- 著者
-
森田 健
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.75, no.7, pp.427-432, 2020-07-05 (Released:2020-11-01)
- 参考文献数
- 17
ブラックホールは,天文学,相対性理論,宇宙論,素粒子論など様々な分野で,様々な理由により重要な研究対象である.特に素粒子論では,ブラックホールは情報喪失問題と呼ばれる未解決問題に関係して注目されている.この問題はホーキングによって示されたブラックホールが量子力学の効果で熱的な蒸発をするという予言(ホーキング輻射)に端を発する.ある天体が重力崩壊により,ブラックホールを形成し,その後,ホーキング輻射によって完全に蒸発したとする.すると天体を形成していた物質の情報が,最終的には熱的な情報になるので,元々あった物質の情報が失われてしまう.これは量子力学のユニタリティーに反する過程となっており,量子重力が通常の量子力学と大きく異なることを意味する.ただし,ホーキング輻射の導出にはいくつかの近似が用いられており,本当にユニタリティーが破れるのかはまだわかっていない.この問題はブラックホールの情報喪失問題と呼ばれ,量子重力を理解する上で避けては通れない課題である.これまで情報喪失問題に関して様々な研究がなされてきたが,ここでは特にホーキング輻射の発生機構に注目する.ファインマンの講義録で繰り返し強調されるように,重要な物理現象は直感的に説明されるべきである.しかしホーキング輻射は,数学的な導出がそれほど難しくないにもかかわらず,物理的に単純な説明をするのが難しい.もしホーキング輻射を単純に理解することができれば,情報喪失問題解明において役立つはずである.実は近年,セント・アンドルーズ大学のジョバナッツィ(Giovanazzi)によって,1次元自由フェルミ流体における流体ホーキング輻射と呼ばれるホーキング輻射と類似した現象が,物理的に非常に明快に説明できることが示された.彼は流体ホーキング輻射を,流体を構成する粒子の視点から考察した.そして流体ホーキング輻射が,単なる1次元逆調和振動子ポテンシャル中を運動する粒子の量子力学の問題に帰着することを発見した.この問題は量子力学の初学者でも理解できるほど簡単に解くことができる.これによって1次元自由フェルミ流体という特殊な状況ではあるが,ホーキング輻射の理解がずっと深まった.この結果を応用することで,逆調和振動子ポテンシャルが関連する系ではホーキング輻射に類似した量子現象が起こることを示せる.特に逆調和振動子ポテンシャルは,古典カオスにおいてバタフライ効果を引き起こす上で重要な役割を果たすことが知られている.そのため古典カオス系を量子化することでも,ホーキング輻射に関連した量子論的な熱現象が起こると予測される.カオスやバタフライ効果は我々の日常生活で,ありふれた現象なので,実はホーキング輻射も身近な現象なのかもしれない.しかしカオスにおけるホーキング輻射が,ブラックホールの情報喪失問題でどのような意味を持つのかはまだわからない.一般に多体系におけるカオスは熱平衡化を引き起こし,粗視化を通して系の初期状態の情報を失わせる.そのため何らかの意味で,ブラックホールの情報喪失問題と関係があると考えられるが,その解明は今後の課題である.