- 著者
-
佐藤 譲
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.75, no.5, pp.274-278, 2020-05-05 (Released:2020-10-14)
- 参考文献数
- 29
ノイズと決定論ダイナミクスの相互作用によって生じる雑音誘起現象は,非線形物理学では古くから研究されてきた問題である.よく知られた例としては「ノイズ同期」,「確率共鳴」,「雑音誘起カオス」があげられる.とくに決定論ダイナミクスがカオス解,あるいは不安定カオス解を持つ場合は,非自明な雑音誘起現象が生じることが知られている.こういった雑音誘起現象は,力学系の自然測度がノイズの影響で極端に変化し,決定論極限で観測されなかった不安定解の一部がノイズ存在下で観測されるようになる現象である.非線形確率現象はランダム力学系理論で扱うことができる.例えば上述の雑音誘起現象のいくつかはランダム力学系の確率分岐現象として理解される.ランダム力学系理論では主に確率微分方程式,ランダム写像などで記述される確率的ダイナミクス,あるいは一般に時間発展する不定外力によって駆動される力学系のダイナミクスを扱う.ランダム力学系のアトラクターはランダムアトラクターとよばれる.ランダム力学系においても,決定論力学系と同様に不変分布,リアプノフ指数,コルモゴロフ–シナイエントロピーといった系を特徴付ける不変量が定義され,性質のよい系ではこれらの不変量は一意に定まる.ランダム力学系にアトラクターと不変分布が存在し,最大リアプノフ指数が正であるとき,そのアトラクターはランダムストレンジアトラクターとよばれ,観測される現象は確率カオスとよばれる.いま系の最大リアプノフ指数をλとすると,「ノイズ同期」はλ<0のランダム点アトラクター,「確率共鳴」はλ<0のランダム周期アトラクター,「雑音誘起カオス」はλ>0のランダムストレンジアトラクターに従う.確率カオスは流体乱流でも観測される.円柱容器中の流体をプロペラで撹拌したときに生じる旋回流である「カルマン旋回流」において,レイノルズ数が非常に大きな発達した乱流状態では,ある旋渦が支配的な準定常状態と,別の旋渦が支配的な準定常状態の間を遷移する現象が観察される.この遷移運動は系の対称性を変化させると,ある領域で不規則運動に変化する.この不規則遷移運動は円柱容器の上下で流れを駆動しているプロペラの回転数の変動を測定すれば直接観測できる.カルマン旋回流の実験時系列データに埋め込み法を適用してアトラクターを再構成し,確率ダフィング方程式でモデル化した.実験時系列データから見積もられたダイナミクスの有効次元は10次元程度であり,これは確率ダフィング方程式のランダムアトラクターの有効次元と概ね一致する.実験系を対称な境界条件から非対称な境界条件へ変化させると,実験時系列データから計算される最大リアプノフ指数が負から正へ変化し,不規則運動への転移が観測される.この分岐現象もモデル解析と実験で定性的に一致した.このように確率ダフィング方程式はカルマン旋回流にみられる不規則遷移運動のよいモデルとなっている.初期の乱流遷移は決定論力学系のストレンジアトラクターへの分岐として解析されてきたが,形式的に無限次元であるランダム力学系とランダムアトラクターの概念を導入することにより,発達した乱流運動についてもランダム力学系理論による解析が可能かもしれない.一般に大自由度の力学系や不定外力で駆動される力学系でみられる様々な非線形現象をランダム力学系理論によって理解することができる.