著者
前野 深 新堀 賢志 金子 隆之 藤井 敏嗣 中田 節也 鎌田 桂子 安田 敦 青柳 正規
出版者
東京大学
雑誌
東京大學地震研究所彙報 (ISSN:00408972)
巻号頁・発行日
vol.84, no.4, pp.271-289, 2010-03-29

Burial process of Roman Villa on the northern flank of Mt. Vesuvius, Italy, was reconstructed based on sedimentation processes of laharic deposits newly discovered during 2006-2008 for the extended excavation site in NE to E parts of the Roman Villa. The laharic deposits are distributed on the lower level of the excavation site. The deposits are divided into four subunits, G1-MfL1, G1-DfL1, G1-MfL2, G1-DfL2, based on their sedimentary facies (Mf and Df facies). Mf is characterized by massive and matrix-supported facies, indicating en masse deposition from a laminar flow process, and Df is characterized by stratified and clast supported facies, indicating grain-by-grain aggradation from suspension or traction process. These different types of facies are partially transitional and attributed to variations of sediment/water ratio and internal stress condition inside flows, and may be resulted from an evolutional process, like a flow transformation, of a single debris flow. These laharic deposits directly overlie pyroclastic fallout deposits (G1-Af) in the initial phase of the AD 472 eruption, but are eroded and covered by epiclastic deposits (G1-Mf1, 2, 3, 4 and G1-Df) derived from later- and larger-scale laharic events related to the same eruption. The later laharic deposits include more amounts of basement lava of Mt. Somma, compared with the newly discovered deposits. Characteristics and interpretation of the deposits suggest that lahars just after the 472 eruption came from the north to bury the lower level of buildings and have experienced various types of sedimentation processes. An erosion of the edifice of Mt. Somma may have mainly acted in the later laharic events.
著者
大門 正幸 稲垣 勝巳 末武 信宏 岡本 聡
出版者
国際生命情報科学会
雑誌
Journal of International Society of Life Information Science (ISSN:13419226)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.183-188, 2009-09-01

本研究の目的は、退行催眠中に被験者が語る、いわゆる「過去世」の記憶をデータとして用い、生まれ変わりの存在を強く示唆する事例について詳細に検討することである。具体的には、被験者が退行催眠中に語る異言(本人の経歴から、知っているはずがないと判断される言語)に着目し、発話について言語的な分析を行うものである。

4 0 0 0 OA 続群書類従

著者
塙保己一 編
出版者
続群書類従完成会
巻号頁・発行日
vol.第13輯ノ下 文筆部.消息部, 1926
著者
須田 和義 川崎 俊一 本橋 行 後藤 悦久
出版者
日本大腸肛門病学会
雑誌
日本大腸肛門病学会雑誌 (ISSN:00471801)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.31-34, 2017
被引用文献数
2

80歳以上の高齢者にも経肛門的直腸異物症例は存在するが,本例は従来報告の中でも性的動機では最高齢になる.また,女性体型をかたどったペットボトルという特徴的な異物であり,無麻酔下用手経肛門的に摘出できた1例である.症例は85歳男性で,『香水の瓶』が取り出せないという主訴で来院した.指診上,肛門縁約10cmで異物端を触知し,直腸鏡,画像とから,中間部がくびれた形状で,内容物を有した容器様の異物が開口部を下にして骨盤内に認められた.側臥位にて腹部圧迫し,直腸内の示指で異物端を適切な方向に向けつつ,異物を肛門側に押し進め,摘出することができた.異物は,約20×7cmのペットボトルで女性のボディラインを再現した形状で,そのくびれはウエストに模した部分であった.今後も常習性の高齢者症例は増加する可能性がある.リスク教示のみならず,安全な使用を是認せざるを得ない場合もありうる.

4 0 0 0 OA 花押似真

著者
[土岐]頼旨 [著]
巻号頁・発行日
vol.[1], 1000
著者
辛島 光彦 西口 宏美
出版者
公益社団法人 日本経営工学会
雑誌
日本経営工学会論文誌 (ISSN:13422618)
巻号頁・発行日
vol.63, no.2, pp.29-40, 2012-07-15 (Released:2017-11-01)
参考文献数
23
被引用文献数
1

本研究では,モーツァルトエフェクトに代表される作業前の音楽聴取が知的作業に与える影響に着目し,知的作業として単純繰り返し作業を取り上げ,作業者が自らやる気が向上すると期待できる音楽を作業前に聴取することにより,作業者のポジティブな感情状態が高められ,作業のパフォーマンスが向上するという,作業前音楽聴取の有効性について実験を通じて検討した.実験は12名の被験者にドイツ語の転記作業を,他の16名にフランス語の転記作業を,さらに他の16名に心的回転作業を,作業前の音楽聴取の有無の条件においてそれぞれ行わせた.実験の結果,作業によらず作業前に音楽聴取を行った場合の方が音楽聴取を行わない場合と比較し,被験者のポジティブな感情状態が有意に高くなり,作業によらずパフォーマンスも有意に向上することが示され,単純繰り返し作業における作業前音楽聴取の有効性が示唆された.
著者
若江 茂
出版者
丹波史談会
雑誌
丹波
巻号頁・発行日
no.20, pp.8-19, 2018
著者
上田 琢哉
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2016-04-21

井筒俊彦(1983)は和歌の分析から,わが国には,あえてぼんやりさせ,そこに存在の深みを感得しようする意識態度があるとし,それを「眺め」意識として提案した。これは通常の意識のあり方とは大きく異なりながら,しかも意識であることにおいては変わりがない,ユニークな様式の提案であった。本論文は,「眺め」という意識のあり方が心理療法という営みの本質的な理解に役立つものであることを事例研究によって実証するものである。本論文は全8章から構成される。第1章は,本論への導入として大きく問題提起をした。通常の意識は<分離し,はっきりさせる>働きを本質とし,われわれはそのような意識の機能を中心に生きることで様々なものを認識・理解・操作するようになった。それは科学的な思考法と結びつき,現在のわれわれの生活を極めて豊かに発展させた。一方で,そのような意識のあり方があまりに有効であったために,われわれはそれ以外の意識のあり方をまったく考慮できなくなってきている。その意識の偏りは,現代人の抱える心理的な問題と密接に結びついていることが推測される。よって,通常の意識とは異なる意識のあり方を,心理臨床学的な文脈において取り上げて検討する意義があると述べた。第2章では,まず本論の前提となるべき意識の基本機能をNeumann, E(1971)の『意識の起源史』をベースにしながら確認した。Neumannは世界の様々な神話や祭礼を分析し,人の精神発達とは,意識が無意識から明確に分離していくプロセスであることを明らかにした。そこからNeumannは,意識体系の本質が「距離をとること」,すなわち<分離し,はっきりさせる>働きにあるとした。この意識の基本機能は,体験的には「見る」ことによってもっとも直截的にもたらされる。本章では,様々な心理学的研究を引用し,「見る」ということが意識の最も重要な機能であり,人を人たらしめている事象であることを論証した。以上から,本論文では通常の意識のあり方を「見る」意識と表現した。 次に,井筒俊彦(1983)の『意識の本質』から「眺め」意識の定義を確認した。「眺め」意識とは,事物の「本質」的規定性を朦朧化して,そこに現成する茫漠たる情趣空間の中に存在の深みを感得しようとする意識主体的態度であることを述べた。それは通常の<分離し,はっきりさせる>意識とは異なるが,明確な自我の関与があり,また一つの方向性をもったものでもあることから,単なるもうろう状態や幻覚妄想状態とは明確に区別されることを示した。第3章では,和歌の中に「眺め」がどのように詠み込まれているかについて確認し,「眺め」意識の実相についてさらに詳しく論じた。もともとわが国には,梅雨時の長雨のときに「雨季忌み」する習俗があり,そこから転じて「長雨=ながめ」は禁欲時のもの思いを意味していた。しかし,新古今和歌集の時代になって,「眺め」は「本質」のもつ規定性を肯定しながら消去する手段として展開し始めた。すなわち,「眺め」には,「見る」ことで本質が明らかになってしまうことを避ける効果があり,結果的に,それは詩的情緒を含む一種独特な存在体験をもたらす意識態度となったのである。これらの経緯について,実際の和歌を引きながら説明した。続いて,和歌の分析から,「眺め」意識の特徴を三点指摘した。第一点は,「眺め」と「あくがれ」の親近性についてである。「あくがれ」とは,「魂が肉体から離れ抜け出すこと」,「何かに心奪われて,ぼんやりすること」などを意味する古語である。「眺め」と「あくがれ」が同時に詠み込まれている和歌の分析から,もの思いの実質的状態が「あくがれ」で,それを導く方法的態度が「眺め」と考えることができることを示した。第二点は,「眺め」が今現在の眼前の世界のことを歌ったものだけなく,むしろ未来や彼岸など現実にはない世界を想像して歌っているものに多いことを発見したことである。この点について,良経や西行の和歌を例に挙げ,「眺め」は<あちら>の世界へアプローチするための意識態度であることを述べた。第三点は,「眺め」は,その情趣を他者に共感してもらうことが重要であることを指摘した点である。山崎正和(2008)は,わが国ではあらゆる芸術表現が他者を前提として製作されており,和歌もまた歌集に収められることを前提としている点で同様であると述べた。これは西洋の芸術表現が,神との関係で,その美しさ自体を讃えることで完結し,他者への波及は二次的なものと考えられていることと対照をなしている。この山崎の論を援用して,「眺め」はもともと言語化しづらい情趣を他者に共感してもらうことによってはじめて成立する一種のコミュニケーションと考えられることを論証した。以上の三点は,当初の井筒の「眺め」意識では触れられていなかった点であり,本研究で新しく見出された特徴である。第4章は,本論文独自の観点として,日本人の石に対するかかわり方から「眺め」意識の実相を明らかにした。石を祀る神社の多さや石にまつわる神話伝説の豊富さなど,日本人が石に対して宗教的・美的観点から特別に強い関心をもっていることは明らかである。本章では,竜安寺や東福寺の石庭を例に挙げ,わが国の庭では石が極めて重要な役割を担っていること,かつ,そこでは石がわざわざ象徴学的な解釈や分析を拒むように配置されていることを示し,石は「見る」対象ではなく,「眺め」るために置かれているのではないかと述べた。これは石のもつ,言語化を拒むような複雑精妙なイメージをそのままに受け止める日本人の感性を示している。また上田(2010)やUeda(2012)は,わが国には石庭だけでなく,日常の町中にも分析的な態度を拒むようなありふれた石がよく置かれていることを見出した。これは,現代の日本人がいまだに「眺め」意識を大事にしている一つのあらわれであることを述べた。さらには,村上春樹(2005)の『日々移動する腎臓のかたちをした石』を取り上げ,現代の物語の中にも石と「眺め」の関係が描かれていることを示した。以上,本章では石庭の石,町中の石,物語の中の石などから,日本人が石に対して「眺め」るという態度で接しているものが多いことを論証した。さらに,石を「眺め」ることによって,非常に深い体験を得ていると推測できることも述べた。このような石に対する態度は,日本人の意識のあり方の特徴をなす点だと考えられる。第5章と第6章は,本論文の中心課題である「眺め」意識の心理療法における意義の検討をおこなった。第5章では,『内的なイニシエーションにおける「見る」ことの意味』(上田, 2009)で扱った強迫神経症の男性の事例を題材とした。本章では,永遠少年元型にとらわれたクライエントの夢に何度も現れた「見る」という行為の意味を中心に考察した。夢では,まず「見るなの禁止」を破ることによって母性の否定的側面を「見る」というモチーフがあらわれた。精神分析的には,このような幻滅を通して自立が達成されると考えられるが,実際の面接ではこの段階で問題が解決したとは言えなかった。面接が進むと,クライエントは「他者と一緒に海を眺める」夢を見た。この夢の後,症状は消失し,クライエントは社会へ参加することができた。本事例の経過から,「母なるもの」の力の強いわが国では,<分離し,はっきりさせる>すなわち,「見る」意識のあり方だけでは十分でなく,あきらめをベースにしてある情趣を感じ取る「眺め」意識まで獲得することが必要だったと考えられた。特に,本事例ではいったん西洋的な(厳しい)「見る」意識を経た後,「眺め」意識を獲得したことが重要であったことを述べた。第6章は,『中年期のイニシエーションのあり方を考える』(上田, 2012)で取り上げた女性の事例を題材とした。クライエントは中年期にあって,これまでとは違う新しい意識のあり方を取り入れる必要に迫られていた。これは<あちらの世界>への移行というテーマとして箱庭によって繰り返し表現された。このテーマに対して,最初は「移行する先」(あちらの世界)に何があるかが重要だった。しかし,クライエントにとってそのような「明らかにしようとする意識」は先の問題について十分な納得を与えることができるものではなかった。クライエントは終盤の箱庭で,<あちら>岸にマリア像を置き,橋を架けて渡ることができるようにした。しかし,結局納得できず,次の回にマリア像を一輪の小さな花に置き換え,それを「何かあるというサイン」だと表現した。それは単にあいまいにするということではなく,むしろ<あちら>への移行を支える大きな決断であったことがわかった。考察では,本事例のプロセスが「見る」意識から「眺め」意識へという構造の中で理解できることを示した。第7章では,これまでの議論をふまえて,「眺め」意識のもつ心理臨床的な意義とその独自性を整理した。第7章第1節ではクライエントの獲得すべき新しい意識という観点から,「眺め」意識がもつ心理臨床的意義をまとめた。本論文の事例と議論を通して,「眺め」意識には強すぎる「見る」意識の一面性を補うという治療的意義があることがわかった。この「眺め」意識のもつ「意識の一面性を補う」という働きは,Jung, C.Gの補償とは異なる仕組みであることも説明した。第7章第2節ではセラピストの治療的態度という観点から,「眺め」意識のもつ心理療法上の意義をまとめた。これは,第一に,症状に対する「眺め」と表現できるもので,当の問題に対する,焦点を当てないでぼんやりとした受け方を意味するものである。この治療的態度は,森田療法の「不問」やJohn Keatsのnegative capabilityと近いものであることを述べた。第二に,北山修(2005)の「共視」という概念を援用して,「ともに眺めること」に含まれる治療的意義を論証した。これは第3章で,「眺め」が他者からの共感を得てはじめて成立すると指摘した点と軌を一にしている。また,セラピストの態度としての「ともに眺めること」は,箱庭療法がわが国で極めて発展したことと関係があると考えられることを示唆した。本章のまとめとして,「眺め」意識は,クライエントの症状理解やセラピストの治療技法という面から心理療法における重要な問題を解く鍵となりうる可能性が示唆された。第8章は,本研究の現代的意義を論じて結論とした。「眺め」意識をめぐる問題は,事例の個別性を越え,現代人の抱える共通の心理的課題を示していると考えることができる。これについて,近年急速に発達した「新型出生前診断」の問題を取り上げて論じた。診断とは「知る」こと(すなわち「見る」意識そのもの)だが,それを推し進めていって解決しない問題があることにわれわれは気がつき始めているのである。ゆえに,現代人の共通の課題は,非常に強力にわれわれを支配してきたこれまでの<意識パラダイム>からはずれた,新しい意識のあり方を模索することだと言うことができる。本論文では,「眺め」意識にその新しい可能性を探ったのである。ただし,真の問題は,「眺め」意識が重要だと言って,単純に通常の意識の働きを否定したり,後戻りするわけにもいかないということにある。本研究で重要な知見は,事例研究によって,単なる古代的な「眺め」意識に戻ることより,それを獲得するプロセスが重要であったことを見出した点にある。なにより,そのプロセスには共感してくれる他者が必要だったのである。ここに,心理臨床学的な観点から「眺め」意識を検討したもっとも重要な意義あると考えられる。
著者
長谷川 政智 森 晃 藤本 泰文
出版者
公益財団法人 宮城県伊豆沼・内沼環境保全財団
雑誌
伊豆沼・内沼研究報告 (ISSN:18819559)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.59-66, 2016 (Released:2017-04-07)
参考文献数
10
被引用文献数
4

宮城県北部の河川・水路ならびにため池で2014~2015年に淡水エビ類の分布調査を実施した.調査の結果,在来種のスジエビPalaemon paucidens に酷似したエビを確認し,同定したところ,その形態的特徴から,外来種のPalaemonetes sinensis であることを確認した.今回,2箇所の調査地でP.sinensis の生息を確認し,再生産して定着していることも確認した.宮城県においてP.sinensis の発見とその定着を確認した報告は初めてである.