著者
宮本 昭彦 渡辺 重行
出版者
日本大学医学会
雑誌
日大医学雑誌 (ISSN:00290424)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.11-18, 2013-02-01 (Released:2014-11-30)
参考文献数
19
被引用文献数
1 6

2007 年に,宮本は,咽頭後壁を丹念に視診する事により,インフルエンザ濾胞を発見し,インフルエンザを早期に診断する事が可能である事を示した19).2009-2010 年の A/H1N1 2009 死亡者は,米国で約12,500 人に対して,日本では 198 例のみで (死亡率:約1/25),世界各国の中でも,日本での死亡率が非常に低かった.本邦の例では,発症後 12 時間以内に 3 割,24時間以内に 7 割,48 時間以内に 9 割がノイラミニダーゼ阻害薬を開始していたが,他国では 48 時間以内の同薬剤投与は 1 割である.早期診断と適切な治療の開始が生死を分けていると言える.Miyamoto らは,2009 年 8-10月の A/H1N1 2009 の 23 例について,観察者間のデータ信頼性 (κ) を示し,「インフルエンザ濾胞」 が従来の迅速検査に比べ感度・特異性も高い事を示した (第一期) 4).本稿では 2009 年 11 月から 2010 年 1 月 (第二期) のインフルエンザ患者 87 例について (第一期と第二期を合わせ110 例) 検討した.2 歳~82 歳 (17.7 ± 13.1 歳,中央値 14 歳) の患者が (発熱から受診までの時間が 1~48 時間,11.8 ± 8.4,中央値 12 時間),超急性期の 3 時間以内が16 例含まれる中で,インフルエンザの診断が可能であった.87 例中,初診日迅速検査陰性が 10 例,この内 8 例は初診から 2 日目に迅速検査が陽性となり,2 例は 3 日目に陽性となった.87 例中,初診日にインフルエンザ濾胞を認めない患者が 1 例あった.第二期の症例の中で,発熱から 3 時間以内という超早期の患者を診察するようになった結果,従来の Definitive influenza follicles よりも更に小さい微小な濾胞が観察された.インフルエンザ濾胞は,迅速検査が陰性の超急性期であってもインフルエンザの診断が可能であった. 理学的所見は,臨床検査・機器の進歩の中においても不変的に重要である.
著者
鈴木 ひとみ 山本 昭
出版者
一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報プロフェッショナルシンポジウム予稿集 第6回情報プロフェッショナルシンポジウム
巻号頁・発行日
pp.105-109, 2009 (Released:2009-10-01)
参考文献数
5

戦後日本国内で、外国の理工学図書の海賊版が作られ、広く使われていた。1980年代には姿を消した。広く流布していたにもかかわらず、その非合法性から実態が記録されることはなかった。本研究では、新聞記事等の文献、実際にそれらに接した研究者からの聞き取り、実物を入手しての原本との比較の三つの面から、物理的特徴、原本入手から、発注、印刷、頒布までの作成・流通過程等の実態を明らかにした。
著者
野上 元 西村 明 柳原 伸洋 蘭 信三 渡邊 勉 福間 良明 山本 昭宏 一ノ瀬 俊也 木村 豊
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2017-04-01

2018年度は、5年間の研究計画の二年目であった。まず、4月14、15日に東京大学で行われた戦争社会学研究会第9回大会の場を利用して、野上は、東京大学文学部社会学教授・佐藤健二氏を招いて特別講演「「戦争と/の社会学」のために」を企画した。これもまた、学際的研究領域としての「戦争社会学」の内実を検討するものであり、活発な質疑を経て、戦争社会学の可能性を検討することができた。また西村は、テーマセッション「宗教からみる戦争」を企画した。宗教と戦争と社会の結びつきについて、多面的な議論が行われた。6月には、同研究会の研究誌『戦争社会学研究』の第二号が刊行された。特集となる「戦争映画の社会学」は、昨年度企画したシンポジウム「『野火』の戦争社会学」の活字化である。企画者の山本ほか、野上・福間が寄稿した。また、第二特集として「旧戦地に残されたもの」があり、西村が企画趣旨文を寄せている。8月12日には、京都女子大学で小林啓治『総力戦の正体』の書評会を開催した。歴史学の立場からの「戦争と社会」研究であるが分野をまたいだ議論を可能にする幅広い問題提起を行う書物であった。書評担当者の一人を野上が担ったが、「戦争と社会」研究における「総力戦」概念の重要性に照らした検討を行った。この2018年度より、筑波大学を所属機関とする非常勤研究員として木村豊氏を雇用し、研究会の事務手続きを手伝ってもらうことになった。こうした研究会の企画のほか、研究打ち合わせを12月に行い、プレ調査の実施計画を進め、科研メンバーだけのクローズドな研究会を行った。また、筑波大学大学院「歴史社会学」演習と合同で、深谷直弘『原爆を継承する実践』の書評会を筑波大学で行った。若手研究者による戦争社会学的研究の成果である。
著者
坂本 昭夫
出版者
[出版者不明]
巻号頁・発行日
2007-03

制度:新 ; 文部省報告番号:乙2078号 ; 学位の種類:博士(工学) ; 授与年月日:2007/3/1 ; 早大学位記番号:新4444
著者
宮本 昭彦
出版者
日本大学医学会
雑誌
日大医学雑誌 (ISSN:00290424)
巻号頁・発行日
vol.72, no.3, pp.164-166, 2013-06-01 (Released:2014-12-20)
著者
山本 昭宏
出版者
日本マス・コミュニケーション学会
雑誌
マス・コミュニケーション研究 (ISSN:13411306)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.153-170, 2011

This paper analyzes articles about nuclear energy in three science magazines, Kagaku Asahi (Asahi Science), Shizen (Nature), and Kagaku (Science), which were published in Japan in the 1950s. The analytical methodology used in the study is a combination of quantitative analysis and theory concerned with the agenda-setting function of the media. The study aims to reveal the relationship between the discourse found in the articles and Japanese opinions concerning nuclear energy development and radioactive substances, and to explore the qualitative changes in the discourse of the articles and the reasons underlying such changes. One conclusion that emerges from the quantitative analysis is that the number of discourses concerning nuclear energy increased between 1954 and 1955, and following this started to steadily decrease. Generally speaking, the Lucky Dragon 5 incident in 1954, in which the crew of a Japanese fishing vessel was exposed to nuclear fallout from US nuclear testing on Bikini Atoll, is considered to have started the anti-nuclear movement in Japan. At this time, in the science magazines, there was an increase in specialist discourses concerning topics such as nuclear reactors and methods of measuring nuclear fallout. In reality, almost all the scientists involved in nuclear energy research and development thought that they had no connection to the anti-nuclear movement. Based on a purely dualistic conception of good and bad, they continued to position nuclear energy as something to be used for good. From this perspective, it can be seen that in the Japanese science magazines of the 1950s, the nuclear bombing of Hiroshima and Nagasaki and its effects were understood only in a very limited sense.
著者
山本 昭宏
出版者
日本メディア学会
雑誌
マス・コミュニケーション研究 (ISSN:13411306)
巻号頁・発行日
vol.84, pp.9-27, 2014-01-31 (Released:2017-10-06)
参考文献数
20

The purpose of this paper is to propose a hypothesis about the process through which the media builds up collective expectations concerning nuclear power (the Nuclear Dream) and the transformation of such expectations. We focus on the Asahi and Yomiuri Newspapers and study not only editorials, but also regular features that are likely to have affected public opinion as much as editorials. The period targeted in this paper is the 20 years from 1945 to 1965. We divide these 20 years into three periods based on changes in the Nuclear Dream: the dream of war deterrence (1945 to 1949) ; the dream of peaceful use (1949 to 1957) ; and the dream of nuclear power generation (1957 to 1965). Japanese newspapers were unknowingly trapped in the Nuclear Dream that they built up through their own discourse; while they detached themselves from the Nuclear Dream in the late 1950s, they expanded the dream again in the 1960s. By describing this process, we examine how it is possible to meet collective expectations built up by the media.
著者
杉本 智俊 月本 昭男 越後 屋朗 牧野 久実 佐藤 育子 佐藤 孝雄
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

エン・ゲヴ遺跡(イスラエル)の発掘調査によって印章などの宗教遺物を検出し、古代イスラエルおよびそれに隣接する諸国家の成立に新ヒッタイト文化の影響が見られることを指摘した。また、この印章や「生命の木」の図像、ユダ式柱状土偶などの宗教遺物の分析を行い、それらの示す宗教的画期から、古代イスラエル王国にカナンの多神教が単純に継続されていたわけでないことを明らかにした。さらに、2011年8月には、国際カンファレンスを主催し、古代西アジアにおける多神教の代表的女神アスタルテがイスラエルとその周辺世界でどのように異なって理解されていたのかを議論した。
著者
松本 昭彦 MATSUMOTO Akihiko
出版者
三重大学教育学部
雑誌
三重大学教育学部研究紀要. 自然科学・人文科学・社会科学・教育科学・教育実践 (ISSN:18802419)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.109-124, 2016-03-22

『枕草子』第九十八段「中納言まゐりたまひて」段は、有名な「海月の骨」の秀句の段であるが、従来この秀句は、隆家の「見たことないほどすばらしい扇の骨だ」との発言に対し、「見たことないなら海月の骨ですね」と清少納言がしゃれを言ったと解釈されてきた。しかし、「海月の骨」とは、長生きすれば見られるかもしれない奇蹟・幸運の意味の成句であり、この場面は、定子が皇子を懐妊もしくは生んだ直後と考えられることから、ここではその皇子の将来の即位を<予祝>する意味を込めたしゃれであると考えるべきである。またこの章段末尾の部分は、この章段の執筆によって、そのような<予祝>にも関わらず若くして亡くなってしまった定子、結局皇位には就けない皇子・敦康親王の悲運を読者に再確認させてしまうことに対する「言い訳」と考える。
著者
松本 昭彦 MATSUMOTO Akihiko
出版者
三重大学教育学部
雑誌
三重大学教育学部研究紀要, 自然科学・人文科学・社会科学・教育科学 (ISSN:18802419)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.92-100, 2014-03-31

歌枕「末の松山」について、それを「波が越す」という有名な措辞がある。古くは『古今和歌集』巻二十・第一〇九三番歌に、「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」とあり、「仮名序」にも和歌表現の歴史を言う中で、「あるは、松山の波をかけ」とある。この東歌の表現は、『万葉集』巻七・第一三八二番歌「泊瀬川流る水沫の絶えばこそ我が思ふ心遂げじと思はめ」等の類型表現と同様、「非現実的現象の非実現性」を、恋心の永続性の譬喩とするものだが、仮定の上下が逆になっている。わざわざ上下が逆転した作りになっているのは、貞観津波によって「末の松山を波が越える」ことは、実現一歩手前まで行ってしまったので、類型通りでは、自らの恋心の誓いにならないと感じられたためと思われる。つまり、この東歌の、そしてこの措辞の背景には、貞観津波で末の松山に津波が迫ったという事実があったはずなのである。この措辞が都に伝わると、一気に広まったが、やがて津波の知識・記憶は薄れ、元々の意味とは別に、面白い表現として使用され、「歌枕」となったものであろう。
著者
鈴木 ひとみ 山本 昭
出版者
国立研究開発法人 科学技術振興機構 一般社団法人 情報科学技術協会
雑誌
情報プロフェッショナルシンポジウム予稿集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.105-109, 2009

戦後日本国内で、外国の理工学図書の海賊版が作られ、広く使われていた。1980年代には姿を消した。広く流布していたにもかかわらず、その非合法性から実態が記録されることはなかった。本研究では、新聞記事等の文献、実際にそれらに接した研究者からの聞き取り、実物を入手しての原本との比較の三つの面から、物理的特徴、原本入手から、発注、印刷、頒布までの作成・流通過程等の実態を明らかにした。
著者
嶋本 昭三
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
Artes : bulletin of Takarazuka University of Art and Design : 宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.11-22, 1992-03-31

ヨーロッパの美術の歴史はヒエラルキーへの挑戦の歴史と見ることができる。現代において美術のヒエラルキーに対抗するために生まれたそのひとつにメールアートがある。メールアートは1960年代にコンセプチュアル・アートのシミュレーションとして試みられたことがあり,日本では未だにこれをメールアートであるといっているが,世界で捉えられているメールアートとは,郵便手段を通じて,アートやアートに関する思想をお互いに交流する「コレスポンデンス・アート」のことである。そしてそのメールアート行為が発展する中でネットワークが生まれ,これが大きくなる中で「ネットワーキング」というより新しいジャンルとしてひとり歩きするようになった。ここではネットワーキングの現状とその構造について論じた。