著者
田森 雅一
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.35, no.4, pp.583-615, 2011

本稿は,今日の北インド古典音楽(ヒンドゥスターニー音楽)に特徴的な音楽流派であり社会組織であるガラーナーと,その概念形成に影響を及ぼしていると考えられる英領インド帝国下での"カースト統計"(国勢調査)と"ナウチ関連問題"(踊り子とその伴奏者に対する蔑視)に注目し,今日の音楽家たちの社会音楽的アイデンティティ形成について探求しようとする人類学的・社会歴史的な研究である。 ヒンドゥスターニー音楽の最終目標はラーガの表現にあると言っても過言ではない。そして,ヒンドゥスターニー音楽におけるラーガの即興演奏で最終的に問われるのは,音楽家個人の理解力・創造力・表現力,そして演奏技術であることは間違いないだろう。しかし音楽家自身が様々な形式の談話において強調するのは個人の演奏技術や熟練度よりも,むしろガラーナーの伝統と権威である。 ガラーナーは,声楽・器楽・舞踊ごとに複数の存在が知られているが,音楽家たちがガラーナーという概念を用いて自分たちを語るようになったのは,20世紀に入ってからのことであると考えられる。今日,大都市に住むサロードやシタールなどの弦楽器の主奏者に,自分たちのガラーナーをたずねると,その「名乗り」として,セーニー・ガラーナーが主張される傾向にある一方,他のガラーナーに対する「名付け」としてミーラースィーというカテゴリーが用いられることもある。セーニーとはムガル帝国第3 代皇帝アクバル(在位1556–1605)の九宝の1 つに数えられた伝説的宮廷楽師ミヤーン・ターンセーンの名にちなむもので,セーニー・ガラーナーとは彼の子孫であるセーニヤーとその弟子筋のことをさす。一方,ガラーナー以前の楽師のカテゴリーとして,カラーワント,カッワーリー,ダーディー,ミーラースィーの4 つがあったとされるが,ムガル帝国期の宮廷音楽に関する資料にはミーラースィーというカテゴリーは見当たらない。本稿では,英領インド帝国下のカースト統計において「結晶化」されたと考えられるミーラースィーというカテゴリーと,彼らが「踊り子」の伴奏者として売春と結び付けられるに至ったプロセスに焦点を当てる。 本稿においては,最初に,今日を生きる音楽家の"われわれ"と"彼ら"についてのガラーナーの語りに現われる社会音楽的カテゴリーを抽出する。次に,それらの語りやカテゴリーがインドの文化社会史とどのように接合されているのかを検証する。そして英領インド帝国期における"カースト統計"と"ナウチ関連問題"の余波が今日の音楽家の再帰的なアイデンティティ形成,すなわちセーニヤーとの結びつきを主張する一方でミーラースィーというカーストとの関係を排除しようとするガラーナーの社会音楽的アイデンティティの構築に,いかなる影響を及ぼしているのかを探求する。This paper is an attempt at an anthropological and socio-historical studythat examines how musicians in modern India have been building their sociomusicalidentity on the concept of gharānā, which is a characteristic schooland social organization in the world of north Indian classical music (Hindustanimusic). It focuses on how the caste-based census and nautch-related issues,i.e. looking down on musicians who accompanied nautch/dancing girls, inBritish-ruled India have impacted the identification of musicians today.It is not an exaggeration to say that the ultimate aim of Indian classicalmusic is its delineation of rāga. In the performance of rāga in Hindustanimusic, the personal understanding, imagination, expression and technique ofthe performer are of course important, but a musician never fails to stress theimportance of the authority and authenticity of his gharānā.There have been multiple gharānās in each genre, i.e. vocal, instrumentaland dance, of Hindustani music. The particular point is the connection betweenthe oral narratives of musicians about "themselves" and "others" and the relevanthistory. It was from the 20th century that Hindustani musicians in thelarger cities started talking about "themselves" by utilizing the concept ofgharānā with Seniyā, and about "others" as Mīrāsī in some cases. Seniyāswere the descendants of Miyan Tansen, who was one of the nine jewels andthe legendary most accomplished musician in the court of Akbar (reign.1556–1605), the third Mughal Emperor. In this paper, the term Seniyā refers to thedirect descendants of Tansen, and Seni-gharānā is used for the groups, includingdisciples, who do not have a blood relationship with Seniyās. It is thoughtthat there were four socio-musical categories of musicians, Kalāwant,Qawwāl, Ḍhāḍhi and Mīrāsī, before the concept of gharānā became common.The head musician of the Kalāwant at the Mughal court was Miyan Tansen.On the other hand, it is hard to find any mention of the category of Mīrāsī ascourt musician in the materials of the Mughal period. This paper focuses onthe Mīrāsī that were considered to be crystallized in the caste-based census ofBritish-ruled India and the process by which they came to be generallyregarded as accompanists and assistants of nautch/dancing girls, i.e. prostitutes.This paper first extracts the socio-musical categories from the oral narrativesof contemporary musicians about their own gharānās and the others.And next it examines how those narratives and categories connect withthe socio-cultural history of India. Finally, it makes clear how the caste-basedcensus and the aftermath of nautch-related issues have impacted the reflexiveidentification of musicians today, and how gharānā as a socio-musical identityin Hindustani music became involved with Seniyā and why the Hindustanimusicians are trying to eliminate the connection with Mīrāsī as a caste.
著者
西田 幸平 小林 正佳 足立 光朗 中村 哲 大石 真綾 坂井田 寛 今西 義宜 間島 雄一
出版者
Japanese Society of Otorhinolaryngology-Head and neck surgery
雑誌
日本耳鼻咽喉科学会会報 (ISSN:00306622)
巻号頁・発行日
vol.107, no.6, pp.665-668, 2004-07-20 (Released:2008-12-15)
参考文献数
11
被引用文献数
2 2

我々の経験した先天性嗅覚障害の2症例を報告する.症例1:13歳女児.症例2:10歳男児.ともに生来においを感じられたことがなく,近医耳鼻咽喉科より当科へ紹介された.嗅裂部を含む鼻副鼻腔所見は両側とも正常であった.基準嗅力検査.静脈性嗅覚検査の結果は共にスケールアウトであった.頭部MRI所見で嗅球,嗅索,嗅溝の低形成が認められた.性腺機能をはじめ,内分泌機能は正常であった.症倒2は先天性小眼球症で全盲状態であった.この例で嗅裂部粘膜生検を施行したが,嗅細胞は認められなかった.今回の2例は性腺機能異常を認めないタイプの先天性嗅覚障害であった.先天性嗅覚障害の診断にはMRIが最も有用であった.
著者
織田 顕信 小島 惠昭 蒲池 勢至 渡邉 信和 青木 馨 小山 正文
雑誌
同朋学園仏教文化研究所紀要
巻号頁・発行日
no.7, pp.281-538, 1986-07

翻刻:「明空上人伝記」、明空筆起請文、「二十四輩帳」、「関東二十四輩交名并規格記」、「常水府寺社秘録目録」、「廿四輩会合之儀」、「鳥栖無量寿寺古記抜萃及新記事誌」、鳥栖無量寿寺「伝来古文書見出帳」、鳥栖「無量寿寺略縁起」、「一谷山最頂院妙安寺縁起」、水戸善重寺由緒、慈願寺「信願御房三家四流之次第」、「粟野山慈願寺略縁起」、下妻「光明寺略縁起」、高田常敬寺「大谷本願寺之御系図」、一の谷妙安寺読み縁起、辺田西念寺読み縁起、仙台称念寺読み縁起、健武慈願寺読み縁起、野口寿命寺読み縁起、福島康善寺読み縁起、磯部勝願寺読み縁起、下倉田永勝寺読み縁起、関宿常敬寺読み縁起、高田常敬寺読み縁起
著者
田森 雅一
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.28, no.3, pp.377-418, 2004

本稿は,北インド古典音楽に特徴的な社会音楽的組織であるガラーナー(gharānā)の考察を通して,社会/共同体とその音楽文化との関係を探究しようとする社会人類学的試みである。本稿において問題とするのはガラーナー形成期におけるサロード・ガラーナーの婚姻関係と師弟関係の相関であり,ポスト形成期におけるこの二つの社会関係の変化が「音楽財産」の伝承に与えた影響である。 サロードはシタールと並び,北インド古典音楽を代表する弦楽器の一つであり,今日4 つのガラーナーが認められる。これらガラーナーの中核的家系あるいは家族はすべてムスリムで,このうち3 つのガラーナーの子孫は自分たちのルーツをムガル帝国期にアフガニスタンから北インドにやってきた軍楽家あるいはパターン人軍隊と結びつく馬商に求めている。彼らの流祖は,アクバルの伝説的宮廷楽師であったミヤーン・ターンセーンの子孫で音楽的権威となっていたセーニヤーからラーガ音楽を学び,サロードの演奏スタイルを別個に確立した。ある音楽集団がガラーナーと呼ばれるためには,この独特の演奏スタイルの源泉となる音楽財産が父から息子,師匠から弟子へと3 代に渡って受け継がれる必要があった。本稿では19 世紀中葉からインド独立に至る英領インド帝国期と重なるこの時代をガラーナーの形成期と呼び,インド独立から今日に至る時代をガラーナーのポスト形成期と呼んで区別する。 本稿においては,最初に秘匿の対象となった音楽的知識および音楽財産の内容,そして伝承形態について素描する。次にサロード・ガラーナーの起源と系譜および婚姻関係と師弟関係について把握する。そして最終的に,ガラーナーの形成期においては内婚関係と師弟関係の二重の結びつきの中で音楽財産が管理・伝承される一方,ポスト形成期においてはこの二つの社会関係の間に相関関係がほとんど見られないことが明らかになる。このような社会関係の変化は近代インドにおけるマクロな社会文化的システムの変化と対応しており,音楽財産の伝承形態とガラーナーの盛衰に大きな影響をもたらしたと考えられる。This paper is an attempt at a social anthropological study that takes intoaccount the relationship between a society/community and its music cultureby analyzing a characteristic socio-musical organization, the gharānā of NorthIndian (Hindustāni) classical music. The particular point is the correlationbetween the marriage relationship and the guru-shisya paramparā (masterdisciplerelationship) in the Sarod Gharānā during the formation period ofgharānās, and the effect of changes in these social relationships on the transmissionof musical property during the post-formation period.The Sarod is one of the most popular stringed instruments together withthe Sitar in Hindustāni Classical Music, and there are four major gharānāsin the Sarod arena today. The core lineages or families of these gharānās areall Muslim and the representatives of three of the gharānās claim to be thedescendants of an army-musician or horse-trader connected with Pathan soldierscoming from Afghanistan during the Mughal period. The founders ofeach gharānā became disciples of musical authorities ie, seniyās originatingin the legendary musician Miyān Tānsen of the court of Akbar (1542–1605).They learned traditional rāga music, and developed particular playing styleson the Sarod. Musical property as the source of stylized playing tradition wascarried down from father to son, master to disciple for at least three successivegenerations before establishing its credentials as a gharānā. This paperdefines this period from the mid-19th century to independence, falling underthe British colonial period, as the formation period of gharānās and the modernperiod after independence to today as the post-formation period of gharānās.This paper first explains the content of the secret knowledge of musicand musical property, and then deals with the system of its hereditary transfer.Next it examines their origin and the lineage of Sarod gharānās. Finally,it makes clear that musical property was transmitted under a combination ofintermarriage and master-disciple relationships during the formation period,but that there is no such correlation to be found during the post-formationperiod. This transformation of social relationships, corresponding to a changein the larger socio-cultural system in modern India, has affected the transmissionof musical property and is responsible for the vicissitudes of gharānās.
著者
今井 五郎
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集 (ISSN:02897806)
巻号頁・発行日
vol.2005, no.798, pp.798_1-798_16, 2005
被引用文献数
8

1960年代に「大気圧工法」と銘打ってわが国に導入された「真空圧密工法」は, その後の積極的な実用化努力にも拘らず, 実用工法として広く受け容れられないままに終わり, '80年代は空白の期間であった. ところが'90年代に入ってから中国やフランスで実用化が達成され, 施工実績が急増し始めた. 日本もその例に漏れず, 現在では土木学会年次学術講演会や地盤工学研究発表会で「真空圧密」のセッションが設けられるほどの研究対象までになっている. このように一時の休眠期間を経た後で再評価された地盤改良工法はめずらしい. そのような特異な経緯を辿った背景と理由があるはずである. それらを明確にし, 地盤改良工法としての「真空圧密工法」をさらに発展させようというのが, 本論文の目的である.<br>いずれの地盤改良工法にもその目的を達成するための「原理」及びそれを具現化するための「手段」がある. そしてそれら総体としての工法にそれ特有の「特徴」が自ずと備わる. これらのすべてを「真空圧密工法」について論じ尽くせれば言うことは無いのだが, この論文では「原理」を中心に据えた議論を展開する. 「原理」に対する理解不足が, 当時の地盤内減圧技術の未熟さと相俟って, 上述した「真空圧密工法」の休眠期間を生んだと考えるからである.
著者
溝上 雅史 杉山 真也 村田 一素 鈴木 善幸 伊藤 清顕
出版者
独立行政法人国立国際医療研究センター
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2011-04-01

IL28B遺伝子の転写蛋白インターフェロンλ3 (IFN-λ3)の測定法を新規開発し、患者末梢血単核球をex vivo刺激で得られた上清や血清のIFN-λ3が良好なPeg-IFN/RBV併用療法効果予測が可能で本法の臨床的有用性を証明した。また、BDCA3陽性樹状細胞はC型肝炎ウイルスを認識し、toll-like receptor 3を介してIFN-λ3を産生することを示した。
著者
緒方 あゆみ Ayumi Ogata
出版者
同志社大学大学院総合政策科学会
雑誌
同志社政策科学研究 (ISSN:18808336)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.151-161, 2004-02

わが国の精神保健福祉施策は、1995年に制定された「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」(以下、「精神保健福祉法」と略称する)以降、自治体レベルで積極的に展開されてきたが、長年の精神障害(者)への偏見や差別等から、他の障害者施策に比べると遅れているのが現状である。特に、精神障害者の社会復帰支援(自立生活支援および就労支援)に関する施策の遅れは深刻であり、地域住民への啓発活動をさらに推進するとともに、地域生活支援センター、授産施設、グループホーム等の社会復帰関連施設の整備が急務である。問題は、精神障害者が地域の中で安心して社会生活を営めるようになるためには、地域精神科医療と地域精神保健福祉に関する支援や施策をどのように実施し発展させるかにある。そこで本稿では、障害者福祉に関する施策の歴史が長く、精神医療においても先進国であるイギリスの取り組みを検討したい。イギリスの精神障害者施策は、病院での入院中心のケアからコミュニティケアへと移行したが、その経緯と現状については批判もあるものの、世界的にも高く評価されており、わが国の精神保健福祉施策を検討するにあたって、イギリスの動向を知ることは必要であると考える。また、イギリスの現行法である「精神保健法」(The Mental Health Act 1983)は、強制入院手続に関する規定等に関してわが国の精神保健福祉法と類似しており、また、2003年7月に国会で可決・成立したばかりの「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」(以下、「心神喪失者等医療観察法」と略称する)は、主としてイギリスの制度を参考にして提案されたものである。本稿では、イギリスの精神保健法の概要の紹介に加え、同法を含む法律からみた精神医療史、医療制度等を中心に検討する。研究ノート

1 0 0 0 IR 英米の俗信(3)

著者
小泉 直
出版者
愛知教育大学
雑誌
愛知教育大学研究報告. 人文・社会科学編 (ISSN:18845177)
巻号頁・発行日
no.63, pp.83-91, 2014-03-01
著者
川口 優子
出版者
神戸大学医学部保健学科
雑誌
神戸大学医学部保健学科紀要 (ISSN:13413430)
巻号頁・発行日
no.13, pp.61-70, 1997-12-15

England is the first nation in the world where modernization was achieved. In the process, a number of changes took place such as urbanization and the changes in thelife style among the people in the villages. These changes probably derived from productivity and individuality. In the middle age, person who had mental disorders were cared by families and they lived in the communities. As modernization progressed, they were isolated and excluted from the communities because such persons were considered as being non productive, unreasonable and they disturbed other members of the community. This paper explored historical records to find out how people with mental disorder were treated during the modernization in England.
著者
大島 慶一郎
出版者
日本海洋学会
雑誌
海の研究 (ISSN:09168362)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.75-96, 2018

<p>海洋の大規模な中深層循環・物質循環は,極域・海氷域での海氷生成による高密度水生成が起点になっている。全海洋の深層に広がる底層水が作られる南極海のような極海では,観測の困難さによって,海氷生成及び中深層水の形成・循環は十分わかってはいなかった。衛星マイクロ波放射計データによる薄氷厚アルゴリズムが開発され,熱収支計算を組み合わせることで海氷生産量を見積もる手法が考案された。南大洋の海氷生産量マッピングからは,ロス海に次ぐ第2 の海氷生産量域が東南極のケープダンレー沖にあることが示され,ここが未知(第4)の南極底層水生成域であることが,直接観測から明らかになった。北半球最大の海氷生産量域は,オホーツク海北西ポリニヤであることが示され,ここを起点として北太平洋の中層まで及ぶオーバーターンが形成されることに対応する。西岸境界流である東樺太海流はこのポリニヤで形成される高密度陸棚水を南方へ運ぶ役割を持つ。この50 年のオホーツク海風上域での温暖化が,海氷生産の減少とそれに伴う高密度水減少をもたらし,北太平洋のオーバーターンを弱化させていることも示唆された。これらの研究により,海氷生産量と中深層水の形成・変動に強い関係があることが定量性をもって明らかになってきた。</p>
著者
富山 一 菅田 誠治 森野 悠 早崎 将光 小熊 宏之 井手 玲子 日下 博幸 高見 昭憲 田邊 潔 茶谷 聡 小林 伸治 藤谷 雄二 古山 昭子 佐藤 圭 伏見 暁洋 近藤 美則
出版者
公益社団法人 大気環境学会
雑誌
大気環境学会誌 (ISSN:13414178)
巻号頁・発行日
vol.52, no.4, pp.105-117, 2017

<p>詳細な野焼き頻度分布についての知見を得るために、つくば市において巡回と定点カメラによる観測によって野焼き件数の分布を調査した。2015年秋季 (9~10月) に毎日巡回して燃焼物別の日別野焼き件数を調査し、降雨前に野焼き件数が多くなることが確認されたほか、野焼き件数の57%を占めた稲作残渣は稲の収穫時期から一定期間後に籾殻、稲わらの順で焼却されることが確認された。秋季の巡回調査に続き2016年8月まで4日に1度ほどの頻度で巡回し、月別野焼き件数を比較すると9~11月に多く、1~8月に少ないことが確認された。2016年1~12月にかけて行った筑波山山頂に設置した定点カメラからの観測では、1月、10月~12月に野焼き件数が多く、2~9月に少ないことが確認され、1日の中では午前10~11時および午後2~3時に野焼きが行われやすいことが確認された。2015年秋季の調査結果にもとづいて稲の収穫時期と気象条件から稲作残渣の年間野焼き発生量に対する日別野焼き発生量比を推計する回帰モデルを構築した。回帰係数から、降雨前に野焼き件数が増えること、強風により野焼き件数が減ることが定量的に確認された。構築されたモデルに都道府県別の稲収穫時期と気象データを適用して、従前研究では推計できなかった都道府県別の大気汚染物質排出量の日変動を、2013、2014年の稲収穫時期と気象データを適用して各年の野焼き発生量比の日変動をそれぞれ推計した。</p>