著者
Yuko Akehi Makito Tanabe Hiromi Yano Yuichi Takashi Daiji Kawanami Takashi Nomiyama Toshihiko Yanase
出版者
The Japan Endocrine Society
雑誌
Endocrine Journal (ISSN:09188959)
巻号頁・発行日
vol.69, no.11, pp.1303-1312, 2022 (Released:2022-11-28)
参考文献数
22
被引用文献数
1

The Aging Males’ Symptoms (AMS) score, developed to screen for late-onset hypogonadism (LOH), contains 17 questions regarding mental, physical, and sexual parameters. In the Japanese guidelines, a free testosterone (FT) <8.5 pg/mL is recommended for testosterone treatment. However, previous studies have shown no correlation between total AMS scores and testosterone concentration. We aimed to develop a better questionnaire for the detection of testosterone deficiency in men, for the diagnosis of LOH. In 234 Japanese men, aged 40–64 years, we analyzed the relationships of AMS with serum total testosterone (TT), FT, calculated FT (cFT), and calculated bioavailable testosterone (cBT), and identified useful questions for the detection of testosterone deficiency. Four scores, a decrease in muscular strength, a decrease in ability to perform sexually or the frequency, a decrease in the number of morning erections, and a decrease in sexual desire/libido, were negatively associated with two or more of the above four testosterone parameters, and the sum of these four scores (named the selective score) correlated with TT and cFT, independent of age. Statistical analysis revealed an association between insulin resistance and testosterone deficiency, and a higher selective score in smokers than non-smokers. Cubic function model analysis and logistic regression analysis revealed that selective scores ≥10 corresponded with the testosterone concentrations recommended for the diagnosis of LOH, including FT <8.5 pg/mL, independent of age, insulin resistance, and smoking. Thus, the selective score represents a simple and useful means for screening of testosterone deficiency in Japanese men, as an indicator of LOH.
著者
大沼 晃 小林 康子 飯沼 一宇
出版者
一般社団法人 日本小児神経学会
雑誌
脳と発達 (ISSN:00290831)
巻号頁・発行日
vol.29, no.4, pp.285-290, 1997-07-01 (Released:2011-08-10)
参考文献数
17

発達障害941例のMRI中39例に神経細胞遊走障害の所見を認め, 特にsurfaceanatomy scanによる脳溝形成の状態と臨床症状との相関について検討した. 39例中痙性麻痺は25例, 筋緊張低下は6例, 運動麻痺を伴わない知的障害は8例に認められた. 完全ないし不完全な無脳回症7例では全例が痙性四肢麻痺を示したが, 厚脳回症例では8例中7例に運動障害を認めなかった. 典型的FCMD5例では全例に大脳縦裂に沿う幅広い脳回がみられ, 特徴的であった. 知的障害については, 脳回の形成障害が全般性の例ではほとんどが重度であったが, 半球性ないし局所性の例では様々であった. てんかんは21例に認められ, 11例が難治であった.
著者
山本 晴彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100241, 2014 (Released:2014-03-31)

1.日露戦争の開戦による臨時観測所の開設日露戦争に際して軍事並びに航路保護の目的から、1904年3月の勅令第60号により、中央気象台(現在の気象庁)の管轄のもとに5月までの間に臨時観測所が釜山(第1)、木浦(第2)、仁川(第3)、鎮南浦(第4)、元山(第5)に設置された。関東州においても、その直後の8月に青泥窪(第6、大連)・営口(第7)、翌年には戦火の拡大により4月には奉天(第8)、5月に旅順(第6・出張所)と順次設けられた。さらに、朝鮮には城津(第9)、樺太には九春古丹(第10、大泊)にも臨時観測所が開設され、計11ヶ所の観測所は日本の中央気象台臨時観測課)が統轄した。また、清国には臨時観測員を日本領事館に派遣し臨時出張所(芝罘、天津、杭州、南京、漢口、沙市)を開設した。2.東清鉄道(北満鉄道)による北満気象観測ロシアにより北満で連続的に気象観測が開始されたのは哈爾浜の1898年が最初で、少し遅れて1903年に鉄道沿線の数ヶ所で、その後測候所は漸次、数が増えていった。「北満農業気候概論」では、哈爾浜は1989年から、満洲里、海拉爾、免渡河、扎蘭屯、斉々哈爾、一面坡、牡丹江、太平嶺は1908年から、その他の観測所は全観測期間の観測資料が掲載されている。なお、一部の表では、博克図、安達、哈爾浜農事試験場、三姓、密門、愛河農事試験場、延吉も含め、計16ヶ所の観測所の気象概要が記載されている。多くの測候所は東清鉄道沿線に位置するが、三姓と延吉のみが例外的に沿線より外れている。1935年3月、北満鉄道は満洲国に譲渡されることとなり、これらの気象観測所と観測記録は満洲国中央観象台に引き継がれた。3.関東州における気象観測施設の変遷1906年7月、関東州に関東都督府を置く「関東都督府官制」が制定され、9月からは文部省が管轄していた中央気象台の臨時観測所は関東都督府へ移管され、大連、営口、奉天、旅順の臨時観測所は測候所に改称された。本台の大連観測所には技師1人、技手4人、営口・奉天・長春・旅順の各支所には技手1人のみの配置で、わずか9人で関東都督府観測所の本台と各支所の観測業務が行われていた。1926年6月には「関東都督府観測所」が「関東庁観測所」へ改称され、前年の1月からは南満洲鉄道株式会社の委託観測所での観測記録の整理、無線電信に関する気象業務が加わっていることから、徐々に増員が図られている。1929年9月には上層気流観測も加わっている。1934年12月には「関東庁観測所」が「関東観測所」に改称され、四平街でも観測所が開設され、1938年にはら関東気象台に改称され、技手が22名と当初の3倍弱の人員にまでに増員されている。なお、後述するが、満洲国中央観象台が1933年11月に創設され、奉天・四平街は移管、長春(新京)は新設されたが、周水子(大連飛行場出張所)、海洋島、貔山窩、普蘭店に測候所が開設されて、航空気象を中心に充実し、技師9人、属4人、技手45人の58人の体制となっている。4.南満洲鉄道株式会社における気象観測施設の開設1906年に設立された南満洲鉄道(株)は、1909年の熊岳城を初めとし、鉄道沿線の附属地に農事試験場・試作場・事務所を開設し、農業試験研究における業務内容の一部に気象観測を附設していった。1931年には、公主嶺、鳳凰城、鄭家屯、洮南、開原、斉々哈爾、敦化、林西、海龍、哈爾浜、海倫、遼陽の13ヶ所にまで拡充された。本観測記録は、「産業資料第35輯 第三次 満洲農業気象報告」など3冊に纏められ、中央観象台の気象資料にも掲載されている。5.満洲国中央観象台の創立と変遷 当初は関東観測所の長春(新京)支所を借りて気象業務を開始したが、関東軍参謀部の満洲国観象機関設置計画により、国防上きわめて重要な満洲北部の満ソ国境の黒河と満洲西部の海拉爾の地方観象台の整備を1934年に先行させ、翌年には新京の南嶺地区に本台が整備された。創設当初は、台長以下、技正3人、属官3人、技士6人のわずか13名の人員体制であり、日本の測候所クラスの規模であった。1935年には7ヶ所(富錦、綏芬河、満洲里、克山、赤嶺、興安、哈爾浜)、翌1936年は6ヶ所(牡丹江、索倫、延吉、承徳、密山、東寧)に観象台・観象所が開設され、定員も約60名まで増員されている。以降、毎年のように観測台・所の開設による測候職員等の増員が図られ、1940年には340名となり、北満の満ソ国境付近の鷗浦、呼瑪、佛山、羅子溝にも観象所が相次いで開設されている。これにより、1943年は458人、1944年には716人にまで職員が膨れ上がっている。
著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.160, 2019 (Released:2019-03-30)

1.近世における気象観測1874年にフランス人司祭のクロード・シャルル・ダレが記した『Histoire de L'Eglise de Coree』の序論を翻訳した『朝鮮事情(朝鮮教会史序論)』には「Climat」(気候)に関する記述が見られる。「(前略)北緯35度以北では、宣教師たちは温度が零下15℃以下に下がることを経験しなかった。しかし、北緯37度30分あるいは北緯38度以北ではしばしば零下25℃以下に下るのを経験した。(後略)」と記されおり、温度計を用いた簡易な気温観測が宣教師により行われていたことがわかる。ロシア公使シー・ウエーバーは、1887年4月から京城(ソウル)で毎日9時、15時、21時の気温、雨量、積雪、風向、風力、雷電、霧、雹、露等の観測を行っていた。さらに1889年4月からは晴雨計を用いて気圧の観測も開始しており、本格的な気象観測であったことがわかる。この3年半の観測記録はサンクトペテルブルクにあるロシア中央気象台の台長であったウイルドが発刊した気象年報にも掲載されている。海関では、朝鮮政府に雇われたドイツ人外交官メレンドルフが、ヨーロッパ人を中心に職員を雇用し、仁川では1883年6月、元山では同年10月、釜山でも同年11月に海関を開設して気象観測を実施している。また、日本領事館(釜山、仁川、元山、鎮南浦、平壌)においても気象観測が行われ、1881年からの漢城(京城、現在のソウル)の気象観測記録「朝鮮国漢城日本公使館気候経験録」については、大阪大学名誉教授の小林茂氏が紹介している。なお、朝鮮王朝の時代に実施された「測雨器」による雨量観測については省略する。2.臨時観測所の創設と朝鮮統監府観測所・韓国政府への移管日露戦争における軍事ならびに航路保護の目的で、1904年3月に勅令第60号を発令して臨時気象観測所(第一~第五、技手15人)を開設し、中央気象台に臨時観測課を設けて和田雄治技師が課長に就き、朝鮮での臨時観測所の開設業務を任せられた。和田は朝鮮に派遣され、位置の選定、庁舎の借入等の検討に当たり、自ら初代所長に就任した。第三臨時観測所の仁川は、事務開始が1904年4月6日で、日本居留地第四十一号 民家を借入使用し、用地買収計画を待たずに気象観測が開始している。仁川の第三臨時観測所は翌年1月1日、鷹烽峴山頂に新庁舎が完成し、移転している。1907年4月には『朝鮮統監府観測所官制』により文部省の中央気象台(臨時観測課)の所管から朝鮮統監府に移管され、仁川の第三臨時観測所を朝鮮統監府観測所に改称し、釜山、木浦、龍巌浦、元山、城津の臨時観測所を支所とする本所・5支所の体制へと改編された。しかし、翌1908年3月には『朝鮮統監府観測所官制』が廃止され、4月より韓国政府が勅令第十八号『観測所官制』を発令し、農商工部告示第六号により観測所及同附属測候所の位置・名称を定めた。これにより、韓国政府は1907年に開設した農商工部所管の京城・平壌・大邱の測候観測所、そして朝鮮統監府観測所の本所・支所を韓国政府に移管させ、仁川の観測所を本所とし、釜山・元山・京城・平壌・大邱・木浦・城津・龍巌浦の8か所の測候所を管轄する体制が韓国政府により構築された。だが、実質的には中央気象台から派遣された和田所長以下の技手によって気象業務が実施されていた。3.朝鮮総督府観測所の創設2年後の1910年8月には韓国併合に関する条約(日韓併合条約)により韓国が日本に併合される。9月には勅令第三百六十号『朝鮮総督府通信官署官制』が発布され、観測所は通信局所管となり、再び中央気象台の気象観測ネットワークに組み込まれ、外地(台湾・朝鮮・満洲・関東州・樺太)での気象業務が展開していくこととなる。
著者
山田 聡志 岩崎 友洋 佐藤 明人 坪井 康紀 柳 雅彦 高橋 達 薄田 浩幸 江村 厳
出版者
一般財団法人 日本消化器病学会
雑誌
日本消化器病学会雑誌 (ISSN:04466586)
巻号頁・発行日
vol.107, no.12, pp.1947-1955, 2010 (Released:2010-12-06)
参考文献数
24

症例は54歳男性.多発性骨髄腫に対する自家末梢血幹細胞移植約2カ月後に激烈な上腹部痛にて発症(発症時免疫抑制剤は使用していない),鎮痛に麻薬を必要とした.発症7日後に全身に皮疹が出現し内臓播種性の水痘感染症と診断,抗ウイルス剤投与にて改善した.経過中の腹部CTで腹腔,上腸間膜動脈根部付近の脂肪濃度上昇を認め,この所見が腹部症状へ関与している可能性と本疾患の早期診断の一助となり得ることを示した.
著者
武藤 沙羅 松香 敏彦
出版者
日本認知心理学会
雑誌
日本認知心理学会発表論文集 日本認知心理学会第6回大会
巻号頁・発行日
pp.79, 2008 (Released:2008-11-10)

R. Plomら(1965)は質問紙法を用いて、1オクターブ間における代表的な整数比の和音に対する不協和曲線を発表した。彼らの不協和曲線は、現代も多くの音楽実験などにおいて参照され、協和・不協和を定量的に論じる基礎となっている。本研究は、既存の不協和曲線が数値計算で出されたこと、発表以降の音楽の多様化などから、実測値を用いた再検証を試みた。 本実験では、先行研究で使用された「心地いい-心地悪い」に加え19種の形容詞対を使用し、被験者の複数の和音に対する印象を集計した。 その結果、「心地いい-心地悪い」においては先行研究とほぼ一致した値が得られた。 また、複数の形容詞を用いたことによって、多面的な協・不協和音の性質の考案や、不協和曲線の見直し、新しい解釈の可能性を示すことができた。
著者
中村 麻利子 南条 真佐人
出版者
一般社団法人 日本理科教育学会
雑誌
理科教育学研究 (ISSN:13452614)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.621-630, 2022-03-31 (Released:2022-03-31)
参考文献数
22

温泉水中に放射性のラドンガスが含まれていれば簡単に取り出すことができるため,そのような温泉水は放射線教育の教材として容易に活用可能である。しかし,どの温泉水に教材として利用可能なラドンガスが含まれているかを調査研究した例はない。本研究では,全国に点在している温泉の源泉を入手し,霧箱の線源として利用可能かどうかを確認した。霧箱の線源として容易に採取できる温泉の所在マップはこれまでになく,放射線教育の普及のためその作成は重要である。温泉水は採水後ただちに霧箱に活用するのが良いが,採水後数週間経ても利用可能なものも存在するため,教員にとっても取り扱いやすい線源であることが示唆される。
著者
椎名 乾平
出版者
公益社団法人 日本心理学会
雑誌
心理学研究 (ISSN:00215236)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.146-152, 1985-08-30 (Released:2010-07-16)
参考文献数
14
被引用文献数
2 1

In order to approximate the variety of natural categories, two kinds of stimuli whose attributes vary according to different multivariate normal distributions are generated on CRT screen. Twenty undergraduate and graduate students served as subjects. Subject's task was to discriminate the stimuli. Results revealed that subject's performance can be explained very well by the parameters of the distributions (Exp. 1). Although in previous studies prototypes have been assumed to be the mean value or central tendency of category instances, there is another possibility, especially when two or more concepts are simultaneously learned, that they have attributes which are emphasized. This hypothesis was confirmed in Exp. 2, using 30 undergraduates as subjects. It was argued that we must distinguish at least two kinds of prototypes: the one formed by the most frequent instances and the other the most discriminate in contrast with the other concepts.
著者
平田 直之 宮本 英昭
出版者
日本惑星科学会
雑誌
日本惑星科学会誌遊星人 (ISSN:0918273X)
巻号頁・発行日
vol.20, no.4, pp.271-280, 2011-12-25 (Released:2017-08-25)
参考文献数
22

土星系の魅力的な衛星は,タイタンやエンセラダスだけではない.カッシーニ探査機の活躍によって得られたさまざまな知見は,その他大勢の小型衛星も,太陽系科学において極めて興味深い対象であることを示している.小型衛星は,その小さな重力場や弱い熱的変成履歴という意味で小惑星と対比できるだけでなく,その特徴的な形態や表層の状態が,ほかの衛星や周囲の環と複雑な相互作用の結果であることから,土星系における衛星や環の形成や進化の鍵を握っていると考えられる.本稿では,こうした多様性に富む土星系小型衛星の姿と推定される内部構造,さらには進化史について概説するとともに,今後の探査で期待される観測について議論する.
著者
伊藤 郷平
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.6, no.5, pp.325-343,405, 1954-12-30 (Released:2009-04-28)
参考文献数
35

The author pointed the next following out in this essay.(1) The agriculture in Japan is consisted of family farm, and obtained 95% for family labour, 5% rest of it for employees. This 5% farm labour work concentrately about only 20 days in a year.According to the census in 1950, there were 17, 000 regular employees, 3, 336, 000 seasonal migrants as a number of day's work, 61, 624, 000 day's work for dayman and 17, 212, 000 as a number of day's work for heler. Then farmers who own much land show to have many employees than poors. The busy farming season is filled by the seasonal migrants who remove revolutionaly.(2) The demanded area for seasonal migrants is doted in Western Kanto, Tokai, Setouchi, Northern Kyushu and Hokkaido district. Then it is in civilized or modernized district for agriculture.The supply area of migrants labour is in Tohoku, Hokuriku and Tosan district in Eastern Japan, and then Shikoku, Southern Kyushu in Western Japan is the same to that part of it, too.Both of them is belong to un-civilized district and economicaly poor.(3) Five types of supply and demanded area of farm labourers.i) A type of the most largest area.This type is contained with semi-colonial and large scale farm. (as Hokkaido), The quantity is largest and period of employment is longest, from April to November. As area of supply, it demands them to far distance (1000K.M)ii) A type of the large area.This type is contained with commercialized agriculture, as Shizuoka, Gumma, Okayama Prefecture.Both it's quantity and period (1-3 months) is of the great. It demands, as area of supply, them to far distant place. The distance of migration is 100-700K.Miii) A type of middle area.This type is contained with suburban farm as Northern Kyushu.It demands much quantity of employees, that is regular, seasonal and dayman.And yet for the shortness for local labourers it demands them to for distant place. That is about 250K.Miv) A type of small area.This type is in area of paddy field in alluvial plains which is the most ordinal type in Japan.The quantity of employees are innumerable but the period is short only within a week.They are composed of almost of girls or women that is called “Saotome”The scope of supply is very small (10-20K.M) and the way of contract have had only by old manners to be accustomed like private connection. And the custom of “Yui” still remain.v) A type of the most smallest area.This type has a character of the feudal remnant. Employees engaged in all the year round is called “Wakaze” “Kerekko” and extra employees “Yatoi” or “Sukenin”.It remains un-modernized district in Tohoku and Southern Kyushu.Supply and demanded area is very small that is limited only in the same community.
著者
松沢 光雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.39, no.9, pp.618-624, 1966-09-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
1
被引用文献数
2

(1) 渋谷繁華街を繁華街核心域(中心回遊路・回遊路内包域),回遊路外接域,周縁域の3地域に区分する. (2) 副都心を形成する新宿・渋谷・池袋の繁華街の構造上の共通点から,副都心構造の類型を導きだすことを試みた・しかし,副都心とよぼれる繁華街は,その数が少なく9特殊的事象と類型的事象との区別が困難である場合が多い.また,これら繁華街の構造および規模は,時代の経済事情に影響され装身具の流行(毛皮店)や,遊戯内容の変化等(トルコ風呂,スーパーマーケット,つり堀,レーシングカーなどの消長)の条件に反応すると思われる点もあって,固定的解釈をもつことは困難である.しかし,出来る限り,類型性をもつものを整理するようつとめた. (3) 繁華街構造の研究は,人間の快楽的要求と集落構造との関係の研究に外ならず,従って,心理学的立場からの考察が必要であるが,本論ではその面にはふれなかった.
著者
有馬 明恵
出版者
東京女子大学
雑誌
東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
巻号頁・発行日
vol.73, no.2, pp.199-218, 2023-03-30

The purpose of this study is to reveal 1)the extent to which broadcast programs on Emperor’s abdication/enthronement-related ceremonies and events were watched by Japanese people, and 2)how it related to people’s national consciousness and cosmopolitanism. Based on the results, the role of media events will be discussed. Two hundred and ninety-nine Japanese(144 male and 155 female)recruited through a crowdsourcing service participated in the online survey. The results showed the following. Firstly, many Japanese became aware of the new era name, Reiwa , on TV or on the Internet at the moment it was announced. Secondly, the public shunned standardized solemn ceremonies. Thirdly, depending on whether the participants watched abdication/enthronement-related ceremonies and events, they were divided into three groups: the “non-viewing group,” who watched none of them; the “Heisei-focused group,” all of whom watched the “abdication ceremony”; and the “Reiwa-focused group,” none of whom watched the abdication but many of whom watched the “celebration parade.” Fourthly, there were statistically significant differences among groups in terms of national consciousness, respect and affection for the imperial family, and cosmopolitanism. The results indicate that the difference in exposure to media among Japanese people with respect to media events such as the Emperor’s abdication and enthronement needs to be considered with regard to the division of people caused by the diversification of media use.本稿の目的は、日本人の国民意識とコスモポリタニズム意識について、天皇の退位・即位関連儀式・行事に関する中継番組をテレビでどの程度視聴したかとの関連を明らかにし、国民意識の高揚に関わるメディア・イベントの役割について考察することである。クラウドソーシングサービスを通じて募集した299名(男性144名、女性155名)の日本人がWeb調査に協力した。結果は、多くの日本人は新元号の発表をテレビやインターネットでリアルタイムで知ったこと、一方、退位礼正殿の儀などの退位・即位関連の儀式をテレビで視聴する人は少なく、定型化された厳かな儀式は国民から敬遠されていることを示していた。また、退位・即位関連の儀式・行事の視聴有無により、調査協力者はそれらを一切視聴しなかった「非視聴群」、「退位礼正殿の儀」を全員が視聴した「平成重視群」、「退位礼正殿の儀」は視聴しなかったが「祝賀パレード」を多くの人が視聴した「令和重視群」に分かれることが明らかとなり、視聴タイプにより、日本人としての意識、皇室に対する尊敬と親しみ、コスモポリタニズム意識に違いが認められた。日本人にとって重要なメディア・イベントにおけるメディア接触の違いは、メディア利用の多様化がもたらす人々の分断について検討すべき課題の存在を示していよう。
著者
奥中 康人 オクナカ ヤスト Yasuto OKUNAKA
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.23, pp.11-28, 2023-03-31

日本における西洋楽器製造の歴史は、オルガンやピアノ、ヴァイオリンの製造史に偏りがちで、金管楽器製造については、あまり調査されてこなかった。少し有名な江川仙太郎でさえ不正確な情報が多い。そこで、本稿は、明治期に金管楽器を製造していた職工について、雑誌記事や博覧会の記録に基づき、整理することを目的としている。 草創期における代表的な製造業者は、大阪では江名常三郎と上野為吉、東京では宮本勝三郎、江川仙太郎、田邊鐘太郎である。かれらの多くは、楽器の修理と信号ラッパの製造からスタートし、やがてコルネットやバリトンのような金管楽器を製造することになった。