著者
井上 学 田中 健作
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<u>1.はじめに</u><br><br> 乗合バス事業は、明治期の末頃から大正期にかけて始まった。1923(大正12)年の関東大震災の復興に際し、東京市で大規模な路線網によって運行されたことが契機となり、全国的に乗合バス事業が拡大したといわれている。ただし、それら路線網の展開や事業者の参入などの状況については、事業者が発行した社史や事業沿革などの資料に限られ、全国的な事業の開始と展開は明らかにされているとは言い難い。これは、事業開始当初から現在に至るまで、日本全国の事業者や路線網がほぼ明らかにされている鉄道事業と大きく異なる。そこで、乗合バス事業の初期段階における路線網の復原とその特性を明らかにすることを本発表では試みる。くわえて、当時の資料の有用性についても言及したい。<br><br><u>2.使用した資料の特徴</u><br><br> 乗合バス事業の許可については、実質的に各府県が扱っていたが、事業者間競争が激しくなったため、1931年の自動車交通事業法の制定によって鉄道大臣が管理することになった。そのような背景を持って発行されたのが鉄道省編による『全国乗合自動車総覧』(1933)である。本資料は全国のバス事業者と路線、事業規模等などが収められている。路線の空間情報として、起終点については地番までの住所が記載されているものの、経由地は数カ所の地名のみである。路線図についても簡略化された図が添付されているがすべての事業者が記載されているわけではない。<br><br> 一方、大阪毎日新聞社発行の『日本交通分県地図』は東宮御成婚記念として1923年の大阪府から1930年の新潟県まで北海道を除く府県版が発行された。バス路線も記載されているが、事業者名は記載されていない。また、各府県版が同時期に発行されたのではないし、発行順序も地域ごとにまとまって発行されていない。そのため、資料の統一性には欠けるものの、当時の道路網や鉄道路線などバス路線網と比較検討しやすい特徴を持つ。<br><br> そこで、本発表では両資料を用いて当時の路線網の復原を試みた。今回は中部地方の4県(長野県、岐阜県、静岡県、愛知県)を対象とした。<br><br><u>3.バス路線網の特性と資料の有用性</u><br><br> 『日本交通分県地図』の発行時期は長野県・岐阜県(1926年)、愛知県(1924年)、静岡県(1923年)と近接しているが、路線網は各県によって大きく異なった。岐阜県や愛知県では路線網が全県的に広がっているが、長野県や静岡県は局所的にとどまる。『全国乗合自動車総覧』で路線の開設時期を検討すると、静岡県では昭和に入ってから路線の新設が相次いでいる。つまり、乗合バス事業の普及と展開は全国均一に広まったのではなく、地域や時期によって大きく異なる点が想定される。<br><br> 路線網については都市や集落間、街道で運行される路線、鉄道駅から周辺集落への路線、鉄道駅同士を短絡する路線や鉄道と競合する路線も見られた。鉄道にくらべてバスは細かい地域を回ることができるという特性が、すでにこの時点で活かされていたといえよう。<br><br> このように、発行時期の不一致と事業者名がない『日本交通分県地図』と空間情報の解釈が難しい『全国乗合自動車総覧』の2つの資料を用いることで、当時のバス路線網の復原には一定程度有用である点が認められた。ただし、『全国乗合自動車総覧』には消滅した事業者がないため、記載されている事業者が必ずしも運行開始時点からその事業者名であったかについては明らかにできないという限界も見られた。この手法を用いて今後は全国的な路線網の復原を目指す。
著者
宮城 豊彦 内山 庄一郎 渡辺 信
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

沖縄県西表島の大規模なマングローブ林を対象に新しい技術と分析手法を用いて、地生態系の形成過程を分析する可能性を検討した。
著者
佐久真 沙也加
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

1990年代以降日本では自然とのふれあいや保全を商品化した観光活動が推奨されるようになった。本発表では日本でエコツーリズムが発展してきた過程を整理することを目的とし2008年に制定されたエコツーリズム推進基本法に着目する。背景となる国内の観光開発およびエコツーリズムの意義づけに関してポリティカルエコロジー(political ecology)の視点を参考に考察する。エコツーリズムが国内で紹介され始める90年以降の新聞記事や推進基本方針に関する資料を基にエコツーリズムが推進されてきた過程に関してまとめる。&nbsp;<br> <br> 資源管理をとりまくアクター間の衝突など、ポリティカルエコロジーの分野は幅広いテーマを含み統一した定義づけは困難であるとされる。しかしその中でも自然環境の変化を分析することで政治や権力を読み解く取り組みは多くなされている。自然という存在がいかに概念化されまた資源管理の対象として位置づけられているのかを問い、自然という従来は非政治なものとして捉えられてきた存在が大いに政治や権力によって影響されるもののひとつであると唱える研究は多々ある。特に統治性(governmentality)という概念を用いて政治と権力の仕組みについて説いたFoucaultに続き、Agrawal(2005)やLuke(1995)は環境保全と権力という点に着目した研究を行った。 &nbsp;&nbsp;<br> <br> Agrawal (2005) はインドで森林の資源保全が政治手法であると捉え異なるアクターがいかに森林に対して無関心の状態から保全対象として意識を変えたか政策や行政、NGOといった組織そして人々のアイデンティティといった点に着目することで分析した。またLuke (1995) はWorldwatchと呼ばれる国際的な環境保全に関する研究機関と環境に関する知識(eco-knowledge)が形成される過程を分析しいかに特定の情報が資源保全の規範となっていくかを議論した。さらに環境保全を開発の手法として説いたWest (2006) は環境保全の意義や動機付けはアクター間により柔軟に変わりうることを強調する。 本発表では理論的な枠組みとして政治と環境保全との関わりを議論するポリティカルエコロジーの分野における上述のエコ・ガバメンタリティ(eco governmentality)やエンバイロンメンタリティ(environmentality)の視点から、日常生活のなかで自然保全の意義付けにおいて観光政策が果たす役割について考える。<br> <br> 観光を学ぶ中で、上述の自然資源保全と同様に観光を政治手法として捉える研究も多く行われている。「なぜ政府は自国の観光の在り方を気にするのか?」という問いを通しLeheny (2003)は日本国内における観光の発展を議論した。その主な目的は経済大国としての日本の位置づけを強調するため(Leheny 2003)であり、また「民主的で文化的な国家」(Carlile 1996, 2008)としての日本を国内外に広めるためであった。実際に観光政策は江戸時代の頃より外国人の行動を制限する手法や(Soshiroda 2005)他国との輸出入取引のインバランスを調整する仕組みとして用いられてきた。80年代には日本列島のリゾート化が進み、ゴルフコースの建設やリゾート用地開発などリゾート開発が地方経済の火付け役としての期待を担うことも珍しくはなかった(Rimmer 1992, Funck 1999)。しかしゴルフ場建設等に伴う農薬利用など周辺環境への影響が懸念されはじめ、また従来のマスツーリズムのようにツアーを中心とした周遊型ではなく旅先での経験などを重視する滞在型への関心の高まりから(Tada 2015)、観光開発の分野においても「持続可能性」という概念が90年代以降見られるようになってきた。 &nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<br> <br> エコツーリズムはそのような中で台頭してきた観光のありかたといえるであろう。例えば朝日新聞の過去の記事を見ると、国内でエコツーリズムが新しい概念として紹介されている記事は90年代から2000年代にかけて著しく増加し、当時発展途上国の自然観察観光として紹介されたエコツーリズムは今日では国内の地方活性化のツールとして捉えられつつある。西洋と異なる過程の中で80‐90年代の高度経済成長とバブル経済の崩壊、加速したリゾート開発を顧みる存在としてエコツーリズムが提唱されてきたのだとすれば、自然保全を開発として捉えるエコツーリズムもエンバイロンメンタリティの構築の一例であり、環境問題のみならず経済や行政のつながりから派生する様々な要因が影響してきたものであると言える。今後の調査課題としては地域レベルでこのような政策がいかに具体化されているかを知ることが挙げられる。
著者
黒田 圭介 安永 典代 磯 望
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2007年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.181, 2007 (Released:2007-04-29)

I.はじめに Hawaii諸島のOahu島は,Waianae山脈とKoolau山脈の2つの開析された盾状火山から構成されており,ホットスポット上に形成された火山島として知られる.Oahu島西部のWaianae盾状火山は2.2-3.8(Ma),東部のKoolau盾状火山は1.8-2.6(Ma)の放射年代をもつ玄武岩体から構成される(Macdonaldほか,1983).Honolulu火山活動は,これらの大規模盾状火山形成後の浸食期を経て再活動した比較的小規模な火山活動の総称で,Oahu島の景勝地であるDiamond Headなどは,Honolulu火山活動によって形成された火山地形である.本研究では,Honolulu火山活動で形成された火砕丘,特にクレーターの地形を解析した結果を報告し,Honolulu火山活動の特徴等について検討する.本要旨では,クレーターを形成した火山噴火の規模と,クレーターの侵食程度について報告する. 図1:研究対象地域地形区分図とクレーター分布 II.クレーター解析方法 1) U.S GEOLOGICAL SURVEY発行の1/24000地形図を用いて,クレーターの比高,直径等を計測した.この結果から,クレーターの体積を推定した.この結果より,火山爆発指数(VEI)を算出し,オアフ島南東部のクレーターを形成した火山噴火の規模を推定した. 2)クレーターの接峰面図を描いて,侵食前の地形を推定した.また,この接峰面図をデジタルデータ化して,定量的に侵食の程度を試算した. III.火山爆発指数(VEI) 火山爆発指数(以下,VEI)は,噴火の大きさの尺度として用いられる.これは噴出物の総量が体積でわかれば決められる値で,0から8までの整数で示され,噴出物の量をA×10i㎥とするとき,VEI=i-4で算出される.VEIは0から8までの値で示され,0が非爆発的噴火,1が小規模,2が中規模,3がやや大規模,4が大規模,5が非常に大規模である. Oahu島南東部に分布するクレーターのVEIと面積の関係を図2示す.おおむね面積が大きくなるほどVEIも大きくなるという結果が得られた.特にVEIが大規模のクレーターは,いくつかの火口が複合した形状を持つものがほとんどである。 IV.侵食度合い 1)解析方法:まず,クレーターごとに接峰面図を描いた.谷埋めの間隔は100mと1000mとした.このクレーターごとの接峰面図と地形図をスキャンし,Illustratorで等高線ごとにトレースした.トレースした等高線の輪は、ピクセル数を数えるため塗りつぶした.このデータをPhotoshopで開き,等高線毎にピクセル数を数えた.図3を見ると,侵食前の地形(B)から現地形(A)のピクセル数を引いた数(C)が,侵食程度ということになる.Diamond Headの560ftでは,7.8%が侵食されたことになる. 2)結果:クレーターの形成年代と侵食程度を図4に示す.形成年代が古ければ古いほど,侵食が進んでいるという一応の結果は出た.しかしながら,侵食の程度は,立地,地質,気候,風量,風向きなどに左右されると考えられるので,今後はそれらを加味しつつ,クレーターの侵食程度や開析具合を検討したい. V.まとめにかえて 1)Oahu島南東部に分布するクレーターの爆発規模は中~大規模であり,小規模は分布しない.また,面積が大きければ大きいほど,VEIも大きい. 2)クレーターの侵食程度を定量的に表すことができた.その結果,クレーターは,侵食が進んでいれば進んでいるほど形成年代が古い傾向が見られた.今後は,クレーターの侵食を左右する要因を加味して,Oahu島南東部におけるクレーターの侵食様式を検討したい.
著者
高阪 宏行
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 = Geographical review of Japan (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.84, no.6, pp.572-591, 2011-11-01
参考文献数
22
被引用文献数
3

本研究は,東京都のNTTタウンページデータベースに掲載されている164種類の約25万店舗に対し,近接性と集積量の2基準から商業集積地を設定し,GISを利用して商業集積地の規模,機能構成,分布を解明することを目的とする.東京都では1,143の商業集積地が設定され,規模に基づき5階層に区分された.最高位の商業集積地数は10,高位が13,上位が46,中位が269,低位が805識別された.階層ごとに商業集積地の機能構成を分析した結果,階層の制約を受けて立地する機能が125種類存在した.階層の制約を受けずに立地する店舗種類は39種類見出され,いずれの階層においても店舗の約40%を占めていた.さらに,立地パターンとしては,区部では最高位・高位・上位の商業集積地は分散分布をとり,区部と多摩地域の低位の商業集積地は,集塊分布であった.また,豊島区を例に,供給の地理を商店街レベルと店舗レベルで再現できた.
著者
高阪 宏行
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A
巻号頁・発行日
vol.84, no.6, pp.572-591, 2011
被引用文献数
3

本研究は,東京都のNTTタウンページデータベースに掲載されている164種類の約25万店舗に対し,近接性と集積量の2基準から商業集積地を設定し,GISを利用して商業集積地の規模,機能構成,分布を解明することを目的とする.東京都では1,143の商業集積地が設定され,規模に基づき5階層に区分された.最高位の商業集積地数は10,高位が13,上位が46,中位が269,低位が805識別された.階層ごとに商業集積地の機能構成を分析した結果,階層の制約を受けて立地する機能が125種類存在した.階層の制約を受けずに立地する店舗種類は39種類見出され,いずれの階層においても店舗の約40%を占めていた.さらに,立地パターンとしては,区部では最高位・高位・上位の商業集積地は分散分布をとり,区部と多摩地域の低位の商業集積地は,集塊分布であった.また,豊島区を例に,供給の地理を商店街レベルと店舗レベルで再現できた.
著者
鈴木 重幾
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2007年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.72, 2007 (Released:2007-04-29)

1.はじめに 日本人の平均寿命は,平成16年度の厚生労働省の調べによると,男性が78歳,女性が85歳を超えている.一般的に,高齢者という表現は,65歳以上を対象として使われてきたが,平均寿命までの時間に当てはめると,女性の場合は約20年,男性でも13年以上の時間がある.今後さらに医療や科学技術,福祉体制の進歩・充実により,平均寿命は,まだ伸びる可能性を持っている. そうした観点から,行政が主体,または補助事業としておこなう福祉サービスや健康づくり事業も,病に倒れた後のリハビリテーションや配食サービス以外にも,病院主催の運動教室やぼけ防止の会など,年々多様化している. ここでは,地域センターなどで開かれている各種講座と同様に,ぼけ防止として効果が期待されている麻雀を考察してみた. 2.研究対象地域 行政管理下の施設である公民館や地域センターで催されている各種講座は,利用料金を徴収して不足分を行政が補填するかたちで行われている. しかし,麻雀用のテーブルやいすや牌等の備品を,複数揃えることは財政的に困難であるため,地域センター等で開催されている例は少ない. また,麻雀の場合,利用料金を徴収することにより,改正風営適正化法第7号が適用されるため,風俗営業の営業許可申請を所轄警察署に申請することとなり,管理者が行政となるシルバー事業などでは許可申請が認められにくい. こうした観点から,本研究は行政の補助事業として行っている東京都調布市を対象とした. 3.概要 健康麻雀とは「(金銭・物品を)賭けない・(酒類を)飲まない・(たばこを)吸わない」という環境のもとに行われ,民間の団体・協会で主催されているケースもあるが,行政の事業として行われているものは非常に少ない. 市の福祉サービスの健康づくり事業のひとつである『いきいき麻雀』も,市内在住の65歳以上の元気高齢者を対象とした事業である.募集に際しては,定員の約5倍もの参加希望者があった.その絶対数からは,目的とされる「仲間づくり」,「認知症予防」,「閉じこもり防止」の,いずれも効果が期待できると考えられる. 同市の以前からの在宅福祉サービスのひとつであるデイ・サービスでは,利用者の選択理由として挙げられた第一は「ケア・マネージャーの紹介」であり,約半数を占める.残りの半数は「サービス内容がよい」,「利用回数が増やせる」,「家から近い」と続き,「知人の紹介」,「医師の紹介」は,ほとんど無い. 畠山(2003)によるデイ・サービスセンターの利用者に関するでも,利用者は紹介者を通じての通所が主体で,地理的要因から選択された例は少ないことを指摘している. 今回対象とした『いきいき麻雀』は,会場は市内西部と中部の2店舗で,初心者コース,中・上級コースなどに分かれ,隔週1回行われており,初年度は自治体主催であったが,事業がある程度軌道に乗ったため,2004年度からは市の補助事業としておこなわれている. 4.研究方法 参加者に選択式を主とするアンケートを実施した.内容は,在住年数・転入年数,居住地域,年齢,家族構成,こづかい,利用交通機関,別の場所で開催された際に移動するか,などである. このアンケート結果と主催者への聞き取り,調布市の担当者への聞き取りにより,趣味活動の一部としての活動を考察した. 5.結果 参加者は,基本的に自力で来所可能であることに限定しており,そのため市内全域から徒歩をはじめとして,自転車,バス,電車など,すべての交通機関の利用が見られ,近接可能性による差異は少ないと考えられる.また行政は,ぼけ防止や知人づくりなどを詠っているが,行政の思惑と現実には差異が見られた.また,友人・知人との連名による応募ができないせいもあるが,居住地近くに新規の開催店舗が決定すれば,移動すると回答した人も多く,連帯意識などは希薄である. 文献 畠山輝雄2003.デイサービスセンター利用者の周辺市町村施設の選択理由利用変化―藤沢市の事例―.地理誌叢44-1・2,21-28. 厚生省2000.『厚生白書 平成12年版』ぎょうせい.
著者
平井 松午 古田 昇
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.103, 2010 (Released:2010-06-10)

1.はじめに 四国・吉野川では,河口から約40kmに位置する岩津下流の堤防整備率は98%に達しているが,岩津~池田間の中流域における整備率は約63%である。そのため,今でも約18kmが無堤区間であり,水害防備林としての竹林景観が卓越している。本報告では,すでに堤防整備がなされた美馬市穴吹町舞中島地区を事例に,築堤以前と以後とにおける竹林景観の変化を報告するとともに,今後計画されている築堤区間における竹林景観保全のあり方について検討するものである。 2.築堤以前の洪水被害 舞中島地区は,吉野川第一期改修工事(1911~27年)によって全戸立ち退きとなった善入寺島に次ぐ大規模な川中島で,1961年当時の竹林を含む地区面積は約175haであった。吉野川の洪水を受けやすいことから,竹林・樹木で地区全体を囲繞し,吉野川本流の上流側には掻き寄せ堤を設けて,外水氾濫に備えてきた(図1)。 低平な舞中島の標高は約39~45mで上流(西)側に高く,上流側から4列ほどの微高地が下流側に向けて樹枝状に延び,高石垣を持つ古い家屋はこうした微高地上に分布する(図2)。洪水時には,吉野川本流や派流の明連川から外水が掻き寄せ堤を越流するとともに,下流側の明連川河口側からも洪水流が逆流し,標高の低い地区内の北東部が湛水地帯となった。 洪水時には大きな被害を受ける舞中島ではあったが,周囲の竹林・樹木が緩衝帯となって,島内に激流が押し寄せることはなかった。また,家屋には高石垣を施し,家屋の上流側にはクヌギ・ケヤキなどの樹木を植えて流下物(巨礫・樹木・木材など)から家屋を守るとともに,下流側にも樹木列を配して家財が流されるのを防いできた。 3.築堤後の景観変化 舞中島の築堤工事が開始されたのは1968(昭和43)年度で,1977年度には完成し,以後,同地区では内水被害はみられるものの(図2),従来のような外水氾濫の被害を受けることはなくなった。 築堤時には,一部の家屋・農地が河川敷となったものの,堤防が竹林南側に敷設されたことから,吉野川沿いの竹林景観の多くは維持されることになった(ただし,一部は牧草地やグランドに転用されている)。これは,河川敷となった竹林部分が国有地となったためでもある。しかしながら,1)築堤により洪水被害を受けなくなったことから,民有地であった明連川沿いの竹林は別用途に転用され,一部を残して著しく減少した(図3)。また,2)外水被害がなくなったことから,舞中島では住宅建設が進んだが,一部の新住民は標高の低い湛水地帯に住宅を建設したため,かえって内水被害を受けることになった。 付記 本報告は,平成21年度河川環境管理財団河川整備基金助成事業「吉野川流域の竹林景観の形成と保全に関するGIS分析」(研究代表者:平井)の成果の一部である。また,使用した航空写真や標高データについては,国土交通省徳島河川国道事務所から提供いただいた。
著者
石﨑 研二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.88, no.4, pp.305-326, 2015

<p>本稿では,中心地理論における市場地域網の重ね合わせ問題を,数理計画法を用いた組合せ最適化問題としてとらえ,レッシュの中心地システムの合理性を検証しつつ,階層構築からみたレッシュとクリスターラーの理論の体系的な位置づけを試みた.その結果,発見的解法に基づく階層構築に頼らざるを得なかったレッシュの中心地システムは,システム全体の合理性に欠けることがわかった.レッシュの階層構築の目的を財の集積効果として再解釈し,単一財の配置原理の目的と合わせて定式化したモデルに基づくと,レッシュの理論が単一財の配置原理を最優先するのに対して,クリスターラーの理論は財の集積効果を最優先するモデルであると解釈できる.本稿で提示したモデルは,多様な階層性を有した中心地システムを導出しうる,階層構築における中心地理論の一般化モデルであると考えられる.</p>
著者
服部 亜由未
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.182, 2009 (Released:2009-12-11)

はじめに 近世後期から近代における北海道の基幹産業は漁業であり,その中心をなしたのがニシン漁であった.ニシンの粕は北前船により,西日本を中心とした日本各地に運ばれ,魚肥として綿や菜種などの商品作物へ利用された.太平洋戦争中,及び戦後における食料難の時代には,重要な食料として求められるなど,ニシンの漁獲量が皆無になる1960年ごろまで,需要は高かった.さらに,技術の発展や漁場の拡大により,大量の労働力が求められた.近世にはアイヌ民族を使役し,アイヌ民族が減少すると,本州からの出稼ぎ者を雇うことで成り立っていた.ニシン漁を介して多くの人々が移動し,その影響力は大きかった. しかし,1960年には北海道日本海側でのニシン漁は幕を閉じ,ニシンは「幻の魚」と称されるようになった.そして,ニシン漁の担い手たちは今,姿を消しつつある.現在,ニシン漁経験者各人の中に記憶として眠っている体験をまとめることで,史料分析からは描き出せない具体的内容を付加できる最後の段階にきているといえる. 一方,北海道の日本海沿岸地域では,ニシン漁に関係する建造物の保存運動や,「ニシン」をキーワードに観光化策への連結も主張されるようになってきている. 本報告では,ニシン漁が行なわれていた時代のニシン漁と漁民とのかかわり,特にニシンの不漁から消滅にかけた漁場経営者や出稼ぎ者の対応について検討する.また,近年のニシン漁に基づく活動を紹介し,ニシン漁を考える意義について述べたい. ニシン漁と漁民 3月下旬から5月下旬の2ヵ月という短い期間に,獲れば獲るほどお金になったニシン漁には,多くの労働力が必要とされた.特に,江戸時代に行なわれていた場所請負制度が廃止されると,漁場が増加した.漁場経営者は漁業権を獲得すれば,自由に漁場を開くことができ,漁場周辺の人だけでは足らず,多くの出稼ぎ者が雇われた. ニシンは豊漁不漁を繰り返し,その漁獲地は北へ移っていった.漁の傾向が予測できない状態で,漁場経営者は多額の出資をして準備を行ない,出稼ぎ者は出稼ぎ地域を決定しなければならなかった.漁獲量が変動する中で,ニシン漁場経営者たちは,漁を行なう網数に適した出稼ぎ者を雇い,漁獲量が多い場合には,臨時の日雇い労働者を雇う形態をとっていた.また,衰退期には,ニシン漁以外の収入源や共同での漁場経営への移行,生ニシンの加工業への転換が見られた.一方,出稼ぎ者は初年度には身内とともに出稼ぎに行くが,その後は各自の判断により地域や漁場を決めた.そして,不漁期を経験した人々への聞き取り調査からは,2年続いて不漁であれば,3年目には他の漁業や他業種の出稼ぎに転換する傾向が見受けられた.報告では,史料や聞き取り調査から判明した実態を紹介・検討する. ニシン漁に基づく町おこし 北海道日本海側の市町村には,ニシンが獲れなくなった現在においても,ニシン漁にまつわる歴史や文化が存在し,ニシン漁によってその市町村が形成されたことを感じさせる.各自治体史編纂の地域史においては,この点が強調されてはいるが,自村のみの事例紹介でとどまっている.そのような中,後志沿岸地域9市町村では,「ニシン」という共通の資源を基軸にした「後志鰊街道」構築の試みがなされている.報告者はこのような興味深い取組みを後志地域だけでなく,北海道日本海側全域,東北を中心とした出稼ぎ者の出身地域,さらには北前船の寄港地を含んだ地域にまで拡大できないものかと考えている.こうしたニシンによる地域交流圏を仮称「ニシンネットワーク」として調査研究を進め,各自治体の町おこしに協力していきたい. ここではその第1報として,出稼ぎ者の出身地域である青森県野辺地町の沖揚げ音頭保存会の活動を紹介する.当会は,利尻島への出稼ぎ者を記した「鰊漁夫入稼者名簿(利尻町所蔵)」がきっかけとなり,2008年に結成された会であり,祭りや小学校での実演,指導を行なっている.2009年9月に利尻町の沖揚げ音頭保存会との交流会を行なった. ニシン漁再考 昨今,放流事業の成果もあってか,再びニシンが獲れるようになり,話題となっている.ただし,現在漁獲される石狩湾系ニシンは,かつての北海道サハリン系ニシンとは種類が異なっており,かつてほどの漁獲量にはならないと予想される.しかし,利益至上主義による乱獲をしてはならないことを過去の経験から学ぶ必要がある. また,北海道日本海側の地域形成の議論には,出稼ぎ者出身地域とのつながりからのアプローチ「ニシンネットワーク」論が有効であると考える.そのために,北海道と出稼ぎ者出身地域との両地域を対象とし,史料の発掘や経験者への聞き取りを積み重ねていきたい.
著者
内田 順文
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.59, no.5, pp.276-290, 1986-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
20
被引用文献数
1

本研究における「都市のイメージ」とは,広い意味での地理的イメージとしての「場所イメージ」の一部を意味する.本研究では,まず,この都市のイメージを一定の社会集団に共通するイメージとしてとらえ,わが国の70都市について具体的に都市の象徴要素を抽出することによって,都市のイメージを示した.次に,場所イメージによる感覚的な全体像評価の例として,都市の「風格」という概念を提示し,70都市について「風格」を評価することとした.次に,都市の「風格」を都市のイメージとの関連によって分析し,回答者が理解している都市の「風格」とはどのような概念なのか,を考察した.その結果,都市の「風格」の評価は,都市の歴史的側面に関係する都市の審美的評価系列と,都市の機能的・規模的側面に関係する都市の総合的能力の評価系列という, 2つの異なる評価系列によって都市のイメージを評価した結果を総合したもの,として表わし得ることが明らかとなった.

1 0 0 0 OA 書評・紹介等

出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.255-257,261_1, 1997-04-01 (Released:2008-12-25)

1 0 0 0 OA 書評・紹介等

出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.369-372,375, 1988-04-01 (Released:2008-12-25)
著者
熊木 雅代 山田 誠 浜崎 健児 高村 仁知 高田 将志 和田 恵次
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.1-17, 2015 (Released:2015-04-08)
参考文献数
30

和歌山県における面源汚染の実態を広域的に把握するため,土地利用と河川水質の関連性について,県内の18河川を対象に定量評価した.具体的には,河川水中の主要な溶存成分を測定し,GIS (Geographical information system)データを用いて算出した流域の土地利用面積割合との相関を調べた.その結果,北部・中央部(以降,北中部と記す)の河川で面源汚染が進んでいることが明らかとなった.これは,下水道普及率の低い和歌山県においては,住宅地が多い北中部で,面源負荷が多いためと考えられる.また,特に中部河川では,果樹園に由来する面源負荷も大きく,栽培する果樹の種類による施肥量の違いや,元々の土壌生産性,降水量などの自然条件の違いが影響しているとみられる.一方,南部の河川では,流域の大部分が樹林地に覆われ,人為的な環境負荷が少ないため,面源汚染の影響はほとんど見られなかった.
著者
茗荷 傑
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.134, 2008 (Released:2008-11-14)

はじめに 茗荷・渡邊(2008)では有田郡広川町と函館市椴法華地区の事例から両者を比較しつつ災害と土地機能の回復について考察した。土地の機能とは土地の有用性である。そして有用性は有為転変するという特徴を持つ。全滅に近い状態となった土地のその後の過程がその地域の持つポテンシャルを推し量る便となるのではないかと考えられる。今回は絶海の孤島である青ヶ島のたどった状況から考察していきたい。 青ヶ島事情 八丈島から60km、都心から360km離れた青ヶ島は古来流刑地として知られ、東京最後の秘境と呼ばれる絶海の火山島である。本土から青ヶ島への直行便は無く八丈島からの連絡となる。八丈島までは東京から12時間の船旅、あるいは航空便を利用する。青ヶ島に入る方法は2つある。八丈島からの連絡船「還住丸」(111t、所要3時間、1日1往復)か、または八丈島からのヘリコミューター(所要20分・1日1往復)を利用する。しかし環住丸は欠航率5割とも6割とも言われ、安定した便とは言いがたい。一方ヘリは9人乗りで重量物を搭載する余裕があまり無い。さらに周囲を絶壁に囲まれた青ヶ島には港が無い。桟橋が外海に直接に突き出ているだけである。したがって外海のうねりの影響をまともに受け、接岸が極めて困難である。(写真)少しでも海が荒れると欠航になる理由がここにある。桟橋を目の前に見ながら接岸する事ができず、八丈島に戻ることも珍しいことではない。 島には産業がなく物資のほとんどを島外に頼っているため、島の生活はしばしば天候に左右されているのである。 青ヶ島の災難 天明3年3月10日(1783年4月11日)この島の運命を変えることになる大爆発が起こった。池の沢より噴火し、その噴火口は直径300mを越す巨大なものであったともいわれている。ここから50年にわたる青ヶ島の苦難の歴史が始まった。 天明3年2月24日、突然の地鳴りとともに島の北端、神子の浦の断崖が崩壊を始めた。このときおびただしい量の赤砂が吹き上がり島中に降り注いだと言われる。 同年3月9日未明より地震が8回起こり、池の沢に噴火口が出来てそこから火石が噴出した。当時池の沢は温泉があり14名が湯治に来ていたが、たちまち焼死したと言う。 このときの噴火の様子は八丈島からも観測され、記録が残されている。それによると、困窮する青ヶ島の島民を少しでも八丈島に移すよう便宜を図ったとの記述があり、すでに天明3年の噴火で島民の八丈島脱出が始まっていたことがうかがえる。 家屋は大半が焼失し農地は荒れ放題、更に池の沢は青ヶ島の水源であったためいよいよ生活は困窮し、飢饉が発生しつつあった。 天明5年3月10日(1785年4月18日)、再び未曾有の噴火が始まり青ヶ島は完全に息の根を止められた。 同年4月27日、八丈島からの救助船が青ヶ島の船着場である御子の浦に到着したが、驚いたことに島民全部を収容するにはとても足りない3艘の小舟だけであった。舟に乗り込めなかった130~140名の島民の最期は悲惨なもので、その多くは飢えで体力を消耗した老人と幼児であったと言う。彼らは救助船に取りすがって乗船を懇願したが、舟縁にかけた腕を鉈で切断され、頭を割られ海に沈んで行った。 なぜ八丈島は充分な数の救助船を派遣しなかったのか記録は残っていないが、八丈島も慢性的に食糧事情が悪く、青ヶ島島民を全て引き受ける余力がなかったためではないかと思われる。 こうして青ヶ島は島の3分の2が焼き尽くされ無人島となった。 以後還往と称える帰島までの半世紀は生き残った者にも言語を絶する苦難の道程であったと伝えられる。その後青ヶ島に噴火は発生していない。 このように青ヶ島はきわめて生活に困難な環境である。 しかし逆に言えば青ヶ島の唯一のメリットといえばその孤立性にある。つまり外部からの人口の流入が少なく、島民全員が顔見知りで家族同然というわけなのである。 青ヶ島は無人化の後、半世紀の時を経ても住民が帰島して復興の過程を進むことになり、現在に至っている。この島の復興を可能にした要因は何なのか、多様な項目にわたって青が島全体の環境を俯瞰できるよう、文献や現地調査等に基づき考察する。
著者
寺本 潔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.2, pp.89-109, 1984-02-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
38
被引用文献数
9

本研究は,子どもの知覚環境の発達とそのメカニズムを明らかにするために,熊本県阿蘇カルデラ内に居住する小学校2・3・5年生,および中学校1年生,計1,432名を被験者としてなされたものである. 調査方法としては,身近な地域を描いた手描き地図から読み取る方法と,周辺の地物を撮影したスライド画像に対する反応を分析する方法を用いた.前者により描かれた空間は,発達段階に従って外延的拡大を示すが,著しく動線に影響されることが明らかとなった.また,子どもにとって「意味のある空間」として, (1) 近道,抜け道 (2)「秘密基地」,「隠れ家」(3) こわい場所,「幽霊屋敷」を検出した.後者により,可視領域に位置する目立つ地物は,知覚環境を構成する重要な目印として作用していることが推察された. このような子どもの知覚環境の発達に関する基礎的な研究は,子どもの発達を内発力とする新しい地理教育のカリキュラム開発に寄与しうるものと考えられる.
著者
財城 真寿美 磯田 道史 八田 浩輔 秋田 浩平 三上 岳彦 塚原 東吾
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.192, 2009 (Released:2009-06-22)

1.はじめに 東アジア地域では測器による気象観測が最近100年間程度に限られるため,100年以上の気象観測データにもとづく気候変動の解析が困難であった.近年,地球規模の気温上昇が懸念される中,人間活動の影響が小さい時期の気象観測記録を整備し,長期的な気候変動を検証することは,正確な将来予測につながると考えられる.またこれまで数多く行われてきた古日記の天候記録による気温の推定値を検証する際にも,古い気象観測データが有効であると考えられる. Zaiki et al.(2006,2008)は1880年代以前の日本(東京・横浜・大阪・神戸・長崎),また中国(北京)における気象観測記録を均質化し,データを公開している.本研究はこれまで整備してきた19世紀の気象観測記録とほぼ同時期の1852~1868年に,水戸で観測された気温の観測記録を均質化し,現代のデータと比較可能なデータベースを作成することを目的とした.さらにそのデータを使用して,小氷期末期にどのような気温の変化があったかを検討する. 2.資料・データ 19世紀の水戸における気温観測記録は,水戸藩の商人であった大高氏の日記(大高氏記録)に含まれている.原本は東京大学史料編纂所に,写本が茨城大に所蔵されている.寒暖計による気温観測は1852~1868年にわたり,1日1回朝五つ時に実施されている. 水戸気象台の月平均値は要素別月別累年値データ(SMP:1897年~),日・時別値は地上気象観測日別編集データ(SDP:1991年~)を使用した. 3.均質化 大高氏記録の気温は,華氏(°F)で観測されているため,摂氏(°C)へ換算した.さらに,当時の観測時刻である不定時法の「朝五つ時」は季節によって変動するため(午前6時半~8時頃),各月の平均時刻を算出した.そして,水戸気象台の気温時別データを利用して,各月の朝五つ時のみの観測値から求めた月平均気温と24時間観測による月平均値を比較し,均質化のための値を算出した.均質化後には,最近50年間の観測データとの比較によって異常値を判別し,データのクオリティチェックを行った. 4.19世紀の水戸における気温の変動 今回,大高氏記録から所在が判明した1852~1868年の水戸の気温データは未だに断片的ではあるが,1850・1860年代は寒暖差が大きく,夏(8月)は水戸の平年値よりも0.9°C高く,冬(1月)は0.5°C寒冷であったことが明らかとなった.これは,すでにデータベース化している19世紀の東京・横浜での気温の変動とほぼ一致する傾向にある.今後は,大高氏による観測環境がどの程度直射日光の影響を受けやすかったのか等,検討する必要がある.
著者
岡部 遊志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.135-158, 2014 (Released:2014-11-29)
参考文献数
21

本稿の目的は,フランスのクラスター政策である「競争力の極」政策について,成立の経緯,地域指定の仕方,産業分野・地理的分布等の特徴を明らかにするとともに,「国際的な極」7地域を取り上げ,いかなる企業間関係と政府間関係の下で,国際競争力の強化が目指されているのかを検討することにある.フランスでは,国際競争力の低下を克服することが重要な課題とされ,これまでの地方分散政策や中小企業支援策に代わり,大企業や大学の役割を重視した「競争力の極」政策が打ち出されてきた.この政策では71の極が,3つのカテゴリーに分けられて指定された.産業分野では,輸送機械製造業が多く,地理的分布においてもパリやリヨンなど,既存の産業集積地域が指定されるといった特徴が見られた.「国際的な極」には7地域が指定されたが,パリに多くが集中するとともに,バイオやICTなどの先端産業の強化が意図されていた.地域圏の役割は重要であるが,地域圏間の連携やパリの多国籍企業との連携など域外との関係も重視され,また中央政府からの支援も重点的に行うことによって,国際競争力の強化が目指されている.