなかった。【結語】アパシーと抑うつは独立して存在し,身体活動量には社会交流や身体機能,認知機能などの多要因が影響しているが,アパシーもその一つである可能性が示された。