著者
田上 竜也
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.33, pp.1-14, 2001

上に掲げた「序説」という表題は、この小論のいわば射程の短さを示すものである。というのも、ヴァレリーにおける「空間」の問題を扱うにあたり、詩人としての、あるいは詩以外の文学的テクストの作者としてのヴァレリーの想像界へと話を展開していくことは、あまりに論点を拡散しすぎてしまう恐れがあるからである。ここでは、もっぱら理論面からヴァレリーの空間に関する思索を分析し、とりわけヴァレリーの思想と、彼が生きた当時の数学的、科学的思潮との関連という点に話を絞って進めていくことにする。それが、この論を序説と題する所以である。 本稿ではヴァレリーの『カイエ』における空間論を中心に考察していくが、その前に、19世紀から20世紀への転換点において、空間を巡る論議が、物理学的、数学的、哲学的、科学認識論的な領域にわたる中心問題であったことを強調しておく必要があると思われる。ごく大雑把に言って、19世紀以前、空間の概念は、数学的対象としても、物理的現実としても、素朴な形でユークリッド空間に結びつけられていた。すなわち、ユークリッド幾何学においては、空間概念を、論理的明証性と現実的かつイデアルな秩序を担った定義と公理の体系と見なしていた。また物理的空間は、知覚に基づく現実空間およびユークリッド空間と同一視されていた。周知のように、ニュートン物理学とカント哲学はユークリッド幾何学を具現するものだが、前者において空間は、物質がその中で自由に動きまわることのでき、またその内に幾何学図形を構築することができる、空虚な受容体としての絶対空間であり、後者は、空間概念の根拠を認識主体の側に引きつけたうえで、それをア・プリオリな感性の形式と定義づけるものであった。19世紀において、こうした空間観への疑義が呈されるようになったのは、言うまでもなくガウスやロバチェフスキーらによる非ユークリッド幾何学の発見に依るものである。19世紀末という時代は、一方にはア・プリオリの純粋直観というカント的空間論、他方には双曲線幾何、楕円幾何といった複数の幾何学、さらにそれに伴う複数の空間の存在を認める新しい空間論とが、哲学的、科学認識論的地平において対立していた時代と言うことができる。 このような時代状況下、ヴァレリーはその空間論の出発点において、ポワンカレの1895年の論文「空間と幾何学」2に大きな影響を被っている。論中ポワンカレは、空間を現実空間、すなわち視覚、触覚、運動感覚によって構成される知覚表象の空間と、幾何学空間(この場合ユークリッド空間)との2種類に大別している。このポワンカレの論を受けて書かれたごく初期の『カイエ』にはこう記される。「ポワンカレは、彼によれぽ連続的で、無限で、3次元で、同質的、同方向的な幾何学空間を、(視覚、運動等の)空間ないし表象空間と区別する。彼はおそらくこれらの空間が思考のなかで混ざり合っていることを忘れている。[_]彼が実に正当に指摘したように、表象空間については、それが3次元を持つとは言えない。表象空間は独立した神経網が与>xるだけの、すなわち独立変数の数だけの次元を持つ。」(C.int.,I,215)ヴァレリーはここで言及される2種類の空間、すなわち現実(表象)空間と幾何学空間の他に、さらに想像空間、つまり心像によって作られる空間の存在を主張し、それら3種類の空間が意識のなかで混在していると考える。初期『カイエ』における探究の大きな柱のひとつは、心像の連鎖の観察と操作を通じて、この想像空間の性格を明らかにすることにほかならない。「イメージの幾何学」と名づけられた一連の考察のなかで彼は、想像空間の特質を、現実空間、幾何学空間との比較から明らかにしようと試み、とりわけ、想像空間にどれだけ幾何学的法則を適用することができるか、という点を問題にしている。そうした試みのなかで、ヴァレリーは抽象的でイデァルなユークリッド幾何学空間と、感覚の多様さに応じて複数の次元を持つ現実空間、平面的で絶えず大きさの変化する想像空間を対立させている。以下では、現実、幾何学、想像空間という3分法に基づく枠組みを念頭にいれた上で、ヴァレリーにおける幾何学的認識および空間の起源と性格、さらに心的空間の表象と幾何学モデルとの関係について検討する。
著者
岩岡 中正 首藤 基澄 吉川 榮一 谷川 二郎 中村 直美 中山 將
出版者
熊本大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
1996

本研究は、[I]人間社会基礎論研究と[II]比較地域論の二方向から、近代(化)の検証と今日的意義およびその普遍化可能性について考える。[I]の(1)の哲学・倫理学・美学部門では、近代の主観主義的人間観の射程の研究(中山)、個人主義概念の基礎的研究(岡部)、自由主義的人間観の限界と地球全体主義の提唱(篠崎)が、(2)の法哲学・政治学部門では、近代リベラリズムにおける自律概念の研究(中村)、脱近代パラダイムの視点からの、「普遍」としての「近代の研究(岩岡)、アレント研究を通しての、政治的アイデンティティの研究(伊藤)が行なわれた。[II]の(1)の「英米における近代化」では、16世紀の英語の語彙の近代化の研究(上利)、シェイクスピアの戯曲における英国近代化の萌芽の研究(谷川)、19世紀英国小説に見る労働者と近代化の影についての研究(大野)、アメリカ小説に見る、コマ-シャリズムという近代化の悪き側面についての研究(里見)、さらに(2)の「アジアにおける近代化」では、祭元培の人権意義の非西洋的由来に見る中国近代化の特殊性の研究(吉川)、夏目漱石と芥川龍之介における日本近代化の理念の比較研究(首藤)、国民国家的視点からの日本近代化の研究と近代化論の批判的考察(小松)が行なわれた。通算13回の研究発表会と11回の研究打ち合わせ会から、以下の視点を得た。つまり、[II]グループの研究から、今日、単線的進歩の近代化論は受け入れられず、西洋も含めて世界の諸地域が多様な近代化をとげてきており、したがって近代化の一義的普遍化は困難であること、しかし他方、[I]グループの研究が示すように、やはり現代社会には「近代」に共通の普遍的な成果と問題点およびその克服の試みがあるという認識に立って、地域的な多様な近代化における個別性と、真の近代がめざす「人間の善き生」という普遍性をどう止揚するかという視点の重要性を確認した。この視点から今後さらに近代についての研究を進めたい。
著者
齋藤 秀司 小林 亮一 松本 耕二 藤原 一宏 金銅 誠之 佐藤 周友 斎藤 博 向井 茂 石井 志保子 黒川 信重 藤田 隆夫 中山 能力 辻 元
出版者
名古屋大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
1999

当該研究は(I)高次元類体論および(II)代数的サイクルの研究のふたつの大きな流れからなる。(I)高次元類体論は高木-Artinにより確立された古典的類体論の高次元化とその応用を目指している。この理論の目指すところは数論的多様体のアーベル被覆を代数的K理論を用いて統制することで、幾何学的類体論とも言える。整数環上有限型スキームにたいする高次元類体論は当該研究以前に加藤和也氏との一連の共同研究により完全な形で完成することに成功した。高次元類体論はその後もρ進Hodge理論などの数論幾何学の様々な理論を取り入れつつ展開し、世界的なレベルで研究が続けられている。当該研究の高次元類体論における成果として、整数論においてよく知られた基本的定理であるAlbert-Brauer-Hasse-Noetherの定理の高次元化に関する結果がある。(II)主要な目標は"代数的サイクルを周期積分により統制する"という問題に取り組むことである。この問題の起源は19世紀の一変数複素関数論の金字塔ともいえるAbelの定理である。当該研究の目指すところはAbelの定理の高次元化である。これは"高次元多様体X上の余次元γの代数的サイクルたちのなす群を有理同値で割った群、Chow群CH^γ(X)の構造をHodge理論的に解明する"問題であると言える。この問題への第一歩として、Griffithsは1960年代後半Abel-Jacobi写像を周期積分を用いて定義し、CH^γ(X)を複素トーラスにより統制しようと試みた。しかし1968年MumfordがCH^γ(X)はγ【greater than or equal】2の場合に一般には複素トーラスといった既知の幾何学的構造により統制不可能なほど巨大な構造をもっており、とくにAbel-Jacobi写像の核は自明でないことを示した。このような状況にたいし当該研究はBloch-Beilinsonによる混合モチーフの哲学的指導原理に従い、GriffithsのAbel-Jacobi写像を一般化する高次Abel-Jacobi写像の理論を構成し、GriffithsのAbel-Jacobi写像では捉えきれない様々な代数的サイクルをこれを使って捉えることに成功した。この結果により高次Abel-Jacobi写像がAbelの定理の高次元化の問題にたいする重要なステップであることが示された。当該研究はさらに発展しつつあり、Blochの高次Chow群、Beilinson予想、対数的トレリ問題、などの様様な問題への応用を得ることにも成功している。
著者
柳本武美
雑誌
科学哲学
巻号頁・発行日
vol.36, no.2, pp.151-164, 2003
被引用文献数
1
著者
後藤 昭八郎
出版者
明治大学政治経済研究所
雑誌
政経論叢 (ISSN:03873285)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.65-99, 1973-11

David Humeは、経験から抽出されたものだけが妥当性をもつとする経験論の哲学者として最もよく知られている。しかし、Humeは、単に経験論の哲学者であったばかりでなく、倫理学、政治理論、社会理論、歴史学の分野においても、優れた業績を残し、また経済学の分野においても、当時のイギリス社会における重要な経済問題をとりあげて、鋭い洞察力を発揮し、「イギリス初期資本主義の発展と成熟とを背景に経済思想が豊かに生成しつつあった、重商主義からスミスへの過渡期における、英仏における広範な経済学論争の起点となり、経済学の成立に独自の貢献を残しているのである。」
著者
岩崎 正弥 三原 容子 伊藤 淳史 舩戸 修一
出版者
愛知大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

農本思想とは、農に特別の価値を認め、その価値を社会の中で追求・実現しようとする思想である。本研究を通して以下のことを明らかにした。1)農本思想は1945年で終息したのではなく、戦後の農村教育や農政にその一部が継承され、帰農や地域づくりにおいて現代にもその影響がみられる。2)日本固有の思考様式だったのではなく、中国の村治運動やアメリカのアグラリアニズムにも認められるように、一種の普遍性をもつ哲学であった。また「社稷」概念は現代においてこそ再評価されるべきである。
著者
杉山 卓史
出版者
京都大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2004

本年度はまず、研究第一年次(平成16年度)に得られた成果である<『カリゴネー』におけるヘルダーのカント批判の意義は、カントの『判断力批判』における「超越論的」趣味論と人間学講義における「経験的」ないし「心理学的」趣味論との比較検討を促す点に存しており、趣味判断が主観的普遍性を要求するというカントの主張は、この比較検討によって捉え直されるべきである>という見解を承け、この比較検討を実践した。その結果、経験的・心理学的趣味論は人々が考えたことや感じたことを実際に伝達している「社会」という経験的な要素からトップダウン式に、そしてそれゆえ共通感覚概念によらずに趣味を規定する「社会的存在としての人間の陶冶」を意図するものであることが明らかになり、カント美学受容史に新たな理解の基軸をもたらしえた。次いで、研究第二年次に行ったヘルダーの共通感覚論の研究を、視点を変えてさらに継続した。具体的には、その音楽論におけるクラヴィーアのアナロジーに即して「五官」に「共通」の「感覚」と「人々」に「共通」の「感覚」との連関を検討した。クラヴィーアは一方でその内部に調和することもあれば不調和に終わることもあるさまざまな音を生み出す点において人間の快および不快の感情を説明し、他方、自ら音を発するのみならず外からの音に共鳴して新たな音を発しもする点において人間の共感を説明してくれる。もちろん、このアナロジーはヘルダー独自のものではなく、同時代のフランス唯物論者たちも好んで用いたものではあるが、唯物論者でないヘルダーにとってこのアナロジーは、彼がライプニッツのモナドロジーをハラーの生理学を参照しつつ批判的に摂取して形成した「有機的モナドロジー」とでも呼ぶべき独自の自然哲学の表現であった。その意味で、二種の共通感覚の連関の問題は、ヘルダーの思想の中心に位置している。
著者
井上 隆史 山中 剛史 TAILLANDIER Denis 井関 麻帆 田中 真夕美
出版者
白百合女子大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

三島由紀夫の手稿類(創作ノート、下書き原稿、ゲラへの書き込み、書簡など)を調査すると同時に、二葉亭四迷、宮沢賢治など三島以外の作家の手稿研究の従来の成果や問題点について検証した。そして、フランスの生成論について検討、哲学(解釈学)や美術史の議論も取り込んで、より望ましい手稿研究の方法論を探った。これを踏まえ、三島の代表作「金閣寺」や遺作四部作「豊饒の海」の創作ノートを研究し、後者に関しては、創作ノートで検討されていたが、その後大きく変更された第四巻の当初の構想を発展させ、「幻の第四巻」を仮構した。
著者
池上 哲司 朴 一功 村山 保史 加来 雄之 藤田 正勝 門脇 健 西尾 浩二 竹花 洋佑
出版者
大谷大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2010

清沢満之の東京大学時代未公開ノート解読を通して、西洋哲学が明治期の日本にどのような形で受容されたかを明らかにしようとした。フェノロサが行った哲学関係の授業についての英文聴講ノートの内容を調査・分析していく過程で、満之と同年入学の高嶺三吉によるフェノロサ講義のノートが発見された。そこで、フェノロサによる複数の哲学関係授業の時期と内容を確定するために、清沢および高嶺の聴講ノートを翻刻・翻訳し出版した。
著者
武田 はるか
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2008

本研究は、現代作家サミュエル・ベケット(1906-1989)、マルグリット・デュラス(1914-1996)、ナタリー・サロート(1900-1999)の作品を分析対象に据え、三作家による多分野(小説、劇、映像等)に亘る「声」の表現の探究の独自性とその複雑な相互関係を、厳密な作品分析に基づいて解明し、文学における「声」の問題の重要性を明示することを目的とする。本年度は、言葉とイメージの関係を作家たちがどのように捉え、かれらが共通して、(1)なぜ抽象的な声の表現を必要としたのか、(2)かれらがいかにして声を(あるいは声をともなう言葉を)表現し、それがなにを可能にしたのか、以上の二点を基軸に、これまで個別に行った作品分析の成果を下地にした考察を展開した。かれらの作品を全体的かつ具体的に辿ると、言葉によるイメージの表現には(テクストであれ、映像作品であれ)、共通して、言葉への強い執着と紙一重の懐疑が出発点としてあり、それが、かれらの作品に、断片的で輪郭の不確かなイメージを、頻度を高めながら繰り返させる。この点に着目し、(1)そこにどのように声の問題がかかわっているのか、(2)書かれたテクストにおける声の扱い方と、劇や映画における物質的な声を扱う実験的試み、これら異なる声へのアプローチが、いかなる共通の一貫した意図によって進められたのかを明示し、(3)さらにはその意図が、晩年の作家たちを、いかなる声のエクリチュールに向かわせたのかを、とりわけ自伝的・伝記的要素の独特の組み込み方に着目しながら分析した。この過程に、作家ごとの表現方法の変遷と、その差異を明確化することで、かれらの作品が、いかに必然的なかたちで記憶の問題に結びついているのかも明らかになった。「声」の問題は、アウシュヴィッツ以後の世界ゆえに生じた問題として検討する視点が立てられるが、本年度は、ジャック・デリダやモーリス・ブランショの声にまつわる議論の再検討を詳細に行うことで多くの示唆を得、戦後文学という時代性のみに思考を還元せず、エクリチュールと記憶の問題に根底的にかかわる問題として、声にかんする哲学的な考察をより自由に展開できる足場ができたため、作家たちの試みを単純化することなく、より広い視点からとらえなおし、かれらの文学のありかたを通して、文学とはなにかを問い直すことができるようになった。学術振興会の研究員に採用され、補助金を受けることで、研究指導の委託の制度によって、パリ第八大学のブリューノ・クレマン教授のもと、フランスでの研究を進めることができ、また、これに付随して、フランス国立図書館およびフランス国立視聴覚研究所(INA)、そして、イギリスのレディングにあるアーカイブでのベケットの映像資料の調査を行うという、日本ではできなかったことが可能になり、非常に大きな意義があった(費用は学術振興会の研究遂行費でまかなった)。非常にコーパスの広いテーマ研究であるため、補助金交付期間終了後も、引き続き、残された課題を遂行し、発表していく必要がある。期間中、研究資料のひとつであるデュラスの短いテクストの翻訳を水声社刊行の『水声通信』(28号)にささやかながら寄稿することができた。また、日本での資料調査のために一時帰国した際には、指導教官からの提案を受け、所属する大学院フランス文学科の修士以上のすべての学生・研究者を対象に、本研究にかんする四十五分間の発表をする貴重な機会を得た。さまざまな時代・作家を扱う専門家たちを対象に、一般的かつ専門的な内容の発表を行ったことで、テーマ研究のひとつの可能性を打ち出すことができた。以上の翻訳および発表は、学会や雑誌への公の研究発表ではないため、項目11の欄には未記入だが(なお、同じ理由から、帰国費用は私費によった)、個別作家研究が主流の日本の研究者たちに、テーマ研究の可能性、重要性をうったえることができたという意味でも重要な意義を持ったと考えている。今後、より正式な形での発表を行うことを強く希望している。
著者
水田 英實
出版者
広島大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

西欧中世思想におけるキリスト教および哲学のインカルチュレーション(文化内開花)のあり方をトマス・アクィナスの哲学思想の立脚点から解明し、さらに非ヨーロッパ世界におけるキリスト教および哲学のインカルチュレーションの可能性を問うた。これにより、今日の多文化社会において異文化受容という課題を果たすために、哲学の果たしうる役割を模索する手掛かりを得て研究成果を取りまとめ、図書・雑誌に論文として発表した。
著者
森田 優己
出版者
桜花学園大学
雑誌
桜花学園大学人文学部研究紀要 (ISSN:13495607)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.257-270, 2004-03-31

規制緩和と地方分権の推進,環境問題の深刻化と少子・高齢社会の到来を契機として,交通政策はパラダイム転換を求められている。その渦中に投じられた地方自治体は,一方では,コミュニティバスを中心とする交通手段の現物供給によってシビルミニマムを確保し,他方では,敬老パスというシビルミニマムの現金支給形態において,高齢者のアクセシビリティを保障している。本稿においては,高齢者をとりまく交通環境の現状と交通バリアフリー法によるアクセシビリティ改善状況などを検討した上で,高齢者に対する交通権保障という視点から必要であるのは,交通分野内部におけるパラダイム転換ではなく,交通政策の底流をなすべき政治哲学の転換もしくは確立であることについて問題提起した。
著者
服部 健司
出版者
群馬大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2007

臨床倫理学の特異性はもっぱら個別特殊的なケースに照準を合わせたケーススタディに存する。ケーススタディの成果が豊かなものであるか貧しいかを決定する要因は、議論の仕方に先立ち、すでにケースそのものの叙法のもつ物語論的特性のうちに存する。具体的に言えば、カルテや症例報告を範型とした客観的自然科学的な視点からの記述よりも、見えない陰の部分、発せられる言葉の曖昧さ、明示あるいは暗示される意思の両義性の仄めかしをそのままに残した、多声性を含んだ文学的叙法こそが臨床倫理学ケースにふさわしい叙法である。次に問われるべきはケース解釈の妥当性をいかに確保し確証するかである。正典の妥当な釈義をいかにして得るかをめぐって興った解釈学が、その対象領域を文献一般、他者とその生、歴史へと拡張したのは一九世紀後半である。前世紀には、解釈の方法論の基礎づけという進路そのものの変更と深化が行われ、解釈学的哲学へと転回が図られた。臨床倫理学の領域での課題は、いわば共通の文化的地平上の大文字の文化の理解ではなくて、個々の人々の生きざまや迷いが描き込まれた小文字の物語としての臨床倫理学ケースの理解である。そのためには、解釈学的哲学以前の、方法論的な解釈学へとあえて意図的に後退する必要があるように思われる。客観的にではなくむしろ心理主義的、直観主義的な要素を排除するのでない仕方の解釈学でなければ、目前の小文字の物語を読み解く助けにはならないように思われる。この種の読みの技法を磨きつづけてきたのは文学であった。臨床倫理学の方法論的研究のためには、文学の哲学へと進んでいかなくてはならない。
著者
今井 弘道 鈴木 敬夫 安田 信之 岡 克彦 國分 典子 鈴木 賢
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2004

16年度は、このプロジェクトを中心として、第五回東アジア法哲学シンポジウムを開催した(9月・札幌)。これはすでに何回も報告した通りであるが、日本国内からの参加者を始め、中国、各国、台湾その他を含めて100人を優に超える参加者があった、その中で、2006年には台湾で、第6回大会を行うこと、併せてそれを東アジア法哲学会の発会大会とすることが決議され、準備委員長として、本プロジェクトの代表者である今井が選出された。17年度は、上記第六回東アジア法哲学シンポジウム/東アジア法哲学会の発会大会が、行われた(主催・台湾大学、3月・台北)。中国、韓国、台湾その他を含めて150人を超える参加者があった。そこで、今井が理事長に選出された。これで、このプロジェクトで目標としてきた東アジアの法哲学の共同研究体制は基本的には完成し、大きな可能性が保障されることになった。18年度は、北京大学法学院から朱蘇力・張騏両教授を招待し、シンポジウム《中国における「生ける法」と「司法」を通しての法形成の可能性》を、名古屋大学と北海道大学で共催した。また上海政法学院教授の倪正茂教授を招いて「上海における住民運動と市民的法文化」とシンポジウムを行った。個々の成果については別記する。
著者
荻原 理 金山 弥平 神崎 繁 近藤 智彦
出版者
東北大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

ヘレニズム時代のエピクロス派とストア派が勧める生の内実を、プラトン、アリストテレスや現代の哲学者との対比を通じて明らかにし、これらの生を現代人に対し、注目すべき生き方の例として提示した。両派に共通する、生の理性的設計の思想は、衝撃的事態に見舞われた場合の態勢の立て直しに有効であろう。死にさいして魂は消滅するというエピクロス派の説は、現代の科学的世界像と調和し、死生観としても独自の魅力をもつだろう。自己は宇宙の一部だとするストア派の思想は、"報復しない倫理"に道を開くだろう。
著者
斎藤 博
出版者
埼玉医科大学
雑誌
埼玉医科大学進学課程紀要 (ISSN:0287377X)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.77-84, 1998-03-31

私はラファエロの「アテネの学堂」には, 医師ヒポクラテスが描かれていると推測した。ラファエロは「アテネの学堂」の最上段には神の世界を, 上, 下段に人間の世界として, 左には知の世界を, 右には術の世界を描いた。そして, ギリシア哲学者中, 「神に等しい者」に適う人物を, 上段の人物中に描いた。特に, プラトンとアリストテレスを高く評価し, 中央の王道に二人を配置し, 彼等の頭上には神への道が開かれていた, と表現したのではなかろうか?なお, ラファエロはヒポクラテスを, 技術の守護神アテネの下の上段右に「神に等しい者」として置き, その下段右隅には, 人間である術者, 画家ラファエロ自分自身を署名者として置いて, 「アテネの学堂」を完成させた, と解釈出来ないか?