- 著者
-
三島 亜紀子
- 出版者
- 福祉社会学会
- 雑誌
- 福祉社会学研究 (ISSN:13493337)
- 巻号頁・発行日
- vol.15, pp.31-48, 2018-05-31 (Released:2019-06-20)
- 参考文献数
- 46
19 世紀末から20 世紀初頭にかけてのシカゴは,社会学とソーシャルワークが袂を分かった象徴的な場といえる.市内には,セツルメント「ハルハウス」とシカゴ大学社会学部があった.ハルハウスのアダムスらは近代的な都市が抱える社会問題の解決に取り組み,ソーシャルワークの源流の一つに位置付けられている。これに対し,シカゴ大学のパークは都市を実験室と位置付け,アダムスらの調査方法を女性がするものとしジェンダー化することによって,社会学を差異化していった. しかしながら日本では,このジェンダー化は成立しなかった.20 世紀前半の日本の「ソーシャルワーカー」の多くは男性で,ジェンダーロールの反転現象がみられたのである.当時の日本の研究者や実践家は欧米のソーシャルワークを精力的に学んでいたにもかかわらず. 本稿では,日本のソーシャルワークと社会学領域の間にある「社会的なもの」の解釈の違いを踏まえたうえで,日本で初めてソーシャルワークを実践した方面委員の多くが男性であったという事実を検証した.戦前は地域の有力者や素封家の家長が名誉職として方面委員となることが多かったが,現在では,女性の民生委員が6 割を超えるようになるなど,変化を遂げてきた.この変化は参加の動機づけや地域社会,価値観等に変化があったことを示していると考えられるが,「社会的なもの」を自助と公助と共助(互助)と捉える観点は今も強固である.