著者
高田 浩次 安達 茂樹 大塚 隆嗣 辻 昭一郎 吉田 公彦 戸倉 夏木 中野 太郎
出版者
一般社団法人 日本感染症学会
雑誌
感染症学雑誌 (ISSN:03875911)
巻号頁・発行日
vol.96, no.1, pp.25-28, 2022-01-20 (Released:2022-01-28)
参考文献数
8

The reported major adverse reactions to COVID-19 vaccination are fever, headache, and malaise, but the possibility of other adverse effects should be considered. We encountered a patient who developed facial nerve paralysis with aseptic meningitis after COVID-19 vaccination. The patient was clinically diagnosed as having Ramsay Hunt syndrome, but there is the possibility that the vaccination contributed to re-activation of the varicella-zoster virus. Immediate treatment should be undertaken for facial nerve paralysis as well as critical anaphylactic shock, and careful observations should be made for the possibility of delayed adverse reactions, such as facial paralysis, to COVID-19 vaccination.
著者
伊勢戸 徹 齋藤 暢之 一柳 麻里香 森岡 美樹 細野 隆史 土田 真二 北山 智暁 佐々木 朋樹 齋藤 秀亮 久積 正具 佐藤 孝子 藤倉 克則 園田 朗 華房 康憲
出版者
国立研究開発法人海洋研究開発機構
雑誌
JAMSTEC Report of Research and Development (ISSN:18801153)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.43-53, 2019-04-01 (Released:2019-04-03)
参考文献数
18

海洋研究開発機構(JAMSTEC)は2007年に策定した「データ・サンプルの取り扱いに関する基本方針」に基づき,JAMSTECに帰属するデータ・サンプルを管理,公開し,その幅広い利用を推進している.調査航海で採取された生物サンプルについては,その情報をJAMSTECの情報管理部署がデータベースに登録し一元的に管理しつつも,サンプル自体は採取した研究者らがJAMSTEC内外の各機関に持ち帰って利用しており分散的に管理されている.つまり,生物サンプルは情報管理部署とJAMSTEC内外の研究者らによる共同管理体制をとっている.この生物サンプルの共同管理体制は一見特殊にも見えるが,自機関に帰属するサンプルについて,その所在を把握し,管理していくためには必然的な仕組みだとも言える.また,データベースを公開しており,登録されたサンプルに対して他者が利用申請をする機会を提供している.JAMSTECのサンプルには,これまで博物館やバイオリソースセンター等に保存され提供されてきたサンプルのように永続的に保存されるサンプルも含まれるが,研究者らが日々利用し消費されていくサンプルが多い.このため,JAMSTECの生物サンプル管理と利用の仕組みは,これまで他機関が実施してきた仕組みよりも広範なサンプルの利用機会を拡大しているものであり,サンプルから最大限の科学的成果を生み出し,社会に役立てていくことを目指すものである.
著者
安田 憲司 塚﨑 敦 十倉 好紀
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.73, no.9, pp.640-647, 2018-09-05 (Released:2019-04-27)
参考文献数
43

磁性体や強誘電体,超伝導体といった対称性の破れを伴う秩序相に加え,物質中のバンド構造のトポロジーで分類されるトポロジカル相が物性物理学分野において近年注目を集めている.固体中のバンド構造が非自明なトポロジカル数を有する場合,その固体表面や界面にはバルクの状態と異なる特徴的なバンド分散を生じる.このような表面状態を観測する手法には,角度分解光電子分光や走査トンネル顕微分光法が主として用いられ,トポロジカル絶縁体,トポロジカル超伝導体,ディラック半金属,ワイル半金属などの新たな物質相の実験的検証が進められている.それに加えて近年では,カイラルアノマリーやワイル軌道など,特異なバンド構造に由来した新奇な輸送現象を観測して,外場などで制御しようとする取り組みが盛んになっている.トポロジカル秩序に由来する輸送現象として最も研究されてきたのが量子ホール効果である.量子ホール効果は,2次元電子系に外部磁場を印加することで試料端に1次元のカイラルエッジ伝導を生じて,ホール抵抗の量子化が観測される現象である.この外部磁場を磁化に置き換えた量子異常ホール効果は,以前から理論的な提案がなされていたが,磁性元素Crを添加したトポロジカル絶縁体薄膜(Bi1-x Sbx)2Te3において最近初めて実現された.量子異常ホール効果は,強磁場を要する量子ホール効果と異なり,零磁場でカイラルエッジ伝導を実現可能である上,磁気秩序変数によってトポロジカル数を制御できるという特徴を持っている.磁場や磁化の方向から一義的に決まる方向にしか運動できないカイラルエッジ伝導は,不純物や欠陥といった乱れによる電子散乱が禁制となるため,非散逸な1次元伝導を実現できる.そのため,カイラルエッジ伝導の次世代低消費電力素子への利用が期待されるが,試料端以外の場所に形成することが困難なため,制御性に乏しいという問題があった.この問題に対し量子異常ホール効果では,試料端のみならず磁壁においてもカイラルエッジ伝導を生じることから,磁区の制御によって伝導の方向のみならずその位置までも自在に制御可能になると期待される.我々は磁気力顕微鏡によって局所的に磁区を書き込む手法を確立し,デバイス試料内に一本だけ磁壁を有する状態を作り出した.この試料に対し,輸送特性のその場測定を行ったところ,単一磁区の状態と異なる特徴的な量子化抵抗値が観測され,磁壁でのカイラルエッジ伝導の発現が明らかになった.さらに,単一デバイス内に様々な磁区構造を形成して抵抗測定を行ったところ,いずれの磁区構造においても理論値との良い一致を示し,カイラルエッジ伝導からなる非散逸伝導回路を磁区の制御によって自在に設計できることが実証された.
著者
石倉 宏恭 丸山 隼一 入江 悠平 泉谷 義人 内藤 麻巳子 鯉江 めぐみ 星野 耕大 仲村 佳彦
出版者
一般社団法人 日本血栓止血学会
雑誌
日本血栓止血学会誌 (ISSN:09157441)
巻号頁・発行日
vol.31, no.4, pp.398-408, 2020 (Released:2020-08-12)
参考文献数
31
被引用文献数
2 2

今回,重症新型コロナウィルス2019(Coronavirus disease 2019: COVID-19)患者の凝固線溶異常について,若干の知見を得たので報告する.症例は6症例で,ICU入室から8日間の経過で血小板数が10×104/mm3未満に低下したのは1例のみであった.prothrombin time-international normalized ratio(PT-INR)は経過を通じて概ね正常で,activated partial thromboplastin time(APTT)は経過中5例で正常上限を上回ったが,1例を除き大きく延長する事は無かった.一方,FDPとD-dimerは経過中,正常上限を超えて推移し,2例は第7病日以降に著明な再上昇を来した.以上より,重症COVID-19患者は感染症にも関わらず,凝固線溶異常は「線溶抑制型」でなく,あたかも「線溶亢進型」の様相を呈していた.6例中4例がJapanese Association for Acute Medicine criteria(JAAM)disseminated intravascular coagulation(DIC)診断基準でDICと診断され,遺伝子組換え型ヒト可溶性トロンモジュリン(rhsTM)が投与され,3例が投与終了時点でDICから離脱した.
著者
沼倉 研史 沼倉 満帆
出版者
日本英学史学会
雑誌
英学史研究 (ISSN:03869490)
巻号頁・発行日
vol.1987, no.19, pp.91-108, 1986-11-01 (Released:2010-02-22)
参考文献数
55
被引用文献数
2

Taizo Masaki, the first president of Tokyo Shokko Gakko (Tokyo Industrial School), is most prominently mentioned in “Yoshida Torajiro”, a short story by Robert Louis Stevenson. From 1876 to 1881, Masaki was in Great Britain supervising Japanese students. In the summer of 1878, he met Stevenson at Edinburgh, and told him about the Japanese anti-Shogunate revolutionary Shoin Yoshida, who was Masaki's teacher when he was a young boy. It is not clear, however, what precisely Masaki's main work in Britain involved. In this article, his history and achievements there will be described.Masaki was born on October 24, 1846 as the third son of Jiemon Masaki, a high ranking samurai in Choshu. Choshu was a hotbed or revolutionary activity against the centralized federal Shogunate regime, and many of his family were likewise revolutionaries, later assuming a number of important roles in the Meiji Revolution. Furthermore, there were many great revolutionaries and statesmen around him including Kaoru Inoue, Takayoshi Kido and Saneomi Hirosawa. Thus, the formation of Masaki's character doubtlessly was affected by them. When he was about thirteen years old, he attended Yoshida's private school, Shokason-Juku. He became the page of Motonori Mori, the Prince of the Daimyo Lord of Choshu. The Daimyo was cut off from the progressive camp, and so Masaki acted as his mesenger.After the Meiji Revolution of 1871, Masaki was dispatched to Great Britain to study modern mintage technology. In fact, however, he studied chemistry at University College in London. At this time, he met R. W. Atkinson and invited him to go to Japan as a professor of Tokyo Kaisei Gakko. In 1874, Masaki returned to Japan with Atkinson, and worked as an assistant professor for Atkinson for about two years at Tokyo Kaisei Gakko. He taught basic chemistry, including analytical chemistry and chemical experimentation. He was the first Japanese to teach modern Western chemistry in a Japanese university.In June, 1878, Masaki went to Great Britain again as the supervisor of new students newly selected for study abroad from Tokyo Kaisei Gakko, and stayed there for 5 years. In 1881, he came back from Britain, and became the first president of Tokyo Shokko Gakko (presently Tokyo Institute of Technology). For nine years, he worked earnestly to establish the first Western-style industrial school in Japan. In 1890, Masaki was transferred to the Foreign Office, and went to Honolulu as the consul general of Hawaii. But his life in Hawaii was not long. He returned to Japan in December 1892, and retired from public service for reasons of his health, and he died on April 5, 1896.Masaki's main accomplishment in Britain can be classified in terms of three categories. First, he took care of the Japanese students in Europe. We can read his annual reports from Britain, which describe the activities of his students. Secondly, he was able to find good teachers for new schools or universities in Japan. One of these was famous physicist Sir J. A. Ewing. In Edinburgh, along with Ewing, he also met Stevenson. It was during this time, that he gave Stevenson his account of his teacher Shoin Yoshida. Thirdly, he conducted research in the area of modern education in Europe. He worte many articles in Japanese educational journals, including translated articles or lectures and his own reports of experience in Great Britain.Taizo Masaki's achievements in Great Britain were important to education, particularly industrial education in early Meiji Era.
著者
高森 稔弘 大栗 聖由 足立 良行 今井 智登世 佐藤 明美 原 文子 本倉 徹
出版者
一般社団法人 日本臨床衛生検査技師会
雑誌
医学検査 (ISSN:09158669)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.179-183, 2017-05-25 (Released:2017-05-31)
参考文献数
21

視覚誘発電位(visual evoked potential; VEP)はパルス光や白黒の反転刺激による視覚刺激によって生じた網膜視覚細胞の興奮が視覚伝導路を介し,大脳の視覚中枢において誘発される電気的反応である。当院では,パターンリバーサルVEPを検査する際,光刺激装置としてブラウン管(cathode ray tube; CRT)を用いている。現在,一般市場では,CRTに替わり液晶ディスプレイ(liquid crystal display; LCD)が普及しつつあるため,VEPの刺激装置においても,CRTからLCDに切り替えられることが予想される。今回われわれは,使用モニターの種類がVEPへ及ぼす影響について検討した。刺激装置は,CRTと応答時間の異なったLCDを2台用い,それぞれ平均輝度を統一して,VEP測定を行った。LCDによる潜時は,N75,P100,N145のすべてにおいて,CRTと比較して有意に延長していた(p < 0.01)。振幅は,CRTとLCDとの間に有意な差は認められなかった。LCDは,黒色から白色へ変化するまでの応答時間が存在するために,CRTと比較して,潜時が延長したと考えられた。一方,振幅は平均輝度を統一すれば,CRTと同等の振幅がLCDでも記録可能である。モニターをLCDへ移行する場合,CRTと同様の基準値を使用することは不適切であり,使用するLCDごとに基準値を設定することが必要である。
著者
倉橋 隆
出版者
The Society of Cosmetic Chemists of Japan
雑誌
日本化粧品技術者会誌 (ISSN:03875253)
巻号頁・発行日
vol.32, no.3, pp.240-246, 1998-09-20 (Released:2010-08-06)
参考文献数
22

われわれの香り感覚は鼻腔内の嗅細胞繊毛膜において始まる。この情報変換の分子機構はGタンパク介在性の二次メッセンジャー系によって仲介され, 最終的には細胞膜の陽イオンチャネルを開口し, 一価陽イオンや二価陽イオンを細胞内に流入させることによって, 化学信号を電気的信号 (生体信号) に変換する。陽イオンチャネルを通るCaはさらに二つの重要な役割を果たすことになる。一つは, 細胞内からClチャネルを開口することで, イオン環境が変化した場合にもイオン電流を恒常的に保つ役割をもつ。また, cAMP感受性イオンチャネルに対してフィードバックをかけることによって, 細胞の順応を引き起こす。これとは別に, においマスキングはにおい物質そのものによってイオンチャネルが閉じてしまうことが原因らしい。
著者
岩倉 具忠
出版者
京都外国語大学
雑誌
研究論叢 (ISSN:03899152)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.175-184, 2006

「国語論争」(questione della lingua)とは幾世紀にもわたるイタリア語のモデル(共通語)についての大論争である.文学作品の創作にあたって,フィレンツェを代表とするトスカ-ナ地方の方言なのか,それとも多くの方言の長所を採り入れた折衷的なイタリア語なのかという問題である.それには中世以来多国家,多都市に分裂していたイタリアの歴史自体が深くかかわってくる.中世のいわゆる育都市国家を経てルネサンス時代に入ると,イタリアにはいくつかの強力な国家の支配が確立し,政治的にも文化的にも互いに拮抗し合い,覇権を争うことになる.当然この不統一な政治状況は「俗語の混乱」を招き,当の国語論争にも反映した.フランスのように中央集権国家の確立によって政治的統一が達成されていた国とは違い,イタリアはそうした統一が政治的要因によって阻まれていたとはいえ,イタリア人には同じ文化を共有しているという意識はあった.だからこそ共通語としてのイタリア語を求めたのである.ルネサンス期には各々宮廷を持つ君主,僭主,教皇たちの人文主義的文化政策によって知識人のあいだの交流が促進され,かれらのあいだには,時として政治的統一への願望とあいまって,古代におけるラテン語のような「共通語」への回帰に対する欲求がとみに高まってきたというのも事実であった.この論争のさなかにトリッシノによって発見されたダンテの『俗語詩論』の写本が,「折衷派」に利用されることになる.しかし『俗語詩論』でダンテの追い求めた「共通語」は,実は詩のジャンルのなかでもっとも高級なカンツォ-ネに適した「高貴な俗語」にはかならなかった.そうした理想的言語を駆使できるのは,プロヴァンスの詩人たちにも匹敵する国際級の大詩人であり,シチリア派やボロ-ニャの少数の詩人とダンテ自身のみであることを巧妙に暗示しようというのが『俗語詩論』の「隠れた」意図であったとすれば,この作品はいわば文学的「自己解釈」であったと考えられる.こうした隠れた意図はもとより,次元の高いダンテの構想を理解できなかったルネサンスの作家たちは,『神曲』をフィレンツェ方言で書きながら,『俗語詩論』で,ある種のフィレンツェの語嚢を拒絶したダンテが矛盾を犯していると考えた.その代表者は共通語をフィレンツェ方言にするべきであると主張するマキャヴェッリであった.中世の修辞学に則りダンテは,詩の文体に厳密な等級を設け,カンツォ-ネは最高級の「悲劇的」文体でかかれ,一方『神曲』は,中級の「喜劇的」文体でかかれるべきであるとした.したがって「高貴な俗語」の範疇に入らない低俗な語彙が『神曲』で用いられるのは当然のことなのである.その後のイタリア語はどのような歩みをたどったのであろうか.現在イタリア語の標準語は,フィレンツェ方言に落ち着いた.実はイタリア語の標準語の形成には独特な経緯があったのである.ダンテ,ぺトラルカ,ポッカッチォの三大作家がいずれもフィレンツェ方言で創作したため,イタリア全土のひとびとはまずものを書くにあたって,この三大作家をモデルにした.その結果フィレンツェ方言が共通語となり,やがて話しことばにもフィレンツェ方言が浸透していった.ダンテから現代にいたる700年の間にイタリア語がさほど変わっていないということは,三大作家の時代に現代イタリア語の基礎が築かれたということを意味する.ダンテはよく「イタリア語の父」と呼ばれるが,これは単なる比境というより,まさに文字通り,イタリア語の生みの親といえるであろう.国語論争をしているあいだに言語は自然の流れに乗っていたのである.
著者
小椋 正道 矢野 久子 利根川 賢 中村 敦 伊藤 誠 岡本 典子 高阪 好充 溝上 雅史 新井 亜希子 倉田 浩
出版者
Japanese Society of Environmental Infections
雑誌
環境感染 (ISSN:09183337)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.99-104, 2005-06-15 (Released:2010-07-21)
参考文献数
13

発熱と呼吸困難を繰り返し過敏性肺臓炎が疑われた77歳女性に対し, 原因微生物を検索する目的で患者宅環境調査を行った. 調査方法として (1) 浴室, 超音波式加湿器 (以下加湿器), 患者寝室の滅菌綿棒による拭き取り,(2) 加湿器内の水 (加湿器水) の培養,(3) 患者寝室押入れと加湿器の置いてある居間のエアサンプリングを行った. その結果, アレルゲンと成り得るグラム陰性桿菌と真菌が合計11菌種検出された.これらの菌から作製した抗原液と患者血清による沈降反応 (Ouchterlony 法) を行い, 加湿器の内壁, 加湿器水, 加湿器稼動中の居間の空気の3箇所より検出されたCandida guilliermondiiが陽性であった. 3箇所から検出されたこの菌はPFGE解析により核型が一致しており, 加湿器内で増殖していた本菌が加湿器を稼動させたことで空気中に飛散したことが示唆された. 本事例は加湿器を廃棄したところ症状の再発がみられなくなった. 以上からC. guil-liermondiiを原因微生物とした加湿器肺が強く疑われた.
著者
山村 行夫 高倉 淳 平山 二三夫 山内 博 吉田 稔
出版者
社団法人 日本産業衛生学会
雑誌
産業医学 (ISSN:00471879)
巻号頁・発行日
vol.17, no.4, pp.223-235, 1975 (Released:2011-03-04)
参考文献数
30
被引用文献数
2

Two cases of tetraethyl lead (TEL) poisoning are described. Both subjects had been exposed to TEL in the process of scaling using high pressure water stream during the cleaning work inside the aviation fuel tank. The aviation fuel contains TEL in a concentration of 1. 12 g lead per liter. The affected men failed to wear respirators during the cleaning work because the explosimeter indicated a negative reading for petrol. After one hour of tank cleaning work they suffered from lacrimation, running rhinorrhea and vomiting.Case 1. A 54-year-old man was admitted to a general hospital 3 days after the exposure to TEL and complained of hand tremors, amnesia and disorientation. He was restless, violent and confused in the night. On 12th day after the exposure to TEL, the condition bacame worse with marked agitation, delirium, convulsion, fever and coma. He died on 18th day after the exposure to TEL. During the admission, urinary coproporphyrin and basophilic stippling cells were normal ; no blood and urinary lead determination were done.Case 2. A 48-year-old man, on 2nd day after the exposure to TEL complained of chills, tremors, marked nausea and vomiting which persisted all night. Next morning he was admitted to another hospital. He had generalized tremors, ataxia, disorientation and at night he was suspicious, restless and violent. On 9th day after the exposure to TEL, his insomnia and restlessness gradually improved and he was discharged two months later.In this case, urinary lead determinations were done serially from 20 days to 196 days after the accident and blood lead determination was done once a week. On 20th day after the exposure, blood lead level was 52.3μg/100g, urinary lead concentration 586 μg/l and erythrocyte ALA dehydrase (ALA-D) activity was markedly reduced to 0.11μ mole PBG/ml RBC/hr. On 196th day after the exposure to TEL, his condition was both physically and mentally normal but his blood lead level was slightly elevated to 26. 1 μg/100 g and the urinary lead concentration was still at 37.0μg/l (81μg/24hr). Blood triethyl lead levels were found to be 5.8μg Pb/100g after 56 days, steadily decreasing thereafter to 1.3μg Pb/100 g up to 196 days.In this case, the reactivation of erythrocyte ALA-D and the fall of blood lead levels occurred simultanously in a manner similar to that observed in men exposed to inorganic lead. The regression line for erythrocyte logarithmic ALA-D activities and blood lead levels in this case is identical to that obtained from workers exposed to inorganic lead and the control group occupationally unexposed. These results suggest that the reduced erythrocyte ALA-D activities found in the TEL poisoning was due to inorganic lead resulting from the decomposition of TEL.Workmen handling antiknock additives were investigated regarding potential hazardous effects of tetraalkyl lead (TAL). The subjects consisted of workmen who engaged in mixing TAL into petrol, transportation of TAL by trucks or barges and storage tank cleaing. There were no abnormal values of blood lead levels, erythrocyte ALA-D activities or excreted urinary lead in those workmen.
著者
千葉 政一 森脇 千夏 伊奈 啓輔 藤倉 義久
出版者
公益社団法人 日本薬理学会
雑誌
日本薬理学雑誌 (ISSN:00155691)
巻号頁・発行日
vol.147, no.1, pp.48-55, 2016 (Released:2016-01-09)
参考文献数
110
被引用文献数
2

視床下部神経ヒスタミンはヒスチジン脱炭酸酵素によって必須アミノ酸l-histidineから生合成され,食行動・エネルギー代謝調節などの生理機能を広く制御し,他のアミン神経系同様に重要な役割を担う.近年,この視床下部神経ヒスタミンは5つの神経亜核(腹側亜核群としてE1,E2およびE3,背側亜核群としてE4およびE5)から構成されることが明らかとなった.E1とE2はおもに概日周期の情報処理に,E3はおもに空腹時の拮抗性食行動情報処理に,E4とE5はおもにストレス情報処理に,それぞれ関連した生理機能制御に寄与すると考えられる.しかし,これらの神経亜核群の生理機能について不明な点が多く残されており,今後の視床下部神経ヒスタミン研究と同分野の創薬に飛躍的な発展が期待される.
著者
片倉 綾那
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.45-56, 2008 (Released:2011-12-20)
参考文献数
32

This essay investigates the identity of Byzantine princess Anna Komnene through a consideration of two conspiracies in which she was involved.Before and after the accession of the Alexios I Komnenos, who was the founder of the Komnenos Dynasty, there were three women, who played roles on the political stage. Each of them participated in politics as mothers and wives of emperors on behalf of their children.However, there was a princess who had ambitions for herself, not her own children. This princess is Anna Komnene, who was the first-child of Alexios I. She is famous as the author of "Alexias" and the only female historian in the society of medieval Christianity. But she has another identity, as a chief conspiratress. She attempted plots in order to gain for herself a government post during Alexios I's reign, claiming her right of place as the emperor's first-child.Some scholars have analyzed these two plots by Anna as part of the long history of political struggles and intrigues that characterized the political history in the Komnenian era. On the other hand, other scholars have used the incidents as a way to focus on the role of imperial women who participated in these events; they have investigated the political role of imperial women through a close examination of their participation in these plots.In this essay I focus not only on the patterns of action by the women, but also on the incidents as an important part of the way in which Anna forged her own identity. I believe this approach will allow us to see more clearly how Anna used the incidents to strengthen her own position.In this paper, the hypothesis is demonstrated that the two plots in 1118 and 1119 were Anna's attempts to recover her right to the throne. Firstly, I describe Anna's role in these affairs as revealed through consideration of the process of development of the two conspiracies. Next, I examine the ways in which imperial women in general were able to participate in politics and compare these with Anna's actions in these two incidents. Finally, I look into Anna's identity, as the first-child of the emperor and the empress.