著者
宮原 誠 三井 実 林 正樹
出版者
一般社団法人 映像情報メディア学会
雑誌
映像情報メディア学会技術報告 38.16 (ISSN:13426893)
巻号頁・発行日
pp.205-206, 2014-03-10 (Released:2017-09-21)

『今まで耳でしか聴いたことがなかった音楽を今回,身体全体の細胞で聴くことができました.透き通った音色は生きており皮膚を撫でて行くようです』の状況は、"こころが感じる"で、芸術と科学の融合を掲げる芸術科学会の基礎テーマであり、正面から対応する。この状況をオカルトとして対応しない大多数の日本の自然科学者を標榜する人も納得させうる、哲学的に客観性を証明した、新・電気音響論である。それは、客観評価尺度を定義し、人のこころに感動を喚起する高度感性情報を伝える音の音響理論であり、実際に装置を研究開発した。物理歪量のみの定義のみで音質を言及しない従来ハイファイとは別次元の音響理論である。
著者
郡司菜津美 岡部大介# 青山征彦 広瀬拓海 太田礼穂 城間祥子 渡辺貴裕# 奥村高明#
出版者
日本教育心理学会
雑誌
日本教育心理学会第61回総会
巻号頁・発行日
2019-08-29

企画趣旨 パフォーマンス心理学とは,個体主義と自然科学主義を特徴とする心理学へのラディカルな批判から出発し(茂呂, 2019),人間の集合的発達を支えようとする新しい運動である。本企画では,このパフォーマンス心理学の具体について話題提供することで,これまでの学習と発達の捉え方との違いを示し,参加者皆で学習/発達観を発達させたい。 有元(2019)が「パフォーマンスという言葉を用いるということは,アームチェアに座って頭で考えることから心理学という学問を解放したいという意図がある」と述べているように,本企画では,学習と発達について主知的(intellectual)な理解をすることを目指すのではなく,理解のパフォーマンス化(performance turn)を目指してみたい。本企画では関連する2書『パフォーマンス心理学入門』(香川・有元・茂呂編著, 2019)および『みんなの発達!』(フレド・ニューマン著,茂呂・郡司・有元・城間訳,2019)から,発達とパフォーアンスに関する4つの話題を提供する。やり方を知らないことに取り組み,発達するためには,発達の場づくりを皆でパフォームする必要があり,それはアカデミアにしても同じことだ。パフォーマンス心理学においては,研究者自身もパフォーマンスの一部(青山, 2019)であることが前提とされる。 なお本企画は,SIG DEE(日本認知科学会 教育環境のデザイン分科会)が主催する。パフォーマンス・ターンをパフォーマンスする太田礼穂 本発表では,状況論におけるパフォーマンス心理学への転回(パフォーマンス・ターン)について理論的背景と方法論を比較し,発達的実践としての「パフォーマンス」の可能性を以下の2点から議論する。 まず,パフォーマンス心理学における,パフォーマンスの位置づけとその意味を紹介する。特にこのパフォーマンスが,個人に紐づけられた成果や技術という意味ではなく,たとえば乳幼児が遊びながら今現在の自分ではない自分に「成っていく」ような協働の過程に注目する理論的装置であることを紹介する。これを支えるヴィゴツキーの遊び論や演劇論,ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの議論などの参照を通じ,パフォーマンス・ターンの意義を整理する。 次に,状況論との連続性と不連続性について紹介する。状況論(状況的学習論)では,人間の知的営みがいかに状況の中に埋め込まれ,その中に参加する人々がどのような存在になっていくかに注目する(たとえばLave & Wenger, 1991/1993)。これは人間の知的営みが社会的起源をもつというヴィゴツキーの理論に基づくものであり,人間の思考や学習の成り立ちを過度に内的プロセスから説明しようとする個人主義的アプローチとは異なる学習・発達に関する知見だといえる。パフォーマンス心理学もヴィゴツキーの理論に基づくという意味で,状況論と思想的起源を共有しているが,両者の違いはいったい何だろうか。本発表では「現実」の分析と制約という観点から,パフォーマンス心理学がもたらす「研究」と「実践」の接続の意味を考えていきたい。学校外における子ども・若者支援のパフォーマンス広瀬拓海 近年,貧困や格差が,子ども・若者にもたらす問題に関心が集まっている。本シンポジウムで話題提供者が注目するのは,以上のような問題を受けて,身近な子ども・若者のために勉強や食事,居場所を提供する新しい地域コミュニティをつくり出した人々の動きである。パフォーマンスとは,自分とは異なる人物に成ることであるが,それは既存の社会的な制約を超えた新しい活動やコミュニティを創造(ビルド)することと切り離せない。貧困問題という急速に現れて来た社会的な課題に対して,それらを良い方向に導いていくための地域住民のコミュニティビルドは,まさに今生まれつつある新しいパフォーマンスだといえるだろう。本発表では,以上のコミュニティビルド=パフォーマンスが,実際の社会的な文脈の中でどのように準備されてきたのかを検討していく。特に,このとき交換(柄谷,2001)の観点からそのプロセスを見ていくことで,パフォーマンスが歴史的な交換様式の変化の中で生じた問題への応答としてあらわれてくる可能性について議論する。教員養成におけるパフォーマンスの実際郡司菜津美 現在,新たに教員養成に求められていることとして,(1)主体的・対話的で深い学びの場作りができるようになること,(2)チーム学校の一員として仲間と共同することの重要性について理解させること,の2点が挙げられる。筆者は教員養成に携わる一人として,この2点を重視した指導を行ってきた。そのために応用演劇の一つである「インプロ」を用い,学生たちが教師としてのパフォーマンスを学習できるように重点を置いてきた。 ここでいう教師としてのパフォーマンスとは,やり方を知らないことに皆で取り組める場をつくることであり,講義ではこのことを先取り的に体験させた。またインプロとは,共同の価値を学習することができる演劇手法であり,集団の中で失敗を失敗にしない安心感のある場を作る体験ができるものである(Lobman & Lundquist, 2007)。講義ではインプロを用いたことで,学生たちはチームの一員として仲間と共同することの重要性に気付いたと考えられた。 ただ,こうした学生たちの姿は何かができるようになったというよりは,パフォーマンスの意味・意義を体験的に知ったという方が妥当であろう。そこから何が起きるのか?授業である以上,ここが最も重要である。 本発表では,筆者が実際に授業で実践しているパフォーマンスの効果について,皆さんと検討してみたい。みんなの発達のためのパフォーマンス城間祥子 『みんなの発達!』は,現代の社会や文化の中で感情の痛みをかかえて生きているごく「普通の人びと」の日常に,ソーシャルセラピーの実践的で批判的なメッセージを届けるために書かれた本である。この本には,パフォーマンス心理学の創始者のひとりであるフレド・ニューマンのソーシャルセラピーに参加した「普通の人びと」が数多く登場する。ソーシャルセラピーは,セラピーと称しているものの,従来の心理療法とは異なり,診断とそれにもとづく問題解決を目指さない。コミュニティを創造するプロセスを通して,自らのライフ(生活,人生,生き方)の全体を転換させる実践である。 ソーシャルセラピーグループは,参加者が自らの発達を創造することを支える場である。参加者は場に「ギブ」することで場の発達に貢献する。同時に,場の発達が個々の参加者に発達と成長をもたらす。グループで試みられた新しい生のパフォーマンスは参加者相互の「ギブ」によって完成し,問題がもはや問題として成立しなくなるような発達が生じるのである。 本発表では,ソーシャルセラピーのアプローチを理解する上で重要ないくつかの概念(ゲットとギブ,全体と個別,言葉,エクササイズ等)を共有するとともに,ニューマンの哲学と実践を,私たちの文化や日常を変化させるためにどのように用いていけばいいのかを議論したい。参考文献「パフォーマンス心理学入門 共生と発達のアート」 香川秀太・有元典文・茂呂雄二 編著 新曜社 2019「みんなの発達!ニューマン博士の成長と発達のガイドブック」 フレド・ニューマン・フィリス・ゴールドバーグ 茂呂雄二・郡司菜津美・城間祥子・有元典文 訳 新曜社 2019
著者
田中 耕一郎
出版者
一般社団法人日本社会福祉学会
雑誌
社会福祉学 (ISSN:09110232)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, pp.30-42, 2010-08-31

本研究では,<重度知的障害者>を包摂する連帯規範の内容と深く関わる承認をめぐる問題について考察する.<重度知的障害者>をいかに承認しうるかという問いは,連帯規範の人間概念に<重度知的障害者>をどのように包摂しうるのか,という問いと同義であるが,現代の福祉国家を哲学的次元において基礎づけてきたリベラリズムの正義では,人間概念の核に自律性をおくがゆえに,そもそも<自律性なき者>(と評価された者)の存在は,その理論的射程に含まれてこなかった.本研究では,まず,リベラリズムの人間概念に異議を唱えたいくつかの倫理的思考を検討しながら,<重度知的障害者>の承認問題におけるそれらの可能性を考察する.次に,<重度知的障害者>も含め,あらゆる人間存在を包摂し,かつ,万人が自明と認めうる普遍的な人間的属性としてvulnerabilityを提起しつつ,この人間的属性から連帯規範を立ち上げることの可能性について考えていきたい.
著者
赤間 啓之
出版者
一般社団法人情報処理学会
雑誌
情報処理学会研究報告人文科学とコンピュータ(CH) (ISSN:09196072)
巻号頁・発行日
vol.2001, no.51, pp.1-8, 2001-05-25
参考文献数
5
被引用文献数
4

この論考は、情報検索学の手法を計量文体論に導入し、哲学的なコーパスから文脈の自動抽出を行うことを目的とする。具体的には高頻度名詞と共起する有意味単語データを因子分析することで、18世紀後半と19世紀初頭にかけて活躍したカバニスとメスメールという、二人の思想家の予想外な類似性を計算する。In this paper, it is our aim to abstract automatically the latent semantic context from philosophical corpora by introducing the IR method into the stylometrics. We apply the factor analysis to the exhaustive data of content?bearing words co-occurring with the highest frequency nouns. By way of example, the unexpected similarity between Cabanis and Mesmer, two great thinkers in the late 18th century and early in the 19th century is calculated.
著者
梅山 聡
出版者
和洋女子大学
雑誌
和洋女子大学紀要 = The journal of Wayo Women's University (ISSN:18846351)
巻号頁・発行日
no.60, pp.222-211, 2019-03-31

「ねむり看守」は、鏡花の実質的に最初の本格的な口語体小説として評価されるべき作品である。「ねむり看守」では、看守の老人が囚人たちに物語を語りきかせる情景が描かれる。看守の語りには口頭話法に近いくだけた口語体が用いられており、かつその語り行為には、哲学者・坂部恵の定義する「はなし」と「かたり」との両面にわたる複雑な二面性が認められる。それによって、いわば「はなし」を装った「かたり」とでもいうべき高度に屈折した物語言語が生み出されている。この看守の語りは独立した小説表現を形成し得る質を有するものであり、そのような口語体の語りは、それ以前の鏡花作品には見出されない。ゆえに「ねむり看守」は、鏡花の初期創作活動において重要な意義を有する作品なのである。
著者
中澤 信彦
出版者
關西大学經済學會
雑誌
関西大学経済論集 (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.253-279, 2006-12

ラヴジョイは、『存在の大いなる連鎖』において、ヨーロッパ思想史上、プラトン以来の主要な観念図式として「存在の連鎖」を抽出し、ヨーロッパの自然・社会認識のあり様を特色づけた。神によって個別に創造されたすべての種(生物・無生物)は、最も高等なもの(天使)から最も下等で原始的なもの(鉱物)にいたるまで、「欠けている環」のない単線的な階層秩序を形成している、という世界観をこの観念図式は含意しており、18世紀に空前絶後の普及を達成していた。詩人ポープは哲学詩『人間論』でこうした世界観を典型的に表現した。本稿は、バークとマルサスのデビュー作がともに『人間論』からの引用を含んでいる事実を出発点として、両者における政治的保守主義と経済的自由主義の結合の知的起源を「存在の連鎖」の観念図式およびその変容(時間化)に求め、英国近代保守主義が啓蒙思想に対する反動的側面ぼかりでなく啓蒙思想の「末子」あるいは「一ヴァリアント」としての進歩的側面(漸進的改革論)も有することを明らかにする。
著者
斉藤 了文
出版者
名古屋工業大学技術倫理研究会
雑誌
技術倫理研究 (ISSN:13494805)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-20, 2006
被引用文献数
1

テクノロジーを理解する枠組みを提案する。その基本は、「人工物に媒介された倫理」である。人工物をつくるエンジニアにとって、その責任とか、人工物を使うユーザの位置づけを考える上で、人工物に媒介されているという観点は興味深い論点を含んでいる。 さらに、テクノロジーが使われている社会とその制度の記述を基に考察を進める。その基本が、不法行為法の変遷である。このポイントは、過失に焦点を当てると、それを通じて自律的な人間というユーザの位置づけができなくなる、ことである。この場合に、社会的行為者として責任を取ることのできるものは、メーカーつまり法人という「奇妙な人工物」になってしまう。また、エンジニアも専門家団体の一員として(医師や弁護士のように)損害賠償責任を負うことになれば、テクノロジーと共に暮らす社会の責任ある行為者となりうる。
著者
佐藤 俊樹
出版者
数理社会学会
雑誌
理論と方法 (ISSN:09131442)
巻号頁・発行日
vol.29, no.2, pp.363-372, 2014

盛山和夫『社会学の方法的立場』ではM・ウェーバーやN・ルーマンらの方法論が批判的に再検討されているが,我々の考えでは,これらは彼らへの批判というより,その理論と方法の再記述にあたる.例えばウェーバーの方法は,近年の英語圏や独語圏での研究が示すように,主にJ・フォン・クリースの統計学的で分析哲学的な思考にもとづくもので,経験的な探究では『理念型』や『法則論的知識』は因果分析での反事実的条件としても使われている.彼の『価値-解釈』はベイズ統計学での事前分布と機能的に等価であり,有名な『価値自由』論が意味しているのは,内部観察である社会科学にとって不可避な,観察の理論負荷性である.
著者
川瀬 和也
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2017, no.68, pp.109-123, 2017-04-01 (Released:2017-06-14)
参考文献数
6

The “Idea” is, according to Hegel, the unity of the subject and object. However, as often in Hegel, his explanation of the role of the “Idea” is extraordinarily dense, and it is hard to understand what he means. In this paper, I will attempt to reveal the meaning of Hegel’s “absolute Idea” by focusing on his notion of dialectic and his favorite analogy of the circle.Robert B. Pippin argues that Hegel’s logic is the completion of Kant’s transcendental philosophy, and therefore, a kind of epistemology in itself. James Kreines, however, criticized this view in his recent book. Hegel, says Kreines, criticizes any attempt to start with the assessment of our epistemic faculties; so according to him, Pippin’s interpretation cannot be valid. I take Kreines’ critique seriously. Hegel cannot begin his philosophical system with an epistemological argument.However, it is also incorrect to start with a metaphysical argument. If we read Hegel’s argument on dialectic carefully, we can see that it is impossible for him to start with either epistemology or metaphysics. Rather, we must not fixate on where to start.Prohibiting this fixation, in Hegel’s view, shows us how to solve the problem of the gap between subject and object. And it is because of this insight, I believe, that Hegel emphasizes the analogy of the circle when he argues for a genuine method of philosophy.
著者
香川 秀太
出版者
日本グループ・ダイナミックス学会
雑誌
実験社会心理学研究 (ISSN:03877973)
巻号頁・発行日
pp.si4-5, (Released:2018-12-14)
参考文献数
31

本稿では,これまでの経済中心の資本主義社会ないし新自由主義に代わり構想され,出現しつつある「未来の社会構造」に関する哲学的諸議論(とりわけ,柄谷行人の交換論とHardt & Negriのマルチチュード)に着目し,それらと心理学的フィールド研究,ないしヴィゴツキー派心理学の活動理論との発展的な接合を試み,ポスト社会構成主義(ないしポスト活動理論)への道筋を探る。具体的には,第一に,Scribnerによる「歴史の四層構造モデル」を用いて従来の活動理論研究の限界を指摘し,各々の共同体や個人史レベルの議論だけでなく,社会構造の世界史に着目した議論の必要性を論じる。第二に,活動理論家Engeströmによる「生産様式の世界史」の議論の限界を指摘し,それを乗り越えうるものとして,柄谷の交換様式の世界史の理論を取り上げる。第三に,「次の社会」の萌芽的な事例として,相模原市藤野周辺地域での,資本制の価値観を乗り越えうる諸活動に着目する。第四に,事例をふまえて,従来の交換論や贈与論が,「独立した自己と他者」の間の「有体物・無体物の行き来」という移送(トランスファー)の言説に依拠してきたことを指摘し,この「移送的交換」では「次の社会構造」の展開が困難なことを指摘する。そして最後に,移送的交換がもたらす,「財の獲得か贈与か」の二元論を越える概念として,「創造的交歓(creative intercourse)」を提案する。
著者
水野 浩二
出版者
北海道大学哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:02872560)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.1-17, 2002-07-21
著者
良峯 徳和
出版者
多摩大学グローバルスタディーズ学部グローバルスタディーズ学科
雑誌
紀要 = Bulletin (ISSN:18838480)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.125-143, 2014-03-01

虚構存在をめぐる哲学上の議論を概観すると、その議論の多くが、虚構に関する知識フレームのあり方を問うたものであり、虚構のパラドキシカルな性質の多くは、指示対象としての存在者とそれに関する知識フレームを混同したことに起因することがわかる。こうした考察に基づき、知識フレームの概念を用いて、コンピュータ上に意味ネットワークを構築することで、現実世界と虚構世界を混同することなく、虚構テキストの内容を理解する擬似的なシステムの構築を試みた。In this paper, I reviewed the recent philosophical discussions on fiction. I found most of them are on the ontological status of knowledge frames about fictitious existence and that the presumed paradoxical properties of fictitious existence arise from the confusion between the referents of fictitious expressions and the knowledge frames about them. Based on the consideration, I tried to implement a computer simulation program whereby both the information from fictional text and that from common-sense are integrated into the semantic network without being mixed up.
著者
佐藤 嘉一
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.37, no.1, pp.35-44,129*, 1986-06-30

日常経験、日常知、日常生活を改めて見直す動きが、近年社会学、哲学、言語学などの諸専門的学問分野で盛んである。社会学の分野では、とくにエスノメソドロジー、象徴的相互作用論、現象学的社会学などの<新しい>社会学が日常生活を問題にしている。本稿で問題にしている事柄は、次の三点である。<BR>一、 社会学の内部で日常経験の世界に関心をむけさせる刺激因はなにか。日常経験へと志向する社会学が<新しい>と呼ばれるのはなぜか。日常経験論とシステム理論とはどのような問題として相互に関連するのか。<BR>二、 一で明らかにした<科学の抽象的現実>と<生活世界の具体的現実>との<取り違え>の問題を、シュッツ=パーソンズ論争を例にして検討する。<BR>三、 ルーマンのシステム理論においても、<科学の自己実体化>の角度から二の問題が論じられている。ルーマンの論理を検討する。
著者
小林 卓也
出版者
大阪大学
雑誌
研究活動スタート支援
巻号頁・発行日
2016-08-26

本研究は、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの哲学を自然哲学として提示し、その内実を明らかにすることを目的としている。前年度は、後期の著作である『千のプラトー』(1980)におけるイェルムスレウの言理学および地質学の議論の分析を中心に、ドゥルーズ=ガタリの自然哲学における非人間主義的特性を明らかにした。今年度は、前年度の研究結果を踏まえ、①ドゥルーズの自然哲学に対する哲学史的影響、および、②その自然哲学がいかに現代の人文科学に継承されたのかを明らかにすることで、とりわけ英米圏の人文科学に対するドゥルーズおよびガタリの自然哲学の理論的影響を特定する作業を進めた。