著者
金子 百合子
出版者
岩手大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2009

動的事象の推移において「限界」の概念はロシア語の言語的世界像を形成する意味的優勢素として提示されてきた(ペトルーヒナ)。事象の安定的側面を優勢的視座で記述する日本語と対照させることによって、日本語と比較した際のロシア語における「限界」の際立つ優位性を検証した。当概念の優位性は、終了限界性に基づくアスペクト的動詞分類、結果を修飾する動詞語形成手段の多さ、和訳における限界的解釈の希薄さ、アスペクトの文法範疇の主導的役割といった点に特徴的に現れる。
著者
金 明美
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.1, pp.176-189, 2009-06-30

This paper is a reconsideration of two earlier case studies concerning the minzoku (ethnic group, nation, or race) education of Koreans living in Japan based on fieldwork that I conducted about 12 years ago. Its major objective is to explore the mechanism by which power relations between two different minzoku (Koreans and Japanese) are maintained, as one problem of the social structure that tends to be covered by tabunka-kyosei (multicultural coexistence) policy or slogans. Through that, I want to find clues about practicing tabunka-kyosei in actuality. The first reason for reconsidering the past case studies is that they offer concrete data concerning the realities of the relations between Korean children in the minzoku education practice left unanalyzed by the previous work. The second reason is that the case studies represent significant data examining the internal nature of the tabunka-kyosei policy, which promotes minzoku education within the framework of national education as a means of empowering a minority group. Chapter 1 examines a case study in Fukuoka City, including a description and analysis of the children's minzoku consciousness-formation process, based on participant observation of an informal group activity within minzoku education. The observation revealed contradictory facts within minzoku education's aim of forming minzoku solidarity. The minzoku framework on the management side (a Korean activist and schoolteachers) of the group represents one view representing power relations between minzoku. Meanwhile, children's consciousness of their own minzoku as a minority was formed "in isolation" under the strong influence of their parents' "habitus" (a set of dispositions which generate practices and perceptions), formed structurally under the everyday power relations between separate minzoku. Chapter 2 examines a case study in Itami City, giving a description and analysis of how the official recognition of minzoku education in public schools has influenced schools and local society. The work was based on a field survey in the school district, which has a large population of resident Koreans. It found that Itami, where minzoku education was actively promoted, more strongly looked upon the Korean children as a certain minzoku than did Fukuoka. More concretely, when the minzoku discourse, as agreed upon by Korean activists and their Japanese supporters, was presented as "multiculturalism education," "culture" became a paraphrase for minzoku. That process maintains the potential cultural nationalism based on racial thinking in daily life. That is, there is an invisible process found here that strengthens the macro-micro relations. The academic results of the above analysis can be viewed as a contribution to ethnicity research in Japan. That is, the effectiveness of the study - which focuses on power relations - was illustrated by analyzing the process in which minzoku (a vague concept whose meaning changes depending on context) is reified as an entity: namely, the process of "invisibility" in which the macro relates to the micro. The following point can also be made as a result of the applied anthropology. Under the current situation in Japan, where little fundamental change has been seen in the the assumption by the national and local governments that equates minzoku with "nation," research and the movement will be swallowed up by the concept of tabunka-kyosei as long as administrative measures and the popular discourse are not examined, making the slogan of tabunka-kyosei relative. That suggests a way that anthropology can contribute to the practice of tabunka-kyosei in actuality.
著者
金城 尚美 加藤 清方
出版者
琉球大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

本研究では、「危ない表現」の使用意識を調べることを目的として、国内および海外で調査を実施した。調査は、相手を罵倒したりののしったりするような11の場面、例えば、列に割り込んだ人に対してどう言って反応するか等を4コマ漫画で視覚的に明示し、台詞を挿入する自由記述形式で行った。また各場面で発話者が男性または女性の場合の視点を設定した。さらに大人と子ども、上司と部下、夫婦等、上下等の人間関係の設定にも変化を持たせた。調査票は、日本語、タイ語、中国語(中国本土・台湾)、韓国語6種類を作成し、日本(東京・沖縄等)、韓国、(釜山・ソウル・光州)、タイ(バンコク)、台湾(台北・台南)、中国(大連)の各国でデータを収集した。その結果、日本語と比べて韓国語、中国語、タイ語のデータは、異なる社会・文化的背景により、卑下する対象となる用語の異なりの分布や使用環境及び用語の豊富さなどが顕著であることなどが明らかとなった。今後、データのサンプル数を増やし、日本語と各国語をそれぞれの社会・文化的背景とのつながりを詳細に記述し、あぶない用語の社会言語学的かつ語用論的分析をさらに深化させることが必要である。
著者
安浦 寛人 村上 和彰 黒木 幸令 櫻井 幸一 佐藤 寿倫 篠崎 彰彦 VASILY Moshnyaga 金谷 晴一 松永 裕介 井上 創造 中西 恒夫 井上 弘士 宮崎 明雄
出版者
九州大学
雑誌
学術創成研究費
巻号頁・発行日
2002

本研究では,システムLSI設計技術を今後の高度情報化社会を支える基盤情報技術ととらえ,システムLSIに十分な機能・性能・品質・安全性・信頼性を与えるための統合的な設計技術の確立を目指す.1.高機能・高性能なシステムLSIを短期間に設計する技術では,無線通信機能を有するシステムLSI設計技術の研究を行い,シリコンチップ上にコンパクトで安定なRFフロントエンドを実現するためにコプレナー線路を通常のCMOSプロセスで形成する技術を確立した.また,新しい可変構造アーキテクチャとしてSysteMorphやRedifisプロセッサを提案し,それに対する自動設計ツールとしてRedifisツール群を開発した.2.必要最小限のエネルギー消費を実現する技術としては,データのビット幅の制御,アーキテクチャの工夫,回路およびプロセスレベルでのエネルギー削減技術,通信システム全体の低消費エネルギー化設計手法などを構築した.3.社会基盤に求められる信頼性・安全性を実現する技術としては,安全性・信頼性を向上させるための技術として,ハッシュ関数や暗号用の回路の設計や評価を行った.また,電子投票システムや競売システムなどの社会システムの安全性を保証する新しい仕組みや,セキュリティと消費電力および性能のトレードオフに関する提案も行った.4.社会システムの実例として,個人ID管理の仕組みとしてMIID(Media Independent ID)を提案し,権利・権限の管理なども行えるシステムへと発展させた.九州大学の全学共通ICカードへの本格的な採用に向けて,伊都キャンパスの4000名の職員、学生にICカードを配布して実証実験を行った.本研究を通じて,社会情報基盤のあり方とそこで用いられるシステムLSIの研究課題を明示した.RFIDや電子マネーへの利用についても利用者や運用者の視点からの可能性と問題点をまとめることができた.
著者
笹倉 一広 近衞 典子 近衞 典子 福田 安典 大塚 秀高 金 文京 笹倉 一広 木越 治 福田 安典 大塚 秀高 岡崎 由美 金 文京 鈴木 陽一 上田 望 木越 治 田中 則雄 入口 敦志 川上 陽介 木越 秀子
出版者
一橋大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2007

・各地の図書館などを調査し、関連資料を収集した。そのなかで、岡島冠山『太平記演義』の 善本を発見し、影印した。・白話小説と並んで、善書の影響にも着目し、善書を収集・考察し、新発見と覚しき善書を影印した。・「三言二拍」訳注の基礎資料の収集・電子化をし、訳注の基盤を整備し、国文学・中国文学双方の研究に共有されるテキストのプロトタイプを作成した。・シンポジウム「日本近世文藝と中国白話の世界」を開催した。
著者
小林 敏男 金井 一頼 淺田 孝幸 高尾 裕二 関口 倫紀 椎葉 淳 伊佐田 文彦 栗本 博行 松村 政樹 平山 弘 朴 泰勲 寺川 眞穂 古田 武 前中 将之 中田 有吾
出版者
大阪大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2007

グローバルニッチ戦略とは,自社の開発技術を評価する特定顧客に対して,そのニーズに叶った製品を開発・供給していく過程で,事業として存続しうる売上規模を獲得でき,その状態を持続可能にすることによって,当該製品が属する市場において参入障壁が高い小市場を形成でき,グローバルな多地域への展開が可能となる戦略のことである。ニッチ市場は,既存市場のセグメント分析から存在論的に発見できるものではなく,特定顧客との密接な協働から形成しうる過程論的な市場である。
著者
磯野 春雄 安田 稔 竹森 大祐 金山 秀行 山田 千彦 千葉 和夫
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会論文誌. C-II, エレクトロニクス, II-電子素子・応用 (ISSN:09151907)
巻号頁・発行日
vol.76, no.1, pp.16-23, 1993-01-25
参考文献数
9
被引用文献数
3

本論文では,特別なメガネをかけなくても立体画像を見ることができる液晶投写形の多眼式3次元テレビジョンシステムについて述べる.本システムの3次元画像表示方式は,4台で構成された立体テレビカメラからの映像信号を電子的に画素単位で合成してストライプ像を作り,この像を1台の高性能ハイビジョン液晶プロジェクタを用いてレンチキュラスクリーンの背面に投写するものである.これにより50インチの画面に明るく鮮明なフルカラーの4眼式立体テレビ画像を表示することができた.このシステムの特徴はメガネが不要であることのほかに,従来の2眼式メガネなし立体テレビ方式に比べて,異なる視点からの立体映像を見ることができるほか立体観察視域が広がり,見やすさと自然さが改善された.本論文では新しく試作した4眼式3次元テレビジョン装置のシステム構成,レンチキュラスクリーン,4眼式立体テレビカメラ,立体画像記録装置等について述べる.
著者
石田 良恵 金久 博昭 福永 哲夫 西山 一行
出版者
日本体力医学会
雑誌
体力科學 (ISSN:0039906X)
巻号頁・発行日
vol.36, no.1, pp.18-24, 1987-02-01
被引用文献数
2 2

本研究では,身体組成,皮下脂肪厚および体肢組成における女子長距離ランナーの特徴について検討し,次のような結果を得た. 1. ランナーは一般女子より有意に少ない%Fat及び体脂肪量を示した. しかしBMには,ランナーと一般女子との間に有意な差が認められなかった. さらに競技成績のすぐれているランナーほど,%Fatは低くなる傾向がみられた. 2. 皮下脂肪厚は,上腕背部,背部,腹部中央,側腹部、大腿背部において,ランナーが一般女子より有意に薄い値を示した. 皮下脂肪厚におけるランナーと一般人の差は,体肢より体幹において大きく,その差が最も顕著にあらわれたのは側腹部であった. 3. 体肢の皮下脂肪断面積は,前腕,上腕,下腿,大腿のいずれの部位においても,ランナーが一般女子より有意に小さな値を示した. これに対し,筋断面積は下腿のみランナーが一般女子より有意に小さな値を示した. 4. 以上のように,女子長距離ランナーは一般女子に比較して、筋はほとんど発達していないものの,体脂肪が著しく少ない. これは主に有酸素性トレーニングの影響を反映したものであると結論した.
著者
倉藤 利早 斎藤 辰哉 及川 和美 荒金 圭太 松本 希 高木 祐介 河野 寛 藤原 有子 白 優覧 小野寺 昇
出版者
川崎医療福祉大学
雑誌
川崎医療福祉学会誌 (ISSN:09174605)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.461-464, 2011

「だるまさんがころんだ」は,日本の伝承遊びであり,幼稚園や保育所の保育教材として広く導入されている.しかしながら,今までに,「だるまさんがころんだ」を運動と捉え,運動生理学的な分析を行った研究は,見当たらない.本研究は,「だるまさんがころんだ」遊びの心拍数と酸素摂取量変化から運動と捉えたときの運動生理学的な特性を明らかにすることを目的とした.被験者は,健康成人男性10名であった.被験者は,鬼が「だるまさんがころんだ」として発声している時間に全速で移動し,声が止んだ時に静止した.鬼までの距離を20mとし,3回繰り返した.その間,心拍数と酸素摂取量を測定した.結果から,「だるまさんがころんだ」は,インターバルトレーニング時にみられる心拍数と酸素摂取量変化を示した.運動生理学的な分析から「だるまさんがころんだ」が身体トレーニングの要素を持った伝承遊びである可能性が示唆された.
著者
片田 敏孝 及川 康 金井 昌信 結城 恵 渥美 公秀 淺田 純作 結城 恵 渥美 公秀 淺田 純作
出版者
群馬大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2007

本研究は、「災害に強い地域社会の形成技術の開発」を最上位の目標に掲げ、地域社会が自然災害からの被害軽減に対して効率的に機能するよう形成されるための技術の一般化を図ることをもって我が国の防災科学に資することを目的としている。具体的には、災害文化を地域に再生させるためのコミュニケーション手法やコミュニティが希薄な地域におけるコミュニケーション手法などの開発や実践から得られた知見を一般化し、その体系化を図った。
著者
金田 晋
出版者
美学会
雑誌
美學 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.23, no.3, pp.11-24, 1972-12-30

Es scheint so veraltet zu sein, heute nochmals die Linearperspektive zu erwagen. Denn die modernen Kunstbewegungen haben schon die darauf beruhende Raumvertiefungsdarstellung uberschreitet, um den dem Kunstwerk eignen Bildraum auf der zweidimensionalen Bildebene aufzubauen. Dennoch ist der Grund oder Sinn der Perspektive nachtragenswert. Die Frage nach dem Grund beschaftigt uns immer mehr. Die Perspektive ist trotzdem von meisten Malern und Kunsthistorikern negativ verurteilt, indem sie sich so vorgestellt haben, dass der Bildraum dadurch in den naturgemassen Raum eingelost wird. Viele Asthetiker (Lipps, Kainz, usw.) reduzieren die Probleme des Bildraumes aufs psychologische Thema, das Raumgefuhl. Ihre Problematik mussen wir zuerst als das Techinische aufstellen. Zunachst unterscheidet der Verfasser visio perspectiva, scientia perspectiva und ars perspectiva voneinander, obzwar die letzte naturlich mit den anderen beiden fundiert ist. Nach seiner Meinung sind all die drei perspectiva abstrakte Konstruktionseinheiten : mit visio perspectiva zieht man nur eine rein physiologische Struktur aus dem genzen Lebensraum heraus, der doch nicht nur visuell, sondern auch haptisch sowie kinasthetisch konstituiert ist, und zwar ist das Sehbild auf der Netzhaut nicht ebenflachig, sondern konvexflachig projiziert ; mit scientia perspectiva wird man den erfullten, personlich orientierten Lebensraum zum in Homogenitat und Quantum Bestehenden umgestalten, und man wird durch Lageveranderungen des Sehpunktes in unendlicher Art, und zwar des idealen, die Tiefe des Raumes mit einer der drei Dimensionen verwechseln ; mit ars perspectiva versucht man, die Raumvertiefung aus einem real fixierten aber auch mechanisierten Punkt heraus darzustellen. Dabei entfremdet man sich zugleich seine eigne Umgebung und seinen Erfahrungshorizont und reproduziert die vergegenstandlichte Welt als das auf der Bildebene projizierte Abbild. Alle perspectiva fungieren verschidenartig. Trotzdem beruhen sie auch auf einem metaphysischen Boden, der Exaktheit. I
著者
金田 晋
出版者
美学会
雑誌
美學 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.45-53, 1973-09-30

Die malerische Linearperspektive ist ein Denkmal fur das neuzeitliche Geistesleben, fast bahnbrechend. Mit ihr suchten die Renaissancekunstler den Tiefenraum auf der extensionalen Bildebene zu konstruieren. Das scheint aber paradox zu sein. Denn die zweidimensionale Extension, d.h. der physikalische Abstand, gehort vor allem zum Nebeneinander der Dinge, dass sie sich voneinander nicht verdecken, sondern nur parallel liegen, wahrend die Tiefeerstrekkung erst in der Beziehung zu meinem jeweiligen ""Hier"" konstituiert wird. Jene Extension besteht in die Kontinuitat, Unendlichkeit, Gleichformigkeit und Messbarkeit (Cassirer), aber nicht diese Tiefeerstreckung, worin das fernliegende Ding, d.h. das verdeckte, durch meine Interessiertheit eine neuartige Position gewinnt, dass es vor das gerade Verdeckende hervortritt. Hier ergiebt sich eine existenzielle Situation. In diesem Sinne heisst die Ent-fernung tatsachlich ""die Verschwindung der Ferne"" (Heidegger). Die Extension und die Tiefeerstreckung gehoren also jeweils zu einer anderen Kategorie. Trotzdem gaben die Kunstler eine rationalisierte Antwort fur diese paradoxe Situation, indem sie zwischen sich und dem darzustellendem Tiefenraun eine ""durchsichtige (im Durers Umdeutungssinne von perspectiva)"" Scheidewand (=Bildebene) stellen. Zum Unterschied von der materiellen, undurchsichtigen Bildebene vor der Neuzeit, auf der dem Bild in der absoluten Entfernung das darzustellende Sein mitgeteilt ist, nimmt die perspektivische Bildebene hinter sich selbst das in sich geschlossene und vollendete Reale an, so dass sich das Bild selbst zum Nachbild des Realseins entmachtigt. Ferner ist das Bild keine Reflexion der realen Welt mehr, sondern ihr abstrahiertes Gebilde ; Der Maler als das In-der-Welt-Sein reduziert sich zu einem physikalischen Punkt, indem er, durch die Durchsichtsbildebene von seiner eignen Welt abgerissen, die Welt und seine Intentionalitat ausschliesst. Die Entfernung verliert ihre existenzielle Seinsweise, so dass die Tiefeerstreckung als eine dritte, mit