著者
関 豪 辻 とみ子 関 巌
出版者
名古屋文理大学
雑誌
名古屋文理大学紀要 (ISSN:13461982)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.75-86, 2008-03

幼稚園児の体力と生活習慣ならびに食育との関連性を明らかにするために,体力測定とアンケート調査を実施した.その結果,生活習慣では,園児全体の体力と「起床時刻」の項目で,高体力群は早起きの傾向が見られた.また,園児全体の体力と「遊び場の有無」で,高体力群は自宅近所に遊び場が少なかった.食習慣では,年少児の体力と「おやつの摂取状況」で,高体力群はおやつの時間や量を決めていない傾向が見られた.食育では,年中児の体力と「食前食後の挨拶」で,高体力群は挨拶が習慣化されていた.また,年長児の体力と「食べものや栄養の会話」で,高体力群は会話をしている傾向が見られた.食事の様子では,年長児および園児全体の体力と「楽しんで食べる」,年長児および園児全体の体力と「集中して食べる」,年中児の体力と「茶碗や箸が上手に使うことができる」,年少児および園児全体の体力と「ご飯とおかずを交互に食べる」,年長児および園児全体の体力と「こぼさないで食べる」などの項目で,それぞれ有意差や傾向が見られた.
著者
関根 達人
出版者
岩手県教育委員会
雑誌
平泉文化研究年報
巻号頁・発行日
no.8, pp.33-50, 2008-03-31

岩手県教育委員会との共同研究による
著者
阿部 浩明 辻本 直秀 大鹿 糠徹 関 崇志 駒木 絢可 大橋 信義 神 将文 高島 悠次 門脇 敬 大崎 恵美
出版者
公益社団法人 日本理学療法士協会宮城県理学療法士会
雑誌
理学療法の歩み (ISSN:09172688)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.11-20, 2017 (Released:2017-04-11)
参考文献数
16
被引用文献数
9

これまでの脳卒中例に対する理学療法技術は十分な科学的効果検証を行われずに継承されてきたものが少なくなかったかもしれない。脳卒中例に対する理学療法は主観的な評価が中心であったり,経験のみに基づいて構築されたりしていくべきものではなく,有効と思われる治療は検証を経た上でその有効性を示していくべきであろう。 前号に引き続き,我々がこれまで取り組んできた急性期の脳卒中重度片麻痺例に対する歩行トレーニングの実際と装具に関わる臨床および学術活動について紹介する。
著者
阿部 浩明 大鹿 糠徹 辻本 直秀 関 崇志 駒木 絢可 大橋 信義 神 将文 高島 悠次 門脇 敬 大崎 恵美
出版者
公益社団法人 日本理学療法士協会宮城県理学療法士会
雑誌
理学療法の歩み (ISSN:09172688)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.17-27, 2016 (Released:2016-04-21)
参考文献数
42
被引用文献数
11

これまでの脳卒中者に対する理学療法技術は十分な科学的効果検証を行われずに継承されてきたものが少なくなかったかもしれない。脳卒中者に対する理学療法の治療指針を示す脳卒中理学療法診療ガイドラインにはエビデンスに基づき推奨される治療が記載されている。しかし、実際の理学療法の臨床では多様な意見があり、必ずしもガイドラインが有効に用いられてはいない感がある。脳卒中の理学療法は主観的な評価が中心であったり、経験のみに基づいて構築されたりしていくべきものではなく、有効と思われる治療は検証を経た上でその有効性を示していくべきであろう。 ここでは我々がこれまで取り組んできた急性期の脳卒中重度片麻痺例に対する歩行トレーニングの実際について概説し、装具に関わる臨床および学術活動について次号に渡って紹介したい。
著者
矢野 伸裕 横関 俊也 萩田 賢司 森 健二
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集D3(土木計画学) (ISSN:21856540)
巻号頁・発行日
vol.72, no.5, pp.I_1217-I_1227, 2016 (Released:2016-12-23)
参考文献数
26
被引用文献数
1

本研究では,自転車利用者に対し,これまで自転車歩道通行可規制によって歩道を通行していた道路において,同規制の撤廃により歩道通行が禁止され車道を通行するように交通ルールが変更になった場合を想定した聞き取り調査を行い,ルール変更後に道路のどの位置を通行するつもりであるか,またその理由についての回答を得た.その結果,ルール変更後も歩道を通行すると回答した者が多数を占め,その理由として車道通行に対する危険感が指摘された.その危険感をもたらす原因として,交通環境,道路環境,個人特性の各側面が見出された.その他の歩道通行理由として,経路の問題(遠回りの回避)や柵のため車道から移動できないことなどが指摘された.自転車利用者の諸特性の多様性の観点から受容度の高い自転車通行空間整備の対策について論じた.
著者
日本小児歯科学会 有田 憲司 阿部 洋子 仲野 和彦 齊藤 正人 島村 和宏 大須賀 直人 清水 武彦 石通 宏行 松村 誠士 尾崎 正雄 石谷 徳人 濱田 義彦 渥美 信子 小平 裕恵 高風 亜由美 長谷川 大子 林 文子 藤岡 万里 茂木 瑞穂 八若 保孝 田中 光郎 福本 敏 早﨑 治明 関本 恒夫 渡部 茂 新谷 誠康 井上 美津子 白川 哲夫 宮新 美智世 苅部 洋行 朝田 芳信 木本 茂成 福田 理 飯沼 光生 仲野 道代 香西 克之 岩本 勉 野中 和明 牧 憲司 藤原 卓 山﨑 要一
出版者
一般財団法人 日本小児歯科学会
雑誌
小児歯科学雑誌 (ISSN:05831199)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.45-53, 2019-02-25 (Released:2020-01-31)
参考文献数
18

日本人乳歯の萌出時期および萌出順序を明らかにし,乳歯の萌出に変化が生じているか否かを検討する目的で,全国的に3 か月から3 歳11 か月の小児8,724 名を調査し,以下の結果を得た。1 .男児の乳歯萌出は,A が5 か月-9 か月,A が7 か月-11 か月,B が9 か月-1 歳2 か月,B が9 か月-1 歳3 か月,D が1 歳1 か月-1 歳6 か月,D が1 歳1 か月-1 歳7 か月,C が1 歳2 か月-1 歳8 か月,C が1 歳2 か月-1 歳9 か月,E が1 歳11 か月-2 歳7 か月,E が2 歳0 か月-2 歳11 か月の順だったが,BB 間とD, D, C およびC の間には有意な差は認められなかった。2 .女児の乳歯萌出は,A が6 か月-9 か月,A が7 か月-11 か月,B が9 か月-1 歳1 か月,B が9 か月-1 歳2 か月,D が1 歳1 か月-1 歳7 か月,D が1 歳1 か月-1 歳7 か月,C が1 歳3 か月-1 歳9 か月,C が1 歳4 か月-1 歳9 か月,E が1 歳11 か月-2 歳7 か月,E が2 歳1 か月-2 歳10 か月の順だったが,AA 間,AB 間,BB 間,DD 間,CC 間には有意な差は認められなかった。3 .性差は大部分の歯で認めず,C とC の萌出時期にのみ有意な差を認め,いずれも男児が1 か月早く萌出していた。4 .前回報告(1988 年)に比べて,男児はA, A, C, D の,女児はA とD の,萌出時期が有意に早くなっていることを認めた。
著者
齋藤 さやか 中村 真也 木村 匠 関谷 直也
出版者
一般社団法人 地域安全学会
雑誌
地域安全学会論文集 (ISSN:13452088)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.295-304, 2019-11-01 (Released:2020-05-08)
参考文献数
21

This study presents empirical research investigating disaster subculture through mutual comparison of Okinawa, Kagoshima, and Tokyo. Results of resident questionnaire surveys reveal many differences among these three areas. Above all, more than 50% of Okinawan people think about typhoons but can not accept them. Furthermore, they havetheir own knowledge, judgement criteria, and disaster subcultures corresponding to typhoons.
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.191, pp.91-136, 2015-02-27

1960年代以降,高度経済成長期(1955-1973)をへて,列島各地では土葬から火葬へと葬法が変化した。その後も1990年代までは旧来の葬儀を伝承し,比較的長く土葬が行われてきていた地域もあったが,それらも2000年以降,急速に火葬へと変化した。本論ではそれらの地域における火葬の普及とそれに伴う葬送墓制の変化について現地確認と分析とを試みるものである。論点は以下の通りである。第1,火葬化が民俗学にもたらしたのは「遺骨葬」と「遺骸葬」という2つの概念設定である。火葬化が全国規模で進んだ近年の葬送の儀式次第の中での火葬の位置には,A「通夜→葬儀・告別式→火葬」タイプと,B「通夜→火葬→葬儀・告別式」タイプの2つがみられる。Aは「遺骸葬」,Bは「遺骨葬」と呼ぶべき方式である。比較的長く土葬が行われてきていた地域,たとえば近畿地方の滋賀県や関東地方の栃木県などでは,葬儀で引導を渡して殻にしてから火葬をするというAタイプが多く,東北地方の秋田県や九州地方の熊本県などでは先に火葬をしてから葬儀を行うというBタイプが多い。第2,Bタイプの「遺骨葬」の受容は昭和30年代の東北地方や昭和50年代の九州地方等の事例があるが,注目されるのはいずれも土葬の頃と同じように墓地への野辺送りや霊魂送りの習俗が継承されていたという点である。しかし,2000年代以降のもう一つの大変化,「自宅葬」から「ホール葬」へという葬儀の場所の変化とともにそれらは消滅していった。第3,両墓制は民俗学が長年研究対象としてきた習俗であるが,土葬から火葬へと変化する中で消滅していきつつある。そして死穢忌避観念の希薄化が進み,集落近くや寺や従来の埋葬墓地などへ新たな石塔墓地を造成する動きが活発になっている。これまで無石塔墓制であった集落にも初めて石塔墓地造成がなされている。火葬が石塔その他の納骨施設を必須としたのである。第4,近代以降,旧来の極端な死穢忌避観念が希薄化し喪失へと向かっている動向が注目されているが,それを一気に加速させているのがこの土葬から火葬への変化といえる。旧来の土葬や野辺送りがなくなり,死穢忌避観念が希薄化もしくは喪失してきているのが2010年代の葬送の特徴である。
著者
関根 達人
出版者
弘前大学人文学部
巻号頁・発行日
2007-02

平成16年度~平成18年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書,課題番号:16520459
著者
原 裕太 関戸 彩乃 淺野 悟史 青木 賢人
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.67-80, 2015 (Released:2015-08-27)
参考文献数
25
被引用文献数
1

本稿では,防風林の形成過程に着目することで,伊豆大島における地域の生物資源利用に関わる人々の知恵とその特徴を明らかにした.防風林の形態には気候,生態系,社会経済的影響などの諸因子が影響している.そのため,国内各地で多様な防風林が形成されてきた.防風林は,それら諸因子を人々がどのように認識し,生活に取り込んできたのかを示す指標となる.伊豆大島には,一辺が50 mほどの比較的小規模な格子状防風林が存在する.調査によって,防風林の構成樹種の多くはヤブツバキであることが確認され,事例からは,伊豆大島の地域資源を活かす知恵として,複数の特徴的形態が見出された.土地の境界に2列に植栽されたヤブツバキ防風林はヤブツバキの資源としての重要性を示し,2000年頃に植栽された新しいヤブツバキ防風林は古くからの習慣を反映していた.また,住民が植生の特性を利用してきたことを物語るものとして,ヤブツバキとオオシマザクラを交互に植栽した防風林が観察された.それらからは島の人々とヤブツバキとの密接な関係が推察された.
著者
小関 孝子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学観光コミュニティ学部紀要 = Atomi Tourism and Community Studies (ISSN:21899673)
巻号頁・発行日
no.6, pp.59-68, 2021-03

筆者の研究関心は、ナイトクラブなど社交料飲業の前身といわれている明治期のカフェーが、なぜ女性による給仕を伴って受容されていったのかという問いである。本稿は、この問いを解明するための基礎資料として、明治後期に銀座に登場したカフェーに関する情報を整理したものである。日本で最初にカフェーという言葉を使用した店は、1911(明治44)年に銀座にオープンした「カフェー・プランタン」であるが、初めて女給をおいた店は1905(明治38)年12月に銀座にオープンした「台湾喫茶店」であったというのが、飲食文化史の研究においては定説である。しかし、女性による給仕自体は「台湾喫茶店」以前から牛鍋屋でもビアホールでも行われていた。それにも関わらず、「台湾喫茶店」が初めて女給を置いたとされているのはなぜだろうか。「台湾喫茶店」の現場を切り盛りしていたおかみさんのインタビュー記事や永井荷風の日記によると、「台湾喫茶店」のおかみさんが1904年の米国セントルイス万国博覧会で洋行した元新橋芸者であったことがわかる。元新橋芸者である彼女がセントルイス万国博覧会において世界各国の人々を接客したのちに、「台湾喫茶店」の現場を指揮したことは、接客における日本近世文化と西洋文化の最初の出会いであった、と捉えることができるだろう。